第42章 平成16年 高速バス新宿-大宮・大子・烏山線の懐かしくも曖昧な記憶 | ごんたのつれづれ旅日記

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話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス新宿-大宮・大子・烏山線、JR烏山線】

  

 

烏山駅行き高速バス「山あげ」号は、昼でも薄暗い穴倉のような新宿駅南口JR高速バスターミナルを、定刻16時10分に発車した。


定刻に発車したのだろう、と思う。

大好きな高速バス旅というのに、いきなりあやふやな表現になってしまうのは、今回の記事を書くために当時の時刻表を紐解いてみると、平成16年2月に出掛けたこの旅の記憶の残滓について、少なからず思い違いをしていることに気づかされたからである。

 

新宿駅南口高速バスターミナルに「烏山駅」との行先表示を掲げて姿を現した栃木ナンバーのバスが、見上げるようなスーパーハイデッカーの新車で、「常磐高速バス」でしばしばお目に掛かる長距離路線用車両の間合い運用なのだな、と1人頷いたのは、はっきりと覚えている。

狭隘な通路をゆっくり通り抜けてから、高島屋の南で明治通りに出て甲州街道へ右折し、次の停留所の東京駅へ向かう車窓についても、記憶は比較的明瞭に保たれているようである。

柔らかな冬の日差しが、賑やかな街路を隅々まで照らしている、好天に恵まれた週末であった。


明治通りの甲州街道と交差する新宿四丁目交差点までは、その先に新宿通りと交差する新宿三丁目、靖国通りと交差する新宿五丁目、職安通りと交差する新宿七丁目、大久保通りと交差する大久保二丁目と、混雑する交差点が連続し、更に伊勢丹百貨店の駐車場に入る車が車線を塞いでしまうため、車の流れが極度に悪い。

運が悪ければ僅か300m程度を進むのに5~10分を要する場合もあり、この日もぎっしりとバスを取り囲んだ車を眺めながら、相変わらずだなあ、と呆れたものだった。

  

 

発車が何時頃であったのか、という点になると、途端に記憶が定かでなくなる。


「山あげ」号の終点である烏山駅は、東北本線の宇都宮駅から2つ先の宝積寺駅を起点にして東へ分岐する32.1kmのJR烏山線の終着駅である。

山あいを縫って、坂道を下ってきた高速バスが着いたのは、背後の山肌から覆い被さる木々の枝が三角屋根に影を落とす、麓の鄙びた佇まいの駅だった、という情景が、決まって僕の心に映し出される。

陽の光が燦々と駅前広場に照り付け、バスの古びた車庫と、そよ風に揺れている木々の青葉のきらめきまでが、ありありと瞼の裏に浮かぶ。


ところが、「山あげ」号の下り便が、日が暮れる前に烏山駅に着くようなダイヤを組んだ記録はない。

ネットで写真を検索してみても、烏山駅は、平地に広がる乾いた町並みに囲まれているだけで、遠くに山影は見えるけれども、葉擦れが聞こえるような青々とした木立ちなどはいっさい見当たらない。

そもそも、季節すら食い違っている。

ただ、あっけらかんとした広い駅前広場と、駅舎と向かい合っている赤錆びた鉄骨製の車庫に、かすかに見覚えがあるような気がするのは、どうしたことなのか。

 

「山あげ」号と言えば決まって僕の脳裏に蘇る、昼日なかの緑豊かな駅前風景は、いったい何処なのだろう。

それとも、午前に新宿を発つ臨時便が運行された時期があったのか。

 

  

新宿-烏山線「山あげ」号は、平成13年4月に開業した新宿と茨城県大宮町を結ぶ「常磐高速バス」大宮線が前身である。

新宿駅南口から東京駅八重洲南口を経由して常磐自動車道を那珂ICまで走り、那珂IC、鴻巣、瓜連町総合センター、富士見台団地前、泉入口と停車してから、大宮町総合福祉センターを終点とする路線で、午後の下り便と午前の上り便の1日3往復で運行を開始している。

 

