第20章 平成10年 夜行高速バスで北陸から九州へ~僕らの国土と人間の係わりを思う~前編 | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:上越新幹線「あさひ」、特急「はくたか」、夜行高速バス「加賀」号、西日本鉄道大牟田本線、島鉄高速船、島原鉄道線、高速バス「しまばら」号】

 

 

まだ肌寒さが残る平成10年3月の週末、東京駅を12時16分に発車した上越新幹線「あさひ」313号を越後湯沢駅で降り、北越急行と北陸本線を直通する特急「はくたか」10号に乗り継いで、僕は金沢に向かった。

当時の上越新幹線で使われていた車両は200系で、東海道新幹線の開業時に登場した0系とそっくりな丸い先頭形状を持ち、昭和57年6月の東北新幹線開業と同年11月の上越新幹線の大宮暫定開業から活躍している形式である。

 

今から10年前まで、上越新幹線に「あさひ」と名付けられた列車が運転されていたことを覚えている人は、どれほどいるのだろうか。

開業当初は、東海道新幹線の「ひかり」と「こだま」に倣ったのか、速達列車を「あさひ」、各駅停車を「とき」とする運転形態であったが、平成9年の長野新幹線の開業に合わせて列車名が運転区間別に再編され、東京-新潟間の列車は全て「あさひ」に統一、東京-高崎・越後湯沢といった区間運転の列車は全て「たにがわ」になった。

 

新幹線開業前から上野と新潟を結ぶ特急列車に用いられていた「とき」の愛称が消えたのは、鉄道ファンとして惜しい気がしたものの、そもそも上越新幹線の愛称を決定する際に、絶滅危惧種である鳥の名前を冠することへの疑問が呈されたと耳にしていたので、やむを得ないことと諦めた。

ところが、東京と上野でホームを共用する長野新幹線「あさま」への誤乗が相次いだことから、「あさひ」の愛称は平成14年に廃止され、「とき」の名称が5年ぶりに復活したのである。

 
 

愛称ばかりではなく、上越新幹線は、語るべきことの多い新幹線である。

 

東海道・山陽新幹線や東北新幹線と大きく異なっていたのは、本州を横断する初めての新幹線であった、という点であろう。

本州の太平洋側と日本海側を結び、首都圏方面から新潟のみならず、越後湯沢駅や長岡駅での乗り継ぎにより上越、富山、金沢方面、新潟駅での乗り継ぎで庄内地方や秋田方面といった日本海沿岸の諸都市が、従来より短時間で結ばれることになった恩恵は計り知れない。

一方で、群馬県と新潟県の境で日本列島の中央分水嶺である三国山脈を越えるために、他の新幹線とは比較にならないほど峻険な地形と厳しい気候を克服する必要性が生じたのである。

 

豪雪地帯である新潟県内を中心に、スプリンクラーによる融雪設備を備え、新潟県内の駅では線路・プラットホーム全体が屋根で覆われるなどの雪害対策が施され、雪による障害が極めて少ない。

関東平野と越後平野の大部分が高架となっていて、贅沢な新幹線を建設したものだ、と乗るたびに思う。

しかし、上越新幹線が見舞われてきた数々の災害について振り返れば、厳しい自然環境で高速鉄道を維持するためには、莫大な投資が決して無駄ではなかったことを思い知らされる。

 

乾いた関東平野を瞬く間に走り抜けて関越国境が近づけば、榛名、月夜野、中山、大清水、塩沢といった複数のトンネルが続く。

山だろうが川だろうが構わず我が道を行く、といった観のある、在来線や高速道路とは桁違いに傲然とした線形である。

 

特に、高崎以北の群馬県内は、上越線のように利根川に沿って迂回せず、月夜野の高原地帯の地下を中山トンネルで抜ける直線的なルートが選択された。

ところが、月夜野高原の地下は、八木沢層と呼ばれる軟弱極まりない未固結凝灰角礫岩だった。

八木沢層の下には、トンネルを掘削するのに適した固い閃緑岩の地層が存在しているが、その地層が数百万年前に地表に露出して山や谷として形成されていた起伏が残り、上に積み重なった八木沢層との複雑な境界面が、中山トンネルの予定ルートとぴったり重なってしまったのである。

