第64章 平成30年 やっぱり温泉に入らないお話~新設の高速バス渋谷-軽井沢・草津温泉線乗車記~ | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:高速バス渋谷-軽井沢・草津温泉線、JRバス関東長野原-草津温泉線】

 

 

渋谷マークシティバスターミナルを定刻9時35分に発車した軽井沢・草津温泉行きの上田バスは、道玄坂上の交差点に出る流出路を、滑らかに下っている。

 

平成30年1月の初旬である。

後に、平均気温が世界的に高かったと記憶される1年であったが、1月は欧州に大寒波が襲来し、我が国も寒い年開けとなっていた。

このような気候の日に、関東地方はからりと晴れ上がることが多い。

渋谷を出た時には高曇りであったが、そのうちに気持ちが良いほどの快晴となった。

 

渋谷から信州に向かうのは初めてだったが、この街は、僕にとっても、また信州にも、何かと縁がある。

高速バスが走っている流出路は、マークシティが平成12年に完成する前にも、数え切れないほど使ったことがあった。

 

 
国道246号線に敷かれた軌道で、昭和44年まで渋谷と二子玉川を結んでいた東急玉川線、通称「玉電」の渋谷駅の跡地を利用したバス乗り場が、井の頭線ホームの隣りに置かれ、大井町行き「渋44系統」と幡ヶ谷行き「渋55系統」の2路線が乗り入れていた。

待合室を備えた低く狭いホームが残り、突き当りにあるターンテーブルや、道玄坂上に出入りするなだらかなスロープなどは、まさに軌道跡の面影を残していた。

 

学生時代に大井町に住み、東急大井町線旗の台駅が最寄りの大学に通っていた僕にとって、渋谷は馴染みの繁華街であり、時間は掛かるけれども乗り換えの不要な「渋44系統」を重宝したものだった。

埼京線に乗り入れる東京臨海高速鉄道線が、まだ開通しておらず、大井町駅から山手線の西半分の駅に直通できなかった時代の話である。

 

 
どうして大井町と幡ヶ谷行きの2路線だけが、数多くの路線バスが出入りする渋谷駅西口の乗り場ではなく、「玉電」渋谷駅の跡地を発着するのだろう、と不思議でならなかったが、僕はそこの佇まいが好きだったので、大井町に向かう路線バスが特別扱いを受けているのだ、と思うことにした。
 

その後、昭和63年に開業した渋谷-和歌山線を皮切りに、「ミルキーウェイ」号を名乗る東急の夜行高速バスが鶴岡・酒田、三宮・姫路、松江・出雲と展開し、いずれも「玉電」渋谷駅の跡地を起終点にしていた。

鉄道駅の構造が残されているバスターミナルに、夜行高速バスが入線する姿は、一般路線バスよりも遥かに様になっていた。

昭和44年の東名高速道路の開通と同時に走り始めた静岡・名古屋方面の「東名急行バス」も、昭和50年に廃止されるまで、起終点としてここを使っていたと耳にしたことがある。

 

 

渋谷マークシティの建設が始まって、「玉電」の跡地が立ち入り禁止になり、「渋44系統」も「渋55系統」も西口から発車するようになると、一抹の寂しさを覚えた。

 

渋谷マークシティバスターミナルを発着する路線に初めて乗車したのは、金沢から渋谷経由で八王子に向かう夜行高速バスであった。

その時、道玄坂上交差点から続くバス専用の出入路が、「ミルキーウェイ」号や「渋44系統」で使った「玉電」渋谷駅のままであることに気づいた。

変化の激しい世相や街並みの中で、ふと、昔と変わらず根強く生き残っているモノを見つけた時に、無性に嬉しくなるのは、どのような心理なのだろう。

 

 

「東名急行バス」が登場する8年も前の昭和36年に、東急バスが開業した渋谷と長野を結ぶ特急バスのことも、忘れてはならない。

まだ「玉電」が健在であった時期であるから、渋谷駅の敷地を使う訳にはいかなかっただろうが、国道17号線と18号線を走って信州に向かう特急バスが、渋谷駅西口から発車していたのである。

 

昭和46年に廃止されたこの特急バスを思うと、時を遡ってでも乗りたかった、との郷愁に駆られる。

それでも、同じく渋谷駅前を発車して軽井沢と草津温泉に向かう高速バスに乗れば、少しは渇望が癒される。

 

 

バスは旧山手通りで繁華街を抜け出して山手通りに入り、東大裏交差点の先にある富ヶ谷ランプから首都高速中央環状線山手トンネルに潜り込んだ。

道路トンネルとしては日本一、世界でもノルウェーのラルダールトンネルに次ぐ第2位の長さを誇る、1万8000mの山手トンネルが全線開通したのは、平成27年3月のことである。

