第1章 昭和58年 池袋から高島平、そして南浦和へ路線バスで中山道を行く | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:国際興業バス「池20」系統、「南浦05」系統】



大学受験は一浪した。

落ち込む暇もなく、昭和59年の4月に、僕は故郷の信州を出て東京の予備校に入学し、その寮に入居して、生まれて初めての1人暮らしを始めた。


入試に落ちたのは悔しかったけれど、不謹慎にも、東京の生活に胸がときめいたことを覚えている。

寮は、東京の北の端である高島平団地の手前にあって、都営地下鉄三田線の蓮根駅に近かった。

予備校は小田急線の東北沢駅が最寄りであったため、毎朝、殺人的な混雑を抜き手で泳ぐような、片道1時間かけての通学が始まった。



三田線から巣鴨駅で山手線に乗り換え、新宿駅から小田急線へ。

車内にひしめく人混みの中で身動きもできず、ひたすら耐え忍ぶだけの時間は、田舎者の僕にとって初体験で、最初は物珍しかったけれども、そのうちに憂鬱以外の何物でもなくなっていった。


満員電車を降りた先で待っているのは、試験の成績次第で教室の席順すら変えられてしまう、露骨で厳しい受験競争だった。

点数が全てを決める世界である。

息がつまりそうだった。

髪と髭を伸ばしてみたり、酒を飲んでみたり、厳格だった親元の生活で制限されていたことばかりを始め、それだけで、何か大人に近づいたような気分に浸っていた、青臭い1年間だった。

反逆するつもりではなかった、と思う。

浪人生活が、親のスネかじりで成り立っていることは、充分承知していたし、心苦しくも感じていた。

だからこそ、押しつけられて来た親の理想と異なるスタイルを試すことで、自分だけの生き様を見つけたい。

独り立ちしたい。

そのような矛盾した願望を抱きながら、必死で喘いでいた時代だった。


浪人生活が始まったばかりの5月に、父が亡くなった。

残された母と僕、弟の生活は一変し、蓄えで当面は何とかなるにしても、働き手を失った我が家が経済的に窮乏するのは目に見えていたから、長男の僕が早く一人前にならなくては、という焦燥と、受験の重圧が重なり、溺れて水中で踠いているような心持ちで過ごす日々だった。


今、振り返ってみれば、当時の僕は突飛な行動も多く、懐かしくもほろ苦い記憶が少なからず蘇ってくる。

恥ずかしくて、思い出した途端に打ち消したくなるような思い出も少なくない。



予備校生活にも慣れ、寮で寝坊して遅刻する奴も出てくる5月頃の話である。


寮長は、公務員を定年退職して、第2の人生を送っている人だった。

堅い寮長が思いついた奇想天外な遅刻予防策とは、アイドルが吹き込んだ市販の目覚ましテープを、フル・ボリュームで全館に流すことだった。

まだカセットテープとレコードが主流の時代である。


小鳥のさえずりとともに、

 

『ねえ、起きて! 起きてったらぁ! まだ眠いのぉ? じゃ、あたしの歌で目を覚ましてねっ?』

 

という甘ったるい声で始まり、彼女の歌がひとしきり流れた後に、

 

『まだ起きないの?んもう、知らないっ』

 

ダダーン!──という、何を意味しているのか分からない破壊音で終わるテープである。


早起きして散歩していると、目覚ましテープが外にも漏れ聞こえているのが判明して、思わず赤面したものだった。

それからは、アイドルの魅力やテープの音声で目覚めるよりも、もう沢山だから勘弁してくれ、との思いで覚醒したものである。

毎朝、このような音が閑静な住宅地に響き渡っていたのだから、よく苦情が出なかったものだと思う。



大規模団地や住宅地から都心へ向かう三田線と山手線の混雑は、まさに殺人的であったけれども、新宿駅の人混みを掻き分けて乗り換える小田急線は、ラッシュと反対方向で、東北沢駅は各駅停車しか停まらなかったので、車内はすいていて、ホッとひと息つくことが出来た。


東北沢駅は各駅停車の待避駅で、上下線とも側線にホームが設けられていた。

改札を出てから、駅舎の脇にある踏切を渡らないと予備校に行けないのだが、風を切って通過していく急行電車や、箱根湯本と片瀬江ノ島を行き来する特急ロマンスカーのために、なかなか遮断機が開かなかった。

