第1章 昭和50年 特急「白山」食堂車のコーヒー | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:特急「白山」、特急「はくたか」、急行「妙高」】



僕が小学校高学年になると、年に1~2回ほど、父が金沢に連れて行ってくれるようになった。
実家のある長野から金沢へ、週末の1泊旅行のことが多かった。
父が金沢の大学と大学院を出ていたから、恩師や同窓生に会いに行ったのか、はたまた勉強会や研究会だったのだろうか。
僕や弟を、生まれた土地に連れていく意味合いもあったのかもしれない。

車で行ったこともあったけれど、小学4年生で突如として鉄道趣味に目覚めていた僕が楽しみにしていたのは、何と言っても、鉄道で行く場合だった。
当時は、ぴったり都合のいい列車が存在した。
特急「白山」である。

石川県の名山の名を冠し、上野から長野経由で金沢まで走り抜く長距離特急電車だった。
 

 

上越と北陸新幹線が開業する前に、上野駅と金沢駅を結んでいた在来線の特急列車は、長野経由の「白山」と、長岡経由の「はくたか」の2つだった。
歴史があるのは「白山」の方で、昭和29年に上野と金沢の間の急行列車として登場している。
その頃は、機関車に牽かれた客車急行であった。
昭和47年に、489系車両を投入した特急列車に昇格し、平成9年10月の長野新幹線開業まで、43年間に渡って、首都圏と北陸を結んで走り続けた。

「白山」との付き合いは古く、父が金沢にいる間に母と結婚し、僕と弟が生まれてから長野に引っ越した昭和43年に、急行時代の「白山」を利用したようである。
記憶には全く残っていないのだが、古びた客車の4人向かい合わせのボックス席で撮影した、家族の白黒写真が、実家に残っている。

 

 

一方の「はくたか」は、奇しくも僕と同い年である。
その起源は、大阪-金沢-直江津-長野-上野と大阪-金沢-直江津-青森の2区間を走るディーゼル特急「白鳥」が、大阪と直江津の間で併結して運転されていた時代に遡る。
当時は需要に比して車両が不足していたために、全国で、このように大胆な分割・併合運転が行われていたと聞く。
昭和40年10月、金沢-直江津-長野-上野間が独立した系統になった時に、「はくたか」と命名された。
「はくたか」が長野を経由していた時代があっということなのか。
列車名の由来は、立山の開山にまつわる白鷹伝説だという。

昭和44年に「はくたか」は電車特急となったが、碓氷峠を越えられない車両であったため、金沢から長岡を経由して上野に向かう上越線回りに変更された。
上越新幹線が開業した昭和57年にいったん廃止されたものの、北越急行線が開業した平成9年3月に、越後湯沢と金沢を結ぶ新幹線接続特急として、「はくたか」の名が復活した。

 

 

「白山」に次いで、栄えある伝統列車の「はくたか」であるけれど、上野直通時代に僕が乗ったのは1度だけだった。
家族で金沢へ出かけた時、「白山」の座席が取れなかったのか、時間が合わなかったのか、長野から急行「妙高」で直江津に出て、下り「はくたか」に乗り換えたのである。

上野から金沢への所要時間は、「はくたか」より「白山」の方が長かった。

「はくたか」の走行距離は520.9km、469.5kmの「白山」の方が50kmも短いが、碓氷峠や信越国境の山岳地帯がネックだったのだろう。



その代わり、1日1往復だった「はくたか」に比べて、「白山」は昭和50年代初頭に3往復が走っていて、手元に残っている昭和52年の時刻表に寄れば、上野発9時34分の1号、11時34分の2号、そして14時34分の3号がある。
上りは1号が金沢発7時07分、2号が10時11分、3号が13時10分だった。
僕ら家族は、父が仕事を終えてから、長野を17時39分に発って金沢に21時10分に着く「白山」3号に乗るのが常だった。
 

昭和50年の時刻表を開けば、上野を14時34分に発車した「白山」3号・列車番号3007Mは、

大宮14時56分
高崎15時44分
横川16時14分
軽井沢16時34分
上田17時08分
長野17時39分
妙高高原18時17分
直江津18時57分
糸魚川19時25分
魚津20時04分
富山20時25分
高岡20時39分

と12駅に停車し、終点の金沢に21時10分に到着したことが分かる。



6時間36分もの長旅であるが、停車駅が他の特急に比べて絞られているのは、長距離を走る特別急行列車の貫禄と言えるだろう。
上野-長野間を走る特急「あさま」が停まる中軽井沢や小諸、戸倉には停まらなかったのかと驚いてしまう。
後には、中軽井沢、小諸、戸倉どころか、高田、滑川、黒部、石動、津幡など、急行列車なみに停車駅が増えたのだが、「白山」の格が下がったような気がしたものだった。