 

トンネルとは、入ってしまえばつまらないものだが、山手トンネルは地上の山手通りに沿って右に左に地中を進む大蛇のように身をくねらせているから、飽きの来ない走りっぷりである。

蛇に飲み込まるとこのような体験になるのではないか、と妄想が湧いてくるような構造である。

井の頭通り、甲州街道、青梅街道、川越街道といった交差する道路が記された標識も目に入るので、バスが何処を進んでいるかという目安もある。

 

何よりも、世界有数の長大トンネルが東京に存在しているという面白みは、何事にも代え難い。

どえらいものを造ったものだ、と感嘆する。

 

 

首都高速5号池袋線と合流する熊野町JCTの手前で地上に出て、そのまま一気に高架に駆け上がると、板橋JCTで中央環状線と袂を分かち、バスは首都高速5号線を北上する。

この辺りは、北行きが下段、南行きが上段という2段構造になっているが、中山道板橋仲宿を過ぎると上下線が左右に並んで、視界が開けて来る。

 

視界が開けても、高架の両側は、ぎっしりと見渡す限りの街並みが広がっているだけであるが、高島平団地の辺りから建物の合間に緑地が垣間見えるようになり、荒川を渡ると伸びやかな車窓に変わる。

 

 

バスが首都高速5号線から東京外郭環状自動車道に移る美女木JCTは、それぞれの出入路が信号機付きの交差点で直角に交わる構造で、とても高速道路とは思えない。

他のジャンクションのように、クローバー状に曲線を描く出入路の用地を確保できなかったのであろう。

 

渋滞が多発する箇所でもあり、道路情報などで耳にする機会も多いのだが、美女木とは気になる響きである。

「ビジョ」とは泥濘・ぬかるみを意味し、低湿地を指すという説もある一方で、武蔵風土記には、

 

『もと上笹目と云いしが、古え京師より故ありて、美麗の官女数人当所に来り居りしことあり、其頃近村のもの当村をさして美女来とのみ呼しにより、いつとなく村名の如くなりゆきて』

 

と記されており、美女とは、漢字が示す通りの意味らしい。

 

 

美女木JCTから、関越自動車道と合流する大泉JCTまでの8km程度は、大半が切り通しとトンネルばかりであるが、市街地の地下を掘削した山手トンネルと同様、都市トンネルの常であるのか、急な曲線が多い。

トンネルの出口で、次のトンネルの真上を見上げると、ファミリーレストランが見えたりする。

 

切り通しと防音壁で沿線風景がなかなか見られない外環道であるが、走るたびに、これだけの人口密集地に、よくぞ新しく高速道路を建設したものだと思う。

あまりに便利なので、外環道を使う車の量は多く、しかも制限速度を遵守している車の方が少ない有り様で、ろくに車間距離も開けずに猛烈な勢いでバスを追い抜いていく。

この日の運転手は若く見えたけれども、手慣れたハンドル捌きで、巧みにバスを導いていくのが頼もしい。

 

急勾配のカーブになっている流入路で関越道に入ると、車線の幅も路肩も余裕が生じて、一息つくことが出来た。

 

 

これから向かう軽井沢には、池袋駅を発着する高速バスがあり、草津温泉にも新宿発着の高速バスが走っている。

 

僕は、軽井沢に高速バスで向かうのは初めてなのだが、池袋や新宿から群馬、長野、新潟、北陸方面を行き来するバスが、関越道の練馬ICまで目白通りを延々と走るのは何度も体験済みなので、渋谷からの高速バスのように首都高速と外環道を使う方が、体感的には速く思える。

渋谷から大泉JCTまで、山手通りと目白通りを使って約20km、首都高速5号線と外環道経由でおよそ36kmと、2倍近い差があるのだが、遠回りでも、信号に引っかかったりしない道行きは、実に爽快であった。

 

 

藤岡JCTまで、広大な関東平野を駆け抜ける区間は冗長であるが、それまでが目まぐるしい車窓であっただけに、気分まで伸びやかになる。

 

冬にも関わらず、案外に乗客数は多く、7~8割方の座席が埋まっていて、若い客層である。

スケートリンクやスキー場があるとは言え、避暑地として知られる軽井沢で、冬は何をして過ごすのだろう、と首を傾げてしまうのだが、改めて、軽井沢の集客力は凄いものだ、と感心する。

このバスの終点は全国に名を馳せた草津温泉であり、そちらへ向かう客が多いのかもしれない。

2~3人で連れ合っている客が多く、渋谷を出たばかりの頃は、あちこちの席から話し声が漏れ聞こえていたけれども、関越道に入る頃には居眠りをしている姿が目立つようになった。

