第15章 平成5年 高速バスで繋ぐゴーグルのような北陸・東北回遊の旅 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:夜行高速バス千葉-金沢線、高速バス新潟-金沢線、高速バス「WEライナー」昼行便、夜行高速バス「ポールスター」号】


人が乗り物に乗るのは、何がしかの用事を携えて、どこかの目的地へ行くためだろうと思う。

内田百閒に「阿房列車」という作品がある。

『なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う』

と書き出される、珠玉の鉄道紀行文学だ。

舞台は、終戦直後の昭和20年代である。

そのような時代に、百閒先生は、汽車に乗ることを目的に旅立った。

まさに、今の鉄ちゃんの草分けと言えるだろう。

僕も、乗り物が目的となる旅をこよなく愛しているから、百閒先生の愛読者だ。

僕らマニアが好む旅の形を、堂々と実践して、流麗な文章で綴った先人が実在したことが、なによりも嬉しい。


その1つに、「房総鼻眼鏡」という作品がある。
東京下町の、当時は総武本線のターミナルだった両国駅始発の汽車で出発し、千葉を過ぎて、成東を経由して銚子に着いて1泊する。
銚子から成田線で成田を回りながら、前日に通過した千葉へ戻って1泊。
千葉から房総西線(今の内房線)で館山を回り、安房鴨川まで足を伸ばして1泊。
安房鴨川から房総東線(今の外房線)で勝浦、大網を通って、また千葉へ帰ってくる。

『楕円が2つできて、千葉を鼻柱とした鼻眼鏡のような旅行である』

僕は、このくだりを読んで思わず吹き出した。
時間の無駄の極致としか思えない人もいるだろう。
ところが、この行程に、百閒先生は5日間をかけた。

『両国から立って、両国へ帰るのが早いのがよかったら、初めから行かない方がいい』

すごく良く分かる論理だと感服する。

舞台こそ違えども、似たような円形をつくる旅に出た経験がある。

どのような旅でも、行きと帰りの経路を変えれば、環状になる。

僕だけかもしれないけれど、環状の旅には、なぜか意欲を掻き立てる魅力と達成感を感じる。

手近な例では、富士五湖まで、往路は東名高速道路で御殿場から東富士道路を経由し、復路は中央自動車道を使う行程や、故郷の長野市まで、行きは関越自動車道、帰りは長野自動車道から中央道を回る行程などは、鉄道や高速バス、自家用車で繰り返し愛用している。

ならば、お前は山手線や大阪環状線をひと回りするのが好きなのか、と言われれば、願い下げであると返事をせざるを得ない。


今回の回遊の舞台は、東北~関東~中部~近畿地方に及ぶから、少しばかりスケールが大きい。
汽車ではなく高速バスを乗り継ぐ旅であり、百閒先生には「関係ない」と言われそうである。



百閒先生が、旅の途上でバスを利用した記録はない。
それどころか、バスについての記述は、「区間阿房列車」の静岡駅での待ち時間に、駅前で客待ちをしているバスを見かけて、駅舎側に後部を向けて停まっている様子に不機嫌になった一節が思い浮かぶくらいである。

『駅の玄関口にバスが幾つも並んでいる。
みんなこっちへお尻を向けている。
代燃車が多いから、そこの所が複雑で、見っともない。
そう向いているのは、走り出して行く時の都合もあるかもしれないが、醜態である。

「僕が駅長だったら、こっちを向かせる」
「何ですか」
「バスの話さ」
「はあ」』

昭和20年代の当時は、まだ、代燃車、つまりは木炭バスが残っていて、後部がお世辞にもスマートとは言えなかった。


†ごんたのつれづれ旅日記†


時代は下って、もう少し近代的なバスが走っている平成5年の真冬の夜のことである。
僕は、21時30分発の金沢行き夜行高速バスを待ち、人影もまばらな千葉中央駅バスターミナルの片隅で、寒さに震えていた。


千葉中央駅とは、なかなか格好いい名称である。
世界各地にセントラルステーションの名を持つ駅は少なくないが、日本ではあまり見当たらない。
九州新幹線の開業で、西鹿児島駅が鹿児島中央駅に改称された例が思い浮かぶくらいである。

千葉中央駅をはじめとする千葉都心部の駅の変遷は、複雑である。
千葉中央駅は、大正10年に京成電鉄の「千葉駅」として、現在の中央公園付近に開業したのが始まりである。
昭和6年に「京成千葉駅」に改称、昭和20年7月6日の千葉空襲により壊滅的被害を受けている。
昭和33年、戦災復興都市計画に伴う区画整理事業に伴い、国鉄「本千葉駅」跡の現在地に移転した。
昭和62年4月1日の国鉄分割民営化に際して、「国鉄千葉駅前」駅を「京成千葉」駅と改称することになったことと引き換えに、「千葉中央」駅に改称されたのである。