当時は上りも下りも、発車順に1号、2号……と番号を振っていて、今のように号数を上り下りで偶数、奇数に分けてはいなかった。
流行歌の歌詞にもなった「8時ちょうどのあずさ2号」が、新宿から下り列車として発車していた時代である。


ちなみに、上越線経由の特急「はくたか」は、上野を8時30分に発車して、高崎、長岡、柏崎、直江津、糸魚川、魚津、富山、高岡に停車し、金沢に14時50分に到着する。
大回りにも関わらず、所要6時間20分という韋駄天ぶりだった。
大宮を通過していたと知った時は、驚いたものだった。
後に大宮にも停車するようになったが、俊足を誇った時代の「はくたか」に乗りたかったと思う。

それでも、僕は、上越線経由の「はくたか」より長野回りの「白山」を、松本発着の「あずさ」より長野発着の「あさま」を熱烈に贔屓する、無邪気な郷土愛に溢れた鉄道ファンの子供だった。
時刻表を開いて「白山」の全行程をたどるには、上野-高崎-新潟間の高崎・上越線、高崎-直江津間の信越本線、新潟-直江津-富山間の信越・北陸本線、富山-金沢-大阪間の北陸・湖西線と、4つのページに分割されているのが煩わしかったし、長野駅のある信越本線が、松本へ向かう中央東線や新潟を行き来する上越線より後ろのページに配置されているのも悔しかった。

「はくたか」も3ページに分かれており、東京から金沢に向かうのは大ごとなのだな、と幼心に感じたものだった。
 

僕ら家族を乗せた「白山」3号が長野駅を後にする頃、既に日は大きく西に傾いていた。
冬であれば、車窓は真っ暗だった。

北長野、三才と長野市内の駅を通過するうちに市街地は尽きる。
ぎっしりと繁るリンゴ畑の合間を抜けて、豊野駅で飯山線を分岐すると、信越本線は黄昏の善光寺平に別れを告げ、信越国境の奥深い山岳地帯に向かって高度を上げていく。
右手を流れる鳥居川の谷を挟んで平行する、国道18号線を行き交う車も、ヘッドライトを点け始めている。
牟礼駅の付近で線路はいつの間にか単線になり、左からは、そそりたつ山肌が窓の間近に迫る。
線路はうねうねと曲がりくねって、「白山」は速度を全く上げられない。

日が長い季節でも、県境の黒姫駅から妙高高原駅まで来れば、とっぷりと日が暮れて、寂しげな沿線風景も闇の中に溶けるように消えていく。
妙高高原では、乗客がどっと腰を上げるので、車内も閑散とする。
幾つもあいている座席を目にすると、真っ暗な車窓と相まって、何となく心細くなったのを覚えている。
 

その頃から、僕や弟はソワソワし始める。

上野と金沢を長時間かけて結ぶ「白山」には、当時、食堂車が連結されていた。
長野を発着する列車の中で、食堂車が連結されているのは「白山」だけだった。
特急「あさま」は、昭和41年に181系車両で登場した時に、碓氷峠を越えるために編成が8両に制限されたため、食堂車が連結されない唯一の特急であった。
特急「白山」に投入された489系車両は、碓氷峠で動力を補助機関車と協調できる機能を備え、12両編成が可能となった。
ところが、間合い運用で489系が「あさま」に使われても食堂車は営業せず、後に碓氷峠での協調運転が可能な189系車両になっても、食堂車は連結されなかったのである。
故郷で唯一食堂車を繋いだ列車である、というだけで、僕にとって「白山」は特別な存在感があった。

まずは、母と弟が席を立つ。
荷物番をするためにも、4人家族揃って食堂車へ、という訳にはいかなかった。
母と弟は、長野を出て1時間あまりで着く直江津までに帰ってきた。

「白山」は信越本線と北陸本線が接続する直江津駅で5分停車し、進行方向を変える。
車内で乗客がざわざわと立ち上がって、ガタンバタンと座席の向きを変え始めるが、最初から4人向かい合わせにしている僕らは動かない。
後ろの座席の回転に邪魔にならないよう、倒していた背もたれを戻したり、気は使ったものだった。

直江津を出て、山間を縫う信越本線より線形が良い北陸本線に入ると、「白山」は別人のように元気になって、するすると滑らかに速度を上げていく。
今度は、父と僕が食堂車へ向かう番である。
金沢へ行く時だけ、父はグリーン車を奢ってくれた。
学生時代を過ごした街に、錦を飾りたかったのかもしれない。
グリーン車と食堂車は、ともに編成の中ほどで近かった。

