【主な乗り物:夜行高速バス「ラピュータ」号、「奥能登特急バス」金沢-輪島線】
横浜駅西口ロータリーのバス乗り場を、時刻表通りの22時00分に発車した金沢行き夜行高速バス「ラピュータ」号は、首都高速三ツ沢線の横浜駅西口ランプの高架に駆け上がった。
横浜を発着する高速バスは幾つか乗車したことがあるが、これまではYCATと一体化している横浜駅東口バスターミナルを出入りする路線ばかりだったので、横浜駅西口からの乗車も、首都高速三ツ沢線を走るのも、初めてだった。
夜なので窓外がはっきり見える訳ではないけれども、南軽井沢トンネルや三ツ沢トンネルなど、地形の起伏が乗り心地にも感じられて、工場が目立つ首都高速横羽線沿線とは異なり、山の手なのだな、と思う。
この道路の名前や地名にもなっている「三ツ沢」は、東西に流れている江川の上流が3つの沢に分かれていたことが由来とされている。
その谷間は「谷戸田」と呼ばれる湿田だったが、耕作地としての条件が極めて悪く、明治から大正期にかけて、大根や植木など蔬菜と園芸中心の近郊農業が主体になったと聞く。
海沿いの旧東海道神奈川宿から三ツ沢、第三京浜国道沿いの羽沢あたりまでの広大な地域が、今では神奈川区としてひと括りにされているが、県名にもなった「神奈川」の名も、昔、この付近を流れていた川の水源が判然とせず、上がない川、上無(かみなし)川と呼ばれるようになり、転じて「かながわ」になったと言われている。
川の水源が分からないとは如何なることか、と思うけれど、人の足で遡れないほど、上流の地形が険しかったのかもしれない。
日本武尊の東方遠征で、倭姫命に貰った宝剣が上無川の水面に映って金色に輝いたことから「金川」と名づけられ、後に源頼朝が、
「金は西の方角を司ると言う。西は上にあたり、皇城の方角でもある。ここは神が大いに示す地である」
と、大いに示すを「奈」の字に当てはめ、「金川」から「神奈川」になったという伝説もある。
三ツ沢JCTで乗り換える横浜新道は、江川の渓谷に沿っているが、丘陵が折り重なる複雑な地形を貫いているため、首都高速との連絡路は谷底に急な曲線と勾配が続き、トンネルもあって見通しが効きづらい。
家々の灯や道路を行き交う車のライトは眩いけれども、横浜市のすぐ郊外とは思えないほどの山深さである。
この旅の当時の僕は大学生で、まだ運転免許を持っていなかったが、後に首都高速三ツ沢線から横浜新道を経て保土ケ谷バイパスへ至る道筋が、自分でハンドルを握ってみれば、大層走りにくいことを知った。
先の見えないカーブや坂道、トンネルに加えて、左右への分岐で車線を跨がなければならない箇所も多く、一瞬たりとも気を抜けなかった。
「ラピュータ」号の走りは滑らかで、それほど大変な道路を走っているという感触はなかったが、今になれば、運転手も苦労したのだろうと思う。
それよりも、僕は、金沢へ初めて夜行で出掛けることの方に、心を奪われていた。
金沢は、僕が生を受けた土地である。
当時、金沢の大学院に在籍していた父が母と結婚して僕と弟が生まれ、僕が3歳の時に信州に引っ越した。
父が母校に用事があったのか、僕が物心ついてから、年に1~2回は、家族で長野と金沢を往復するようになった。
本州中央部の脊梁山脈に遮られて、金沢は、首都圏との直通交通機関に恵まれなかった。
鉄道を使って東京から金沢に行くためには、東海道新幹線で米原まで行き、北陸本線に乗り換えるか、はたまた上越新幹線の長岡で乗り換えるより他に、方法はなかったのである。
航空機も、最寄りの小松空港から金沢市内までの距離が長く、リムジンバスで1時間近くを要していた。
僕の子供の頃は、上野から金沢へ直通する昼間の特急「白山」や「はくたか」があり、夜行寝台特急「北陸」、夜行急行「越前」「能登」が、のんびりと走っていた。
僕ら家族が金沢を往来するには、長野経由の「白山」の世話になったものだった。
東京で大学生活を始め、1人旅に出掛けるようになってから、僕の興味は高速バスに移ったのだが、それでも自然と金沢へ足が向くことが多かった。