20気圧近い水圧がかかった地下水を大量に抱く八木沢層の影響で、中山トンネル本坑の工事中に、トンネルそのものが水没するような大規模な出水事故が2度も発生した。

上越新幹線の開業が東北新幹線より遅れたのは、このためである。

 

軟弱な地盤に薬液を注入して固めるために、全国からボーリングマシンが100台以上も集められ、我が国のボーリング技術者の90%以上が中山トンネルに集結した。

作業は昼夜兼行で行われ、多数のやぐらが煌々と照明で照らし出される夜景を、人々は「中山銀座」と名付けたという。

平均360mの深さのボーリングを643本も行い、16万立方メートルに及ぶ薬液を注入した結果、中山トンネルは、 10年の歳月を経てようやく完成した。

 

 

当初、半径6000mの緩やかな曲線で設計されていたトンネルは、地質が軟弱な箇所を避けるために、中途で半径2000mのきついカーブに変更され、続く半径1500mの曲線で反対方向へ進路を変えて、Ω型を描くことになった。

そのため、時速240kmで走って来た新幹線は、中山トンネルで時速160kmに速度を落とさざるを得ない。

大宮に停車した後は高崎も通過する俊足の「あさひ」313号に乗っていても、ぐいっと身体が前のめりになるような減速を感じる。

 

続く県境には、昭和6年に完成した、全長9702mの上越線清水トンネル、昭和42年に完成した、全長1万3500mの上越線新清水トンネル、そして昭和54年に完成した全長2万2221mの上越新幹線大清水トンネルと、谷川岳を貫く3本の鉄道トンネルが掘られている

80年も昔に全長10km近い長大トンネルを完成させたことには、驚きを禁じ得ない。

谷川岳は閃緑岩と呼ばれる硬い岩盤で出来ているため、同時期に掘削が進められ、出水などによる悪戦苦闘の連続となった東海道本線丹那トンネルほどの難工事にはならずに済んだという。

それでも、トンネルの両側にループ線を設置して高度を詰め、トンネルの長さを出来るだけ短縮する方法が採られている。

 

戦後の上越線複線化に伴う新清水トンネルの工事は、岩ハネと呼ばれる岩盤の剥離現象に悩まされて難航したものの、技術の進歩により、旧トンネルの半分の工期で完成した。

上越新幹線の大清水トンネルでも岩ハネ現象が多発し、加えて水温の非常に低い湧水に悩まされた。

その湧水が、後に「名水『大清水』」と名づけられてミネラルウォーターや清涼飲料水に利用されるようになったのは、有名な話である。

当時のJR東日本管内の駅の自販機には、必ず「大清水」の缶飲料が並んでいたものだった。

難工事が人気の清涼飲料を生み出したのか、と思うと、微笑ましい心持ちになる。


並行する関越自動車道の谷川岳PAには、「谷川岳の6年水」と名づけられた美味な湧水が湧き出て、容器に汲んで持ち帰る人が後を絶たないのであるが、「大清水」と同じ水なのであろうか。
 

 

トンネル建設は経験工学だと言われている。

度重なる失敗と挫折。

それでも諦めず、完成に向かってひたむきに努力すれば、やがて風が吹き抜け、光が差す。

 

難工事を極めた上越新幹線のトンネル群では、後に、痛快な記録が樹立されることになる。

平成2年から平成12年まで、大清水トンネルから越後湯沢駅を挟んだ塩沢トンネルにかけて、下り坂を利用した時速275km運転が、一部の下り列車で実施されていた。

山陽新幹線で時速300km運転が実現するまで、定期列車の営業運転としては日本最速だった。

僕が乗る「あさひ」313号が、時速275kmまで出したのかどうか分からないのが残念である。

 