「白山」の食堂車がそれほど混んでいた記憶はない。
いつも、4人がけのテーブルに父と2人で座ることができた。


食堂車で何を食べたのか、実は、とんと記憶がない。

昭和50年前後の食堂車メニューを、当時の時刻表から抜粋してみると、以下の通りである。

朝定食(洋)350円
朝定食(和)300円
特別ビーフステーキ定食1200円
ビーフステーキ定食800円
ビーフシチュー定食500円
グリルチキン定食400円
プルニエ定食450円
カツレツ定食350円
ランチ350円
幕の内(吸物付)300円
うなぎご飯(吸物付)500円
カレーライス180円
チキンライス180円
スープ150円
海老フライ380円
ハムオムレツ150円
ベーコン・ハムエッグス150円
サーロインステーキ500円
ハンバーグステーキ280円
ポークカツレツ250円
ビーフカツレツ350円
ハムサラダ240円
コンビネーションサラダ200円
スパゲッティ200円
ハムサンドウィッチ180円
ミックスサンドウィッチ220円
郷土料理品(季節)150~300円
中華一品料理150~300円
ご飯50円
パン・トースト(バター付)50円
チーズ(クラッカー付)70円
チップポテト100円
ビール(大)200円
ビール(小)120円
黒ビール(小)130円
ギネススタウト240円
清酒(特級180ml)200円

懐かしい。
しかも、値段が時代を感じさせる。

こうして羅列しても、何を食べたのか、さっぱり思い出せないけれど、揺れるテーブルで平たい皿に盛られたコーンスープがこぼれないか心配した記憶がかすかに残っているから、洋風の定食だったのかもしれない。
父は全く酒を嗜まなかったので、おつまみ系は頼まなかったはずであり、それほど長居もしなかったと思う。


「白山」の食堂車は、僕がおねだりして連れていって貰ったのではなく、食事の時間帯に乗車していれば食堂車を使うのが当然、と両親が考えていたふしがある。
駅弁も売っていたし、母が弁当を用意することも出来たのだから、父も母も食堂車を楽しみにしていたのかもしれない。

1度だけ特急「はくたか」に乗り継いだ時、長野と直江津の間で、急行「妙高」のビュッフェに連れて行ってもらったが、これは僕が親にせがんだ覚えがある。
その時に食べた品目は、「白山」の食堂車に増して記憶に残っていない。

当時のビュッフェのメニューを時刻表で振り返ってみれば、

朝定食(和) 300円
朝定食(洋) 300円
ランチ 300円
おにぎり定食(味噌汁つき) 300円
うなぎ御飯(吸い物つき) 450円
幕の内 250円
カレーライス 180円
チキンライス 180円
カツ丼 180円
天丼 180円
ハンバーグステーキ 290円
ハムサラダ 240円
コンビネーションサラダ 230円
ハムサンドウィッチ 180円
ミックスサンドウィッチ 220円
ポークカツレツ 280円
チーズ(クラッカーつき) 70円
御飯 50円
パン・トースト(バターつき) 50円
チップポテト 50円
天ぷらそば 150円
月見そば 100円
ざるそば 80円
もり・かけ 50円
たぬきそば 80円
ビール(大) 220円
ビール(小) 180円
清酒(特級180ml) 220円
清酒(1級180ml) 180円
ウィスキー(特級30ml) 150円
ギネススタウト 250円
コーヒー・紅茶 100円
オレンジジュース 90円
トマトジュース 90円
コーラ 90円
プリン 100円

立食式のビュッフェで、食堂車に匹敵する食事を出していたことに驚かされる。
立ち食い蕎麦屋にあるようなメニューならばまだしも、ポークカツレツを立って食べるという発想は、かなりの違和感がある。

初めてビュッフェを経験するのは嬉しかったけれども、特急「白山」で食堂車を経験していた僕は、窓に平行するカウンターでの立食方式にがっかりして、早々に引き上げた。
食べ物より、列車そのものや車窓の方に関心を向ける、マセた子供だったのだな、と今となっては苦笑するばかりである。

立ち食いであるためか、両親は、まだ幼かった弟を連れて行くのをためらっていたようで、ビュッフェに行きたい、と言い張る弟に、大したことなかったよ、と僕もなだめたものだった。
それでも聞かずに、母に連れられてビュッフェに向かった弟は、案の定、どうして椅子がないの、と愚図ったようで、何も食べず、購入した弁当を持ち帰ってきた。


