第6章 昭和63年 夜行快速「ムーンライト」と佐渡汽船、新潟交通線の気まぐれ紀行 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

 

【主な乗り物:夜行快速「ムーンライト」、佐渡汽船「おおさど丸」、新潟交通バス両津-相川線、新潟交通電車線、JR弥彦線】
 
 
北陸に向かう列車に、新宿駅で乗る──
 
昭和60年代までは、思いも寄らなかった旅の形であった。
今回の旅物語は、雨こそ降っていなかったものの、梅雨の真っ只中である昭和63年6月の週末の夜更けに始まる。
日中は甲府・松本・白馬方面の特急「あずさ」が出入りする新宿駅の長距離用ホーム5番線には、紛れもなく、「新潟・村上」と行先標示を掲げた165系急行用電車が鎮座していた。
 
 
時計の針は午後11時になろうとしていたが、西側の中央・総武線各駅停車や山手線、中央線快速電車のホームは、こぼれんばかりの人々がひしめいている。

このホームに165系電車が入線するのは、昭和61年に「アルプス」「こまがね」「かいじ」「みのぶ」といった中央東線の急行列車が一斉に廃止されて以来ではなかったか。
その翌年に、新宿と新潟・村上を結ぶ夜行快速列車「ムーンライト」が誕生したのだから、新宿駅から定期運転の165系が消えたのは、たかだか1年程度に過ぎないけれども、僕が中央東線で最後に利用した急行「こまがね」に乗車したのが昭和58年だったので、随分と御無沙汰に感じる。
 
急行「こまがね」は昔ながらの緑と橙のツートンカラー、いわゆる国鉄色だったが、目の前の165系は明るい塗装に化粧直しをされていて、とても同じ形式には見えない。
 
 
現在でこそ、「湘南新宿ライン」で東北本線・高崎線・東海道本線・高崎線・横須賀線など、四方に直通列車が発車している新宿駅であるが、当時の長距離列車は、中央東線だけであった。
どうして高崎線・上越線を走って新潟に向かう列車を新宿発着にしたのだろう、今まで通り上野駅発着で何か不都合でもあるのか、と首を傾げたものだった。
 
当時、東京を起終点とする長距離列車は、東京駅が東海道本線、横須賀線、総武本線、上野駅が東北本線、常磐線、高崎・上越・信越本線、そして新宿駅が中央本線と棲み分けられていた。
東海道新幹線の上り列車で東京駅に近づくと、車掌の乗換案内では、
 
「東北・上越・信越・常磐線方面へは、3番線・4番線の電車(山手線・京浜東北線)で上野駅までお越し下さい」
 
などと付け加えられていたものである。
 
 
不便なようでありながら、ニューヨークやロンドンなど、諸外国のターミナル駅も、行先によって別の駅に分けられている例は少なくない。
 
平成3年に東北・上越新幹線が東京駅に乗り入れ、その後に開通した長野・北陸・山形・秋田・北海道新幹線も、当然の如く東京駅を発着し、常磐線の特急電車すら「上野東京ライン」で東京駅に姿を見せるのだから、気づけば、東京駅から何処にも行けるようになっていた。
唯一の例外は中央東線で、特急「あずさ」や「かいじ」で東京駅に乗り入れる列車は限られており、大半が新宿駅を起終点にしている。
だから中央東線が不便なのか、と言えばそうでもなく、逆に、行先別に駅が分けられていた時代に秩序を感じるのは、僕の頭が保守的な証しであろう。
 
 
夜行快速「ムーンライト」の登場は、昭和60年に開業して人気を博した「関越高速バス」池袋-新潟線に触発されたと耳にしたことがある。
昭和61年6月に、「ムーンライト」の愛称を冠した団体専用快速列車を、EF64形電気機関車と14系座席客車3両で運転すると、1日平均200人近い利用客が詰めかけた。
 
翌年に分割民営化を控えた国鉄にとって、思わぬヒット商品になった訳で、同年の10月と11月にも運転され、昭和62年9月から週末・多客期に運転する新宿-新潟・村上間の臨時快速列車となり、昭和63年3月に定期列車となった。
全席をグリーン車用の座席に交換して、前後間隔を広げた破格の改装が施された165系専用編成を投入したのも、高速バスに対抗したのだろう。


 
僕は、開業直後の「関越高速バス」池袋-新潟線に乗車したことがある。
同線には昼行便と夜行便があり、僕は車窓が楽しめる昼行便ばかりを利用したので、夜行便は未経験だったが、共通運用されている車両の内装はよく知っていた。
 
