第26章 平成7年 高速バス新宿-日光線と新宿-鬼怒川温泉線で蘇る東武特急「けごん」の思い出 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:東武鉄道特急「けごん」、高速バス新宿-日光線、高速バス新宿-鬼怒川温泉線】

 
日光へ初めて行ったのは昭和50年のこと、僕が小学校4年だった年の家族旅行だった。
秋の連休が始まる土曜日の午後に、父が仕事を終えるのを待ち、故郷の長野から上野へ向かう特急「あさま」に乗り、東京で1泊、翌朝に浅草に出て東武鉄道の特急「けごん」に乗車したのである。

既に鉄道ファンになっていた僕は、東照宮や中禅寺湖などといった観光地よりも、「けごん」に乗れることが嬉しくて仕方がなかった。
まずは、江戸通りの正面に立ちはだかる松屋デパートの2階に入った東武浅草駅の、ローカル私鉄の駅とあまりに異なる威容に度肝を抜かれた。
デパートの中から列車が出入りするのも珍しかったし、国鉄の駅と接続していないことも意外で、東武鉄道を利用する客は不便さを感じないのだろうかと、子供心に心配したものだった。
 
東武鉄道が北千住と久喜の間を開業したのは明治32年のことで、明治45年には現在の佐野線に当たる佐野鉄道を、大正2年には現在の桐生線を運営していた太田軽便鉄道を、大正9年には現在の東上線である東上鉄道を合併するなど、北関東を中心に着々と路線網を拡大し、昭和4年には日光線が全通、日光特急の運転が開始されている。
明治35年に北千住から吾妻橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)まで線路を延伸し、そこを浅草駅へと改称したものの、隅田川を越えることがなかなか出来ず、現在の地にターミナル駅を設けたのは昭和6年のことであった。
 
 
建設当初の東武浅草駅は、アール・デコ様式の外観を持ち、阪急梅田駅と東急五反田駅に出店した白木屋に次ぐ、日本で3番目のターミナルデパートだったという。
今では創業当初の姿に復元されているものの、僕ら家族が訪れた時は、如何にも百貨店でございます、といった印象の真四角な建物に改造されてしまっていたけれど、それでもお上りさんの目には、堂々たる建築物に写った。
駅舎は隅田川と平行して建ち、直角に川を渡るために、半径100mというきつい曲線が構内から始まっていて、ホームは先細りになっている。
列車がかなりの速度で轟々と通過していくJR総武線や京成電鉄の鉄橋と比べて、時速15kmのノロノロ運転で川を渡る東武電車の姿は一種の風物詩となっているけれども、このカーブが災いして、乗り入れる列車は6両以内という制約も受けている。
 
 
当時の「けごん」は、昭和35年に登場した、デラックスロマンスカー(DRC)の愛称を持つ1720系車両の時代で、国鉄とはひと味異なるいかつい風貌は、長大編成の先頭車にも相応しいと思われたが、やはり6両編成だった。
国鉄の特急列車は10両以上が常識という時代であったから、6両の特急なんてあるものか、やっぱり私鉄だな、と思ったものだった。

浅草駅のホームに上がってみれば、幅が狭く、大きく右へカーブしている構造に、どこか無理をしている駅だなあ、と感じた。
図鑑や写真集で何度も目にしていた1720系を目の当たりにした時には、飛び上がりたくなる程に嬉しかったけれども、頭端式のホームの車止めぎりぎりまで寄せて停車している先頭車を撮影できるアングルがどうしても定まらず、父から、何をモタモタしている、早く乗りなさい、と叱られた。
 
 
北千住駅を通過すると、「けごん」はみるみる速度を上げて、北関東の広大な田園地帯を疾走する。
浅草から日光まで135.5kmの距離を、当時の「けごん」は1時間40分で走り抜いた。
途中停車駅のないノンストップ運転で、そのような長時間を無停車で走る列車に乗車したのは初めてだったから、東武鉄道は何と凄い特急列車を走らせているのだ、と驚嘆した。
辛子色に塗られた、国鉄のグリーン車を思わせる豪華なシートに座り、特急で1時間40分もかかる距離の線路を、私鉄が所有していることにも驚かされた 。
東武鉄道の路線総延長が当時で467.5km、近畿日本鉄道と名古屋鉄道に次ぐ日本で3番目の規模であることは知っていたけれど、僕が圧倒されたのは、初めて接する大手私鉄の雰囲気ではなかったかと思う。
 