千葉中央駅の隣り駅である「京成千葉」駅は、最初は「国鉄千葉駅前」駅というバス停のような名称で、昭和42年12月に開業している。
国鉄分割民営化に伴い、駅名を「国鉄千葉駅前」から「京成千葉」に変更したのだが、「JR千葉駅前」駅にすれば、少しは分かりやすかったのかもしれない。
「千葉中央」駅の前身の「京成千葉」駅と、今の「京成千葉」駅は別物なのだからややこしい。


JR千葉駅は、明治27年7月20日に総武鉄道の駅として開業した、千葉市中心部における最古の駅である。
明治29年には房総鉄道が乗り入れ、明治40年に総武鉄道と房総鉄道が国有化されたため、国鉄の千葉駅になった。
他の駅より早い昭和20年6月10日の空襲で被害を受けたが、昭和38年4月28日に少し敷地をずらして高架化され、構内配線も大幅に変わって、現在の姿となったのである。

現在の千葉中央駅がある場所に設けられていた「本千葉」駅が開業したのは明治29年で、この時は房総鉄道の停車場であった。
開業当初は寒川駅と称していたが、明治35年に「本千葉」駅に改称されたのである。
房総鉄道も、自社の拠点として本家争いに加わりたくなったのであろうか。
しかし、房総鉄道は明治40年に国有化され、本千葉駅は国鉄外房線の駅となった。
昭和20年7月7日の千葉空襲で被災し、昭和33年に千葉市の戦災復興事業の一環として現在地に移ったという訳である。

千葉、京成千葉、千葉中央、本千葉。

千葉の人々は、よく迷わずに使いこなしていると思う。
歴史を振り返れば、京成電鉄が戦災と国鉄に振り回されただけ、とも言えるのだが。

†ごんたのつれづれ旅日記†

千葉中央駅の東口周辺は古くからの繁華街であるが、人の流れは、少し離れたJR千葉駅に集まり始めていたようである。
西口は往来が少なく、居並ぶ建物も古びていて、何となく場末の雰囲気が漂っている。
路線バスもJR千葉駅に集中し、千葉中央駅に寄る系統は減っているらしい。

千葉中央駅バスターミナルは、京成線の高架下に設けられた車庫のような乗り場に、バスがバックして入る構造である。
百閒先生なら怒り出すかもしれない。
どっしりした造りだが、古びて、どこか暗い印象だった。

なるほど、と思う。
我こそは千葉の中心駅であると競い合うライバル駅がひしめいているからこそ、「中央駅」を名乗って人々を引き寄せたいという意図があるのだろう。
鉄道会社にしてみれば、単純に地名を名乗るだけで客が集まってくるような、生やさしい環境ではない。

時折、思い出したように、成田空港や羽田空港からのリムジンバスがやって来て、僅かな客を降ろしていく。
路線バスの出入りはなくとも、ここは空港リムジンバスや、日本各地に向かう長距離夜行高速バスの起終点である。
JR千葉駅を発着する電車などとは比べものにならない程、遠隔地に開かれたターミナルであり、バスに関する限りは、セントラルステーションの風格を備えていると言えるだろう。

千葉を発着する夜行高速路線の先駆けは、平成元年4月に運行を開始した千葉-仙台線「ポーラスター」号である。
同年10月に千葉-奈良線「やまと」号。
同年12月に千葉-京都線「きょうと」号と千葉-大阪線。
平成3年3月に千葉-金沢線。
同年8月に千葉-和歌山線「サウスウェーブ」号。
平成7年4月に千葉-岡山線「東京ベイライン」号。
平成14年には、千葉には寄らないものの、東京ディズニーランドと名古屋を結ぶ「ファンタジアなごや」号が続け様に開業した。
平成24年に千葉-長野線も開業し、現時点で、千葉発着路線はこの路線が打ち止めになっている。


バス乗り場にやってきたのは、ベージュに赤いラインが程良いアクセントになっている北陸鉄道の高速バスだった。
車体の横っ腹には、シンデレラ城の写真が貼られている。

このバスの始発は東京ディズニーランドである。
20時40分に夢の国を発車した後、千葉まで逆戻りしてから、改めて目的地に向かうという運行経路だった。

当時のディズニーランドの閉園時間は、日によって異なり、時刻表には「TDL休園日には全便千葉中央駅始発・終着になります」という注意書きとともに、「18~19時閉園日の時刻」としてTDL19時40分発という時刻も併記されていた。
千葉中央駅の発車時刻は変わらないから、TDLから乗車した客は、時間調整を行う千葉中央駅で暇を持て余したのではないだろうか。