横4列席でありながら、通路側のシートが左右にずらせるため、それほど隣席の相客を気にすることもなく、定員が32名と他の横4列席を備えた高速バスより少ないので、前後の間隔も余裕があった。
ただ、当時から横3列席が標準となっていた夜行高速バスとして使うには、若干手狭かな、と感じたので、果たして鉄道版新潟夜行の乗り心地は如何に、と期待半分、不安半分の心持ちで乗り込んだ。
 
 
腰を落ち着けてみれば、さすがにグリーン車の転用だけあって、座り心地は申し分なく、座席もバスより大柄である。
リクライニングの角度も深いし、足置きが前席の下部にくっついているのも、グリーン車と変わりはない。
これほど豪華な列車に、普通運賃プラス500円の座席指定券だけで乗れるのは、まさに贅沢の一語に尽き、人気が高いのも頷ける。
 
ただ、後付けのためなのか、もともと列車の座席とはそのようなものなのか、足置き台に体重を掛けると、前の席全体が揺れてしまう。
後に「ムーンライト」を再利用した際に、同行の友人が足置き台を揺さぶり過ぎて、前席の客に睨まれたことがあったが、最初は何を叱られたのか、きょとんとしたものだった。
高速バスの座席は、もっとしっかり固定されている。
 
 
「ムーンライト」の発車は、23時ちょうどである。
 
新宿駅で大半の座席を埋めた列車は、僕が座席回りをあれこれ吟味しているうちに、するすると動き始めた。
165系電車の走り出しは軽快で、外で鈴なりになっている人々の顔が溶けるように判別がつかなくなり、ホームの眩い照明が、新宿大ガード周辺のけばけばしいネオンに代わる。
ああ、日常を飛び出したな、と思う瞬間である。
 
国電で昼夜見慣れた景観でありながら、夜行列車に身を任せれば、独特の旅情が心に湧き上がってくる。
目的地に何の用事も抱えていないのに、僕はいったい何をやっておるのか、と虚しさに戸惑うこともあるけれど、それも瞬時のことで、夜の旅に出る喜びが心を支配するのは、幸せと言うべきか。
僕は夜行が大好きなのだな、と苦笑いが浮かんでくる。
 
 
「ムーンライト」が、新宿駅からどのような経路で高崎線に乗り入れるのか、鉄道ファンとしては興味津々だった。
山手線で池袋駅まで行き、赤羽線で東北本線赤羽駅に抜けるのが、最短経路として思い浮かぶが、深夜帯とは言え、頻繁に電車が行き交う山手線の線路に他の列車が乗り入れるのは難しいようで、「ムーンライト」は、山手線と平行する山手貨物線を走る。
 
貨物線だから駅など設置されておらず、飛ばそうと思えば飛ばせるのだろうが、「ムーンライト」は速度を上げようとしない。
夜は長いのだから、のんびり行きましょうや、と言わんばかりの泰然とした走りっぷりで、新大久保、高田馬場、目白といった山手線の駅の照明も、ゆっくりと左手の窓外を流れていく。
 
気になるのは列車の揺れで、大した速度でないにも関わらず、ハッとするような縦揺れに突き上げられたり、横揺れで脱線するのではないか、と思うほど揺さぶられる。
貨物線だから、保線作業が乗り心地を考慮していないのかな、などと邪推するのも、日常から掛け離れた体験と言えるだろう。

 
それでも、途中停車がないので、23時06分発の池袋駅に着いたのは、山手線より早く感じた。
 
さて赤羽線か、と身を乗り出したが、夜であるし、池袋より先に行くことなど滅多にないので、街の灯を眺めているだけでは、何処を走っているのか判然としない。
やがて田端駅のホームが見えたので、そのまま山手貨物線をぐるりと回り続けて、東北貨物線で大宮に向かうようである。
 
東京ばかりでなく、名古屋、大阪などの大都市には国鉄時代から専用の貨物線が多く、横須賀線が使う品鶴線や、通勤電車が京葉線と直通する武蔵野線など、旅客電車が乗り入れる例も少なくないが、山手貨物線や東北貨物線を利用する定期旅客列車は「ムーンライト」が初めてではないだろうか。
東北貨物線も、上野駅からの東北本線や京浜東北線と並走しているのだろうが、窓外が闇に塗り潰されている夜行列車で、経路を判定するのは難しい。
 
23時23分発の赤羽駅に停車し、大宮駅に着いたのは23時39分で、上野駅からの普通電車より10分以上も余計に費やしたが、色々と珍しい経験をさせていただきました、という気分だった。
10年以上先の平成13年に、同じ経路で「湘南新宿ライン」が運転を開始することになろうとは、その時は思いも寄らなかった。
 