長い待ち時間でみるみる数が増えていく通行人は、イライラしていたのであろうが、様々な通過電車を間近で眺めることが出来たので、僕にとっては楽しい時間だった。

予備校の昼休みや帰り道に、その踏切で何枚も電車の写真を撮ったこともある。



故郷での高校時代に、親に図書館で勉強すると言って、ふらりと地元の国鉄や私鉄の鉄道に乗りに出掛けるという悪い楽しみを覚えていた僕は、そのうちに、予備校に自主勉強に行く振りをして、気晴らしの日帰り旅に出掛けるようになり、高速バスに出逢った。


初めて体験したのは、「東名ハイウェイバス」東京-静岡線である。

一発で高速バスに魅了された僕は、それからも、気持ちが煮詰まると、高速バスに乗りに出掛けるようになった。

受験勉強の合間であるから、試しに乗ってみたのは、新宿と甲府を結ぶ「中央高速バス」や、新宿から御殿場駅を経由して箱根桃源台へ向かう「箱根高速バス」などの、比較的近距離の高速バス路線であったが、いずれも座席がきっちりと指定されてしまい、運転席と車窓を楽しめる前方の席に当たることはなく、結局は座席の自由度が高い定員制の「東名ハイウェイバス」に繰り返し乗ることが多かった。



受験生である以上、褒められる行為でないのは重々自覚しており、寮の友人にすら内緒だった。

それでも、あの1年間に乗った鉄道やバスが、どれほど僕の心を解きほぐし、力を与えてくれたことか。


そのまま東京の大学に進学し、1年目の教養学部は山梨県富士吉田市の寮に入ったが、2年目から品川区大井町のアパートに入居した。

その後、大田区、新宿区、杉並区と移り住んだけれども、大学在籍中は卒業したら故郷の信州に帰るぞ、と決めていたことを思い返せば、蓮根時代から40年近く、ずるずると長く居ついたものだ、と思う。


予備校時代に高速バスを初体験し、その魅力に取り憑かれてから、僕の趣味は高速バス一本槍になったが、小学生の頃からファンになった鉄道も好きなままであったし、高速道路を走らなくても、路線バスだって好きである。

路線バスは高速バスより遥かに敷居が低く、僕にとって日常生活における気軽な憂さ晴らしになり得たので、富士吉田でも、品川、大田、新宿、杉並でも、地元を発着する路線バスを数え切れないほど利用してきた。



最近、ふと思う。

高速バスの初体験が、国鉄「東名ハイウェイバス」東京-静岡線だったのは明確であるが、東京に出てからの一般路線バスの初体験は、いつのことだったろうか。


故郷の長野市ならば、小学4年生の時に、ランドセルを背負ったまま1人で乗り込んだ、川中島自動車の市内循環線「中廻り」の乗車体験が、昨日のように思い出される。

それより以前にも、通院のために同社の「返目」線に乗っていた可能性があるが、必ず母と一緒だったので、純粋な一人旅としては「中廻り」が初めてだった。



ならば、東京で初めての路線バスはどの路線だったのか、という、どうでも良いことが無性に気に掛かるのは、歳をとって回顧趣味に取り憑かれている証拠であろう。

記憶をたどれば、僕のバス趣味元年であった昭和58年の予備校時代に乗車した、国際興業バスの「池20」系統が思い浮かぶ。


予備校時代は、たまに高速バスに乗りに行ったものの、一般路線バスは殆んど利用した記憶はない。

その頃の僕は、まだ鉄ちゃんの残滓があって、大学時代の前半まで、暇が出来れば首都圏の鉄道乗り潰しに精を出していたことが一因かもしれない。



「池20」系統は、池袋駅西口と高島平操車場を結んで、昭和30年から運行されている老舗路線である。

昭和43年に都営三田線が開通するまで、1日100本も運転されていたことがあるという。


天保12年に、我が国で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われ、徳丸ヶ原と呼ばれる農作地であった高島平に、入居戸数1万170戸というマンモス団地が完成したのは昭和47年のことである。



「東名ハイウェイバス」もそうであったが、「池20」系統に乗ったのも、思いつきに過ぎない。

予備校の講義が終わり、小田急線と山手線を乗り継いで池袋駅まで来た時に、ふと、蓮根の街なかで「池袋駅西口」と行先表示を掲げた路線バスを見掛けたことが脳裏に浮かび、衝動的に電車を降りた。