 

 

平成10年代の後半から、我が国は観光立国を目指すようになり、小泉内閣時代の平成15年に「ビジット・ジャパン・キャンペーン」が始まり、平成19年に観光立国推進基本法が制定され、平成20年に国土交通省の外局として観光庁が設置された。

加えて、平成25年9月7日にブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会の総会において、2020年の夏季五輪の開催都市が東京に決定したことも、追い風になったのかもしれない。

東日本大震災における全世界からの支援に対する返礼や、震災から復興してきた姿をアピールし、第二次世界大戦後60年以上も一貫して平和を貫いてきた日本で五輪を開催することで、世界で起きている災害や紛争で苦しむ人々を勇気づけることを理念に掲げ、強固な財政力とインフラ、良好な治安が高く評価された結果であるが、一方で、IOCから夏季の電力不足と、都民の支持率が低いことを指摘されていた。

 

時の首相は、平成25年のIOC総会で、

 

「福島について、お案じの向きには、私から保証を致します。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」

 

と演説し、福島第一原子力発電所の汚染水漏れに関する質問に対しても、

 

「結論から言うと、全く問題ない。ヘッドラインではなく事実を見て欲しい。汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている」

「健康問題については、今までも現在も将来も、全く問題ない。完全に問題のないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、すでに着手している」

「子供たちの将来や日本にやってくるアスリートに対する責任を完全に果たしていく」

 

と大見得を切った。

首相が使った「under control」という言葉が、しばらく人々の口端に上ったのは、誰もが本当かな、と首を捻りながらも、そうであって欲しいという願望が入り混じった、複雑な心境だったのではないだろうか。

 

経済政策や、集団的自衛権を可能とする憲法解釈を示すなど、強い指導力を発揮した当時の首相は、観光政策にも積極的に取り組み、外国人訪日客は年間3000万人を超え、「inbound」という聞き慣れない言葉が頻りに取り上げられた。

 

 
国内で観光に重点を置く自治体が増え、高速バスにも観光路線が目立つようになった。

夜行高速バス千葉・TDR・上野-松本・長野線は、僕が利用した直後の平成25年11月から千葉中央駅での乗降を取り止めて成田空港発着になり、同年12月から成田空港と白馬八方を結ぶ高速バス路線も登場した。

後者の運行時刻は、

 

成田空港8時25分→白馬八方14時21分

白馬八方11時00分→成田空港16時56分

 

という1往復で、主としてオーストラリアのカンタス航空との接続を図っていたようである。

長野冬季五輪の舞台ともなった白馬八方スキー場は、海外から年間5万人近くのスキー客が訪れ、最も多いのがオーストラリア人であった。

 

 

平成28年には、羽田空港と白馬八方を結ぶ高速バスも開業している。

 

羽田空港7時40分発→白馬五竜12時58分→白馬駅13時05分→白馬八方13時10分

羽田空港12時40分→白馬五竜17時58分→白馬駅18時05分→白馬八方18時10分

 

白馬八方10時40分→白馬五竜10時45分→白馬駅10時52分→羽田空港16時10分

白馬八方15時40分→白馬五竜15時45分→白馬駅15時52分→羽田空港21時10分

 

こちらは1日2往復で、国内旅客を目当てにしているのか、と思わせるが、英字表記のパンフレットが用意されており、羽田空港発着の国際線が増えた時勢を反映しているのかもしれない。

敷地の沖合展開に伴って羽田空港に4本目のD滑走路が整備され、国際線ターミナルが稼働を開始したのは、平成22年のことである。

 

 
渋谷-軽井沢・草津温泉線の他にも、軽井沢を発着する新しい高速バスが誕生した。

平成23年に、京浜急行バスと西武バスが、横浜駅を起終点に羽田空港を経由して軽井沢を結ぶ高速バスの運行を開始したのである。


当時の政権の経済政策が歴代で最も雇用を創出し、完全失業率や有効求人倍率が著しい改善を見せて、名目賃金が上昇、生活保護受給者が減少し、GDPやGNIが上昇した、などという数字が示されれば、我が国は長かった平成不況から漸く抜け出したのか、と愁眉を開いたものだった。

ただし、財政政策で政府支出を抑制し、平成元年に3%で導入され、平成9年に5%に引き上げられていた消費税を、平成26年4月に8%、後の話になるが令和元年10月に10%へ上げたことや、実質賃金が下落したことから、国民の負担感が減じることはなく、不況を脱したという実感が伴いにくかったのも事実である。

 