 
高崎線に入れば、「ムーンライト」も本腰を入れて速度を上げ、0時55分着の高崎まで無停車と、特急並みの俊足を見せてくれる。
次の停車駅は早暁4時13分着の長岡であるから、新潟県下越地方向けに特化した運転形態である。
 
この夜、「ムーンライト」の車中でよく眠れた、という記憶はない。
座席の座り心地は悪くないものの、最大の原因は、客室の照明の減光が中途半端だったためであろう。
いつまで経っても煌々と車内灯が灯されたままで、背もたれを倒せば顔が上向くから、なおさら光が瞼を射るという意地悪な仕組みである。
防犯上の理由なのか、夜行列車の照明はどれも似たり寄ったりなのだが、鼻先をつままれても分からないほど徹底して消灯する夜行高速バスを経験した者としては、どうしても物足りない。
 
アイマスクを付ければ少しはマシかもしれないけれども、余計なモノを顔にくっつけて熟睡できるのかどうか、経験がないので分からない。
 
 
長い夜を持て余しながら、寝息を立てている周りの乗客を見回して、よく眠れるものだ、と感心したり、14分停車の高崎駅でホームに降り、透き通るような星空を見上げながら深呼吸をしたり、とにかく手持ち無沙汰の一夜だった。
 
ふと目を覚まして、列車が轟々と走行音を響かせながら長いトンネルをくぐっている気配に、関越国境の清水トンネルまで来ているのかな、などと思った覚えがあるので、上越線で少しは寝たのだろう。
長岡、見附、東三条、加茂、新津と、早朝に停車した駅の様相も、忘却の彼方である。
 
 
比較的はっきりしているのは、5時12分に到着した新潟駅で、覚束ない足取りでホームに降り、爽やかな朝風に吹かれながら、もぬけの殻になった車内を呆然と覗き込んでいたことである。
 
6時18分に着く村上駅まで乗り通せば、もっと眠れるのに、と思えば後ろ髪を引かれるが、乗車券は新潟駅までしか購入していないので、やむを得ない。
 
 
快速「ムーンライト」に乗るために出掛けて来たのだから、日曜日の早朝でありながら、することが何もなくなってしまったのだが、ふと、1つの企みを思いついた。
僕は、新潟駅万代口の路線バス乗り場に歩を運び、「佐渡汽船」と行先表示を掲げた新潟交通バスに乗り込んだ。
 
新潟県の沖に位置する佐渡ヶ島は総面積855k㎡、我が国では北海道、本州、四国、九州の本土を除けば沖縄本島に次ぐ大きな島である。
当時、沖縄に行ったことはまだなかったけれども、津軽海峡を渡る青函連絡船や、東京と伊豆大島を結ぶ東海汽船で船旅に魅入られていた僕は、佐渡汽船にも乗りたくなった。
 
 
新潟と佐渡を結ぶ越佐航路は、政府が国産初の鉄船である「新潟丸」と「北越丸」を就航させた明治4年に始まる。
最初の民間航路は、明治18年に創立された越佐汽船で、大正2年設立の佐渡商船が、越佐汽船と、大正13年設立の前佐渡汽船を買収して、佐渡汽船が誕生した。

佐渡商船が投入した「第一佐渡丸」は、新潟港と佐渡島の両津港の間を4時間かけて結んでいたと聞くが、現在の佐渡汽船のフェリーは両港を2時間20分で結び、所要1時間のジェットフォイルも就航させている。
船旅を味わうことが目的なのだから、所要時間が短いのは意味がなく、遅くても最初からフェリーを選ぶ心づもりだった。

時刻表を開けば、新潟港を6時05分に出港する格好の便があるではないか。
新潟到着が早いのが恨めしかったけれども、次のフェリーは9時25分出港と3時間も遅いので、「ムーンライト」のおかげで初便に乗ることが出来る。
 
 
新潟港は河口港であるから、信濃川が運んでくる土砂を定期的に浚渫して水深を維持する必要があり、沖合への海洋投棄や埋め立てで処分されているという。
自然が蓄積した土砂を、人間が更に沖合いへ運ぶ手間をかけているのがどことなくユニークで、自然に抗って文明を維持するのは大ごとなのだな、と思う。
 
穏やかな川面越しに目に入るのは、ごちゃごちゃと建ち並ぶビルや倉庫ばかりの味気ない景観であるが、折しも、雲間から太陽が顔を出して、荘厳な雰囲気を醸し出した。
北国だからこそ、陽の光は力強い。
 