昭和62年に開業した名古屋と金沢を結ぶ「北陸道特急バス」や、翌年に開業した京都と金沢を結ぶ「北陸ハイウェイバス」を使って、西回りで金沢へ向かったこともある。
昭和60年に池袋-新潟線、昭和62年に池袋-富山線と、関越自動車道を経由して東京と北陸を結ぶ高速バスが次々と開業したが、北陸自動車道が新潟と富山の県境を隔てる親不知付近で未開通であったため、池袋から金沢に直行する高速バスが登場したのは、昭和63年12月のことだった。
営業距離506kmという長距離を、7時間半もかけて走破する路線でありながら、夜行便だけではなく1往復の昼行便が設定され、僕は初めての乗車で迷わず昼行便を選び、車窓を大いに堪能した。
ようやく、東京から生まれ故郷まで1本の高速バスで行けるようになったのか、と感無量だった。
利用者数も順調に推移したようで、昼行便は翌年に3往復へと増便している。
これまで、僕が金沢を訪れたのは、昼間の交通機関ばかりだったのである。
平成元年7月に登場したのが、横浜から東名・名神高速を経て、米原JCTで北陸道へと、西回りで走る「ラピュータ」号であった。
横浜から金沢へ行くには、長岡よりも、米原経由の方が近いのか、と、少しばかり驚いたものだったが、営業距離は583.7kmと、池袋発着の関越高速バスよりも長かった。
「ラピュータ」と言えば、昭和61年に公開された宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」を思い浮かべるが、バス事業者がアニメ映画を想起したのか、スウィフトの「ガリヴァー旅行記」に登場する、空を飛ぶ島にある「ラピュタ王国」から命名したのか、それは分からない。
横浜側で「ラピュータ」号を担当する相模鉄道バスは、平成元年3月開業の横浜-大阪線を、横浜に因んだ歌謡曲から採った「ブルーライト」号、同年7月開業の横浜-田沢湖線を起終点の港と湖にかけた「レイク&ポート」号と命名している。
ところが、田沢湖線と同時開業の「ラピュータ」号、平成2年12月開業の横浜-徳山線「ポセイドン」号と横浜-高松線「トリトン」号は、地域色と関係なく、神話などの物語から命名するようになったのは、なぜだろうか。
「ラピュータ」も「トリトン」もアニメの題材になっているので、そちらを好む担当者でもいるのかと早合点したほどである。
ちなみに、平成3年開業の横浜-新潟線は、やや平板な「サンセット」号と名づけられた。
日本海=日没という連想なのであろうが、この路線から、同社は専用塗装をやめている。
相模鉄道ばかりでなく、京浜急行、近鉄バスなど路線ごとに専用塗装を採用していた事業者は少なくなかったが、CI(Corporate Identity)の普及に伴って共通塗装に変わっていったのが、この時期だったのだろうか。
僕が乗車したのは相模鉄道のバスは、車体に「LAPUTA」と大書されているので、他の路線バスの利用者が行き交う横浜駅で乗車する際に、少々気恥ずかしい心持ちだったが、乗ってしまえば何と言うことはない。
「本日は相模鉄道の金沢行き『ラピュータ』号を御利用下さいましてありがとうございます」
と、発車直後の挨拶で、朴訥そうな中年の交替運転手が「ラピュータ」と発音するのを照れたりしないのかな、と気になった程度である。
当時、我が国の夜行高速バスの標準装備として横3列独立席が主流となりつつあったが、「ラピュータ」号は横4列席だった。
共同運行の北陸鉄道が、池袋-金沢線を横4列席の車両で運用されているためであろうか。
この日、9割がたの席が埋まっていたものの、僕の隣りは空席だった。
シートの構造は悪くなかったものの、周りの席で窮屈そうに詰めて座っている乗客の視線が、気にならないと言えば嘘になる。
横浜駅を出れば、このバスには誰も乗って来ないので、運が良かったと思うことにして、のびのびと安心して寛ぐことにした。
保土ヶ谷バイパスから東名高速横浜ICに出て、本格的に速度を上げた「ラピュータ」号の車中では、安心し過ぎたのか、よく眠った、という記憶しかない。