日光では、東照宮を詣でてから中禅寺湖を訪れて華厳滝を見る、というお決まりのコースを予定していたのだが、タクシーの運転手が両親に向かって、

「お客さん、いろは坂は渋滞でとっても無理ですわ。代わりに霧降高原にしませんか。いいところですよ」
 
と、誘い水をかけてきた。
ちょうど紅葉シーズンたけなわで無理もない話であったが、霧降へ行き来した車窓は全く覚えていない。
目がくらむような白亜の高い橋を見物した記憶だけが残っていて、後に、それは六法沢大橋であると知った。
父も母も、
 
「タクシーの運ちゃんにとって都合の良い場所に行かされてしまった」
 
などと、後々まで不機嫌そうにぼやいていたが、東照宮から中禅寺湖までは17km、霧降高原までは12kmであるから、霧降高原の方が実入りが良いわけではなく、渋滞の話は本当だったのであろう。
 
 
それから20年の月日が流れて、平成7年3月に、新宿と日光・鬼怒川温泉を結ぶ高速バスが開業した。
 
運行するのは関東バスと東武バスで、関東バスとは、東京在住でなければ馴染みが薄い名前かも知れない。
宇都宮に関東自動車というバス事業者が存在するからややこしいけれども、全くの無関係である。
東京西部の中野・杉並・世田谷・練馬区の鉄道駅や住宅地を歩いていると、こんな小さな路地に、と思うような場所でも同社のバスを見かけることが多く、地元に密着した路線展開に徹しているのだが、その歴史は、昭和7年に関東乗合自動車として発足し、新宿駅と小滝橋を結ぶ路線の運行を開始したことに始まる。
地元の有志によって設立された規模の小さい会社で、発起人と初代社長は歯科医だったという。

昭和13年には東京横浜電鉄(現・東急バス)の傘下に収まり、戦時中の昭和20年に、中野駅以西の早稲田通り近辺をエリアとする中野乗合自動車、五日市街道沿いに杉並区と武蔵野市にかけて営業していた進運乗合自動車、荻窪を拠点に西荻窪・阿佐ヶ谷、高井戸方面への路線を運行していた昭和自動車商会の3社を合併、昭和39年11月に関東バスと社名を変更し、独立した。
昭和45年には、我が国のバス事業者で初めてワンマン化率が100%となっている。
 
 
長距離高速バスとしては、昭和63年8月に開業した新宿-奈良間と新宿-五條間の2系統の「やまと」号が、他に直通交通手段のない区間に登場した路線として好評を得た。
 
その後は、
 
平成元年12月:新宿-京都・枚方間「東京ミッドナイトエクスプレス京都」号
平成2年3月:新宿-岡山・倉敷間「マスカット」号
平成4年4月:新宿-宇治・枚方間「宇治」号
平成18年8月:新宿-豊橋・田原間「ほの国」号
平成29年1月:池袋-大阪間「ドリームスリーパー」号
 
と5本の夜行高速バスを開業させているが、都内の他社の高速バス網に比べれば控えめである。
 
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新宿-日光・鬼怒川線のターミナルは、何本もホームが並ぶ新宿駅西口の14番乗り場で、都営バスや関東バスなどの一般路線バスに混じって乗降扱いが行われていた。
 
当時、新宿発着の高速路線は、箱根行き高速バスが出入りする小田急ハルク前の乗り場か、中央高速バスが出入りする新宿西口高速バスターミナル、または新宿駅南口のJRバス関東のターミナルを起終点にしていて、後に、一時期だけ西武バスの長距離路線が乗り入れていたことがあったものの、一般路線バス乗り場から発着する路線は新宿-日光・鬼怒川線が初めてであった。
奈良・枚方・岡山・豊橋方面への夜行高速バスも、京王バスが運営する新宿西口高速バスターミナルに間借りしていたことから、やっぱり同社の高速バスは影が薄いのだが、日光・鬼怒川線もそこから発着していれば、少しは知名度が上がったかもしれない。
 
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「けごん」に乗車した幼い頃のことを思い浮かべれは、浅草より立地の良い新宿から出る高速バスには案外需要があるのではなかろうか、と考えていたが、新宿を8時30分に発車する便に乗り込んだのは、僅か数人に過ぎなかった。
すいているバスは有難いけれども、この路線は果たしていつまでもつのだろう、という心配が先立ってしまう。
 