 
ターミナルビルで乗船手続きを済ませて岸壁に目を遣れば、桟橋に停泊しているのは、昭和63年に就航したばかりの新造船「おおさど丸」である。
全長131.9m、船幅21.0m、排水量1万1085トン、旅客定員1520名、積載車両数は大型車30台と乗用車50台という堂々たる大型船で、それまで僕が経験した5000トン級の国鉄青函連絡船や3000トンクラスの東海汽船とは、桁違いの巨大さである。
 
それだけの船を用意する需要があるのだろうが、太平洋に比して荒れる印象がある日本海を航海するのだから、これくらいの大きさの方が安心感がある。
 
 
乗船の案内放送が流れ、ボーディングブリッジを渡って船内に足を踏み入れれば、ロビーや売店、客席や桟敷席全ての造りが広々として、照明が眩く、夜行明けの目がようやく覚めたような気分になった。
 
舷側の甲板に出て、潮風に吹かれながら新潟港や周辺の街並みを見回せば、これから2時間半の船旅に出られる嬉しさが込み上げてくる。
遠くに望む朝日山地は、低くたなびく雲との境が判然としないけれども、船内構造といい、眺望といい、他の交通機関では体験できないおおらかさが船旅の魅力である。
 
 
桟橋の作業員の動きがせわしなくなり、銅鑼が鳴って、もやい綱が次々と外されて船に引き上げられると、もたれている手すりの振動が強くなるのが伝わってきた。
「おおさど丸」は、腹に響くような長声一発を轟かせて、悠然と岸壁を離れた。
白い航跡の彼方に、新潟の街並みが遠ざかっていく。
 
船内の桟敷席に戻れば、乗船客はそれほど多くなく、占有面積に余裕がある。
 
 
身体を横たえると、足の先から奈落に吸い込まれるような眠気が襲ってきた。
途中、身体ごと持ち上げられたり、引きずり下ろされるような感触に、おお、揺れているな、さすが日本海だ、と感心したのはかすかに覚えているが、「ムーンライト」の寝不足が祟ったのか、僕がハッと飛び起きたのは、両津港到着の案内放送だった。
せっかくの越佐航路初体験を、僕は、文字通り白川夜舟で過ごしてしまったのである。
 
夜行明けの船旅は青函連絡船で何度も経験したが、青函航路の所要3時間50分は誠に手頃で、居眠りをしても充分な時間が残されていて、手持ち無沙汰なまま船内を散策したり、甲板に出て海原を茫然と眺める時間が醍醐味だった。
新潟-両津間を2時間半で結ぶ佐渡汽船は、どうも俊足に過ぎるようである。
 
 
甲板に出れば、青々とした佐渡の陸地が目前に迫っている。
 
熟睡したので頭はすっきりしているが、後悔しなかったと言えば嘘になる。
佐渡海峡の幅はたかだか30kmあまり、天気が良ければ双方の陸地が見えるというのだから、甲板に出て海を眺めたってたかが知れているさ、と自らを慰めながら佐渡ヶ島に第1歩を印し、相川行きの路線バスに乗り込んだ。
どうして、このバスを選んだのか、とんと覚えていない。
 
 
時刻表巻末の会社線欄を開き、「佐渡への航路・佐渡島内」の項を見れば、両津から佐和田を経由して相川に至る路線バスが、島内交通機関の筆頭として登場し、次いで両津と佐和田を真野新町を経由して結ぶ系統、佐和田から赤泊経由で小木を行き来する系統、両津から岩谷口経由で相川を結ぶ系統、小木と宿根木を結ぶ系統、両津と片野尾を結ぶ系統が掲載されている。
 
両津-佐和田-相川系統は、島内の路線バスを担当する新潟交通が「本線」と命名し、20~50分ごとと運行本数も多い。
同じ区間を結んでいるように見えても、別欄の両津-岩谷口-相川系統は、直通どころか、全線を走り通す便すらなく、両津-鷲崎と相川-岩谷口の区間便だけが記載されて乗り通すことすら叶わず、どうして1つの欄にまとめたのか判然としない。
 
 
佐渡ヶ島はサツマイモを2つくっつけたような形状をしている。
 
北側のサツマイモが大佐渡山地、南側のサツマイモが小佐渡山地と、殆んどが険しい山岳地帯であり、標高1172mの島内最高峰である金北山は大佐渡山地にある。
大佐渡山地の北岸は、山塊が海ぎわに迫る断崖絶壁が50kmに渡って連なり、風光明媚な景勝地として知られている。
鷲崎はその最北端に位置し、岬に設置されている弾埼灯台は、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった。
 