池袋と金沢を結ぶ高速バスと異なり、東名、名神高速、そして米原JCTから北陸道という経路に面白みと新鮮さを感じていたのだが、これまでに利用した他の昼行高速バスで散々満喫した車窓であるから、それほど惜しい訳でもない。
「ラピュータ」号は、東名高速足柄SAと浜名湖SA、そして北陸道賤ケ岳SAで休憩するが、運転手が交替するだけで、乗客は外へ出ることが出来なかったので、逆に眠りを妨げられることもなかった。
「ラピュータ」号も、池袋-金沢線と同様に1往復の昼行便が設けられていた。
夜行便がそのまま折り返すための便と言っても良く、夜行だけの往復では乗務員も車両も2泊3日で戻って来ることになるが、着いた日に昼行便として運用すれば1泊2日で回転することが出来る。
金沢駅前を正午過ぎの13時05分に発車したバスは、8時間40分かけて横浜まで走る予定だった。
金沢から西側の北陸道の車窓風景には、名古屋から金沢まで「北陸道特急バス」に乗った時以来、虜になっていた。
松任から小松付近を延々と波打ち際を走る区間や、遙か下方に敦賀湾を見下ろしながら木ノ芽峠を越えていく眺望は、何度通っても、心が弾んだものだった。
この頃、「ラピュータ」号は車両を更新して横3列独立席にしており、他の乗客に気兼ねせず、のんびりと寛ぐことが出来たけれども、外見は相模鉄道の標準的な塗装になっていて、「LAPUTA」の文字が消えてしまったのが、何となく物足りなかった。
昼行便は、運転手の交替地点で、乗客も降りて羽を伸ばすことが出来たのだが、最初に休憩した南条SAを発車した直後に、1号車の乗客が取り残されたとの連絡が入り、僕たちが乗る2号車が、次の今庄ICから引き返すことになった。
引き返すと一口で言っても、方向転換すれば済む一般道ではないから、なかなか一筋縄ではいかない。
下り線を、南条SAを横目に見ながら通り過ぎて武生ICまで戻り、料金所の外でUターンして、再び上り線を走らなければならない。
南条SAで恐縮しながら乗り込んできたのは、品の良さそうなお婆さんだった。
もともと2号車の乗客は少なかったので、1号車が引き返せばいいじゃないか、などと文句を言う人は誰もいなかった。
災難でしたね、という温かい笑顔でお婆さんを迎えるような車内の雰囲気に、何となくホッとした。
このようなハプニングがあるのも高速バスならではだよねえ、などという声も聞こえる。
僕も含めて、のんびりとバス旅を楽しむ人ばかりだったのである。
なかなか得がたい体験をしたと思っている。
その日の「ラピュータ」号上り昼行便2号車が、どれほど遅れて横浜駅に着いたのかは覚えていない。
「おはようございます。バスは間もなく、片町に到着します。お降りのお客様はお忘れ物のないようにお支度下さい」
交替運転手の案内が聞こえて、重い瞼を開ければ、「ラピュータ」号は既に金沢西ICで北陸道を降り、金沢の街並みに差し掛かっていた。
武家屋敷が並ぶ片町、兼六園に近く市内随一の繁華街である香林坊、当時は金沢で最も高層のホテルが聳える武蔵が辻の停留所で、少しずつ降りていく乗客をぼんやりと見遣りながら、また来たな、と思う。
池袋からの高速バスは金沢東ICを利用するため、金沢側の停留所は金沢駅だけで、「ラピュータ」号の経路の方が街並みをじっくりと眺めることが出来た。
何度目の訪問になるのかは覚えていないけれども、僕は、自分が生まれた北陸の古都の佇まいが好きだった。
加えて、金沢は、父と母が出逢った青春の街、という思い入れもあった。
今回の旅より5年ほど前に父が他界していただけに、何度でも訪れて、若かりし父の足跡に触れてみたかったのだと思う。
父も、金沢の街が大好きだった。
父が1人で金沢に出掛けることもあり、その際には、長野経由で上野と福井を結んでいた夜行急行「越前」を往復で利用したようである。
昭和50年の時刻表によれば、
下り「越前」:上野20時51分-長野1時15分-金沢6時00分-福井7時12分
上り「越前」:福井20時32分-金沢21時41分-長野2時25分-上野7時04分
という運転ダイヤで、上り下りともに長野の発着時刻は深夜だった。
父は、いつも、幼い僕と弟が寝静まっている土曜日の深夜に家を出て、たくさんの土産を抱えて、月曜日の未明に帰ってきたのである。