不案内な池袋で、山手線のホームから西口にある「池20」系統の乗り場にどのように辿り着いたのか、という記憶は曖昧である。

僕にとっての池袋とは、東口にある西武百貨店の書籍売り場を訪ねるばかりの土地で、既に何度か途中下車していたのかもしれないが、西口は未知であった可能性が高い。

スマホで簡単にバスの停留所が調べられる時代ではなく、よくぞ迷わず行けたものだと思う。



都営地下鉄三田線の蓮根駅から巣鴨駅で山手線に乗り換え、新宿で小田急線の東北沢駅まで、という定期券は、途中に繁華街が多く、とても重宝した。

いけない誘惑が多すぎる定期券だった、と言い換えても良い。


朝に寄り道をする余裕はなかったけれども、帰路では、高田馬場の古書店街、池袋の西武百貨店、もしくは東口のサンシャインシティにあるラーメン店「元祖札幌や」、巣鴨駅の「松屋」などと、通学路に馴染みの店が幾つか出来た。

「元祖札幌や」をどうやって知ったのか、全く忘却の彼方であるが、僕が生まれて初めて味噌ラーメンを賞味した店であるし、巣鴨駅前にある「松屋」も、僕にとって牛丼初体験の店で、加えて豊富な定食メニューに病みつきになった。



書店巡りが好きで、高校時代に別の予備校の夏期講習で訪れた神田神保町の古書店街を想起して、高田馬場にも足を向けてみたのだが、確かに古書店は幾つか見られたものの、神保町のように何軒も軒を並べている訳ではなく、店頭に並んでいるのも渋い書籍ばかりだったので、多少がっかりした覚えがある。


通学路における最大の繁華街の新宿に、行きつけの店が出来なかったのは不思議で、小田急デパートの書籍売り場などに立ち寄ってみたけれども、我が国随一の売り場面積を誇ったという西武百貨店の書店とは比ぶべくもなかった。

新宿と言えば思い出すのが、夏の暑い午後に、小田急百貨店の地下で、ふらりと立ち寄ったスタンドのソフトクリームが絶品であり、まさかソフト初体験ではなかったと思うのだが、何度か立ち寄ったものだった。

当時ですら200~300円もする値段にたまげてしまい、それほど頻回に訪れた訳ではないが、今でも新宿駅西口地下街に足を踏み入れると、口の中でとろけるようだった濃厚なソフトクリームが脳裏に浮かぶ。


そのような味覚や書籍趣味ばかりでなく、東京でバス趣味の悪戯を覚えたのは、「東名ハイウェイバス」と「池20」系統と、どちらが先であったのか。



当時の池袋駅西口は、改装前の東武百貨店の時代だが、外観は、現在と全く変わっていない。
西口に馴染みの店が出来ず、予備校時代を通じて足を踏み入れたのは、この時だけだったかもしれない。


素っ気ない公園の周囲にあるバス乗り場で、何本も並ぶポールの1本に「高島平操車場」の文字を見つければ、それほど待たされることもなく、緑を基調にした塗装の国際興業バスが姿を現した。

この頃の「池20」系統は、朝20分間隔、日中35分間隔、夕方20分間隔という比較的頻回の運行を保っており、経路の大半が都営地下鉄三田線に沿っているとは言え、池袋に直結しているので、利用客が多かったのだろう。


池袋駅西口を後にして、都道441号線・要町通りを走り始めた「池20」系統は、夕方の帰宅時間ということもあって、立ち客が出るような盛況ぶりだった。

会社帰りのサラリーマンや若い女性が多く、誰もが黙りこくって窓の外を流れる風景に目を遣っている。

電車と異なり、新聞や書籍を広げる客が殆んど見受けられないのは、揺れて酔いやすいからかな、と思ったりする。



交番前、池袋二丁目と、乾いた録音の声が停留所を案内し、雑居ビルが立ち並ぶ要町通りを西に進むと、バスは山手通りと交差する要町一丁目交差点を右折する。


山手通りは、品川区の湾岸地域から新馬場、大崎広小路、中目黒、大橋、初台、東中野、落合、椎名町と、山手線の外側を半周してきた環状6号線の通称で、中央分離帯のある広々とした道路なのだが、どうしてこれほど曲がりくねって造ったのか、と首を傾げたくなるほど曲線が多い。