 

上越新幹線では、地震対策も入念に施された。

沿線に約20km間隔で設置された地震計を用いた検知システムが設置され、開業当初は初期微動のP波を用いた警報が実用化されていなかったために、本震を起こすS波を基準としていたものの、地震計が基準以上の揺れを感知すると、変電所からの送電が停止されて、列車の非常ブレーキが作動するシステムであった。

P波から地震の規模や位置を推定する早期検知アルゴリズムの研究が進み、世界初のP波警報システムである「ユレダス(Urgent Earthquake Detection and Alarm System)」が平成4年に東海道新幹線で実用化し、上越新幹線に導入されたのは平成10年である。

 

僕は、東北新幹線と北陸新幹線で、地震による急停車を経験したことがある。

非常ブレーキと言っても前のめりになるような激しい制動ではなかったものの、明らかに、これは異常なブレーキだな、と直感した。

「ユレダス」のことは知っていたから、列車の安全性に不安を覚えるようなことはなく、何処で地震が起きたのだろう、という方が気になったものだった。

 

この旅の7年後、平成16年10月23日に発生した、新潟県川口町の直下を震源とするM6.8、平成7年の阪神淡路大震災以来の観測史上2度目となる最大震度7を記録した新潟県中越地震では、この早期地震検知警報システムが生きたのである。

震央に近い上越新幹線浦佐-長岡間にある滝谷トンネルの北側を時速200kmで走行中だった200系10両編成の東京発新潟行き「とき」325号が地震の直撃を受け、8両が脱線したものの、「ユレダス」による非常ブレーキが作動し、脱線地点から1.6kmの地点で停車した。

上下線の間にある排雪溝に嵌まり込む形で滑走し、先頭車両の台車の部品と車輪がレールを挟み込んだため、列車は軌道を大きく逸脱せず、横転や転覆、高架橋からの転落を免れたのである。

震源により近い川口町内では高架橋の支柱が大きく損傷した区間もあったが、脱線現場付近の高架橋は阪神・淡路大震災を踏まえた強化工事が進められていたため、地震による崩壊を免れたことも、大惨事を避けられた一因であった。

 

我が国の報道では、新幹線の営業運転中における初めての脱線であったことから「安全神話の崩壊」などと報じられたが、フランスをはじめとする高速鉄道を運営する他国では、「高架橋が崩壊しなかったことが新幹線の安全性を裏付けるもの」と賞賛する報道だったことを覚えている。

 

直下型地震であるため、初期微動の時間が短かった中越地震では、S波の到達前に列車を停車させることは出来なかったが、送電停止による一斉停車で対向列車が停止し、反対の線路側に脱線していた列車への正面衝突を来すことなく事故の拡大を防止したことは、特筆されて良いと思う。

この事故を受けて、新幹線車両が脱線した場合でもレールから大きく逸脱することを防止するL型ガイドが開発され、平成20年までに全ての新幹線車両に設置を完了している。

 

 

大清水トンネルを抜けると、いきなり視界が白く変わった。

乾いた関東平野の光景がたった数分で劇的に変化し、まだらではあるものの、雪景色が現れる。

まだ雪が残っていたのか、と、僕は身を乗り出した。

冬の上越新幹線に乗ると、真っ暗なトンネルから白銀の世界への対比は、眠くなりかけていた目がいっぺんに覚めるほど鮮やかであるのが常だった。

立派なホテルが建ち並び、盆地を囲む山々の林を切り開いたスキー場には、シーズン最後の滑走を楽しむ人々が豆粒のように見える。

 

越後湯沢駅の構内は、数々の融雪設備が立ち並んで、他の新幹線に比べると厳めしく感じる。

積雪の多い時期ならば、スプリンクラーの飛沫が車体に跳ねるのを目にすることが出来る。

 