他のTDL発着路線も同様で、千葉-大阪線などは、TDL発20時50分、千葉中央駅発21時45分と、金沢線より間延びしたダイヤが組まれていた。
閉園時間が早い日のTDL発車時刻は、なんと19時20分である。


どの程度の客がTDLから乗っていたのか全く覚えていないが、そもそも、この日の金沢行きの車内はガラガラにすいていた。
隣りを気にしないですむ横3列独立シートだから、ゆったりと一夜を過ごせそうである。

首都圏と金沢を結ぶ高速バスは、昭和63年開業の池袋-金沢線も、平成元年開業の横浜-金沢線「ラピュータ」号も、昼行便と夜行便が設定され、車両は昼夜共通の横4列シートだった。
それだけに、夜行便だけの運転で、横3列シート車両を投入した千葉-金沢線に乗るのは、とても楽しみだった。
金沢発着の高速バスにおける3列シートの採用は、同じ年に開業した金沢-福岡線「加賀」号に次いで2番目であった。



定時に千葉を発つと、バスは、東関東自動車道・京葉道路・首都高速湾岸線をこまめに乗り降りしながら、西船橋駅で乗客を拾う。

車両は背の高いスーパーハイデッカーで、眺望と乗り心地は抜群だった。
バスのエンジン音も、遠くで低く響いているだけで、荒れた高速道路の継ぎ目のバウンドも程よく吸収されて、全く気にならない。
むしろ、子守唄のように心地よく眠気を誘う。

車高があるおかげで、防音壁の向こうまで見渡せるから、湾岸の夜景が良く見える。
自家用車ならば、とても見ることができない眺望である。
街の灯がまだ残っていて、銀河のように窓外一面に散りばめられている中を、バスは滑るように走り込んでいく。

千葉-金沢間高速バスは、京葉道路から首都高速小松川線を経由するのが正規の運行ルートであったらしい。
僕の乗車日は、京葉道路で渋滞か通行止めがあったのかもしれないが、そのおかげで夜の湾岸の都市景観を存分に堪能することができた。


大学生活を送っていた昭和60年代に、完成したばかりの湾岸線は僕らの憧れだった。

「助手席に女の子を乗せて、夜の湾岸をドライブできれば、言うことないよなあ」

と、彼女も車もない男同士が集まっては、遠い目をしながら溜め息をついたものだった。
僕が車の免許を取ったのは卒業後だったから、湾岸ドライブはもっぱら高速バスで楽しむだけだった。
そのような趣味に付き合ってくれる女性など現れるはずもなかったけれど、光と影に彩られた湾岸線は、バスの車窓からでも、僕を夢心地にしてくれた。

首都高速湾岸線の歴史は、昭和51年8月に大井JCTと13号地ランプ(現・臨海副都心ランプ)の間で供用を開始した時点に遡る。
昭和53年に東京港トンネルと、新木場ランプと浦安ランプの間、昭和55年に辰巳JCTと新木場ランプの間、昭和56年に辰巳JCTと有明ランプの間、昭和57年に浦安ランプと市川JCTの間がそれぞれ開通し、東関東自動車道に接続する。
昭和58年に東海JCT-大井ランプ、昭和59年に13号地ランプ-有明ランプの区間が開通して、千葉方面の湾岸線は完成したのである。


東関道上り線の車窓を最初に飾るのは、高層ビルが林立する幕張新都心である。
昭和61年に京葉線が部分開通し、平成元年に幕張メッセが開業、東京モーターショーが晴海から移ってきた。
複数のホテルが建設されてランドマークとなり、新都心として飛躍したのは、平成5年である。
首都圏有数の都市空間だと思うのだが、東京都内に比べればビルの明かりが消える時間が早めで、夜行高速バスで通過する頃には、真っ暗になっていることが多い。

幕張を後にしたバスは、 左に京葉線の高架を眺めながら、起伏の少ない平坦な埋め立て地をひたすら進んでいく。
片側3車線の道路に車がぎっしりとひしめいて、ヘッドライトとテールランプの輝きが眩い。


「ここより別料金」の標識を見上げながら市川JCTを通過し、東関東自動車道から首都高速に入っていけば、間もなく、東京ディズニーランドにひしめく円錐屋根の塔が目に入る。

東京ディズニーランドが開園したのは昭和58年、リゾートに改名したのは平成12年、ディズニー・シー開業は同13年のことだった。

平成3年のTDL-金沢線の開業直後は、金沢の北陸鉄道営業所で、高速バス乗車券とTDL入園券をセットで発売したこともあったという。
JRの夜行高速バス「ドリーム」号がTDLまで延伸されたり、TDLの開業時には、ディズニーファンではない僕には理解し難い全国的な熱気が感じられて、少しばかり異様に感じたものである。
今でも、TDLを起終点とする高速バスは少なくない。
思えば、平成25年に関越自動車道で悲惨な事故を起こしたツアーバスも、金沢発TDL行きであった。