山手、という名前の通り、台地の起伏が激しいことがその理由であろうが、地形など分からなくなるほど、びっしりと家やビルが土地を埋め尽くしている。



高松郵便局、南町庚申通り、中丸町と、広い通りの左隅に置かれた停留所に立ち寄りながらバスが進むと、国道254号線・川越街道と交わる熊野町の交差点で、右から首都高速5号池袋線の高架が覆い被さった。

今でこそ、要町一丁目交差点のすぐ先で、地下の山手トンネルから首都高速中央環状線が宙空に駆け登り、高架に覆われて昼でも薄暗くなっているが、昭和58年当時は、熊野町まで、空を仰げる道のりだったのである。


首都高速5号線は、昭和42年に都心環状線竹橋JCTから西神田ランプまでが完成したのを皮切りに、昭和52年に高島平ランプまで順次延伸されていた。

荒川を渡って埼玉県の戸田南ランプまで伸びたのが平成2年、外環自動車道美女木JCTまで開通したのが平成5年、与野JCTまで首都高速大宮線が開通したのが平成12年と、今回の旅よりずっと先のことである。



いきなり暗い車窓に変わった「池20」系統は、金井窪、板橋電話局、板橋区役所と歩を進め、右手から国道17号線・中山道が合流する仲宿交差点からは、江戸時代の旧街道を北に向かうことになる。


国道17号線は、東京から大宮、熊谷、高崎を経て新潟に向かうが、途中で左に折れて碓氷峠を越え、軽井沢、小諸、上田、長野を経て上越に向かう国道18号線を分岐する。

中山道は江戸時代の五街道の1つに数えられ、江戸から大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越え、軽井沢の先の追分けで佐久に向けて進路を変え、諏訪、木曽路を経て関ケ原、草津に向かっていた。


東海道が国道1号線、甲州街道が国道20号線、日光街道と奥州街道が国道4号線と、他の五街道に沿う国道が敷かれているのに、中山道だけ平行する国道が統一されていないのはなぜなのだろうと、子供の頃から不思議だった。

江戸時代と明治期以降で人の流れが変わってしまい、中山道を利用する東西の往来がなくなってしまったのは理解できるが、国道17号線が中山道に沿って信州に向かわず、新潟に逸れていくのが解せなかったのは、僕が信州の出身だからであろう。



高崎から信州に向かう国道18号線は、子供の頃に、父が運転する車で軽井沢、小諸、上田、長野、黒姫と長野県内区間を何度もドライブしたから、「池20」系統が走るこの道路が、懐かしい故郷に繋がっていると思えば、様々な感慨が湧いてくる。

国道17号線と18号線を走破して東京と長野を車で行き来したことはなかったので、中山道の東京側はこのようになっているのか、と物珍しくもあるが、いつまで経っても首都高速が蓋をして、ひたすら沿道を建物がひしめいている道路は、東京らしいとも言えるけれども、気分が高揚するには程遠い。


その代わり、板橋本町、蓮沼町、志村坂上などと、降車案内が告げる停留所名は、毎日利用している都営地下鉄三田線の駅の名と同じなので、そうか、僕は中山道の地下を通学していたのか、と何やら因縁を感じた。

本蓮沼で、首都高速5号線の高架は狭い側道を伴って左に逸れ、いきなり車内が明るくなって、目がしょぼしょぼした。

日が長い季節であるし、日差しが眩しい快晴の1日だった。



せっかく解放感を味わえたのだから、このままいつまでも中山道を走り続けたいのだが、国道17号線を進めば、北区船渡の方に行ってしまう。

高島平に向かう「池20」系統は、志村三丁目交差点を左折し、都道311号線・環状8号線を走り始めた。


環八は、終戦後すぐに昭和21年に「戦災地復興計画方針」で計画が持ち上がったにも関わらず、同時期に計画された環状7号線や産業道路が昭和39年の東京五輪に向けて速やかに着工されたのと比較すれば、本格着工が10年後の昭和31年と遅かった。

当時の環八沿線は、東名高速、中央自動車道、関越自動車道といった、現在環八付近を起点としている高速道路はおろか、多摩川を渡る橋も少なく、交通量が少なかったようである。



昭和40年に第三京浜道路が開通し、その玉川ICから国道246号線と交差する瀬田交差点までが整備された頃から、沿線が急速に宅地化されて、交通量が急増した。

更に、上記の3つの高速道路の起点を短絡する役割も負ようになり、トラックやバスをはじめ、通過する車両が加わったので、整備が急がれたものの、過密化した住宅地と地価の急上昇により、用地取得がなかなか進まなかったという。