上越新幹線が大雪で止まるということはほぼ皆無に近かったのだが、平成26年2月14日から16日にかけての首都圏豪雪では、関東甲信越地方の鉄道や道路が軒並み不通となり、東名高速では19時間にも及ぶ立ち往生が発生し、中央西線でも特急列車が立ち往生するような記録的な積雪になったため、さすがの上越新幹線も高崎以北で運休となった。

区間運転の高崎行き「たにがわ」だけが案内されている東京駅の新幹線改札口の掲示は、大きな驚きとともに、今でも記憶に残っている。

 

それでも、他の交通機関に比べれば上越新幹線の雪に対する強さは明らかで、令和2年12月16日に発生した関越自動車道における計2100台もの車が最大2日間に渡って立ち往生した豪雪では、同時に並行する上越線も運休したものの、上越新幹線は運転を継続していたのである。

 

 

13時32分着の越後湯沢駅で地平のホームに降りると、燦然と明るい新幹線ホームと対照的な在来線の古めかしい雰囲気に、懐かしいような、うらぶれたような気分になってしまうけれど、待機している13時40分発金沢行き特急「はくたか」10号の姿は颯爽としている。

右後ろに谷川岳と朝日岳の勇壮な容姿を眺め、魚野川の清らかな流れのほとりを行く上越線を北上し、六日町駅で分岐する北越急行線に乗り入れると、「はくたか」のスピード感は桁違いになる。

 

東京と北陸の間には飛騨山脈が立ちはだかっているため、直線距離ならば300km程度に過ぎないところを、上越新幹線の長岡駅で乗り換えるか、東海道新幹線で米原駅を回るという迂回を強いられていた。

どちらを経由してもほぼ同じ所要時間になる中間点は、かつては金沢駅だったが、平成9年に開通した北越急行線が、我が国有数の豪雪地帯の利便性向上を図るとともに、首都圏と北陸を短絡するルートとして位置づけられ、富山や金沢に行くには越後湯沢駅での乗り換えが最短となった。

 

 

後の話になるが、北越急行は、平成27年に開通した北陸新幹線に関東地方と北陸を短絡する使命を譲ることになる。

それでも、北陸新幹線は、長野駅以北で飛騨山脈の北端を避けて東側に大廻りを余儀なくされているため、東京駅と金沢駅との運転距離が454.1kmになり、上越新幹線・北越急行・北陸本線経由の405.1kmよりも長くなっている。

北陸新幹線が上越新幹線から越後湯沢で分岐する線形で建設されてもおかしくなかったのではないか、と考えれば、北陸新幹線の恩恵を被っている長野市で育った者としては、胸を撫で下ろしたくなる。


北越急行沿線の松代村や十日町市では、冬ともなれば深い雪に道路が閉ざされて、山奥の集落が孤立する状態が、昭和40年代まで見られたという。

紀行作家宮脇俊三氏が建設途上だった北越急行線を訪れて、「白き湖底」と表現したこの地域の豪雪については、小学生の頃から、鮮烈な印象を抱いていた。


十日町と隣接し、冬になると孤立する長野県栄村の小学生に手紙を書こう、という授業があり、そのような地域が現代の日本に実在するのか、と驚愕したことを今でもはっきりと覚えている。

栄村の中心駅であるJR飯山線森宮野原駅では、昭和20年2月に7.85mという積雪が記録されたというのだから凄まじい。

 

この地に鉄道を通す構想は昭和6年に持ち上がり、昭和37年に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」の一文が鉄道敷設法に付記されて、国鉄北越線として昭和43年から建設が開始されたのである。

 

 

誘致をめぐる地元の確執や、国鉄の経営難、そして数々の難工事といった紆余曲折の末、この旅の1年前に開業したばかりの北越急行線を使って北陸に向かうのは、初めてだった。

 

この線は、魚沼山地と東頸城山地を貫いているため、路線総延長59.5kmの68%に当たる40kmがトンネルであるという。

断続するトンネルの中で、これまで聞いたことがないような甲高い風の音が悲鳴のように響き、風圧の変化で耳がツン、と痛くなる。

このような現象を体験するのは初めてだったが、「はくたか」が北越急行線で、当時の在来線最高速となる時速140kmで運転していることと、全てのトンネルが単線用で口径が小さいことが理由であろうか。