平成26年に、千葉中央駅から20年ぶりに高速バスに乗り込んで長野に向かった時も、千葉では閑散としていた車内が、TDLで瞬く間に満席となった。
米国が生み出した夢の国の人気とは凄まじいものだ、と舌を巻いた。


†ごんたのつれづれ旅日記†

千葉発着の高速バス路線は、全てが順風満帆とはいかなかった。
先に挙げた路線のうち、平成12年10月に廃止された金沢線をはじめ、和歌山、岡山、奈良線は、いつの間にか時刻表から姿を消した。
残された京都、大阪、長野線は、浅草や上野など東京都内の停留所にも寄るようになり、しかも長野線は千葉発着ではなく成田空港を起終点とする路線に変わった。
金沢線も、最後の2年間は千葉への乗り入れをやめて、成田空港を起終点にしていたという。
千葉だけでは利用者が不足なのか、と首を傾げたものである。


高速道路から首都高速に入ると、途端に路肩が狭くなり、道路の継ぎ目の間隔も短くなって、乗り心地が極端に変わることが多いのだが、市川JCTでは、そのような変化が全く感じられない。

埋立地で土地に余裕があるのだろう、贅沢な道路を造ったものだと思う。

江戸川を渡ると、入れ替わりに、直径111m・地上高117mという葛西臨海公園の大観覧車が目に飛び込んでくる。
中央環状線を分岐する葛西と、深川線を分岐する辰巳の、高架道路が大蛇のように交錯する2つの巨大ジャンクションを続け様にくぐれば、 東京の臨海副都心である有明とお台場である。
お台場が、今の賑わいから想像もつかないほど寂れていた時代を知っているだけに、当時は、その変貌ぶりに目を見張ったものだった。

数年前に、大学の友人とのドライブで、建設工事の白い幕ばかりが目立つお台場を彷徨ったことが思い出される。
あれは、後に中止された都市博の準備中だったのか。
カーナビを見ても、画面に表示された車は海の中を走っていて、似たような建設現場ばかりが並ぶ未開の埋立地で、道が分からなくなったことが、昨日のように思い出される。


レインボーブリッジが完成するのは平成5年、フジテレビが移転するのは、ずっと後の平成9年である。
直径100m・高さ115mと、葛西よりも少しばかり小振りな観覧車がお台場に登場したのは、平成11年のことだった。

僕が金沢行き夜行高速バスで旅をしたのは、湾岸地域がバブル時代の劇的な様変わりを終えて、ひと息ついた時期だったのだな、と、今では懐かしく、少しばかりほろ苦く思う。
湾岸線の東半分が全通した昭和59年は、ちょうど僕が東京に出て来た年だった。

バスはレインボーブリッジを渡って東京都心を横断し、そのまま首都高速都心環状線へ進んでいく。
レインボーブリッジは、都心側からお台場方面に向かう眺望も悪くないけれども、上方に緩やかに湾曲した橋を登り、ぎっしりと詰め込まれた無数のビル群が、上がり舞台のように姿を現す都心方面の夜景が、圧巻だった。


東名高速道路に繋がる首都高速3号線を分岐する谷町JCTを、バスが見向きもせずに通過した時は、驚いて腰を浮かしかけた。

運転手が道を間違えたのではないかと早合点したのである。

このような場面で、バス旅は、鉄道旅行では味わえないスリルと緊張感を醸し出す。

この路線が関越自動車道から北陸自動車道へ向かう長岡経由のルートではなく、米原JCTを経由する西回りの経路をとっていることは知っていた。
それだけに、東名高速道路へ向かうのではないのか、とびっくりした。
その先の霞ヶ関トンネルをくぐり、国立劇場の黒々とした四角いシルエットを右手に見ながら三宅坂JCTを左に折れて、中央自動車道へ繋がる首都高速4号線に乗った時には、そうだったのか、と思った。

東京と名古屋の間は、東名高速も中央道もそれほど距離が変わらないので、別にどちらでも良かったし、途中に用事があるわけでもない。
深夜のハイウェイを走り切って、明日の朝にきちんと金沢に着いていればいいさ、という気分である。
 


三宅坂JCTは、不思議な構造である。
首都高速都心環状線外回りから4号新宿線への流出路に向かう方が直線的で、環状線の本線は、意識して右へハンドルを切らなければならない曲線になっている。
ボーッとしていれば、都心環状線から4号新宿線に入ってしまうことだろう。