最後まで残った練馬区の井荻トンネルから目白通りの間と、川越街道から板橋区の環八高速下交差点までの区間が開通して、全線がようやく完成したのは平成18年5月で、正式な計画決定からも60年もの歳月が流れていた。


この2区間の開通まで、笹目通りや高島通りが環八通りとしての役割を果たし、一部の道路地図では、笹目通りの東京と埼玉の境から南側を、環八通りと表記しているらしい。



僕は、大学卒業後に大田区の環八沿線で働き、30年後に、杉並区荻窪の環八に程近い地域に住むことになる。


大田区で働いている間は、東京五輪までに大半が完成していた環七に比べると、未完成区間が多く、学生時代は友人の車で、社会人になってからは自分のバイクや車で、道幅や車線が狭くなったり広くなったりする環八を走るのがもどかしく、東京に道路を造るのはひと苦労なのだな、と身につまされた。

荻窪に引っ越した時に、環八は完成していたものの、両側に雑居ビルや古びた店舗、そしてマンションや戸建てがびっしりとひしめいて、路線バス同士のすれ違いも儘ならない狭隘な旧環八通りを目にして、この道が、かつて東京の環状線を担っていた時代があったのか、と仰天した。



「池20」系統の経路は、都営地下鉄三田線が並走しているとは言え、地下鉄であるから姿は見えない。

地図によれば、中山道の地下を走ってきた三田線は、志村三丁目交差点の手前で左に曲線を描き、中山道から外れて地上に出ると、「池20」系統が停車する国際興業バスの志村車庫より1つ南側の道路に志村三丁目駅を設けて、今度は右に急カーブして蓮根駅前通りを北上している。


「池20」系統は、環八から蓮根駅前通り、志村坂下通り、都道446号長後赤塚線と、鉤状に右左折を繰り返して、西台駅前で高島通りに出る。

「池20」系統の窓に三田線が初めて映るのは、志村三丁目駅の先で環八を跨ぐところで、蓮根駅前通りに入ると、高架の武骨な橋脚が右手にずらりと並んでいる。



志村、とは、この年に東京に出てきて、志村坂上、志村三丁目といった都営地下鉄三田線の駅で馴染みになった地名であるが、僕が子供の頃の人気テレビ番組「8時だヨ!全員集合」に出演していたドリフターズの志村けんを思い出したくらいである。


板橋区役所の近くの中山道に一里塚が残され、商店街が「志村銀座」を名乗っているような、古くから発展した街らしいが、志村坂上、志村坂下と停留所が案内されても、どこに坂があるのか、「池20」系統からは、さっぱり分からなかった。



昭和50年に公開された東映映画「新幹線大爆破」は、時速80km以下に速度を落とすと爆発する爆弾が東京発博多行きの「ひかり」109号に仕掛けられ、犯人グループと警察、国鉄の緊迫した駆け引きが面白く、昭和52年にテレビ放映された翌日は、同級生の間で大いに話題になったものだった。


犯人グループの拠点が志村3丁目の廃工場で、主犯の高倉健は、新幹線の速度計を製造していたその工場の経営者だったのだが、そこに帰ろうとした山本圭扮する犯人の1人が、都営地下鉄三田線の沿線で、警察に追われる場面がある。



追いつめられた山本圭は、三田線の車庫に入り込み、入れ換え中の6000系電車の脇を逃げるシーンが印象的だったが、最後は西台駅のホームに駆け上がり、発車寸前の電車に飛び乗って逃げ切った。

あれは三田線だったのか、と中学生時代に知る由もなく、そうと確認できたのは、大学生になってビデオデッキを購入し、「新幹線大爆破」をレンタルで観た後の話である。

毎日の通学に使った6000系電車の登場が無性に懐かしかったが、三田線の志村車庫、正式名は志村検車場が西台駅と繋がっていることを初めて知ったのも、映画のおかげである。


志村検車場が沿線の何処かにあるのは知っていたものの、志村と名乗るからには、志村坂上駅もしくは志村三丁目駅の近くにあるものとばかり思い込んでいたので、西台駅に隣接しているとは意外だった。