この路線の特徴は東京側の停留所で、下り便は新宿駅発東京駅経由、上り便は上野駅を経由し東京駅を通らず新宿駅へ向かう。

上下便で途中停留所が異なるのは珍しいケースで、新宿で乗降する分には構わないけれど、乗客が戸惑ったりしなかったのだろうか、と時刻表を眺めながら首を傾げたものだった。

新宿を発着する「常磐高速バス」は、平成元年に開業した常陸太田線以来で、新宿と那珂ICの間は常陸太田線と共通の乗車券で利用できたため、東京側の停留所も右に倣えとばかりに揃えたのかもしれない。


 

大宮町の名を、僕はこの路線の開業で知った。

市内に鎮座する甲神社の尊称である甲大宮に由来する町名であるが、大宮と言えば、今はさいたま市になっている旧・大宮市を思い浮かべる人が圧倒的に多いのではないか。

この旅の年、平成16年に大宮町と山方町、美和村、緒川村、御前山村が合併して常陸大宮市を名乗ったのは、埼玉県大宮市との重複を避けるためとされている。

常陸太田、常陸大子などJR水郡線には「常陸」を冠した駅名が多く、大宮町の中心駅も合併前から常陸大宮駅を名乗っている。

 

水郡線は乗り通したことがあるはずだが、30年近くも前のことだから、詳しい車窓はすっかり忘れている。

青春18切符を購入して新潟から越後線、信越本線、上越線、只見線、磐越西線、水郡線、水戸線、東北本線と、普通列車だけを丸1日かけて乗り継いだ本州横断の汽車旅の途上であり、水郡線に乗り込んだ頃には、おそらく朦朧としていたに違いない。

  

 

「常磐高速バス」大宮線の利用客数は好調に推移したのか、1年も経たずに、新宿駅を出入りせず東京駅を朝の6時40分に発車する下り便と、大宮を18時40分に発車する東京駅止まりの上り便が増便されたが、程なくこの1往復も新宿発着に変更された上で、下りは午後、上りは午前に振り替えられてしまう。

つまり、大宮町から東京を日帰りで往復する、地方側の利用客を徹底して指向するダイヤに戻ってしまったため、兄弟路線とも言うべき常陸太田線はさっさと乗りに行ったのに、大宮線は食指が動かず、ずるずると先延ばしにしていた。

 

 

俄然、興味が湧いたのは、平成15年8月に、JRバスが担当する1往復が、大宮町から栃木県との境を越えて烏山駅まで延伸された時刻改正を知った時である。

常磐道を使って栃木県に向かうとは、なかなか得難い体験だと思う。

この旅の翌年、平成17年に開業した東京と下妻を結ぶ高速バスに乗車した際は、茨城県に行くのに東北自動車道を利用する経路が新鮮に感じられたものだったが、その前年に逆のバス旅をしていたことになる。


きちんと目的地にさえ連れて行って貰えるならば、どの道を通ろうが気にも留めないのが正常な乗客であり、経由地なんぞに拘ってしまうあたりがマニアのマニアたる所以であろうが、これまでは茨城県北西部の水郡線沿線の町村を結び、那珂ICから国道118号線を使っていた「常磐高速バス」大宮線が、いきなり国道293号線に逸れて栃木県内を起終点にしたのだから、驚いてしまう。

 

 

烏山駅からは、国鉄バスが馬頭町を経由して水郡線常陸大子駅を結ぶ越境路線を運行していた記録があるが、烏山町と大宮町を結ぶ道路より遥かに北寄りの経路であるから、元々免許を持っていた道路という訳ではない。

烏山は、昭和9年に省営バス烏山自動車所が設置され、烏山-常陸大子、烏山-茂木を結ぶ常野線が運行を開始したという古い歴史を持つ、JRバス関東の拠点であった。

戦後も、烏山-宇都宮、烏山-矢板、烏山-馬頭などの路線を展開し、盲腸線の終端である烏山駅前は国鉄バスで大いに賑わったのである。

 