秋庭俊氏の著書「帝都東京・隠された地下網の秘密」でも、 「悪名高き首都高のパニック・ポイント、三宅坂ジャンクション」として以下のようなくだりがある。

『首都高の渋谷線、目黒線から都心環状線に入ると、首相官邸を過ぎたあたりで環状線は地下へもぐる。
国会議事堂を横目に千代田線、丸ノ内線と交差し、有楽町線を越えたところでトンネルに横穴があく。
皇居、外堀、その水際に丸の内。
都心の地下に突然のパノラマが広がる。
環状線の本線はここで新宿線に変わる。

「新宿?」

レーンの表示に初めは納得がいかない。
赤坂離宮、神宮外苑、新宿御苑、明治神宮。
そんなことを言われても新宿線には入っていない。
ここは環状線の本線ではないのか。

「分岐?」

環状線への分岐が右隅に現れ、あわててブレーキを踏んでウインカーをあげる。

「入れてくれ」

ハンドルを切った瞬間にクラクションが渦巻く。
罵声をかいくぐるように右車線へ。
渋谷からきて新宿に戻るわけにはいかない。
フロントガラスの左カーブがすでにかなり近い。
減速、サイド・ミラー、クラクション、罵声。
ゆるやかな左カーブに逆らって右へ。
ひときわ高い急ブレーキが向かってくる』

強く印象に残った一節であるが、さすがに首都高速で他車のドライバーの罵声までは聞こえないのではないか、と苦笑した。
現在は車線がうまく改善されて、このような間違いは起こりにくくなっているが、秋庭氏はこの構造に疑問を呈して、東京の地下構造物の謎に迫っている。
三宅坂JCTばかりではなく、地下鉄の経路が正しく書かれていない地図、国会議事堂前駅周辺の不思議な設計、謎に包まれた国会図書館の地下、設置意図のはっきりしない地下鉄大江戸線、古い千代田線より浅い所を通っている南北線などを取り上げて、10年ほど前にブームになった東京地下探索のはしりとなった本である。

秋庭氏の説によると、三宅坂JCTのトンネルは、戦前から既に掘られていたものを再利用したために、いびつな構造をしていると言う。
戦後に建設された巨大地下建造物の多くは、江戸時代から太平洋戦争の終戦までに軍事目的に作られた地下空間を再利用したものだと秋庭氏は主張する。
戦後、地下鉄や地下道路を敷設するために莫大な予算が投じられた。
しかし、既に地下網が完成していたのだから、予算以下で建設可能だったはず。
余ったカネが政党や行政機関の裏金などに消えたのではないか、と。
述べられていることの真偽は別として、その着眼点には感心したものだった。


八王子を過ぎると、車窓から街の灯が遠ざかり、アップダウンとカーブが連続する山岳ハイウェイに差し掛かかる。

長い前置きだったが、これで関東平野とお別れである。

消灯時間が過ぎると、車内は、掛け値なしの暗闇に覆われた。
トイレ使用中のランプや、デジタル時計の緑色の数字だけが、闇の中に、わずかに浮かび上がる。
ぴったりと締め切られたカーテンが、街路灯やヘッドライトの光を遮ってくれるから、眠りが妨げられない。
僕は、夜行高速バスに揺られながら味わう真の闇に、いつも、強い旅情を感じる。
母親のお腹にいる胎児と通じる居心地だからであろうか。

時折り、鈍いオレンジ色にカーテンが染め上がるのは、トンネルである。
夜のハイウェイでは、外よりもトンネル内の方が明るいのだ。

相模湖付近で神奈川県をかすめる頃から瞼が重くなり始め、山梨、長野の両県は完全に夢の中だった。
それでも、中央道を走る夜行バスに乗ると、必ず目が覚めてしまう区間がある。

ダン、ダン、ダン。
ダン、ダン、ダン。
ダンダンダンダン、ダン、ダン、ダン。

ドライバーの眠気覚ましと、急カーブ・急勾配を知らせる路面の帯状の突起が、三三七拍子を打つような間隔で敷かれている区間のせいである。
しかも、三三七拍子を2度繰り返してから、

ダダダダダダダ……

と、最後の拍手まで入る。
道路公団、悪乗りし過ぎではないだろうか。

リズムのついた薄層舗装は、平成元年に中国道小月-下関間の下り線に設置されたのが最初と言われている。
その後、中央道の大月-勝沼間など、全国で40ヶ所を超える区間に設けられたらしい。
中央道では岡谷JCT付近にもあると聞いたけれども、僕はもっと西寄りの、長野と岐阜の県境付近だった気がしてならない。
何回も中央道を往復しているが、三三七拍子が記憶に残っているのは、千葉-金沢間高速バスと、新宿と岐阜を結ぶ「パピヨン」号の夜行便である。
いずれも深夜のことだから、思い違いをしていてもおかしくないが、夜行高速バスの座席に身を任せながら聞いた三三七拍子は、漆黒の闇に包まれた車内の記憶と相まって、今でも懐かしい思い出である。



