第25章 平成18年 日本中央バスで東北・北陸を回遊~日本の真ん中を通って本州を横断~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バスさいたま-仙台線「ミリオンライナー」、高速バス仙台-高崎線「仙台ライナー」、高速バス前橋-新潟線】

 

 

平成18年の夏に、珍しい旅をした。
埼玉県のさいたま新都心から仙台へ向かう昼行高速バス、仙台から前橋・高崎へ向かう夜行高速バス、前橋から新潟へ向かう昼行高速バスと、いずれも開業から間もない3本の高速バスを組み合わせたバス三昧の旅であるが、利用した高速バスが全て日本中央バスだったのである。


8月上旬の週末、新しく拓かれた新開地に相応しく真新しい建物は全て立派であるけれども、人影が少なくて、どこか無機質な雰囲気が漂う、さいたま新都心駅に降り立った。
既に日は西に傾きかけて、駅と直結したバスターミナルは長く伸びた影に覆われて薄暗い。

乗り場に現れた日本中央バスは、白地に金色のラインを身にまとっていることは「関越高速バス」などと変わらないが、側面に、同社が結んでいる都市名がずらりと羅列されている。

「東京・さいたま・群馬↔大阪・京都・名古屋・金沢・仙台・羽田・富山・新潟・奈良」

荒川の対岸の東京・板橋車庫を起終点にして、蕨錦町、武蔵浦和駅を経て、さいたま新都心駅に現れた仙台行きのバスは、「ミリオンライナー」と名付けられていた。

 


平成17年3月に、日本中央バスが市ヶ谷・新宿・池袋・さいたま新都心から仙台へ向かう夜行便を開業した時には驚いたものだった。
本社がある群馬県と全く関係がない路線だったからである。
どうやら、板橋に車庫のあるバス会社を買収したらしく、同じ年の8月には、昼行便の「ミリオンライナー」が登場している。

それに先立つ平成16年には、

さいたま新都心駅-高島平駅前-板橋NTT前-新宿・ヒルトン東京-赤坂プリンスホテル-ホテルグランドヒル市ヶ谷-金山総合駅-名古屋駅-京都駅-大阪OCAT

という首都圏と中京・関西を結ぶ夜行路線と、

ヒルトン東京-赤坂プリンスホテル-ホテルグランドヒル市ヶ谷-さいたま新都心-富山駅-金沢駅

という首都圏と北陸を結ぶ夜行路線にも、手を染めていた。
より大きな収益が見込める首都圏発着路線で、群馬県内の赤字路線を補填したいという目論見だったのかも知れない

 


この頃の日本中央バスの路線展開で思い浮かべるのは、Jリーグのサッカーチーム、ヴェルディのことである。
昭和44年に読売サッカークラブとして発足した伝統を誇り、平成4年のJリーグ開幕に備えて読売グループ3社の出資で株式会社読売日本サッカークラブが設立された。
しかし、東京都にJリーグの規格に合ったスタジアムがなく、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地としたのである。
Jリーグ発足前後には、読売ヴェルディと言う呼称が用いられていたらしい。
だが、Jリーグでは、チーム名には企業名を排してホームタウンの自治体名を使用する方針を定めていたため、程なく、ヴェルディ川崎と名乗るようになった。

平成5年、米軍調布基地跡地に「武蔵野の森スタジアム(現・味の素スタジアム)」を建設する計画が持ち上がると、ヴェルディは同地への移転を発表し、調布市も積極的に誘致に乗り出した。
しかし、スタジアム完成までの本拠地が不透明で、なおかつJリーグ開幕初年度に移転を発表したため、地域密着理念の全面否定と受け取ったJリーグは拒絶の姿勢を示した。
川崎市も、等々力陸上競技場の大規模改修に着手したタイミングでの移転通告ということで大いに反発し、調布市も誘致の前提として円満解決を提示、ヴェルディはJリーグ実行委員会からの白紙撤回勧告を了承したのである。

平成11年10月、ヴェルディは再度東京への移転構想を発表する。
「味の素スタジアム」が平成13年に開業することが決定し、川崎フロンターレがJ1に昇格したことで、川崎市も移転を容認した。
平成13年に川崎から東京へホームタウンを移し、東京ヴェルディを名乗ったわけである。

一時はJリーグのチェアマンと読売新聞の社主が論争するような事態まで発生し、要するに、ヴェルディは東京の名を名乗りたいのだな、と、僕は少しばかり覚めた目で推移を見守っていた。