一緒に連れて行って貰えないことは恨めしかったが、朝に目覚めれば、旅疲れの表情であったものの、父に会えるのが嬉しかった。
父が寝台車を使っていたと聞いて、殊更に羨ましかった。
今となれば、新幹線も高速道路もなかったあの時代に、狭い寝台の旧式な客車に、真夜中の長野駅から乗り込む父の姿を想像すると、胸がいっぱいになる。
平成27年に開業した北陸新幹線に乗せてあげたかったな、と思う。
「ラピュータ」号が静かに停車した午前6時前の金沢駅前は、まだ夜の帳が開き切らず、しとしとと雨が降りそぼっていた。
節々が痛む身体を伸ばしながら、夜行急行「越前」を降りた父も、この光景を眼にしたのだろうか、と感慨に耽りながら、僕はしばし佇んだ。
金沢に着いてからの行程は決めていなかった。
行ってみたい、と思い定めても、目的地でじっくりと観光することは苦手である。
続けて乗り物に乗り継ぐ方が、よほど性に合っているようで、僕は、7時50分に金沢駅前を発車する輪島行き「奥能登特急バス」に乗り継いだ。
昭和54年に開業した「奥能登特急バス」は、時刻表を開くたびに、いつかは乗りたいと渇望していた。
この旅の頃まで、金沢と能登を直通するバス路線は「奥能登特急バス」と「門前急行バス」しか時刻表には掲載されていなかったが、どちらも旅心をそそられる路線だった。
その理由も、幼い頃の家族旅行に端を発している。
初めて家族揃って長野から金沢へ向かったのは、僕が小学校低学年の頃で、その時は車で行った記憶がある。
まだ上信越自動車道も北陸道もなかった昭和40年代であるから、未明の午前3時頃に長野を発ち、国道18号線の上越市内あたりで夜明けを迎えた。
母はペーパードライバーだったので、終始1人でハンドルを握る父は大変だったと思う。
当時の僕は車に弱く、何処に行くにも、走り出して30分もすると気分が悪くなって道端に停まって貰わなければならなかった。
1回嘔吐すると、後は別人のように元気になって、2度と酔わなくなるという、今から考えると奇妙な車酔いだった。
上越から富山県を横断する国道8号線を何処で折れたのか、また、能登半島の何処まで分け入ったのか、道筋も目的地も全く忘却の彼方なのだが、途中で能登半島に寄り道し、輪島を訪れてから、千里浜をドライブしたことだけは、鮮明に覚えている。
金沢市内へ入る手前の内灘海岸で眺めた、日本海に沈む大きな夕陽も、ありありと思い浮かぶ。
能登半島は、家族で初めて長距離ドライブした曾遊の地であり、もう1度訪れてみたいと思っていた。
能登半島の最北端ではなく、輪島に向かう特急バスを選んだのは、家に輪島塗の食器が幾つかあったからだろうか。
家族で金沢市内を散策すると、父と母は、香林坊の輪島塗か九谷焼の専門店に寄るのが常で、輪島塗の椀や盆、九谷焼の茶碗などを購入していたのだが、何れも日頃から食卓に並べられることはなく、来客用に使われるだけだった。
幼かった僕にとって、輪島塗は上品なのだがあまりにも渋すぎて、派手な塗色の九谷焼の方が好みだったし、九谷焼の小さな獅子の置物を買って貰ったこともある。
ところが、いざ1人旅で能登半島の行き先を決めるに当たって、輪島が真っ先に思い浮かぶとは、振り返ると苦笑いが浮かんでくる。
九谷焼の祖は、現在の加賀市域にあった九谷村と言われているらしいが、その地名は、大聖寺川に沿って山中温泉を1番目として上流に遡って数字を振り、9番目の村落を九谷としたという説や、「加州名跡誌」に「山広く方五里にわたり谷深くして九百九十九谷あり、略して九谷という」と書かれていること、谷が多く最高数字の九を当てたなどと諸説が唱えられているらしいが、どこか、横浜の三ツ沢を想起させる由来ではないか。
何れにしろ、僕は山中温泉より能登半島へのバス旅に惹かれていたので、輪島塗は口実に過ぎないとも言える。
定刻に金沢駅前を発車した輪島行き「奥能登特急バス」は、十数人の乗客を乗せて海岸近くに出ると、内灘ICから能登海浜道路に乗った。
この道路は羽咋まで30kmほど、能登半島西海岸の波打ち際近くを走るので、雨に濡れた松林の間に覗く日本海の眺めに、心が洗われるような気分に浸ることができる。