長野と岐阜の県境は、恵那山トンネルをはさんで、右に、左に、かなりの急カーブが続く。
足もとから奈落の底に吸い込まれてしまうような揺さぶられ方である。

深々としたシートに身を任せ、再び眠りに落ちた僕を乗せて、バスは、愛知県の小牧JCTで名神高速道路に入る。
岐阜県をもう1度通過し、滋賀県の米原JCTで北陸道へ舵を切る。
地図の上では、福井県の敦賀付近で日本海沿岸に出たはずであるが、それも夢の中だった。
途中、北陸道を降りて立ち寄ったはずの加賀市役所前と小松駅前停留所も、全く覚えていないので、降車客がなく、通過したのかもしれない。
金沢駅前に着いたのは、定刻より1時間以上も早い午前6時過ぎだった。


兼六園下バス停が始発の新潟行き高速バスは、午前7時10分に発車する。

当時、金沢から西へ向かう高速バスは、金沢駅から武蔵が辻・香林坊・片町を経由して金沢西ICで北陸道に乗るが、東へ向かう路線は、金沢駅から金沢東ICに直行するという法則があった。
例えば池袋行きは金沢駅だけが市内停留所だった訳だが、平成3年に開業した金沢-新潟間高速バスは、金沢駅だけでは集客が心もとなかったのだろうか。
兼六園下から香林坊・武蔵が辻を経てから、金沢駅に寄り、金沢東ICから高速に乗るという経路が斬新だった。

座席指定制だから、並んで席を確保する必要はないけれど、僕は始発地から乗ることにこだわって、金沢市内をぶらぶらと歩くことにした。

千葉からのバスが定刻通りの運行だったら、金沢駅前でも乗り継ぎはぎりぎりだったが、早着したので散歩ができる。
金沢は、僕が生まれた街である。
大学院生だった父が、この街で母と見合いして、1年後に僕が生まれたと聞かされたが、信州に引っ越したのは僕が3歳の年だったので、記憶は全くない。
セピア色に変色した白黒写真で、金沢時代の若かりし両親の姿を見ただけである。

兼六園や金沢城、武蔵が辻、香林坊を、お前を連れて歩いたんだよ──

と言われても、覚えている訳がない。

城下町らしく狭い路地が入り組み、新旧の建物が雑然と混在していながら、どこか上品さを漂わせている金沢の街並みが、僕は好きだった。
いくら歩いても、飽きることはない。
滅多に来られない遠い故郷の空気が吸える時間とは、いいものである。
様々な思いが胸にこみ上げてくる。
両親の青春の舞台と思えば、なおさらのことである。

兼六園では、冬の風物詩とも言える雪吊りが木々に施されている季節か、と思ったが、柵の中まで窺うことはできなかった。


新潟行きの高速バスの座席に落ち着いてから、生まれ故郷の滞在が僅か1時間程度だったことに気づいた。
いつも慌ただしくて、後で後悔する僕の人生そのものだな、と自嘲したくなる。
胸が熱くなるのを堪えながら、じっと車窓に見入る僕を乗せて、バスは金沢市内を進む。
真冬の短い1日は、まだ夜明けを迎えたばかりで、薄暗く静まり返った古都の街並みが、窓外を流れていく。

千葉から乗ってきた夜行高速バスと同じメーカーの、北陸鉄道のスーパーハイデッカー車両であるが、千葉-金沢線は2軸車両、こちらは3軸車のどっしりとした外観で、アメリカの大陸横断バスを思い起こさせるから、僕が好きなタイプである。
ただし、座席は古びて、乗り心地も何となくガタガタした感触である。
おそらく、ドル箱の首都圏や名古屋方面の路線から転用された使い古しなのだろう。
こちらは地方都市を結ぶローカル路線であるから、やむを得ない。
乗客数も1桁程度だった。


百閒先生の「房総鼻眼鏡」に、このようなくだりがある。

『新聞社や放送局の諸君が待ち受けていて、インタヴィウをすると云う。

「幹線の列車は、設備もよくサアヴィスも行き届いている。然るにひとたび田舎の岐線などとなると丸でひどいものです。同じ国鉄でありながら、こんな不公平な事ってないでしょう。そう云うのが一般の與論です。これについてどう思いますか」
「表通が立派で、裏通はそう行かない。当り前のことでしょう」
「それでは今の儘でいいと言われるのですか」
「いいにも、悪いにも、そんなことを論じたって仕様がない。都会の家は立派で、田舎の家はひなびている。銀座の道は晩になっても明かるいが、田舎の道は暗い。普通の話であって、いいも悪いもないじゃありませんか」