平成22年に、我が国のGDPが中華人民共和国に抜かれて世界第3位に転落したという報道も、失われた20年における経済的な凋落を実感し、観光立国政策についても、日本は物造りの国ではなくなってしまったのか、という無力感を覚えたものだった。


 

藤岡JCTで上信越自動車道に入ったのは、午前11時を回った頃合いだった。

車窓が山がちになり、山肌を覆う木々もすっかり葉を落として、寒々とした光景に変わった。

 

上信越道下り線は、麓の松井田ICから佐久ICまで9本のトンネルで碓氷峠を越えて行くが、5本をくぐっただけで、碓氷軽井沢ICが現れる。

高速バスでここを出入りするのは初めてだったが、自分の運転ならば何度も来たことがある。

そのたびに、軽井沢に向かう人間が、このような山深い場所で高速道路を下ろされたら戸惑うだろうな、と苦笑したくなったものである。

軽井沢の中心部に向かうアクセス道路は、更に九十九折りの山道で和美峠を越えなければならない。

 

 

碓氷軽井沢ICを出たのが正午を過ぎていたので、もう少し早い時刻の便にすれば良かったかな、と思う。

高速バス渋谷-軽井沢・草津温泉線は、4社が1日4往復を運行し、下り便は、渋谷マークシティを7時35分に発車する東急トランセ便、8時05分発軽井沢止まりの西武バス便、8時35分発の京王バス便、そして僕が乗車している9時35分発上田バス便という順である。

 

最も遅い便にしたのは、朝寝坊をしたかった訳ではなく、上田バスに乗ってみたかったからである。

信州出身のバスファンでありながら、僕にとって聞き慣れない事業社名であったが、調べてみると、上田交通のバス部門の系譜ではないか。


 

上田交通の名は、上田と別所温泉を結ぶ信州では貴重な私鉄の鉄道線として、鉄道ファンになった子供の頃から親しんで来た。

ただ、上田をはじめとする東信地方を発着する高速バスは、全て佐久市に本社を置く千曲自動車が運行しており、上田交通のバス部門はどうしたのか、と不思議でならなかった。

 

上田交通の歴史は、大正5年に丸子鉄道として発足し、大正7年に大屋-丸子町の間に鉄道を敷設したことを起源とする。

大正14年に上田東- 大屋間が開通し、昭和7年に乗合自動車事業に手を染めるのだが、昭和15年に丸子自動車に乗合自動車路線を譲渡、丸子自動車は3年後に千曲自動車に吸収合併される。

 

 

一方、大正9年に上田温泉電軌が設立され、大正10年に三好町-青木間の青木線と、上田原-信濃別所間の川西線が開業、大正13年の千曲川鉄橋の完成に伴い上田駅に乗り入れた。

大正15年に下之郷-西丸子間の依田窪線、昭和2年に上田-伊勢山間の北東線、昭和3年に北東線伊勢山-真田間と順次鉄路を広げる傍ら、乗合・貸切自動車業も開始する。

ところが、昭和13年に青木線が廃止になり、昭和14年に上田電鉄と社名が変更される一方で、昭和18年に千曲自動車に乗合自動車路線を譲渡して貸切自動車業務を廃止、同年に上田電鉄と丸子鉄道株式会社が合併して上田丸子電鉄が誕生したのである。

 

丸子鉄道も上田電鉄も、戦前・戦中に揃ってバス事業を千曲自動車に譲渡したのは、バスの利用者が少ない土壌が上田近辺にあるのかもしれない。

その時代に、競合するバス路線に圧迫されて経営が苦しくなった鉄道会社の話は少なからず耳にしたことがあるが、上田の例は珍しいのではないだろうか。

 

 

上田丸子電鉄は、昭和27年に乗合旅客自動車運送事業を開始し、昭和44年に上田交通に改名する。

「鉄道」や「電鉄」といった社名を「交通」に変更するのは、鉄道業の比重が減少した私鉄によく見られる。

上田交通もその例に漏れず、昭和35年に依田窪線を改称した西丸子線が廃止されたのを皮切りに、昭和44年に丸子線、昭和47年に北東線改め真田傍陽線が廃止され、最盛期で4路線48.0kmの路線網を擁していた鉄道事業も、今や、旧川西線である別所線11.6kmだけになっていた。

 

昭和62年に上田交通の貸切バス部門として分離されていた上電観光バスに、路線バス部門を全面的に移譲したのが平成11年、同社は翌年に上電バスと改称した後に、平成21年に上田交通が所有する株式が他社に譲渡されて、上田バスを名乗ったのである。

上田交通別所線は、平成17年に子会社として独立し、先祖返りのように上田電鉄を名乗った。

 

 