幼い僕が、波間に沈む真っ赤な太陽に荘厳な気持ちになったのは、この区間であろう。
千里浜まで来ると、能登半島のだいぶ奥まで来たような感覚になるけれども、およそ110kmほどある金沢-輪島間の3分の1も来ていない。
千里浜は、我が国で唯一、一般の車やバスで走ることが可能な砂浜として知られている。
ここの砂粒が他の海岸の半分程度ときめ細かく、更に海水を吸って舗装道路のように固くなるため、タイヤが沈むことがない。
約40km南に位置する手取川や、千里浜近くの大海川、宝達川が運んでくる土砂が、対馬海流や北西の季節風によって千里浜に運ばれ、北にある滝崎が、海に流出した土砂を引き返させて折り重ねるように堆積させるため、砂浜が固く絞まるらしい。
最初にここを走ったのは、昭和30年頃の観光バスと言われている。
能登海浜道路を走るバスからも、8kmに及ぶ「千里浜なぎさドライブウェイ」を眺めることが出来るので、父が運転する車で走った時の爽快感が、脳裏に蘇ってくる。
柳田ICを過ぎると、能登海浜道路は海岸から少しずつ離れて、内陸の重畳たる山々に分け入っていく。
このあたりは、今回の旅の5年前、昭和60年7月の豪雨によって、30ヶ所に及ぶ路盤の崩落や法面の崩壊が起き、完全復旧に1年間を要したという。
僕が「奥能登特急バス」で訪れた日は、しとしとと降る程度で雨足は決して激しくなかったが、舗装が塗り直されていたり、道端の傾斜地が真新しいコンクリートで固められたり、木々が抜けて荒々しく土が剥き出しになっているのを眼にするのは、あまり気持ちの良いものではない。
何よりも、海の国という印象が強かった能登半島が、これほど山深いとは思わなかった。
能登半島縦貫有料道路と路線名が変わる徳田大津ICのあたりは、なだらかな稜線の小高い丘陵に囲まれたような土地であったが、半島には見えないほどの雄大な山並みで、中央自動車道を走っているかのように錯覚してしまう。
起伏の激しい地形をものともせずに坦々と延びる能登縦貫有料道路は、いつしか七尾湾に面した東海岸に近づいて、湾の北端にある穴水町に入っていく。
握り拳を突き上げているかのような形をしている能登半島の、頂点に近い輪島へ向かうのに、西海岸から東海岸へ迂回する必要があるのか、と首を傾げたくなるが、能登半島そのものが東へ斜めに傾いた方角へ延びているので、輪島は穴水から20kmほど真北に位置している。
北陸本線津幡駅から分岐する国鉄七尾線が全線開業したのは昭和10年のことで、穴水から蛸島に至る国鉄能登線の開通は昭和34年だった。
昭和63年に、能登線が第三セクターのと鉄道に移管されたが、運転本数を増加させて乗客・収入とも順調に推移し、第三セクター鉄道の成功例と言われた時代もあったと聞く。
古くは北前船が寄港する港町として栄え、奥能登の中心都市でもある輪島市に至る鉄道が、のと鉄道の致命傷になったかのような推移は意外だった。
後に能登線も廃止されていることから、能登半島の過疎化とモータリゼーションの波に、鉄道が太刀打ちできなかったと見るべきであろう。
この旅の帰路は、七尾線の輪島10時36分発金沢行き急行列車「能登路」8号を利用したのだが、12時59分着の金沢まで2時間20分という所要時間は、所要2時間10分たらずの「奥能登特急バス」と比して、それほど遜色がないように感じた。
だが、輪島と穴水の間は山越えの勾配が多く、喘ぎながら進む気動車急行列車を尻目に、並行する県道1号線をビュンビュン飛ばしていく車に抜かれっ放しだった。
あちらの制限速度はどうなっているのか、と訝しみながらも、これでは勝てないな、と諦めたものだった。
僕が輪島行きの「奥能登特急バス」に乗車して、七尾線の急行列車で引き返した平成元年の秋には、まだ、のと鉄道の能登線も健在だったので、今にして思えば、どうして乗っておかなかったのか、と臍を噛みたくなる。
それでも、七尾線を全線乗り通せたことを幸いと考えるべきなのであろう。