両津と鷲崎を結ぶ系統は、佐渡ヶ島最北端へ向かう路線バスだった。
最果てが大好きな僕としては、知っていれば大いに旅心をそそられたに違いないが、この旅の当時は、時刻表をざっと流し読みしただけで、「喜びも悲しみも幾年月」も未見だったので、鷲崎、岩谷口などといった土地が何処にあるのか、全く知らなかった。
岩谷口は鷲崎から十数キロ北岸を下った位置にあり、相川は更に50㎞も先の大佐渡山地の南端に近く、そもそも両津-鷲崎-岩屋口-相川を結ぶ路線をひとくくりに掲載するのがヘンなのだが、観光シーズンともなれば両津から大佐渡山地を大回りする直通バスが走るのかもしれない。
 
 
2つのサツマイモを繋いでいるのが国中平野で、両津港はその東岸にある。
平成16年の大合併で佐渡ヶ島全体が佐渡市になったが、それまでの両津は、島内唯一の市であった。
 
僕は、佐渡ヶ島の表玄関として両津の地名を知ったのだが、昭和51年から平成28年までという長期連載を誇った漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公・両津勘吉の名の由来となったという、どうでも良い知識も合わせて連想される。
作者の秋本治氏が入院した際に、世話になった女性看護師が佐渡の出身だったそうで、秋本氏はその女性への思い入れから、自作の主人公を「両津」にすると決めていたらしい。
 
両津の地は、江戸時代から漁港として栄え、北の「夷」と、南の「湊」の2つの港(津)が合併して命名されたと文献に記されている。
対する国中平野の西端が佐和田町で、「本線」は平野を縦断し、大佐渡山地の南端で西に山越えして、相川町に至る。
 
 
「本線」が前半に走るのは国道350号線である。
国中平野は穀倉地帯であり、ところどころ低い丘陵が現れる以外は、広大な水田を見渡しながら、思い出したように集落が現れるという車窓だった。
右手の彼方に連なっている嶺々が大佐渡山地であろうか。
ともすれば、信州の盆地を走っているかのような奥深い眺めで、日本海に浮かぶ孤島にいることを忘れがちになる。
 
離島で国道が通じているのは珍しく、他には鹿児島市と南西諸島、沖縄本島を結ぶ国道58号線が思い浮かぶくらいである。
国道58号線は、879.6kmの総延長のうち海上区間が609.5kmにも達する特異な国道であるが、国道350号線も、新潟-両津-小木-直江津を結ぶ全区間195.5kmのうち、新潟-両津間と小木-上越間の計145.5kmが海上区間になっている。
 
昭和42年に佐渡汽船の新潟-両津航路にカーフェリーが就航した頃、島内の道路事情は極めて劣悪であった。
佐渡ヶ島の各自治体は、新潟出身の国会議員である田中角栄氏に、島内の県道を国道に昇格させて整備するよう陳情したが、当時の建設省は、離島内で完結する道路は、道路法における一般国道の指定要件「都道府県庁所在地その他政治上、経済上又は文化上特に重要な都市を連絡する道路」に相当しない、と難色を示す。
田中氏は、新潟と佐渡、直江津の間の航路を区間に含め、新潟市と上越市を結ぶ形にして道路法の要件を満たすよう提案し、昭和49年に国道指定を果たしたのである。
 
 
「本線」のバスが走る現在の国道350号線は、全線舗装されて、乗り心地は極めてよい。
途中でバスを乗り降りする利用客は殆どなく、逆に すれ違う車は多いので、佐渡もすっかり車社会のようである。
快調に距離を稼ぐバスの車内にいれば、「佐渡おけさ」の有名な旋律が思い浮かぶ。
 
ハー佐渡へ(ハ アリャサ)
佐渡へと 草木もなびくヨ(ハ アリャアリャアリャサ)
佐渡は居よいか 住みよいか(ハ アリャサ サッサ)
 
「おけさ」とは、江戸時代に越後国出雲崎にいた船乗り相手の酌婦の名前「お桂さん」が語源との説がある。
「おけさ節」は、地元の甚句の節にのせて歌われていたが、九州・天草の酒盛り唄「ハイヤ節」が船乗りたちによって諸国に広まり、越後では「おけさ節」の歌詞を「ハイヤ節」の節回しで歌うようになったと伝えられている。
越後の花柳界では「新潟おけさ」「寺泊おけさ」「出雲崎おけさ」「三条おけさ」「柏崎おけさ」など多種多様の「おけさ節」に発展し、その代表作として歌い継がれているのが、佐渡金山の鉱夫たちが歌った「佐渡おけさ」なのだと言う。

この旅の年、昭和63年に開業した大阪と新潟を結ぶ夜行高速バスの愛称は、ずばり「おけさ」号であるが、バス事業者の担当者が、「佐渡おけさ」からとったのか、それとも「お桂さん」を想起したのか、などと考えるのは楽しい。