平成14年には、最高速度が時速160kmに引き上げられた。

JR以外の私鉄線で最も長いという1万471mの赤倉トンネルを、物悲しい風切り音を奏でながら走り抜けると、窓外には、雪を被った木々が無数に並ぶ山々が、押し寄せる大波のように折り重なっている。

 

松代駅と大島駅の間に掘削された長さ9117mの鍋立山トンネルは、トンネル掘削史に名を残す空前の難工事となった。

19年の歳月と、予算の10億円を大幅に上回る146億円の巨費を投じて、ようやく完成したのであるが、一時は視察した地質学者が、

 

「これは、掘ってはならないトンネルです」

 

とコメントしたと言う。

日本の最先端の技術を惜しみなく投じ、技術者や施行者の不屈の闘志で掘り抜かれたトンネルが、こうして、北陸と首都圏を結ぶ大動脈として役立っていることを考えると、胸が熱くなる。

 

ただ、北陸新幹線の開業により北越急行線に乗り入れる「はくたか」の運転が終了したことを考えると、豪雪地域の交通路確保という使命が重要であることは充分に理解しながらも、二重投資であった観がなきにしもあらずである。

北越急行は、北陸新幹線開業後の赤字を見込んで、100億円を超える資産を蓄えたと聞く。

その先見の明を生かして、地域の掛け替えのない交通機関として、末永く走り続けて欲しいと思う。

 

 

北越急行線を走破して、信越本線と北陸本線が分岐する直江津駅に「はくたか」10号が滑り込むと、故郷の長野へ向かう列車に乗り換えたくなる。

 

平成9年10月に長野新幹線が開通するまでは、上野と金沢を長野経由で直通する信越本線経由の特急「白山」が、1往復ながら健在だった。

直江津駅構内は、長野から新潟方面へ進む線形になっているため、「白山」はここで5分停車して進行方向を変え、車内では一斉に座席の向きを変える乗客の姿が見られたものだった。

 

 

「はくたか」も、かつては上越線を経由して上野と金沢を結ぶ特急の愛称だった。

 

上野から長岡経由で金沢までの距離が517.3km、長野経由で469.5kmと、「白山」よりも走行距離が50km近く長いにも関わらず、昭和50年のダイヤでは下り「はくたか」が上野8時08分発・金沢14時35分着、「白山」1号が上野9時34分発・金沢16時15分着と、所要時間が14分も短い「はくたか」の韋駄天ぶりが、長野市在住の幼い鉄道ファンとしては悔しく感じたものだった。

「はくたか」は上越新幹線開業と同時に廃止され、僕は少しばかり溜飲を下げたのだが、北越急行開通と同時に20年ぶりに復活した新生「はくたか」は、その俊足に一層磨きがかかり、僕の感傷に構うことなく、たった2分の停車で直江津駅を後にしてしまう。

 

線形の良い北陸本線を、通過駅を吹き飛ばすような勢いで駆け抜けた「はくたか」10号が、金沢駅に到着したのは、16時09分であった。

 

はるばる金沢まで出掛けて来たけれども、僕の旅はここで終わる訳ではない。

この旅の最大の目的は、金沢と福岡を結ぶ夜行高速バス「加賀」号に乗ることであった。

 

 

福岡に本社を置く西日本鉄道は、大牟田線、太宰府線、甘木線、宮地岳線といった九州の私鉄最大の鉄道網ばかりでなく、分社化する前の昭和50~60年代には我が国最多の保有台数を誇り、年間輸送人員は世界一の2億7000万人、年間総走行距離が約1億4000万kmに及ぶという、我が国屈指のバス事業者としても知られている。

 

福岡県内を起点として九州を隅々まで網羅する路線ばかりでなく、本州・四国への高速バスの展開も積極的であった。

 