この路線は、新宿を7時30分と8時30分、日光東照宮を14時と16時に発車する、運行距離159.6km・所要2時間45分の日光系統と、新宿を8時、9時、13時30分、15時に、鬼怒川温泉駅を8時、9時、14時、16時に発車する、運行距離172.2km・所要3時間15分の鬼怒川系統に分かれていた。
 
 
ちなみに、東武鉄道の特急電車のダイヤは、幼い僕が乗車した昭和50年の時刻表を紐解いてみると、下りは、浅草発7時20分から9時20分まで6本の東武日光行き「けごん」が続け様に発車し、あとは浅草発11時から19時40分までは11本の鬼怒川温泉もしくは鬼怒川公園行き「きぬ」に入れ替わって、20時10分発の最終特急だけは「けごん」が務めていた。
上りは、鬼怒川公園や鬼怒川温泉を発車する「きぬ」が8時30分から16時05分までの間に9本が運転され、その間の「けごん」は東武日光発10時50分と12時50分、16時の3本だけだが、16時40分から18時までは続々と5本の「けごん」が発車し、18時30分と19時30分の2本の「きぬ」が締めくくるというパターンであった。

細かな変更はあるものの、高速バスが走り始めた平成の初頭も、ほぼ同様のダイヤが組まれている。
東武日光線と鬼怒川線が分岐する下今市で、「けごん」には鬼怒川温泉発着の、「きぬ」には東武日光発着の普通電車が接続し、時刻表でも同じ欄に掲載されているものの、日光への観光客は午前に首都圏を出発して午後に帰り、鬼怒川温泉への宿泊客は午後に着いて午前中に宿を発つという傾向を反映したものと思われる。
 
高速バスのダイヤも同様に、日光系統の下りが午前、上りが午後の運行となっているものの、鬼怒川系統は午前と午後の偏りがないことが特徴で、便によっては乗客数に大きく差が出たのではないかと思われる。
日光系統より鬼怒川温泉系統の運転本数が多いことは、意外であった。
この頃から、後に顕著になる日光への観光客の低落が始まっていたのだろうか。
 
 
新宿駅西口を出た日光行きのバスは、青梅街道から山手通りに右折し、川越街道との交差点に近い地下鉄有楽町線要町駅で乗車扱いをする。
当時の山手通りは工事箇所ばかりで、車線規制があったり、掘り返しては埋め直し、舗装を重ねて継ぎはぎだらけの区間があちこちに見られた。
もともと曲線が多い線形だから、自分でハンドルを握っていても、東京の環状道路の中では群を抜いて走りにくかった。
いったい何を工事しておるのかと思っていたが、そのうちに、首都高速道路中央環状線の地下トンネルを建設していることを知った。
平成27年に中央環状線が開通した後には、見違えるようにすっきりとした山手通りを見て、なるほど、と頷いたものである。
 
要町付近では首都高速5号池袋線の高架が頭上を覆い尽くし、昼でもヘッドライトを点灯したくなるような薄暗さである。
バスは中山道に針路を変じて高架道路の下を走り続け、環状7号線の橋梁で荒川を渡り、鹿浜橋ランプから首途高速川口線の高架に駆け上がる。
荒川の河川敷が広がり、街並みの彼方に池袋のサンシャイン60まで見通せる景観に、心が晴れ晴れとするのも束の間のことで、浦和JCTで東北自動車道に入るまでは、視界の殆どが防音壁に遮られてしまう。
浦和料金所を通過し、ようやくバスの速度が上がって気持ちよく走り始めると、いつの間にか、窓外が田園風景に変わっていることに気づかされる。
目を見張らされるような風光明媚という訳ではないけれど、それまでの車窓にはぎっしりと都市景観が詰め込まれていただけに、一気に都会を抜け出したことを実感させてくれる、東北道の伸びやかな導入部が、僕は好きである。
 
東北道は、青森まで700kmを超える我が国最長の高速道路であるけれど、この日の僕は、関東平野をちょっぴり縦断しただけで、関東山地の山々が窓外に押し寄せてくるあたりの宇都宮ICで降りてしまう。
この路線には、高速道路上に白岡、佐野、鹿沼のバスストップが設けられていたが、この日は利用客が見受けられなかった。