上田バスは、現在、複数の市内線のみならず、上田駅から新鹿沢温泉を経て草津温泉までの路線や、かつて鉄道線が走っていた真田、傍陽、丸子への路線網を維持し、菅平にも足を伸ばしている。

最盛期には、上田駅から大屋を経て丸子に至る路線や、鹿教湯温泉、和田峠、大門峠方面への各路線、菅平を経て峰の原高原、須坂駅に達する路線や、更には上田駅から保福寺峠を越えて松本駅に至る路線を運行していた時代もあったと聞く。

 

上田バスも上田電鉄も、その苦難の歴史を振り返れば、名を変えるごとに贅肉を削ぎ、体質改善を図りながら、昭和と平成を生き延びて来たのだな、と思う。

 

上田交通の直系とも言うべき上田バスが、ついに高速バスに進出したのだから、是非とも乗車してみたかった。

初めて目にする同社のバスは、白と緋色に塗り分けられた塗装が鮮やかで、真田の六文銭が描かれているのも好ましい。

高速バスでしっかり稼いで、路線バスに逆風が吹く世の中を乗り越えて欲しいと思う。

 


和美峠を越えるとなだらかな下り坂になり、針葉樹林の合間に軽井沢72ゴルフ場のゴルフコースが見え隠れして、ペンションや別荘などが散在する大らかな車窓となる。

 

南軽井沢交差点で国道18号線バイパスを横切った時は、この旅の2年前に起きた軽井沢スキーバス事故に思いを馳せて、粛然となった。

平成28年1月15日の未明に、41名の乗員乗客を乗せ、国道18号線バイパスで碓氷峠を越えたスキーバスが、長野県側の下り坂に入ったあたりで制御が効かなくなり、時速90kmを越える速度で左カーブの右側のガードレールを突き破って転落したのである。

事故現場は、全部で45ヶ所ある碓氷バイパスのカーブの43番目であり、あと1kmで南軽井沢交差点という地点であった。


運転手1人を除いて、死亡した乗客15名全員が大学生であり、「この20~30年で最悪のバス事故」と評されたこの事故は、募集した旅行会社が料金を安く設定し、その契約に応じた零細な観光バス事業者がろくな労務管理もせず、大型バスに不馴れな運転手を乗務させたことが原因とされた。

平成24年の関越道ツアーバス事故を教訓にして、「新高速乗合バス制度」が制定されたと言うのに、まだそんなことをしておったのか、と強い憤りを覚えた。

 

 

雪を被った浅間山を木々の合間に望みながら、南軽井沢交差点を過ぎると、道路はプリンス通りと名を変えて、右手をホテルやアウトレットの広い敷地が占めるようになる。

 

軽井沢という地名の語源は、荷物を背負って運ぶことを「かるう」と言ったことから峠に続く谷間を意味するという説、水の枯れた沢を意味する"枯井沢"から転じたという説、"凍り冷わ"が転じたという説、軽石によって出来た沢を意味する"軽石沢"から転じたという説などがあるらしい。

江戸時代に中山道の宿場が置かれたが、明治の初頭に外国人の宣教師や医師、大学講師、外交官などが、酷暑の東京を逃れて滞在したことで、全国的に知られるようになる。


明治18年に訪れたカナダの宣教師は、軽井沢の冷涼な気候や風土が故郷のトロントと似ていることから「屋根のない病院」と呼び、保養地に最適として、明治21年にこの地で初めてとなる別荘を建てた。

明治21年に碓氷馬車鉄道が横川と軽井沢の間を結び、同年12月に信越本線が上田駅から軽井沢駅まで延伸、明治26年に碓氷峠を越えて上野駅と直結したことで、軽井沢駅の周辺が地域の中心となり、新軽井沢と呼ばれるようになった。

北寄りの中山道界隈は旧軽井沢と呼ばれたが、軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(後の万平ホテル)や「軽井沢ホテル」、「三笠ホテル」が建つ町並みは、今でも独特の風情が漂っている。

 

 

鉄道が開業する前は、碓氷峠を挟んだ霧積温泉が日本人向けの避暑地であったが、明治26年に帝国海軍の将校が旧軽井沢に日本人で初めて別荘を建設し、やがて箱根や大磯に続く新興の別荘地となった。

 

草軽電気鉄道の前身となる「草津興業」が、大正2年に軽井沢駅に隣接する新軽井沢駅から旧軽井沢駅、北軽井沢駅を経由して草津温泉駅に至る軽便鉄道の建設に着手し、大正4年に小瀬温泉駅、大正7年に北軽井沢駅、大正15年に草津温泉まで55.5kmに及ぶ鉄道が全線開通した。