 
車内に漏れ伝わるエンジン音を良いことに、小声で「佐渡おけさ」を口ずさんでみれば、日本各地に数ある民謡は、どれもテンポが路線バスにぴったりだと感じる。
航空機や新幹線に乗りながら民謡を連想したことはないし、高速バスならば合わないこともないような気もするけれど、田舎道を走る路線バスほどではあるまい。
 
民謡が合うのは良いけれども、走りが坦々とし過ぎて、眠気を誘う。
このように平坦な道路の整備が、地元自治体の財力だけで出来なかったのか、と首を傾げてしまうが、ちょうど、佐渡ヶ島の国道問題と同時期に当たる昭和47年から同48年に総理大臣を務め、汚職事件で退任した後も与党内に強い影響力を誇示した田中角栄氏については、複雑な感情を抱かざるを得ない。
国の投資額の歴然とした差を目の当たりにして育ってきた、隣県の出身者としては、尚更である。
金権政治家としての田中氏の一面は言語道断だが、新潟県に足を踏み入れれば、冬季に厳しい自然に晒される同県に田中氏が残した業績や、地元の人々が口にする感謝の言葉が少なからず聞かれるのも事実である。
 
 
「本線」のバスは、およそ40分ほどで国中平野を縦断した。
 
左手に小佐渡山地の稜線が見え始め、佐和田の停留所の案内が流れる頃に、僕はもう1度時刻表を開いた。
このまま終点の相川に行っても、特に何をするという心づもりがある訳ではない。
それよりも、佐和田で小木行きの路線バスに乗り換え、小木港と直江津港を結ぶフェリーに乗って、国道350号線を完走する、という妙案が浮かんだのである。
 
ところが、佐和田と小木を結ぶバスの本数は極めて少なく、始発の7時00分発の次は12時30分発の赤泊止まりの区間便で、その次は16時08分発と間が抜けている。
しかも、小木港と直江津港を結ぶフェリーは、直江津を9時30分に出港する便と、小木12時50分発の1日1往復という閑散航路で、小木まで行っても本土に渡る船便はない。
 
区間便の終点である赤泊も、新潟港と寺泊港それぞれを行き来する本土航路があるが、前者は朝に赤泊港を出港して午後に新潟港から戻ってくる1往復だけ、後者は時刻すら記載がなく、どちらも4月から9月まで休航である。
佐渡ヶ島で1泊するつもりはなかったので、本土に帰るためには、両津港まで引き返すしかないのであった。
 
 
佐和田から先、小佐渡山地には踏み込んで小木に向かう国道350号線と袂を分かち、大佐渡山地の南端を横断する県道31号線の景色は、一転して山がちになった。
視界に入るのは、杉や松の木立ちに覆われた山肌だけである。
しばらく進むと、前方のカーブの向こうに海原が覗き、坂を駆け下れば相川の町であった。
 
 
相川は、江戸時代の初頭に佐渡金山が開かれると奉行所が置かれ、佐渡ヶ島を統治する島内随一の町として栄えたという。
相川のバスターミナルは、広々とした駐車場を備えた瀟洒な建物であったが、周囲に人影はなく、駐車しているのは僕が乗ってきたバス1台だけで、かつての面影は感じられない。
 
ここまで来れば佐渡金山を観光するのが王道であろうが、時刻表に、佐渡金山への路線バスは1本も載っていなかった。
タクシーで往復すれば良い話だろうが、これまた周囲に1台も見当たらず、そこまで財布をはたくほどの思い入れもないので、また来ればいいさ、という軽い気持ちのまま、僕は両津行きのバスで折り返した。
 
直江津航路に乗れなかった落胆と、佐渡ヶ島の佇まいはバスで存分に眺めた、という独りよがりの満足感もあったのだろう。
 
 
時刻はまだ午前11時を過ぎたばかりで、両津港を12時45分に発つ新潟港行きのフェリーに間に合う。
次のフェリーは15時05分までないけれども、13時30分発のジェットフォイルもある。
 
どうしてそれほど早く新潟に戻りたいのか、と言えば、復路を上越新幹線ではなく、廉価な「関越高速バス」にしたい。
新潟駅を14時00分に発車するバスには間に合わなくても、昼行最終便の16時00分発ならば悠々と乗れる。
両津港からジェットフォイルを初体験するのか、それとも往路で居眠りをしたフェリーでのんびりと船旅を味わい直すのか、それだけが、新宿から12時間を費やして辿り着いた相川における、最大の関心事であった。
 