 


日本中央バスも、東京の会社になりたかったのかも知れないと思う。
しかし、さいたま・東京-名古屋・京都・大阪線は、わずか1年後の平成17年9月に運行を休止し、東京・さいたま-富山・金沢線も、平成25年に起終点を秋葉原駅に延伸し、グランドプリンスホテル赤坂とホテルグランドヒル市ヶ谷停留所を廃止、川越・藤岡・高崎・前橋といった埼玉・群馬県内に停車する運行経路に改められた。
都内の停留所がグランドプリンスホテル赤坂やホテルグランドヒル市ヶ谷、ヒルトン東京といったホテルばかりで、ターミナルではなかったことも一因だったのかも知れない。
僕が秋葉原から金沢行きに乗車した時も、秋葉原からは2人、新宿のヒルトン東京では1人も乗車してこなかったことと対照的に、埼玉県と群馬県内停留所からの乗車で、ほぼ満席になったのである。

東京・さいたまと仙台を結ぶ路線も、知名度を得られないまま、夜行便が平成20年9月に、昼行便「ミリオンライナー」が平成23年11月に、それぞれ運休し、日本中央バスから、本社のある群馬県に無縁の高速路線は全て消えたことになった。
バスの側面には「東京・さいたま・群馬」の順で書かれているが、日本中央バスは地元の群馬で踏ん張れ、ということなのだろうと、僕は解釈している。

 


定刻18時にさいたま新都心駅を出発した「ミリオンライナー」は、黄昏の市街地を抜けて、岩槻ICから東北道に入った。
見渡す限りに広がる関東平野を赤く染めて、夕陽が西に沈もうとしている。
地平線の彼方から少しずつ擦り寄ってくる山々を愛でながら、深まっていくみちのくの情緒に浸ることが、東北の旅の神髄であるが、夕刻の最終便ではそれも叶わない。
旅に出たばかりであるにも関わらず、暗転した車窓を見つめていると、心までが鬱々と沈み込んでいきそうになる。
漆黒の闇に塗り潰された窓に映る自分の顔を見つめながら、僕はいったい何をしているのだろうと思う。

 


広瀬川流れる岸辺
想い出はかえらず
早瀬踊る光に
揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ流れの岸
瀬音ゆかしき杜の都
あの人はもういない

「青葉城恋唄」は、歌詞と旋律の優しさ、美しさから、僕が大好きな曲である。
このように素敵な歌に、郷土が歌いこまれている仙台の人々が羨ましいと思う。

「ミリオンライナー」の仙台到着は22時30分である。
そんな夜更けに、杜の都の情緒に浸れるはずなどないではないか、と若干冷めた気分でバスを降り立った。

 


思いがけないことに、仙台は七夕祭りの真っ最中だった。
駅の近くのアーケード街には、色とりどりの七夕飾りが艶やかに揺れている。

仙台の七夕祭りは、江戸時代の初期に、伊達政宗が文化向上の目的で奨励したことで、盛んになったとされている。
明治6年の新暦採用で廃れかけたものの、昭和2年に商店街の有志によって大規模に七夕飾りが飾られ、大勢の見物客で賑わったという。
戦争中は縮小されたが、昭和21年、空襲で焼け野原となった街に52本の竹飾りが立ち、仙台七夕は力強く復活した。
今ではおよそ3000にも及ぶ七夕飾りが街を彩り、「東北三大祭り」の1つに挙げられている。

10mを超える竹から7種類の飾りがぶら下がっている様を見上げながら、浴衣姿の女性が目立つ華やかな街路を歩くのは、楽しかった。

学問や書の上達を願う「短冊」。
病や災いの身代わり、または裁縫の上達を願う「紙衣」。
長寿を願う「折鶴」。
富貴と貯蓄、商売繁盛を願う「巾着」。
豊漁を願う「投網」。
飾りつけを作る時に出る裁ち屑・紙屑を入れ、清潔と倹約を願う「くずかご」。
織姫の織り糸を象徴する「吹流し」。
現在では、くす玉がついた吹き流しが主流だという。

次のバスが発車するまでの束の間の滞在だったけれど、灯火にきらめきながら夜風に揺れる七夕飾りが幻想的な、杜の都の真夏の週末だった。

七夕の飾りは揺れて
想い出はかえらず
夜空輝く星に
願いをこめた君の囁き
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ七夕祭り
葉ずれさやけき杜の都
あの人はもういない