宇都宮ICから日光宇都宮道路に乗り換えたバスは、今市ICで高速を降り、東武線上今市駅に近い春日町のバス停で1人の客を降ろしてから、国道119号線を西へ向かう。
川原に白い石ころが転がり、水流が激しく波打っている大谷川に沿う道路は、今市の市街地を抜けると登り坂に差し掛かる。
両側から東武日光線とJR日光線が、狭い平地を奪い合うように寄り添ってくる。
今市の中心部の標高は390m、日光駅が530m、東照宮の西の馬返しで870m、中禅寺湖が1270mであり、日光の地は、2486mの男体山の稜線に連なる傾斜地にある。
 
大谷川は「だいやがわ」と読み、中禅寺湖に源を発して、華厳滝をはじめ裏見滝、霧降の滝、寂光滝、白糸の滝など、著名な滝が見られることで知られている。
東武鉄道は、「けごん」を補完する座席指定の急行「だいや」を、浅草-東武日光間に走らせていた。
子供の頃は、ダイヤって何?──と時刻表をめくりながら首を傾げていたが、後に「きりふり」へと愛称を変更し、平成13年に特急に昇格する形で定期運行から消えてしまった。
 
午前11時過ぎに到着した東武日光駅では、乗客が全員席を立ってしまい、土産物店やホテル、寺院がひしめく街並みをすり抜けて、終点の日光東照宮停留所まで乗り通したのは、僕だけだった。
金谷ホテル直営のパン屋が入っている日光食堂本店の、古めかしい建物が目立つ神橋バス停付近から、大谷川のせせらぎに耳を傾けながら短い橋を渡って、杉並木がそそり立つ東照宮の入口を左折し、西参道の手前の東照宮バス停までの街路は、子供の頃に訪れた時の記憶と何ら変わりがなく、20年の歳月が一気に短絡した。
 
 
この道を、路面電車が走っていたことがある。
日光駅前から神橋を経て、いろは坂の登り口に当たる馬返までの9.6kmを、東武鉄道日光軌道線のチンチン電車が行き来していたが、車の通行の邪魔になるという地元の要請により、昭和43年に廃止されてしまった。
実に勿体ないことをしたと思う一方で、車がひしめく狭い道路を目にすれば、路面電車が走っていた頃はかなり窮屈だったのではなかろうかと推察するが、一時は、沿線の古河精銅所までJR日光線から乗り入れる貨物列車が乗り入れていたというのだから、驚きである。
我が国の路面電車で最も標高が高い所に敷設されていたことでも知られ、途中の勾配は、40‰以下にするよう定められている軌道法の規定を大きく超えた50~60‰にも及んでいたという。
 
子供の頃から無性に心惹かれていた路線で、日本各地で走っていた路面電車を網羅した写真集をめくりながら、1度でいいから乗ってみたかったなあ、と残念に思ったものだった。
 
 
東照宮に参拝してから東武日光駅に戻った僕は日光線の上り普通電車で急勾配を下り、下今市で鬼怒川温泉行きに乗り換えた。
鬼怒川が山々を削った渓谷沿いに広がる温泉街は、17世紀に西岸で源泉が採掘された滝温泉に端を発し、明治初頭には東岸にも藤原温泉が発見され、上流に水力発電所が建設されて水位が下がると、川底から新たな源泉が次々と見つかったことから、全てを合わせて鬼怒川温泉と呼ぶようになったのだという。
 
「東京の奥座敷」として熱海や箱根と並び称されることもあった伝統ある温泉街でありながら、鬼怒川温泉駅前の商店街を抜けて北に歩を進めると、どこか異様さが漂う光景になってくる。
温泉街を貫く国道121号線の旧道には、古くからの温泉街に付き物の射的屋、ゲームセンター、カラオケボックスといった遊戯施設や飲食店、土産物店がほとんど見当たらず、たまに見かけても、軒並み入口を閉ざしている。
宿泊客が押し寄せるにはまだ早い時間なのかもしれないが、それらの店舗は埃をかぶり、固く閉ざされたシャッターは赤錆びて、夕方になれば開店するような気配は微塵も感じられない。
散策する浴衣姿の宿泊客も見かけず、通りは物音1つなく静まり返って、居並ぶホテルの玄関やロビーに人影はなく、年間200万人以上の客で賑わう歓楽街とはとても思えない。
 