この旅の二十数年後に、僕は新宿からの夜行高速バスを七尾で降り、穴水止まりになったのと鉄道に乗り、更に禄剛崎まで路線バスを乗り継いだことで、せめてもの慰めとした。
その時は、金沢市内に戻らなければならなかったのだが、帰路を同じ経路にすると到着が夜遅くなってしまうところを、珠洲から特急バスを利用すれば3時間も節約できたことが、強く印象に残っている。
能登半島も不便になってしまったな、と思っただけに、特急バスの利便性が際立っていた。
「能登海浜有料道路」と「能登縦貫有料道路」は、ともに平成25年に無料開放されて、「のと里山海道」と名を変えていた。
能登半島が、完全に車社会になっていることを実感したものだった。
輪島行き「奥能登特急バス」が、能登縦貫有料道路の穴水ICを降りたばかりのことである。
県道1号線との交差点で、赤信号で停車したバスが、青に変わってもなかなか動き出さない。
運転席に眼を遣ると、ここまでバスを順調に導いて来た中年の運転手が、俯いて目を瞑っている。
まさか、と思いながら咳払いすると、運転手はひょいっと顔を上げて、慌てたようにアクセルを踏んだ。
始発バスを担当するために早起きしたのだろうな、と気の毒になったので、罰が悪そうにこちらを振り向いた運転手から顔を背け、咳が出たのはたまたまですよ、と素知らぬ風を装ったものだった。
輪島に向けて真っ直ぐに半島を貫く県道1号線を走り出した「奥能登特急バス」の車窓からも、か細い線路が敷かれている畦道のような七尾線の路床が見えた。
こちらのバスだって、少しばかり車両が古びていて、決して乗り心地が飛び抜けている訳ではなかったけれども、それにしても頼りない線路に見えた。
それだけ、地の果てに来たのだ、と思った。
バスがそれほど速度を出しているようには感じられなかったが、それでも、有料道路を降りてから輪島市内まで、20分程度だった。
輪島駅前でバスを降りると、僕は、思わず息を呑んで佇立した。
駅の佇まいと駅前の商店街に、僕はここまで来たことがある、と思った。
幼少時に父の運転で千里浜を走り、内灘で大きな夕陽を眺めた家族ドライブで、能登半島の何処まで行ったのだろう、と実に曖昧だったのだが、輪島を目的にしていたのだと確信した。
駅前の輪島塗の店に入った記憶までが、ありありと蘇った。
家族揃っての金沢旅行で、金沢市内の他に足を伸ばしたのは、前回「関越高速バス」池袋-金沢線の乗車ついでに立ち寄った東尋坊と、今回訪れた能登半島だけである。
首都圏から金沢に向かう2つの高速バスの体験がてら、子供の頃に親に連れていって貰った曾遊の地に足跡を記すとは、何かの縁なのであろうか。
いつしか雨が上がって、雲間から陽の光が射し込み、色褪せた木々や田畑が眩しく輝き始めていた。
平成19年3月25日に、輪島市西南西沖40kmを震源とするM6.9の地震が発生し、穴水町、輪島市、七尾市で最大震度6強を観測、石川県、富山県、新潟県で震度5以上の揺れを観測した。
石川県内で震度6を観測したのは観測開始以来初めてのことで、いわゆる地震空白地域での大地震であったが、僕が禄剛崎を訪ねたのはその7年後で、地震の爪痕が全く見られなかったことに安堵したものだった。
ところが、令和6年1月1日に珠洲市の地下16kmを震源とする、我が国の内陸地震でも稀というM7.6の大地震に見舞われ、能登半島全域で大きな被害を出したのは、記憶に新しい。
最大震度が7を記録し、死者が200名を超える大きな被害が出たことと、しかも交通網が不便であるために復興が遅々として進まないもどかしさも手伝って、我が国の地方政策はこれで良いのか、というやるせない思いが込み上げてくる。
僕は、どちらの地震でも、金沢市内に住む弟を心配して直後に電話をかけたのだが、平成19年の時は、「金沢はそれほど揺れなかったよ。能登は大変かもしれないけど」とのんびりした返事だったのに、令和6年は、17年前と異なって、声が緊迫していたことを覚えている。
亡くなられた方々の御冥福を祈るとともに、能登の人々が、一刻も早く元の生活を取り戻せるよう、心から願う。
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