大正期から、軽井沢と草津温泉は一体化した観光地だったのである。

 

 
大正期に西武資本の「箱根土地」が軽井沢の公有林や原野60万坪を買収して千ヶ滝遊園地を設立、沓掛宿周辺を「中軽井沢」と称し、大規模な別荘地の販売や鉱泉の掘削や、宿泊施設の営業を開始した。

「箱根土地」は軽井沢から嬬恋、鬼押し出しへの道路を整備し、昭和3年に「高原バス」(後の西武高原バス)を設立してバス路線を開設した。

東急資本も戦前から軽井沢の開発に参入し、昭和20年に草軽電気鉄道を傘下に収め、両社は激しい開発競争に鎬を削ることになる。

 

西武と東急の確執は箱根や伊豆半島でも話題になったものだったが、平成29年に登場した高速バス渋谷-軽井沢・草津温泉線に両グループのバス事業者が共同運行に加わっていることを思えば、時代の流れに感慨を抱かざるを得ない。

西武グループの創業者である堤康二郎の後を継いだ堤義明は、長野冬季五輪誘致の立役者であったが、度重なる不祥事の責任をとって平成17年に経営権を部下に譲り、後に株式も全て手放している。

東急は、創業者の五島慶太が長野県青木村の出身であるため、上田交通や草軽電鉄をはじめ長野県の運輸・観光業とも縁が深く、昭和30~40年代の特急バス渋谷-長野線も、五島慶太の肝いりで開業したと言われている。

ただ、西武の堤家のような株式所有による会社支配は行わず、平成元年に五島慶太の長男の五島昇が死去すると、東急は集団指導体制に移行し、現在、東急の取締役に五島家の人間は加わっていないようである。

 


プリンス通りから国道18号線旧道、そして駅前通りと目まぐるしく右折を繰り返し、駅前通りの街並みを目にすると、ここが軽井沢なのか、と思うほど画一的な建物が並んでいる。

新幹線が開通する前の軽井沢駅の佇まいはあまり覚えていないが、こうなってしまったのか、と少しばかり幻滅した。

 

軽井沢駅に着いたのは、時刻表に記されている発車時刻より早い時刻である。

12時30分の発車までトイレに行っても良い、と運転手が告げたので、ほぼ全員が一斉に腰を上げ、誰が軽井沢で降り、どれくらいの人数で草津温泉に向かうのか分からなかった。

混んでいようが空いていようがバスは草津温泉まで行くのであるし、座席も確保されているのだから、単に僕の余計な関心に過ぎないのだが、軽井沢は池袋からの高速バスが走っているし、草津温泉は新宿からの高速バスがあるので、渋谷発着路線の乗客の動向が気になるのは、マニアのマニアたる所以であろう。

 

 

結論から言えば、この日の乗客の3分の2が軽井沢まで、残りの3分の1がその先に足を伸ばしたのだが、渋谷発着路線には、軽井沢と草津温泉の間の旧軽井沢や北軽井沢に停車するという、池袋-軽井沢線にも新宿-草津温泉線にもない特徴がある。

 

旧軽井沢の入り口とも言うべき東急ハーヴェストクラブ旧軽井沢に立ち寄ったバスは、五差路になっている東雲の交差点を経て旧中山道から国道18号線を西へ進み、中軽井沢交差点で国道146号線・千ヶ滝街道に右折した。

 

 
このような道筋をたどれば、軽井沢が好きだった亡き妻を伴って、何度も車で訪れたことを思い出す。

どこを訪ねるということもなく、旧軽井沢の町を散策して、喫茶店に寄ったり、買い物をしたり、時に千ヶ滝温泉まで足を伸ばした思い出が、つい昨日のことのようである。

 

軽井沢から中軽井沢にかけての道筋で、雄大な裾野を見せてくれる浅間山を、2人で何度見上げたことだっただろう。

 

 

中軽井沢の町並みを抜け、千ヶ滝温泉が左手に過ぎると、バスは曲がりくねった山道で丘を1つ越えて、浅間山麓の広々とした高原を走り出した。

 

先行して、草軽交通の草津温泉行きのバスが走っている。

軽井沢駅で、僕らが乗るバスの前で乗車扱いをしていた便で、言わば草軽電鉄線の廃止代替路線と言うべきだろう。

同じ経路を進み、停留所も多い向こうのバスが、こちらの後を進めば乗り換え客もいるだろうに、と思うのだが、草軽交通バスは素知らぬ顔でどんどん先に進んでしまう。

 

浅間山は左手の後方に姿を消し、前方に現れた山並みは、白根山や志賀高原に連なっているのだろうか。

 

 

鬼押ハイウェーを分岐する手前で県境を越え、バスは北軽井沢に足を踏み入れた。

 