その直前に、刑事たちが、


ここが志村2丁目だから、3丁目と言うと……


などと話している台詞があるから、テレビ放映で、東京に志村という土地があることを知ったのかもしれない。

きっと、志村けんを思い出したに違いないのだが。



「池20」系統のバスが、志村相生町交差点で志村坂下通りに曲がらず、まっすぐ進んでくれれば、蓮根駅前通りの名に違わず、寮に近い蓮根駅に連れて行って貰えるのだが、駅の前後の商店街が狭隘であることは知っているし、蓮根駅周辺に行きたいならば地下鉄三田線を使って下さい、ということなのだろう。


蓮根一丁目、蓮根児童館入口、蓮根二丁目などと案内される停留所の名を聞き流しながら、それまで寮の周辺を散策したことはなかったけれども、蓮根とはこのような佇まいの街だったのか、と思う。



中山道を逸れてからは、比較的せせこましい道ばかりを走って来たので、突き当たった高島通りは、かつて環八を名乗っていただけに、あっけらかんと広く、何となくホッとした。

空き地がある訳ではないけれど、高架になっている西台駅や高層の都営住宅、ダイエーの入ったショッピングセンターなどといった建物の規模が大きく、敷地や間隔が開いている。

昭和47年の高島平団地の建設とともに開けた新しい街なのだろう、どこか粗削りな新開地の趣が残されていた。

この高層住宅は、志村検車場に被さった人工地盤の上に建っているのだが、予備校時代に気づくことはなかった。


「池20」系統の終点である高島平操車場は、西台駅と高島平駅を結ぶ高架線路の北側にあるバスの転回場で、僕は、ぶらぶらと蓮根の寮まで歩いて帰った。



数ヶ月後の話になるが、高島平駅から、京浜東北線と武蔵野線が交わる南浦和駅に向かう路線バス「南浦05」系統に乗車したことがある。


当時、高島平操車場から京浜東北線蕨駅に向かう「蕨56」系統や、蕨駅前を経て戸田車庫に向かう「戸81」系統、東武東上線下赤塚駅に向かう「下赤03」系統、同線の成増駅に向かう「高01」系統が発着し、高島平駅北口からは、船渡を経て池袋駅に向かう「池21」系統、京浜東北線赤羽駅に向かう「赤05」系統、東武東上線練馬駅に向かう「東練01」系統、そして「南浦05」系統などが運行されていた。

都営地下鉄三田線ばかりでなく、京浜東北線や東武東上線など、高島平の住民が周辺の鉄道を利用できるよう、きめ細やかな路線バス網があったのだが、その中から「南浦05」系統を選んだのは、何と言っても、東京都と埼玉県の境を越えるからである。



高速バスで県境を越えることなど、珍しくもないけれど、一般路線バスで県境を越える、という行為は、何故か、心を沸き立たせるような魅力を感じる。

少なくとも、故郷の長野県で、県境を越える一般路線バスは思い当たらない。


大学時代に品川区に住むようになると、五反田駅と川崎駅を国道1号線経由で結ぶ東急バスの「反01系統」で、多摩川を渡って東京都内から神奈川県に移動してみたり、八王子駅から国道20号線で神奈川県内にある相模湖駅まで、神奈川中央交通バスの「八07系統」に乗ったり、県境を越える路線バスへの興味は、予備校時代に萌芽していたようである。



蕨駅を行き来する「蕨56」系統や、戸田に向かう「戸81」系統も県境を越えるが、「南浦05」系統は、曲がりなりにも県都に足を踏み入れるので、格上に感じられた。


後に、高速バスに頻繁に乗るようになってから、僕は、趣味の目標を、東京から全ての46道府県庁所在地にバスで行くこと、と定めたが、そのはしりが「南浦05」系統だったと言えるだろう。



「南浦05」系統に乗りに出掛けたのは、おそらく日曜日であったと思う。

なぜ日曜日と断言できるのか、と言えば、予備校の寮は朝食と夕食付きだった。

平日の昼食は予備校で済ませるが、休日は、寮で昼食が出た。

メニューはカレーライスと決まっていて、別にお金を取られたから、外へ食べに行く者も少なくなかった。


西台駅の近くに、今で言うならば家系の美味しいラーメン屋があり、プレハブのような簡素な造りで、床が脂でぬるぬる滑るような小汚い店だったけれども、仲間と連れ立ってよく出掛けたものだった。