感心したのか、愛想を尽かしたのか、向うへ行ってしまった』


北陸自動車道の緩やかなカーブで倶利伽羅峠を越え、「裏通」を行く高速バスは、広大な砺波平野を気持ちよく疾走する。
右手にそびえる立山連峰の雪景色は、どんよりと分厚い冬の雲に覆われていた。
雪に覆われた裸の田園地帯が、窓外をゆったりと流れていく。

富山・新潟県境を成す北陸道最大の難所親不知は、険しい山塊が波打ち際まで押し迫り、断崖絶壁が荒波に洗われている。
ところが、近代的なハイウェイは、海上に長大な高架橋を伸ばして難なく通過してしまう。
眼下には、大きくうねりながら次々と波濤が押し寄せてくる、冬の日本海が広がっている。
暗い海面を、海鳥が渡っていく。


糸魚川市と上越市の境も、海に迫り出す険しい頸城山系を幾つものトンネルでくぐり抜けた。
激しく北風が吹きすさぶ新潟平野を走り抜け、11時半に新潟市内の万代バスセンターに到着した。

朝の眠りから抜け切れていなかった金沢と対照的に、昼下がりの新潟の街は賑わっていた。

天井が低くて薄暗いバスセンターから外に出て、万代橋の欄干に寄りかかりながら信濃川を眺めれば、川面を渡る風は氷のように冷たかった。
時折、霧雨がかすかに頬を濡らす。


次の走者は、13時10分発、新潟交通の仙台行き「WEライナー」である。
白地に緑のNの文字がデザインされたこの車両も、新潟-大阪間の夜行高速バス「おけさ」号に使っていたお古であろうか。
座席は横3列独立シートで、ゆったりとくつろげる。

多少時間は掛かろうとも、この座席で仙台まで行けるのだから、嬉しくなる。

仙台までの5時間で「WEライナー」の車窓が奏でるのは、交響曲のように美しくも豊かな旋律だった。


これまでの、スピード感に溢れていたハイウェイ主体の道行きとは趣がガラリと異なり、混雑した一般道の国道7号線バイパスを走る序曲は、アンダンテで始まる。

雨上がりなのか雪解け水なのか、濡れた路面でタイヤが水を切る音が鋭く響く。

真冬の越後平野を訪れたことは何度かあるけれども、いつも雪ではなく雨だったな、と思う。


新発田の街を過ぎて右折した国道113号線は、路肩の狭い1本道で、前方に立ちはだかる朝日山地の山越えが始まる。
この頃は、磐越自動車道がまだ開通していなかった。



それまでは濡れているだけだった路面が、みるみる真っ白に染まっていく。
細かい雪がチラチラと舞い始める。
ふと気づけば、道端に積もる雪が、いつの間にか、バスの背丈を越えてしまう勢いになっていた。
雪に埋もれた村落の軒先をぎりぎりかすめるように、ギアを入れ替え、エンジンを吹かしながら、バスは山道を喘ぐように登り続ける。
テンポは重々しくグラーヴェ、そしてのろのろとしたレントであろうか。


日本有数の豪雪地帯の山越えはスリル満点だが、運転手のハンドルさばきは確かである。
白一色の車窓とガラス1枚へだてた車内は、ぬくぬくと暖房が効いて、ついつい眠気を誘う。

小国町でサミットを越えれば、バスは、白い湖底の底に沈んでいるような山形盆地へ駆け下っていく。
山形自動車道に乗って速度が上がり、笹谷トンネルをくぐって宮城県に入る頃に、あたりの暮色が深まり始めた。
雪は少なくなったが、色褪せて黒ずんだ山々が車窓を覆う。

幕が閉じていく舞台のように、全ての景色が闇の中に消えていく。

静かに奏でられるアダージョの旋律を聞いているかのようだった。



仙台宮城ICを降り、青葉山を貫く仙台西トンネルを抜けると、車窓は一転する。
東北随一の都会の、めくるめく華やかさが車窓を彩った。

錯綜する車のヘッドライトや、眩い色とりどりのネオンが目に浸みる。

終曲は陽気に、踊り出したくなるようなアレグロだった。

裏日本からはるばる冬山を越えてきた者にとって、仙台の街並みは眩しすぎるほどだった。


仙台から先の旅程は、まだ決めていなかった。

新幹線で帰ることになるのかな、などと漠然と考えていたが、仙台駅東口で「WEライナー」を降りた瞬間に、帰りたくなくなった。

ふと思い立って、ごった返す仙台駅構内を横断し、西口から少しはずれた場所にある宮城交通高速バスターミナルまで足を運んだ。

2晩連続の夜行になるが、22時30分に発車する成田空港行き高速バス「ポーラスター」号のことが脳裏を横切ったのだ。
東北自動車道で郡山JCTに向かい、磐越道で太平洋岸のいわきJCTに出て、常磐道を南下、松戸駅と西船橋駅に寄ってから成田空港まで行くという、なかなか面白い経路を走る北極星であった。