浅間山の北麓にある鬼押出しは、18世紀の天明3年の浅間山の噴火で流れ出た溶岩が、鬼が暴れて岩を押し出したように見えることから命名され、子供の頃に父の運転で家族揃って訪れたことがある。

大小様々の溶岩が奇怪な形状で風化している一帯を散策しながら、ところどころに置かれた避難シェルターを見ていると、いつ噴火が起きてもおかしくない場所にいるのだ、という恐ろしさが込み上げてきた。

父と母の手をぎゅっと握り締めたことが今でも忘れられない。

 

バスが鬼押出しに寄ってくれればいいのに、と思うけれども、回り道をすると草津温泉への到着時刻が遅くなり過ぎるのだろう。

バスは国道146号線をそのまま進んで、北軽井沢に停車する。

 

 

停留所の近くには、国の有形文化財に指定されている草軽電鉄の北軽井沢駅舎がそのまま残されている。

屋根の形が善光寺を模したと聞いているが、確かに形は似ているものの、派手な緋色に染められているので、善光寺本堂を想起するのはなかなか難しい。

 

草軽電鉄の遺構は、北軽井沢駅舎をはじめ、今は同社の本社が建つ新軽井沢駅跡に残されているホーム跡、旧軽井沢の三笠通りに残る軌道跡や吾妻川橋梁の橋台など、幾つかが現存しているが、痕跡をたどれない区間も少なくないという。

紀行作家の宮脇俊三は、著作「失われた鉄道をもとめて」や「鉄道廃線跡を歩く」の監修で廃線探訪ブームを巻き起こしたと言われているが、草軽電鉄の廃線跡を訪ねて小瀬温泉駅から北軽井沢駅までを歩き、何度も道に迷う一節が印象的である。

 

『やれやれ、きょうもまた迷い道かと思ううちに右へ急角度に折れる林道に出会った。

地図によれば、草軽電鉄の跡と思われる方角に向かっている。

その道の小瀬温泉側は地図に- - - -と記入されているが、雑木と下草に覆われて、人跡未踏の様相を呈している。

ここで、ようやく気がついた。

小瀬温泉駅跡とこの地点の間は林道にされず、廃線後28年を経て自然に還ってしまったのである。

2万5000分の1の地図に- - - -と記されているが、もはや道などないのだ。

廃線跡は何らかの活用をされない限り、自然に回帰するのだろう』

 

この部分を読んだ時は、強く心を打たれたものだった。

廃線や廃道に心を惹かれるのは、人々が行き交った痕跡に栄枯盛衰、ものの哀れを感じるからであろうか。

 

 

北軽井沢を抜けて更にひと山越え、吾妻川を渡ると、バスは三叉路になっている羽根尾交差点を右折した。

「国道三起点」と書かれた標識が掲げられ、これまで走ってきた軽井沢からの国道146号線、左へ折れれば万座、鹿沢温泉を経て菅平へ至る国道144号線、そしてバスが向かうのは渋川方面への国道145号線である。

すぐ先の大津交差点で、バスは国道292号線へと左折した。

遅沢川を遡って、針葉樹が生い繁る山中を登り下りすれば、草津温泉は間もなくであった。

 

温泉街の路地を縫ってバスターミナルに着くと、内部の出札窓口や店舗の装いが多少変わったような気がするのものの、バスが前向きに乗り場に入る構造は昔のままだった。

初めてここに来たのは、昭和62年に、湯田中からの国鉄バス「草津志賀高原線」に乗り通した時で、平成17年にも、名古屋からの高速バス「スパライナー草津」号から新宿行き「上州温泉めぐり」号に乗り継いでいる。

 

 

全国の温泉番付で東の横綱に挙げられている高名な温泉に足跡を記しながら、いずれも湯に浸からずに通過しただけだったのは、僕らしいと言えばそれまでである。

それを惜しむ人並みな感情はあるのだが、僕は、今回も温泉街には足を運ばず、JRバス関東の長野原草津温泉口駅行きのバスに乗り込んだ。

 

来た道を折り返し、大津の集落を抜けて国道145号線を少しばかり東に走ってから、長野原草津温泉口駅で、上野行きの特急電車「草津」に乗り込んだ。

草軽電鉄線は、北軽井沢駅から国道144号線の西側に離れ、上州三原駅付近でJR吾妻線の万座・鹿沢口駅付近を通っていたようなので、もし昭和36年に廃線にならなければ、昭和46年に開業した吾妻線と草津温泉を結ぶ主たる交通機関になっていたかもしれない、と空想するのはなかなか楽しい。

 

 