 
バブル崩壊による観光客の落ち込みや海外旅行へのシフトによって、全国的に温泉街が経営不振に陥ると、鬼怒川温泉も、熱海や別府と並んで凋落した温泉の代表格に挙げられてしまう。
後の話であるが、多くの宿泊施設のメインバンクであった地元の銀行が平成15年に経営破綻し、鬼怒川温泉でもホテルが相次いで倒産、幾つかのホテルだけが産業再生機構の支援を受けることになる。
現在でも、再建されて設備投資が可能となった大型ホテルに客が集中し、内部の遊興施設や店舗ばかりが潤って、温泉街に金が落ちないという状況が続き、また倒産した複数のホテルが解体も出来ずに放置されて、廃墟のまま無残な姿を晒していると聞く。
 
僕は駅のある東岸を歩き、くろがね橋で鬼怒川渓谷を見下ろしてから、西岸を南へと戻った。
雄大な渓谷の両岸に、大型ホテルが崖の縁までせり出して建っている景観は、鬼怒川温泉独特の構図である。
この旅の数年後にホテルが軒並み倒産し、特に東岸側が荒れ果てた廃墟街道と化すという激動に見舞われることなど、想像も出来なかったけれど、僕が感じた異様さは、その予兆であったものかもしれない。
20年前の家族旅行では、鬼怒川温泉のホテルが満室で予約が取れず、やむなく東京に宿泊して日光を日帰りで往復する羽目になったのだ、と両親から聞かされた覚えがある。
諸行無常、改めて、僕らが生きている時代の厳しさを実感する。
 
杉木立が多い日光市内では気づかなかったが、鬼怒川では、渓谷を彩る紅葉の鮮やかさが目に滲みた。
 
 
鬼怒川温泉駅を14時に出発した新宿行き高速バスの客も疎らであったけれど、途中の東武ワールドスクエア、日光江戸村、お猿の学校、ウエスタン村といった途中停留所からは幾ばくかの客が乗り込んできて、中には子供を連れた家族も混じり、それでも総勢10名ほどであったものの、日光東照宮行きのバスよりは賑やかな道中となった。

ああ、またか、と気づいたのは、バスが走り始めてしばらく経ってからのことだった。
草津、石和、下呂、有馬、南紀勝浦、道後、別府など、高速バスで訪れた温泉は幾つもあるけれど、大抵は湯に浸かることなく立ち去っている。
温泉に入る時間よりも、乗り物の時刻を優先して日程を組んでしまうためで、自業自得なのだけれど、鬼怒川では街並みに気を取られるばかりで、温泉に入ろうという気分にならなかったな、と思う。
 
 
今市ICからの日光宇都宮道路と、東北道を南下する高速走行は順調で、都内で少々の渋滞に引っ掛かりながらも、新宿駅西口に到着したのは、定刻17時15分より10分ほど遅れただけであった。
それでも、車中での子供の退屈ぶりは容易ではなく、時々後席から愚図る声が聞こえて気になっていたのだが、バスを降りていく家族連れは疲れ切った表情で、
 
「やっぱり今度は電車にしようかしら」
「うーん、家と浅草の行き来が大変なんだよなあ」
 
と遣り取りしていた。
 
新宿-日光・鬼怒川温泉間高速バスは、日光系統が平成9年3月に、鬼怒川系統が平成10年3月に、それぞれ廃止されてしまった。
 
 

平成20年の秋であったか、妻を連れて、紅葉真っ盛りのいろは坂をマイカーで登ってみたことがある。

その前の年には、同じくマイカーで、国道122号線を桐生から日光へ走り抜けた。

いろは坂で、三十数年前に成し得なかった旅行を完成させたいという腹づもりがあったことは否めない。


子供の頃に連れて行かれた場所へ、自分の運転で訪れるという行為には、格別の感慨が湧いてくる。

いろは坂は聞きしに勝る大渋滞で、麓の馬返しから中禅寺湖半までの16kmに片道3時間を要する有様だったから、あの家族旅行で、霧降高原ではなく中禅寺湖へ向かっていたならば、帰りの列車に間に合わなかっただろうな、と納得した。

それでも、ノロノロ運転のおかげで、道路の両側から覆い被さる鮮やかな紅葉をじっくりと鑑賞することが出来たのは、思わぬ収穫だった。

両親に、この紅葉を見せてあげたかったと思う。

妻は大喜びで、身を乗り出しながら、写真を何枚も撮りまくっている。

これほど苦痛のない渋滞は、初めての経験であった。


 
 
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