「青葉城恋唄」の一節を思い浮かべながら、出かけて来て良かった、と心から思う。

 


わずか30分足らずの滞在で、僕が杜の都を後にしたのは、23時発の「仙台ライナー」である。
平成16年1月に開業したばかりの新路線で、乗り場に横着けされたバスの外観は「ミリオンライナー」と変わらないが、車内は横3列独立シートの夜行仕様で、ゆったりとした座席に深々と身を沈めれば、自然と気持ちが安らいでくる。

日本中央バスの夜行便は、あらかじめ乗車券を購入しても、前もって座席が知らされる訳ではない。
改札時に運転手さんから番号を告げられて、初めて一夜を過ごす座席が判明する方式だから、乗車するまでは、どこの席があてがわれるのかドキドキする。
幸い、指定されたのは窓際席だったから、大いに安心した。

 


仙台駅前を定刻に発車したバスは、東北道を南下し、佐野ICで一般道に降りてしまう。
午前3時30分着の佐野新都市バスターミナルを筆頭に、館林、邑楽、大泉、太田、桐生、伊勢崎、前橋、高崎、そして終点の藤岡と、国道50号線に沿った北関東の街々に10~30分おきに停車していく。


夜間にしては煩わしい道中である。
佐野や館林で降りる乗客にしてみれば、夜行というよりも、終電代わりの深夜急行バスのような使い勝手ではないだろうか。


乗った経験はないけれども、米国の長距離都市間バス「グレイハウンド」の時刻表を眺めると、夜行便は平気で深夜2時、3時台に乗降扱いをする。

我が国でも、かつて東京と仙台・山形を結ぶ東北急行の夜行高速バスが、丑三つ時に福島県内の停留所に停車していた。

日本中央バスも、名古屋や関西への高速バスで早暁3時、4時台に始発地を発車したり、深夜0時過ぎに終点に着く便があったので、米国の流儀に倣っているのだろうか。

令和になると、群馬県内を深夜2時、3時台に発車し、東京駅の始発の新幹線や羽田空港の初便に乗れると宣伝する高速バスを開業している。


群馬県は、日本の都道府県で最も自家用車が普及していると言われ、車社会の米国と似た背景があるのかもしれない。

車と駐車場があれば、どのような時間帯でもバスを利用できるのだろう。



僕は、車中をぐっすりと眠って過ごし、1度も目を覚まさなかった。
夢を見ていたような気もするのだが、はっきりと覚えているわけではない。
停留所に停まれば、熟睡していても、座席をすり抜けていく降車客の気配で目が覚めることが少なくないのだが、その夜は途中で降りる人がいなかったのかもしれない。

早朝6時過ぎに前橋バスセンターに降り立った時には、何となく夢の続きを見ているかのような、現実感が喪失した気分だった。



バスセンターと言うからには、周辺に何らかの飲食店などが集まっている市街地を思い浮かべていたのだが、だだっ広い田園地帯の真ん中にポツリと立つ、郊外の車庫に過ぎなかった。
次に乗るバスの発車時刻まで2時間もある。

途方に暮れながら周辺を散策してみたが、眠そうな店員がレジで手持ち無沙汰にしているコンビニが、隣りに1軒建っているだけである。
大阪からの「シルクライナー」が到着したり、池袋行きの関越高速バスが発車していったり、車庫としては早起きなのだが、乗降客は1人もなく、運転手が、こんなところで何をしておるのか、といった訝しげな表情で僕を眺めていく。

 


次に乗る新潟行き高速バスの始発地だから、ここで降りたのだけれど、「仙台ライナー」で高崎駅まで乗り続けていれば、喫茶店でモーニングくらいにはありつけただろうと、単なる車庫にバスセンターなどと大仰な名称をつけた日本中央バスが恨めしい。


青々とした田園に、朝の陽の光が容赦なくぎらぎらと照りつけている。
生い茂る稲を揺らして、気持ちのいい朝風が吹き渡っていく。
この日も暑くなりそうだった。

時間は有り余っているから、様々な思いを巡らせるより他にする事はなく、この地が日本の中央なのか、と改めて周囲を見回してみる。



色々な理由を挙げて、我こそは日本の中央、もしくは日本の臍であると名乗っている地方自治体は多く、平成9年には「全国へそのまち協議会」なる組織までが発足しているという。

昭和57年に、兵庫県西脇市が、日本最東端と最西端の中間である東経135度と最北端と最南端の中間である北緯35度が交差する土地として日本の中央を標榜したのが、事の始まりのようである。