特急「白山」は、谷浜、能生と、家族や学校で海水浴に行った新潟県西部の浜辺の町を駆け抜け、糸魚川を経て、親不知子不知の難所を、幾つものトンネルで抜けていく。
食堂車の大きな窓は闇に塗り潰されて、明々とした車内で食事をする父と僕の姿を映し出すだけだったが、気配や音でトンネルが断続しているのは分かった。

トンネルに入ると、窓ガラスがグワンと風圧に押されて、鉄の車輪が線路を噛む走行音が、壁に反響して甲高くなる。
コォーッと、もの哀しい風切り音が遠くに聞こえ始める。
一定の間隔で、線状に流れていくトンネルの照明を眺めていると、楽しみにしていた食事中であっても、しん、と沈むような心持ちになった。
 

長野への帰路に利用した上りの「白山」3号は、同じ区間を昼間に走破する。
金沢を13時10分に出て、長野への到着は16時45分だった。

親不知に差し掛かれば、出でてはくぐるトンネルと、真っ青な日本海の対象が際立ち、次々と入れ替わる車窓が楽しみだった。
落石防止や防雪設備なのか、トンネルの合間に海側に設けられている仕切り板が、一定間隔で格子のように貼られて、高速で疾走する特急列車の車窓から眺めると、コマ送りの映画のように見える区間があったことが、今でも印象深く思い起こされる。

帰りに食堂車へ連れて行かれた記憶はないけれど、お土産に買った富山名産の「鱒寿司」を夕食で食べると決まっていたから、その方が格段に楽しみだった。
上り「白山」の車窓が、往路と比較にならないくらいに明るく陽気だったのは、救いだったのかもしれない。
さもなければ、楽しかった旅の終わりと合わせて、気持ちが落ち込むばかりだっただろう。

行きは、ひたすら続く深い闇を見つめながら、帰りの鮮やかな車窓風景を瞼の裏に想像するだけという、夜汽車と変わらぬ道行きだった。
 

初めて「白山」の食堂車で食事をした時、食後にコーヒーが出された。
僕が頼んだのか、それとも父だったのか。
定食では、コーヒーしか選択肢がなかったような気もする。

父は、仕事中も欠かさないほどのコーヒー党だった。
普通のインスタントでありながら、どす黒く濃いコーヒーを、自分で入れて飲んでいた。

当時の僕は10歳である。
あの時、生まれて初めて飲んだコーヒーの味は、今でもはっきりと覚えている。
唯一記憶に残っている、明瞭なメニューの記憶である。
気が狂いそうになるくらいに、不味かったのだ。


今の僕は、父に負けないコーヒー愛好家だけれども、「白山」の食堂車のコーヒーは、どのようなコーヒーと比べても、最も不味い部類に入ったと思う。
座席に戻ってから、頭が痛くなったくらいだった。
顔色がすぐれない僕を見た母が、子供にコーヒーを飲ませたの、と父をにらんだ覚えがある。
それがトラウマになって、僕は大学を卒業するまで、コーヒーが苦手になった。
僕がコーヒーを初体験したのは、特急「白山」の食堂車だったのだ。

今でも、コーヒーを飲むと、40年前に体験した特急「白山」の食堂車のコーヒーの味と、暗くトンネルが断続した北陸本線の夜を、ほろ苦く、それでいて無性に懐かしく思い出すことがある。


「白山」の食堂車は、在来線の日中の特急電車では、1番最後まで残っていたことで知られているが、昭和60年に廃止された。

社会人になって、上野から金沢まで「白山」を乗り通したことがあったが、その時は、既に食堂車が連結されていなかった。
僕が進学のために上京した直後に、父は急逝していたので、昔と変わらぬ車窓を眺めながら、父と過ごした食堂車の思い出に浸る6時間の車中だった
 
「白山」そのものも、平成9年10月の長野新幹線開業と同時に姿を消した。


平成27年に開業した北陸新幹線開業に「はくたか」の愛称が復活したけれども、「白山」は復活しなかった。
長野を経由するのだから、「白山」の方が似合っているじゃないか、と思うのは、僕の感傷に過ぎないのだろう。
東京と金沢を所要2時間半足らずで結ぶ韋駄天ぶりには驚くしかないが、食堂車は、当然の如く連結されていない。
 

今では、東京と金沢を結ぶ高速バスが、「白山」と似たような所要時間で、上信越自動車道を経由しながら北陸自動車道へ抜けていくが、長野には停まってくれない。
開業した時には、無料のインスタントコーヒーやティーパックのサービスがあったけれども、現在はそれすら消えている。

今となっては、列車でも高速バスでも、移りゆく車窓をゆったりと眺めながら、食事を楽しめた時代を経験できたことが幸せだった、と思うのみである。
 
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