昭和58年3月:福岡-大阪「ムーンライト」

昭和63年9月:福岡-広島「ミリオン」

平成元年4月:福岡-倉敷・岡山「ペガサス」

平成元年8月:唐津・佐賀-大阪「サガンウェイ」

平成元年9月:荒尾・久留米-大阪「ちくご」

平成元年12月:福岡-名古屋「どんたく」

平成元年12月:福岡-奈良「やまと」

平成2年2月:飯塚・黒崎-大阪「ムーンライト」筑豊系統

平成2年3月:福岡-姫路・神戸「山笠」

平成2年4月:荒尾・大牟田・久留米・北九州-名古屋「玄海」

平成2年8月:福岡-出雲市・松江「出雲路」

平成2年10月:福岡-京都「きょうと」

平成2年10月:福岡-東京「はかた」

平成2年12月:福岡-金沢「加賀」

平成3年9月:福岡-米子・倉吉・鳥取「大山」

平成4年7月:福岡-高知「はりまや」

平成13年3月:福岡-下関「ふくふく天神号」

平成15年7月:北九州-小野田・宇部

平成19年7月:福岡-高松「さぬきエクスプレス福岡」

平成20年6月:福岡-松山「道後エクスプレスふくおか」

平成22年7月:福岡-四日市・津・松阪・伊勢・鳥羽「お伊勢さんエクスプレス福岡」

平成23年12月:福岡-横浜・池袋・大宮「Lions Express」

平成26年7月:福岡-ユニバーサル・スタジオ・ジャパン

平成26年8月:福岡-浜松・静岡・御殿場・富士吉田・河口湖「博多・フジヤマExpress」

 



 

西鉄バスが、本州向け路線を破竹の勢いで拡充していくのを目の当たりにした当時は、高速バスファンとして心が弾むと同時に、六大都市や札仙広福に含まれるような主要都市はともかく、山陰、四国、北陸、三重、静岡と福岡の間の流動が、高速バスを毎日走らせるほど存在するのかと首を捻ったもので、案の定、廃止された路線もある。

高速バス路線の企画に当たっては、入念に流動を調査するのだろうが、鉄道と違って変わり身の早さがバスの特徴でもあり、客が乗らないものと見切ればさっさと撤退してしまう路線が少なくないのである。

 

「加賀」号も、そのような路線の1つで、開業9年後の平成11年に廃止されてしまうのだが、生まれた土地が金沢である僕としては、乗らない訳にはいかない路線であった。

福岡空港と小松空港の間には航空路線も存在することであり、それなりの需要はあるのだろうが、早く乗っておかねば消えてしまうかもしれないぞ、と危惧しながら、いつしか開業から7年の歳月が過ぎていた。

 

 

生まれてから3年たらずで長野市に引っ越したので、金沢に住んでいた頃のことは、両親が撮影した写真で偲ぶしかないけれども、香林坊や武蔵ヶ辻、兼六園周辺の街並みを散策するのはいつも嬉しい。

 

市内で夕食を摂ってから、路線バスが行き交う金沢駅前のバス乗り場で待っていると、20時ちょうどに発車する夜行高速バス「加賀」号を担当する北陸鉄道バスが姿を現した。

前面に「金沢-福岡」と書かれた表示を目にすれば、バスファンとして胸が高鳴る。

 

故郷つながりで、福岡と松本・長野を行き来する高速バスがあればいいな、と思うけれども、妄想の域を出ない。

高速バスファンの中には、路線の新設を空想することを楽しむ御仁が少なくなく、趣味誌の投稿欄やネットの掲示板にも、そのような投稿が多く見受けられる。

福岡と信州を結ぶ夜行高速バスも、そのような投稿の1つとして目にした記憶がある。

僕にも少なからず同様のケがあり、読んでいると、着眼点に唸らされることも少なくないけれど、自分の発想ではないだけに、そのような路線が成立するものか、と競争心や嫉妬がむくむくと首をもたげて来たりする。