 
両津港から1時間、ジェットフォイルで大いに揺さぶられて、14時30分に新潟港に戻った僕は、路線バスで万代シティバスセンターに向かった。
日曜日の昼下がりだから、繁華街は人いきれがするほど賑わっていて、蒸し暑さも相まって、のんびりした佐渡ヶ島が恋しくなった。
 
僕はこのバスセンターの立ち食い蕎麦が好きで、「関越高速バス」の始発である新潟駅まで足を伸ばさなかったのだが、天井が低く煤けた屋内乗り場をひっきりなしに出入りする銀色の新潟交通バスを眺めているうちに、ふと妙案が浮かび、別の路線バスで白山前停留所に向かった。
バスセンターから1kmほど西に鎮座する白山神社は、創建が10世紀と古く、越後国の総鎮守として知られている。
僕は、このような寺社を素知らぬ顔で通り過ぎることが出来ない人種であるから、型通りの参拝はしたものの、妙案とは、そのように敬虔な類いではない。

 

 
目指すは、白山神社の脇の市役所前交差点にある、新潟交通白山前駅である。
 
当時の新潟電鉄が東関屋駅から白根駅まで鉄道を敷設したのが昭和8年4月のことで、更に白根駅から燕駅までの専用軌道と、東関屋駅から白山前駅までの2.2kmの併用軌道を延伸して、36.1kmの全線が開業したのは同年8月である。
鉄道書籍などで新潟交通線の存在は子供の頃から知っていたものの、実際に目にしたのは、昭和60年に「関越高速バス」池袋-新潟線に初乗りした時だった。
広い交差点で孤島のようになっている三角形の中洲に置かれた古びた駅舎に、2両編成の電車が停車しているのを目にして、無性に乗りたくなったのが、3年前である。
 
その時は池袋を15時に出てくる昼行便に乗っていたので、既に時刻は午後8時に近く、寄り道する余裕はなかったが、いつか必ず乗りに来るぞ、と心に決めていたのを思い出し、「関越高速バス」よりそちらの方が楽しそうではないか、と思ったのだから、移り気もいいところである。
 
 
白山前バス停に着いたのが15時を回っていたと記憶しているが、白山神社に面した単線のホームには、15時35分発の電車が発車間際であった。
如何にも昭和初期を思わせる白山前駅の風格に惹かれていたのだが、あまりにもタイミングが良すぎて、出札窓口や売店、立ち食い蕎麦屋などが入った駅舎をじっくりと見物する暇もなく、僕は駅員の改札を受けて電車に飛び込んだ。
 
路面電車に乗るのは久しぶりだった。
僕が乗車したことのある路面電車は札幌、函館、東京、岡山、広島、松山、高知、熊本、長崎、鹿児島と数える程しかなく、多くの街で活躍しながら消えていった路面電車の写真を見ると、もっと早く生まれたかった、との羨望に駆られる。
たった2kmあまりとは言え、こうして道路の併用軌道を走れば、少しは飢えが癒される。

専用の敷地ではないから、軌道に割り込んでくる車に邪魔される場面も多く、もどかしいけれども、時刻表を見れば、白山前駅から燕駅まで、所要時間が1時間06分~1時間20分と差があるのは、車の影響を考慮しているのかもしれない。


 
どうせ既存の道路を利用するならば、どうして新潟駅まで路線を伸ばさなかったのだろう、と首を傾げたくなる。
事実、信濃川の万代シティバスセンター近くに架けられた萬代橋は、新潟交通線を新潟駅前まで延伸する計画で、幅員を広く設計したと聞く。
この計画は太平洋戦争の激化で中断を余儀なくされたが、戦後に復活し、運輸省から許可も下りたらしいが、今度は新潟交通の財政的な理由から頓挫したのである。
 
もともと、新潟市の周辺では、信濃川や阿賀野川を利用する「河川蒸気」と呼ばれた水運が盛んであった。
信濃川の支流である中ノ口川にも「河川蒸気」が運航されていたが、大正11年に信濃川から大河津分水路が掘削され、信濃川本流の水量が大幅に減少したために水運が困難となり、その代替として建設されたのが新潟電鉄、今の新潟交通線だったという歴史がある。
東関屋駅から先の専用軌道は、ほぼ中ノ口川の左岸に沿っており、「河川蒸気」の代替交通機関であったことが窺える。
 
 
東関屋駅は、大河津分水路と並ぶ新潟の二大分水路である関屋分水路が信濃川から分岐する付近にあり、佐渡汽船がある信濃川の河口まで3kmほどの位置である。
関屋分水路は、昭和47年に通水した新しい水路であるが、専用軌道になった新潟交通線は、速度を上げて、国道8号線旧道に併設された関屋大橋を渡る。
2つの分水路は、ともに新潟市内の洪水を防ぐために建設されたのだが、なみなみと水を湛えた川面が橋のすぐ下まで迫り、日本一の長さを誇る信濃川の水量は恐ろしいほどである。