こってりしたラーメンを初めて食べたものだから、病みつきになった。


その日は、珍しく1人でラーメンを食べに出掛けた。


「おう、どこか行くのか」

「うん、昼飯。西台のラーメンに行かないか」

「うーん、行きたいけど、仕送りの前だから金がねえ。今日はカレーにしとく」


友人とそんな遣り取りをしながら寮を後にして、満腹を抱えてラーメン店を出ると、せっかくだから浦和まで行ってみようか、と思い立った。



高島平操車場に足を運んでみたが、停留所のポールに、南浦和駅に行くバスの案内はないので、おやおや、と首を傾げた。

いささか慌てて、一服していたバスの運転手に、


「あの、南浦和行きのバスは何処から…」


と聞くと、「南浦05」系統は高島平操車場に乗り入れておらず、高島平駅が始発と教えてくれた。


ならば、成増駅北口行き「高01」系統か、下赤塚駅行き「下赤03」系統に乗り、高島平八丁目停留所を経て、2つ目の高島平駅北口まで行かなければならない。

高島平駅までのバスはすぐに来たけれども、「南浦05」系統は、運行本数がそれほど多くなく、高島平駅でだいぶ待たされた。



ようやく姿を現した国際興業バスの「南浦05」系統は、高島平七丁目、西高島平駅を経て、三園2丁目交差点で国道17号線新大宮バイパスに右折し、笹目橋を渡り始めた。


あまりにも呆気なく荒川に来てしまったので、今、自分が住んでいるのが東京の隅っこであることを改めて認識した。

河川敷が広く、のびやかで心が洗われるような車窓だったので、路線バスで県境を越える高揚感ばかりでなく、乗りに来て良かった、と思う。



荒川の北で、早瀬、聖橋、笹目、下笹目、天王公園、修行目、堀の内、美谷本小学校入口と、新大宮バイパスの停留所に小まめに停まってから、右手の県道に入り込んで、美女木、内谷、曲本、鎧、沼影とたどり、いつの間にか浦和市域に入り込んでいた。


高島平を出た時にはがらがらだった車内は、埼玉県内で少しずつ席が埋まって行ったが、それでも閑散としていた。

昭和60年に埼京線が開業し、「南浦05」系統も武蔵浦和駅に立ち寄るようになったが、その2年前にあたるこの旅の当時は、埼京線も未完成で、東北新幹線も大宮以南が鋭意建設中、それどころか、後にこの地域を貫く東京外環自動車道も首都高速大宮線も未完成だった。


バスから仰ぐ空はひたすらに広く、バスが走る道路は対照的に幅が狭くて、古びた住宅や雑居ビルがぎっしりとひしめいていた。

浦和とは、これほど雑然とした街並みだったのか、と思う。



浦和市の南西部を東西に走る田島通りに置かれた白幡停留所の次が白幡坂上で、バスはその先で旧中山道と交差する。

志村と同じく、ここにも坂があったのか、と周囲を見回したが、やはり目ぼしい坂は見当たらなかった。

徒歩の時代の人々にとっては、バスで何気なく通過してしまうような坂ですら、地名に取り上げられるほど大ごとだったのかもしれない。


終点の南浦和駅は、住宅地の中にこじんまりした駅舎とロータリーがあるだけで、県都の趣が全く感じられなかったので、バスだけで浦和まで来たのだぞ、と自分に言い聞かせなければならなかった。



「池20」系統と「南浦05」系統。

日付は異なるものの、この2本の体験で、僕は、池袋駅から南浦和駅まで、路線バスを乗り継いだことになる。

この実績のおかげで、東京から全ての道府県庁所在地にバスで到達する目標を定め、その一環として、バス路線を繋げて群馬県前橋市に行こうと計画した際に、南浦和駅から旅を始めることが出来たのは、後の話である。


昭和58年の予備校時代に、そのような未来のことなど思いも寄らなかったし、今回のささやかなバス旅は、受験勉強の合間の気まぐれに過ぎなかった。



南浦和駅で、僕は少しばかり逡巡した。

「南浦05」系統で折り返すのも芸がないので、電車で帰ろうと思うのだが、京浜東北線を南下して田端駅、山手線に乗り換えて巣鴨駅、そして都営地下鉄三田線へと大回りする必要があるから、多少うんざりした。


ラーメンを食べに出ただけなのに、思わぬ大旅行になったものだ、と、不意に独り笑いが込み上げてきた。


 

 

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