昭和62年に国鉄「草津志賀高原線」から乗り継いで以来、御無沙汰していた特急「草津」であるが、30年前の185系電車から、常磐線の特急「スーパーひたち」用に開発された651系車両に更新されていた。

 

吾妻川に沿って下っていく吾妻線の車窓は、のんびりとしていた。

吾妻川は、昭和24年と同25年の台風によって橋梁が流失するなど草軽電鉄に多大な被害を及ぼし、同線が廃止されるきっかけとなった。

車窓から見る限り、とても暴れ川には見えない穏やかな流れであったが、令和元年に試験湛水を開始した八ッ場ダムの影響が表れていたのかもしれない。

 

 

吾妻川と利根川流域の治水、そして水力発電や首都圏の水不足解消などを目的とした八ッ場ダムの建設計画が持ち上がるのもやむを得ないと思うのだが、水没する地区の住民を中心に反対運動が起こった。

自民党政権が長年に渡って調整を続けている間に、ダム建設中止を公約した民主党政権に変わり、事業計画が白紙になった推移は、政権交代の象徴のように広く報道された。

ところが、既に水没予定地区から立ち退いた住民や自治体が困惑し、結局は建設が再開された経緯も広く知られ、JR吾妻線の水没区間も、平成26年に新線に切り替えられた。

 

八ッ場ダムと言い、沖縄普天間基地の移転問題と言い、政権交代で政策ががらりと変更されるのはどの国にも見られるが、自民党の政策を民主党が掻き回しただけ、という印象が世間に広まったのは、健全な政権交代が困難になっている我が国の政治にとって不幸なのではないか。

 

 

この日、特急「草津」に揺られながら、僕は、今回の旅程を後になって後悔する羽目になろうとは、想像もしていなかった。

 

高速バスファンとして、出来るだけ多くの路線を体験したい、せめて信州を発着する高速バスくらいは全て乗り潰しておきたい、と心掛けてきたのだが、それならば、僕は草津温泉から軽井沢に戻るべきであった。

横浜・羽田空港と軽井沢を結ぶ高速バスが、僕が未乗のまま、平成31年1月に廃止されたのである。

今回の旅の翌年であるから、どうして乗る機会を作らなかったのか、と自分の見通しの甘さを悔やむに悔やみ切れないのだが、これだけ観光が盛んな御時世で、羽田空港と一大観光地である軽井沢を結ぶ高速バスが消え失せるとは、夢にも思わなかった。

 

 

信州を発着しながら、僕が未乗のまま残されている高速バスとして、成田空港もしくは羽田空港と白馬を結ぶ路線もあるが、片や、LCCのターミナルがあるとは言え国際線主体の空港が起終点であり、一方は比較的敷居の低い羽田空港発着であっても行き先がスキー場では、なかなか食指が動かない。

1人で出掛けるほどスキーが好きな訳ではなく、誰かと誘い合うにしろ、バスタ新宿ならばまだしも、羽田空港で乗ろうとは言いにくい。

 

東急バスの特急バス渋谷-長野線が運行されていた昭和30~40年代に、長野電鉄が上野と長野・志賀高原を結ぶ特急バスを走らせ、東急バス路線の廃止後も、冬季運行のスキーバスとして存続し、東京と長野を結ぶ唯一の路線であった時期があるが、僕は強い関心を抱きながらも、乗るところまでは行かなかった。

スキーをするつもりがない人間がスキーバスに乗ると、どれほど肩身の狭い思いで車中を過ごすことになるのか、僕にそれを試してみる勇気はない。

 

 
もう1本、大阪・京都と長野・坂城・上田・東部湯の丸・佐久・小諸を結ぶ夜行高速バス「青春ドリーム信州」号が、平成27年10月から運行を開始している。

 

心が動かなかったと言えば嘘になるし、長野市と東信を網羅する経路は面白そうであるが、「青春」を冠した高速バスは横4列席の格安便であるから、さすがに億劫であった。

昭和59年に初めて高速バスの魅力に取り憑かれてから、どのような設備のバスであろうと躊躇わなかった僕も、それだけ歳を取ったということであろう。

 

 

加えて、乗りたくても乗れない時代が到来した。

 

中国の武漢で発生した新型コロナウィルスSARS CoV-2が、強い伝染力と高い重症化率・死亡率で瞬く間に全世界に感染が拡大し、我が国で最初の感染者が確認されたのは、この旅の2年後の令和2年1月であった。

通勤通学を含めた労働や学校生活、買い物、娯楽、旅行、催し物など、多数の人間が集まる活動が困難となり、生活や経済に多大な影響を及ぼす中で、僕は、高速バスに乗れなくなったのである。

 

 

 

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