夜行高速バスの乗車券を、乗る直前に衝動的買いするのは、初めての経験だった。

空席があるのか不安だったが、窓口の係員氏は極めて事務的に、僕が希望した通り、西船橋駅までの乗車券を発行した。

終点まで行かないのは、西船橋で円形を成す旅を完成させたかったのと、当時の成田空港は反対運動に備える厳戒態勢下にあって、例えバスの乗客と言えども、搭乗する便の航空券や身分証明書をチェックするゲートが設けられていたので、面倒くさいな、と思ったのである。

航空機に乗る訳でもないのに成田空港に足を踏み入れようとして、警備員に怪訝な顔をされた経験がある。


この旅の経路が環状に繋がったのは、旅の最後に決めたのである。
こいつは面白いじゃないか、と誰に自慢できることでもないけれど、心が踊った。


緑を基調にしたボディカラーに星が描かれたカラーリングの車体は、これまで乗ってきたバスに比べると、少々背が低いハイデッカータイプである。
今でこそ、経費節減のためにハイデッカーを採用する夜行高速バスは少なくないが、当時の夜行高速バスはスーパーハイデッカーが主流だった。
ハイデッカーの夜行高速バスは、「ポーラスター」号が初めてだったのではないだろうか。
いざ横3列独立シートに座ってしまえば、少しくらい天井が低くても、眠るには何の支障もなかった。

さすがの僕も疲れていたのだろうか。
バスを待つ間に無性に人恋しくなって、飲み屋の暖簾をくぐったものの、見知らぬ相客と会話を楽しむ勇気もないまま、1人であおった酒がいけなかったのか。
酒で憂さや寂しさが晴らせる人が羨ましい、と思いながらも、発車して間もなく、コトンと深い眠りに落ちてしまった。



「お客さん、西船橋ですよ!」

耳元で囁く運転手の声に、びっくりして目を覚ました。
あまりに熟睡していためか、乗車してから10分か20分程しか経っていないような錯覚にとらわれた。
仙台からはるばる首都圏まで来ているとは、俄かに信じられなかった。

僕は慌てて網棚の荷物を引っ張り出し、真っ暗な駅前にふらふらと降り立った。
懸命に霞んだ目をこらしながら腕時計を見ると、時刻は午前5時過ぎだった。

僕をたった1人置き去りにして、成田空港へ向かう「ポーラスター」号は、テールランプを赤く輝かせながら、あっという間に駅前のロータリーから姿を消した。
あまりにも呆気ない旅の幕切れだった。
僕は呆然としたまま、無人の駅前に佇立していた。

ここは、確かに、30時間前に通った街である。
第1走者の千葉発金沢行き夜行高速バスが、西船橋駅で乗車扱いをしていたことは憶えている。

ところが、別の見知らぬ街に来てしまったような違和感が拭い切れない。

今、思い出しても、西船橋駅前の夜明け前の佇まいは、真っ黒な墓石が並んでいるように、のっぺらぼうな印象しかない。

もう、総武線の電車は動き始めているのだろうか。



「房総鼻眼鏡」のラストは、鼻眼鏡を回り終えてたどりついた千葉の宿屋があまりにひどく、宿泊せずに逃げ出したというオチだった。

快速で走る列車のリズムに合わせて足踏みをした、という百閒先生の旅の終わりも、同じく総武線の上りであった。


僕は、長旅の余韻を味わうどころではなく、東京まで、黄色い電車のロングシートの片隅で、ひたすら眠りを貪っていた。

何だか情けない幕引きであるけれども、千葉県民でもないのに西船橋駅で旅程を繋げたのだから、やむを得ない。


千葉-西船橋-米原-金沢-新潟-山形-仙台-西船橋。

誰もが、本州の中央部を回る大きな楕円を思い描くことであろう。

ただ、千葉から金沢に向かうバスが、まさか中央道を経由するとは思いも寄らなかった。

中央道は、上に凸の曲線を描いて東西を結んでいる。

だから、この旅を百閒先生に習って名づけるとすれば──鼻眼鏡ならぬ「ゴーグルの旅」。

†ごんたのつれづれ旅日記†-yk-630tbr-dtbk-00.jpg



ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>