たまに空想通りの路線が開業すると、我が意を得たと小躍りしたくなる心境は、同じファンとして充分に理解できる。


高速バス路線の企画を、事業者のどのような職種の人間が立案しているのかは知らないけれど、そのような仕事で生きて行けたならば楽しいだろうな、と思う。

 

 

「お待たせしました。福岡行きです」

 

扉が開き、降りて来た2人の運転手の改札を受けて「加賀」号に乗り込むと、客室には横3列独立シートがずらりと並んでいる。

指定された席に腰を落ち着けると、ふんわりと身体を包み込むシートの座り心地は申し分なく、薄暗い照明も夜行らしい落ち着いた雰囲気を醸し出していて、やっぱり夜行高速バスはいいな、と思う。

この座席で、福岡までの933.9km、13時間近い時間をくつろいで過ごせるかと思うと、気持ちが華やぐ。

 

金沢駅前を定刻に発車したバスは、繁華街のある武蔵ヶ辻、香林坊、片町に停車して乗客を拾い、金沢西ICで北陸自動車道に入ってからも、北陸小松バスストップに停車する。

松任海浜公園を過ぎたあたりで、北陸道は、文字通りの波打ち際を行く。

車窓に目を凝らしても、漆黒に塗り潰された海原に、かすかに白い波頭が浮き上がって見えるだけだが、名古屋・京都と金沢を結ぶ「北陸道特急バス」や小松空港リムジンバスで何度も行き来したことがある区間なので、昼間の景観をありありと瞼に浮かべることが出来る。

 

「みなさん、こんばんは。本日は北陸鉄道の福岡行き高速バスを御利用下さいましてありがとうございます」

 

利用客がいなかった北陸小松バスストップを過ぎると、交替運転手がひょっこりと顔を出して慇懃に一礼した。

せっかくの愛称を言わないのか、と一瞬怪訝に感じたけれども、北陸鉄道バスが運行する東京・千葉・名古屋・京都・大阪・新潟方面の路線には愛称がなく、例外的に横浜線が「ラピュータ」号、仙台線が「エトアール」号と名乗っているだけであるから、運転手さんは言い慣れていないのかもしれない。

 

「このバスは、北陸道、名神高速、山陽道を経由しまして、関門海峡を渡り、福岡まで参ります。この先、賤ケ岳SAと、明朝の壇ノ浦PAで休憩を取らせていただきます。その他、バスは何ヶ所かに停車致しますが、乗務員の交替と車両点検のためですので、お客様はお降りになれません。どうか御了承下さい。トイレと洗面所は車両中央部の右側にございます。トイレを御利用の際には、必ず鍵をお掛け下さい。鍵が掛かると、前方に使用中のライトが点くようになっております。冷水とお湯が出るサービスコーナーもトイレの出入口にございます。インスタントのコーヒー、お茶のパックもございますので、どうか御利用下さい。お座席のリクライニングやフットレスト、音楽チャンネルの操作方法等、お分かりにならないことがございましたら、後程車内を回りますので、お気軽にお声をお掛け下さい」

 

賤ケ岳SAに滑り込んだのは、発車から2時間が過ぎた午後10時であった。

バスを降りると、ひんやりと澄み切った空気が僕を包み込んだ。

ここは琵琶湖の北端にあたり、羽衣伝説が伝わる余呉湖も程近い。

吸い込まれそうな夜空を見上げ、森閑と静まる周囲の山々を見回していると、

 

鳥どもも 寝入っているか 余呉の海

 

と詠んだ芭蕉一門の路通の俳句が思い浮かぶ。

 

 

「それでは、皆様お揃いのようですので発車いたします。出発しましたら、車内の明かりを消させていただきます。消灯後も御用がございます方は、頭の上の読書灯を御利用下さい。それでは、狭い車内ではございますが、どうかごゆっくりお休み下さい」

 