平成11年に日本列島の中心を名乗ったのは、栃木県田沼町で、「どまんなか宣言」を出している。
日本本土最北端の宗谷岬と本土最南端佐多岬の中間点を、更に、太平洋と日本海の中間地点となるよう条件を設定したのだと言うが、わかりにくい定義である。

千葉県銚子市が、同市を中心に円を描くと日本列島がすっぽり収まるという理由から、日本の中心を主張したという方が、すっきりしている。

肝心の群馬県であるが、日本の中央を名乗っているのは渋川市で、蝦夷征伐に出陣した坂上田村麻呂が、群馬が日本の中心だと言ったという伝説を根拠としているようである。
他の町に比べて根拠に乏しいような気もするのだが、群馬県のHPには、『本県は、日本列島のほぼ中央にあり、「日本の真ん中群馬県」として知られている。本県中心部の渋川市には、坂上田村麻呂が東征の帰途に「日本の臍石」と定めたと伝えられる「臍石」がある』と書かれている。

 


坂上田村麻呂の絡みで言うならば、青森県東北村に、蝦夷遠征の際に大きな岩に弓の先で「日本中央」と彫ったという伝承がある。

12世紀の「袖中抄」に、

「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」

とある。
平安時代には「つぼのいしぶみ」の所在が不明になっていたようで、寂蓮法師、西行法師、慈円法師、源頼朝、和泉式部、岩倉具視、大町桂月といった多くの歌人が、「遠くにあること」「どこにあるか分からない」といった意味の歌枕として詠っている。
宮城県多賀城にある碑が「つぼのいしぶみ」であるとする説もあるらしいが、青森県東北町の坪という集落にある千曳神社には、1000 人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとする伝説が伝わっている。
どうして埋めてしまったのかと不思議でならないのだが、明治天皇が東北地方を巡幸した明治9年に、神社の地下を発掘するように命令が下され、神社の周囲をすっかり掘り返したものの、石碑を見つけることはできなかった。
昭和24年、東北町の千曳集落の住民が、谷底に落ちていた巨石を大人数でひっくり返してみると、地中に埋まっていた面に「日本中央」と彫られていたのである。

本州最北端の青森県を「日本中央」としたことは、千島列島を考慮すれば解決するとした解釈があり、また、「日本」という言葉を蝦夷地に使っていた例もあることから、蝦夷地の中央として「日本中央」と呼んだいう説もある。
歴史上では、津軽の安藤氏が日之本将軍を自称し、天皇に認められていたという事例や、豊臣秀吉の手紙で奥州を「日本」と表現した例がある。
いずれも、読みは「ひのもと」である。
当時の日本の国号は「倭」や「大和」であり、蝦夷地を「日本」または「日ノ本」と呼んだ訳で、関東以西からの視点ならば、当時の東北地方は「日出ずる国」だったのである。

坂上田村麻呂は所構わず日本の中央を定めて回っている感があり、「日本」の定義も異なっている可能性があるため、渋川市の主張は若干怪しくなってしまうのだが、宗谷岬と佐多岬を結ぶ直線を直径とする円の中心である、という別の根拠もきちんと提示されている。
加えて、「日本中央バス」とボディに大書された群馬ナンバーのバスが全国を走り回っているのだから、群馬県のアピールの度合いは日本一かもしれない。



小学生の頃、家族で京都を旅行した際に、タクシーの運転手から、

「坊や、日本の中心ってどこだと思う?」

と聞かれ、

「ええっと、長野県かなあ」

と、精一杯の郷土愛を発揮して答えたところ、

「違う!」

と強く否定されて、シュンとなってしまったことがある。
その運転手の説は、日本の標準時子午線、東経135度線の通る明石市であると言うのだ。
日本の中心と標準時とは定義が違うのではないかと子供心に反発したくなったことを覚えているが、ならば、我が故郷信州はどうなのかと言えば、本州を平面とした時に重心となるポイントとして、平成16年に、ある測量会社が長野市近郊の上水内郡小川村を指定したことがある。

また、長野県佐久市の田口峠が、静岡県富士市田子の浦の海岸まで11万4853m、新潟県上越市直江津の海岸まで11万4854m、神奈川県小田原市国府津の海岸まで11万4862m、新潟県糸魚川市梶屋敷の海岸まで11万4861mと、日本で最も海岸から遠い土地として名乗りを上げている。