中ノ口川と信濃川が合流するのは、東関屋駅から5駅目の焼鮒駅付近である。
その先で中ノ口川に沿って遡るのは良いけれども、地図で見ると、遮るもののない平野を無秩序に流れていた太古の姿そのままに、くねくねと蛇行しているので、新潟交通線も忠実に右へ左へと紆余曲折している。
左は背の高い堤防が続き、川を見ることは殆んど出来ない。
 
 
東関屋駅から燕駅までの間に設置されているのは23駅、ほぼ1km前後の間隔であり、線路が曲がりくねっていなくても、これでは速度が上げられないだろう。
対照的に、ほぼ平行して走っている上越新幹線は、川など何するものぞ、とばかりに直線的に平野を貫いており、新潟交通線は、焼鮒駅と新飯田駅付近で2度、新幹線の高架をくぐる。
 
月潟駅を過ぎると、新潟交通線は中ノ口川から離れて、青々と稲が生え揃う田園地帯を真っ直ぐ走り始めるが、終点まで12km、たった5駅であるから、電車は間もなく燕市街に入ってしまう。
燕駅に着いたのが午後5時前で、上越新幹線の乗換駅である燕三条は、交差するJR弥彦線で隣りの駅である。
 
 
1年で最も日が長い季節であるから、町はまだ明るい。

僕は燕三条駅に背を向けて、反対へ向かう17時18分発の吉田行き電車に乗り、17時40分発の接続電車に乗り換えて、17時47分に弥彦駅に降り立った。
JR弥彦線に初乗りしてみようという趣旨であるが、これも半ば衝動乗りに近い。
弥彦駅で18時24分発の電車で折り返せば、吉田駅で乗り換えて燕三条駅に着くのが18時47分、上越新幹線に東京行きがまだ何本も残っている程よい時間帯である。
 
こんなにスムーズで良いのか、と思う。
僕が弥彦線に初めて注目したのは、紀行作家宮脇俊三氏が幾つかの地方私鉄に乗車した「時刻表おくのほそ道」で、新潟交通から乗り換える一節である。

『この弥彦線は、けしからぬ線で、新潟交通との接続がじつにわるい。
新潟交通の電車が着くその数分前にアバヨと出て行ってしまう。
そして、つぎの列車に乗りたければ1時間以上待て、というようなダイヤなのである。
相手が私鉄だからかと思うと、そうでもない。
燕から弥彦方面へ2駅ほど行ったところにある吉田では国鉄の越後線と交差しているのだが、これとの接続もまた、すこぶるわるい。
おそらく、国鉄同士でありながら越後線と弥彦線ほど接続関係がわるいのは他にないのではないかと思う。
弥彦線は他線から乗り換えられるのがよほどきらいらしい。
乗れるものなら乗ってみろと言わんばかりの身勝手なダイヤを組んで平然としている』

僕も覚悟して燕駅に降りたのだが、JRになって改善されたのか、たまたまなのか、大した待ち時間もなく乗り換えられたので、拍子抜けした。
佐渡にしろ新潟交通線にしろ、僕の行程は朝から行き当たりばったりであるが、宮脇氏と同行の編集者は、苦心して新潟交通線と弥彦線の待ち合わせを13分で済むスケジュールを組み、
 
『弥彦線にしても手抜かりはあるのだ』
 
と、得意げな展開に吹き出した覚えがある。
 
 
弥彦線は、終始、平坦な越後平野を左手に弥彦山と多宝山を望みながらのんびりと走る線で、終点の弥彦駅は、弥彦山を御神体とする越後国一ノ宮である彌彦神社の門前である。
古事記や万葉集にも登場する9世紀創建の古社で、終点の弥彦駅舎も、神社の本殿を模して門柱や梁が朱色に塗られた入母屋造になっている。

駅員に聞くと、神社の本殿まで30分もあれば往復できるとのことで、素通りのできない僕は、急ぎ足で参拝して大汗をかいた。
他線との乗り換えは嫌っても、終着駅の名所を回る滞留時間をきっちり確保してくれたのは、弥彦線の手抜かりなのか、気配りなのかは判然としない。

折り返しの車中で、越後平野の暮色が深くなった。
夜行快速列車と佐渡への船旅を楽しみ、加えて念願だった私鉄にも乗れ、2つの大社を回れたのだから、早起きは三文の徳、夜行快速「ムーンライト」のおかげで満足すべき1日であった。
 
 


ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>