運転手も交替したのであろう、先程とは異なる声で案内があり、間もなく鼻先をつままれても分からないような暗闇が車内を覆い尽くした。

夜行列車がここまで車内を暗くすることはない。

僕が夜行高速バスを選ぶのは、深い闇に包まれた車内の雰囲気が好きだからである。

東京から金沢までの車中で少しばかり疲れていたのであろうか、備えつけの毛布をかぶって、低いエンジン音と程良い揺れに身を任せているうちに、ぐっすりと眠ってしまった。

 

「加賀」号は、米原JCTで名神高速に合流し、吹田JCTで中国自動車道、神戸JCTで山陽自動車道に歩を進め、ひたすら西を目指す。

山陽道が全線開通したのは、この旅の前年の平成9年12月で、「加賀」号をはじめとする本州と九州を結ぶ高速バスも、次々と中国道から山陽道への乗せ換えを済ませていた。

中国道に比べれば山陽道はきつい曲線や勾配が少なく、ほぼ熟睡した。

 

時々、喉の渇きや、ちょっとしたバスの揺れで目を覚まし、持ち込んだ缶飲料をすすりながら、今はどのあたりを走っているのだろうかと、カーテンの隅をこっそりめくってみても、道端の木立ちが櫛の歯を引くように飛び去って行くだけで、都合良く地名を記した標識が現れることの方が少ない。

そのうちに好奇心より眠気が勝り、朝までに九州にきちんと着くならば、何処を走っていようが構うものか、と背もたれに倒れ込んでしまう。

 

 

「おはようございます。バスは時間通りに運転して、壇ノ浦PAに到着しております。ここで15分間休憩します。発車は6時30分です。お乗り遅れのございませんようにお願いします」

 

天井に淡く灯った照明が少しずつ眩さを増し、前方の遮光カーテンが開け放たれて、運転手さんの嗄れ声のアナウンスが聞こえた。

交替しながらとは言え、10時間を超える長時間ハンドルを握り続けているのだから、声もかすれるだろうと思う。

 

西日本の夜明けは遅い。

寝起きでふらつく足元に気をつけながらバスを降りると、ようやく、白々と夜が明け始めている頃合いであった。

頭上に巨大な関門橋が覆い被さり、対岸にある和布刈公園の古城山まで、まっすぐ伸びている。

 

僕が初めて九州の地を踏んだのは、昭和61年に乗車した大阪発福岡行き夜行高速バス「ムーンライト」号であった。

このバスも壇ノ浦PAで休憩し、手に取るような近さに見える古城山を見遣りながら、遠くまで来たものだ、という旅の感動が込み上げてきたものだった。

 

 

船が行き交う海峡を見下ろしながら関門橋を渡れば、九州に上陸した喜びが込み上げてくる。

九州への高速バス旅には欠かせない演出とも言うべき壇ノ浦PAであるけれど、唯一の難点は、早朝に起こされたことで猛烈な眠気に襲われてしまい、高速門司港、小倉駅前、砂津バスセンター、黒崎インター引野口、黒崎バスセンターといった北九州市内の停留所を、全くの白河夜船で過ごす羽目になることである。


「加賀」号も例外ではなく、ふと気づいたら、バスは九州自動車道福岡ICの料金所に停車しているところであった。

二度寝は気持ちいいものだけれど、惜しい気もする。

 

すっかり夜が明けた福岡ICの周辺は、郊外らしくのびやかな景観であったが、福岡高速4号線に入り、貝塚JCTで福岡高速1号線、千鳥橋JCTで福岡高速2号線と歩を進めるうちに、高架道路が大蛇のように折り重なり、道路脇に背の高いビルが増えて、視界が狭くなる。

博多駅東ランプで高速を降り、博多駅交通センターで約半数の客を降ろしてから、「加賀」号は、終点の天神バスセンターに到着した。

 

定刻8時45分よりも30分ほど早い時間だったが、天神の街並みは、夜行明けの人間にとっては煩わしいほどの、昼間の喧騒に包まれていた(後編に続きます)。

 

 
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