お固い話をするならば、国土地理院が公表している「日本の重心(質量中心)」という概念があり、日本海の真っ只中の東経137度42分33秒・北緯37度31分03秒が挙げられ、最も近い陸地である能登半島最北端の禄剛崎に碑が建てられている。

その他にも、5年に1度実施される国勢調査に基づく日本の人口の重心地点として、平成7年には岐阜県郡上市、平成12年と17年には同県関市が挙げられたり、国が人口の重心を定めることに何の意味があるのかさっぱりわからないけれども、日本の中央という概念は、本当に奥が深いものだと思い知らされる。



日本の中央にいるのだと自分に言い聞かせながらも、やっぱり退屈極まりない2時間足らずを過ごし、ようやく、7時50分発の新潟行き高速バスが姿を現したときには、嬉しかった。
前橋バスセンターから乗車したのは僕だけだったが、8時15分発の高崎バスセンターと8時20分発の高崎駅から、数人の若い女性客が賑やかにお喋りをしながら乗ってきて、何となく華やいだ雰囲気になった。


平成17年に開業したばかりの、現時点では日本中央バスで最も新しい路線である。
このバスは前橋市街地には寄らず、真っ直ぐ高崎へ向かうから、前橋から利用しようとする人には、使い勝手が悪いのではないだろうか。
当初は新潟交通との共同運行であったが、平成25年に同社が共同運行から手を引き、単独運行となっている。
日本中央バスの路線は単独運行ばかりで、「関越高速バス」池袋-高崎・前橋線からは平成17年に西武バスが撤退、「仙台ライナー」も当初は宮城交通が「SGライナー」の愛称で共同運行していたが、同じく平成17年に運行を取りやめている。

それだけ路線環境が厳しいということなのであろうか。



日本中央バスの会社名のルーツとも言うべき渋川を過ぎると、バスは国境に向けての長い登り坂に差し掛かる。

渋川市内にある白井城は、関東管領上杉氏と公方足利氏が争った享徳の乱以来、上野の国の中心となった地である。
足利氏は上杉氏に敗れて茨城県の古河に入り、古河公方を名乗ることになる。
鎌倉時代末期から南北朝、室町時代に至る時代は、各地で群雄割拠、戦乱が相次いで複雑であり、日本史が好きだった僕も、断片的な知識しか持ち合わせていない。
足利市をはじめ、群馬県にはこの時代の名所旧跡が少なくない。
古河公方と言えば、教科書に僅かながら触れられていた記憶もあり、ああ、そういう経緯だったのかと確認することも、旅の醍醐味である。


それにしても、あれだけ勉強に悩んだ室町時代の坂東の歴史が、旅の途上ならば、すんなりと頭に入って来るのは、どうしたことであろうか。



群馬県のHPに「本県中心部」と記載されているが、渋川まで来れば、だいぶ北まで来ている感覚になる。

関越道は切り通しの部分も多く、実際には傾斜地をうまく利用して高度を稼いでいるのであろうが、時折渡る橋梁からは、蛇行する利根川に沿った田畑や集落が目もくらむような下方に遠ざかっているのが見えるから、途轍もなく巨大な高架橋で三国山脈に登っていくような錯覚を覚えてしまう。
万が一、側壁を破って転落すれば、いったい何メートルを落下することになるのかと想像するだけで、背筋が寒くなる。

もちろん、バスの走りっぷりにそのような気配は全くなく、運転手のハンドルさばきは見事に安定している。


正面に、上越の国界に立ちはだかる三国山脈の峰々が顔を覗かせる。
平均2000m内外の三国山脈は、冬ともなれば、日本海から吹きつける湿った空気を屛風のように遮り、山を越える風から雪をことごとく落として越後の国を有数の大豪雪地帯とし、上州には空っ風となって吹き下ろす。
今では関越トンネルで簡単に通り抜けられるけれども、山1つを隔てただけで生じる顕著な気象の差は、不思議としか言いようがない。

関東平野の区間を冗長に感じる池袋発の「関越高速バス」と異なり、前橋発のバスでは、いつも楽しみにしている関越国境まであっけなく来てしまったように感じる。

車窓のメリハリを楽しむためには、平凡な区間も大切なのだと思う。

このバスの新潟万代シティバスセンター到着は、前橋バスセンターからちょうど4時間後の11時52分の予定である。

仙台から埼玉と群馬を走破して新潟に至る珍しい本州横断ルートを体験する旅も、関越トンネルを過ぎ、越後川口で信濃川の流域に入れば、残すところ2時間あまりだった。


 

 

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