第10章 昭和63年 常磐高速バス「ひたち」号で味わう関東平野の最果ての車窓 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:常磐高速バス「ひたち」号】

 

 

常磐自動車道の車窓の佳境は、水戸ICを過ぎたあたりから左手より山並みが近づいてきて関東平野が窄まり、ハイウェイが少しずつ高度を上げ始める日立付近ではないかと思っている。

背後の多賀山地が海岸近くまで迫り、市街地は南北に細長く狭い平地に身を縮めている。

 

16世紀には金の採掘が始められていたという記録が残る日立鉱山において、明治41年に建設された鉱山機器の修理工場が、現在の日立製作所の創業とされている。

日立市街のかなりの面積を日立グループの施設が占有しているために、住宅地の多くは山間を切り開いて造成されているという狭隘な地形であるから、平地に高速道路を造るなどとはもってのほかで、常磐道は多賀山地を貫く形で建設されている。

 

日立南ICを過ぎ、日立中央ICを経て日立北ICまでは、断続するトンネルをくぐり抜けるたびに高度が上がり、右手の下方には、海岸にへばりついている日立の街並みと、その向こうで煌めく太平洋の海原が見え隠れする。

平板な印象を抱いていた常磐道に、これほど素晴らしい眺望があったのか、と目を見開かされる。

しっかりとした側壁が設けられているので、乗用車では隠れてしまうかもしれない。

 

この山岳地帯を越えると、常磐道は福島県に入っていく。

日立とは、関東平野の北の果て、みちのくの入口なのだな、と思う。

 

 

この車窓は、東京駅と平駅を結ぶ「いわき」号に乗った時に、初めて目にした。

 

「いわき」号の開業は昭和63年11月、この章で取り上げる東京と日立を結ぶ「ひたち」号の開業は、その5ヶ月前の同年6月のことである。

「ひたち」号に乗車した際に、「いわき」号と同じく海と山が織りなす車窓を楽しむことが出来るのではないか、と意気込んでいた記憶があるから、僕が「ひたち」号に乗車したのは、開業順とは逆に、「いわき」号の後ということになる。

 

「いわき」号に乗車したのは開業後間もない時期のことで、僕が心を躍らせながら「ひたち」号に乗るべく東京駅八重洲南口のバスターミナルに足を運んだのは、「いわき」号に乗ってから大して日時を経ていない昭和63年の師走だった。

 

 

開業当初の「ひたち」号の運行本数は1日4往復で、「常磐高速バス」の中では最も少なかったが、5ヶ月後に開業した「いわき」号は1日3往復からのスタートであった。

どちらも、常磐線の特急「ひたち」が足繁く直結している都市であるから、バスの利用者は決して多くないものと控えめに見積もったのであろう。

 

地方と大都市を結ぶ高速バスは、圧倒的に地方側の居住者の利用が多く、日帰り圏内であれば午前の上り便と午後の下り便の利用者数が大半を占めている。

それを反映して、午前の上り便と午後の下り便しか走らせない路線もある中で、「ひたち」号は午前に下り便1本、午後に上り便1本を割いてくれているから、僕のような東京在住者にはありがたい。

 

 

初乗りは当然、午前9時40分に東京駅を発つ下り便と決めていたが、そのためには休日の朝早くから出掛けなければいけない。

「常磐高速バス」の先陣を切った東京-つくば線「つくば」号も、第2陣の東京-水戸線「みと」号も春先の乗車であったから、待ち時間は汗ばむくらいの陽気であったが、「ひたち」号を待つ間は、ビルの合間を吹き抜けてくる木枯らしが身に浸みた。

 

発車後は、八重洲通り、首都高速道路宝町ランプから都心環状線、6号向島線、中央環状線、三郷線と、「常磐高速バス」で馴染みになった車窓風景が展開する。

河岸までぎっしりと建て込んでいる隅田川沿岸から、河川敷が広くて一気に視界が開ける荒川沿岸へ渡っていく車窓の劇的な変化は、何度目であっても飽きることはない。

 

常磐道に入ると田園や丘陵ばかりになるが、借り入れの終わった田畑は土の色ばかりに覆われて、すっかり葉を落としている木々も多く、常緑樹の緑も心なしか色褪せているような気がする。

東京では銀杏の黄葉が真っ盛りを迎えていたけれど、少し北へ来るだけで、紅葉などはとっくに終わっていた。

素寒貧とした沿道風景は、「つくば」号や「みと」号とは全く別の道路を通っているかのように錯覚するほどだった。

 

 

水戸ICを過ぎ那珂川を渡ると、多賀山地の山裾が一気に左手から前方に押し寄せて来て、いよいよ関東平野もどん詰まりか、と思う。

つくば、水戸と少しずつ北に路線を伸ばした「常磐高速バス」も、ついに関東平野の北端まで達したのか、と感慨にふけるところであろうが、1ヶ月前に「いわき」号を体験しているから、真新しさは感じられない。

水戸北ICと那珂ICを轟然と通過すれば、日立南ICの先で、長さ2442mの日立トンネルを皮切りに山中に足を踏み入れ、彼方に日立灘を見下ろす絶景が拝めるはずであったから、前途への期待ばかりが膨らんでくる。

 

ところが、「ひたち」号は、「日立南・太田」の標識が見えると、

 

『間もなく新田中内です』

 

と、降車停留所の案内を流しながら減速をはじめ、日立南ICを降りてしまったではないか。

 

 

新田中内停留所は、日立南ICの流出路が国道6号線と合流する交差点の数百メートル先に置かれている。

 

時刻は11時20分、ほぼ定刻通りの見事な運行だが、インターチェンジからこれだけ離れてしまうと、もう1度常磐道に戻って、市街地に近い日立中央IC方面に走る気配はない。

インターチェンジの外に設けられた停留所が驚くほど離れていて、もう高速道路に戻るつもりがないのか、と思わず腰を浮かしてしまうような高速バス路線も経験したことがあるけれど、「ひたち」号はそうではなかった。

新田中内、石名坂、金畑団地、塙山、常陸多賀駅、諏訪表原、成沢、日立警察署前といった降車停留所の存在は時刻表で知っていたものの、それらの位置を調べた訳ではなく、てっきり、市街地の背後の山中に設けられた日立中央ICから市内に向かうもの、と漠然と決めつけていたのである。

 

 

前方の遥か彼方に、多賀山地のなだらかな山なみが横切っている。

右手の山裾に、日立の細長い市街地があるはずだった。

案外手前で降りたのだな、と思うと同時に、あの山々を越えながら太平洋を見下ろせたら良かったのに、と思う。

 

山岳区間の眺望の楽しみを奪われて、がっかりした僕の脳裏に、新田中内から日立駅までの国道6号線の記憶は殆んど残っていない。

おそらく、どの地方都市ともあまり変わり映えのしない郊外風景の中を走り抜けたのだろう。

東京から142.3km、2時間15分のバス旅は失意の中で終わりを告げ、おそらく特急「ひたち」で帰ったと思われる復路のことも、完全に忘却の彼方である。

 

今でも、「ひたち」号と言えば、日立南ICで落胆した場面が真っ先に思い浮かぶ。

 

 

 

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