烏山の南に位置する茂木には、平成13年に、東京と茂木を結ぶ高速バスで訪れたことがある。

特に目立った見所がある路線ではないけれども、鬼怒川の夕景は美しかった。

未乗の鉄道と組み合わせる楽しみも共通していて、何よりも、烏山は茂木よりも遠い土地なのか、ならば行ってみたいものだ、と旅心を掻き立てられた。



「常磐高速バス」大宮線の烏山駅への延伸がJRバス関東担当便だけであったことから、車両や乗務担当を烏山営業所に移したかったのかもしれない。

当時のJRバス関東東京支社は、我が国の事業者で最多を数える夜行高速バス路線だけでなく、東名高速・中央道・東北道・常磐道・東関道・アクアライン方面に頻回運行する昼行便を抱えて、おそらく人手不足に陥っていた可能性がある。

そのため、東京発着の路線ですら、地方の営業所に振り分けるケースが幾つか見受けられた。

 

それにしても、烏山に足を延ばす1往復は、新宿発18時00分・烏山着21時30分の下り便と、烏山発8時40分・新宿着12時46分の上り便という運行ダイヤで、東京に住む者としては大変に使いづらい。

烏山駅に着けば、JR烏山線に乗り継いで宇都宮経由で東京に帰る以外に方法はないけれども、当時の烏山線上りの最終列車は烏山発21時47分の356Dで、もしバスが20分以上遅れれば、東京どころか宇都宮にすらたどり着けなくなる。


夕方に東京から烏山に下る便が、烏山から東京へ折り返す乗客の利便性を考慮する必要はこれっぽっちもなく、我ながら酔狂な行為であることは重々承知しているけれども、なかなか乗りに行く勇気は出なかった。

  


平成16年2月に、2往復の茨城交通担当便が、水ぐるま前、思い出浪漫館、大子温泉やみぞ前といった国道118号線沿いの停留所を経て、水郡線の常陸大子駅に近い大子営業所まで延長され、同時にJRバス担当便も2往復全便が烏山駅発着となった。

 

末端部分が二股に分かれる路線形態になった訳だが、大子系統の途中停留所は固有名詞ばかりで、何処にあるのか、時刻表を見ただけでは判然としない。

水ぐるまは、直径約7mの巨大な水車が置かれた山方町特産品センターを指しているらしく、水郡線の山方宿駅に程近い。

思い出浪漫館は、水郡線袋田駅付近で国道118号線と分岐して袋田の滝方面に向かう国道461号線の途中にあるホテルの名前で、大子温泉やみぞも、ゴルフ場や体育館を備えた宿泊施設である。

やみぞ、とは北方に連なる八溝山地から付けられた名前らしい。

 

大子系統は、温泉宿や袋田の滝など経由地がとても魅力的であるものの、いずれも午後の下り便と午前の上り便と言うダイヤでは、温泉の宿泊には使えても、袋田の滝見物には利用しにくい。

高速バスばかりに乗りまくっていた当時の僕に、温泉宿に滞在するという計画を立てる発想は皆無だった。


 

袋田の滝は、車で訪れたことがある。

今から1500万年前、このあたりの奥深くまで海が侵入していた時代に海底火山が噴火し、噴出物が浸食に強く固い地層となって冷却され、久慈川の支流である滝川の流れが落下する断崖状の滝になったと言われている。

長さ120m、幅73mの滝は、華厳滝、那智滝とともに日本三大名瀑の1つに数えられ、長さ276mの袋田の滝トンネルをくぐって観瀑台へ歩いていく演出と相まって、その迫力には大変感銘を受けた。

 

「常磐高速バス」大子線が走り始めたならば、もう1度訪れてみたいと思ったけれども、バスの時間が日帰り往復に適さず、未だに実現していない。

後に袋田の滝停留所が設けられたものの、午前中に地方から出て来て午後に折り返す運行ダイヤに変わりはない。

袋田の滝のような名所は、せめて1泊してじっくりと見物しなさい、と諭されているかのようである。



僕を小躍りさせたのは、同時に増便された烏山系統で、下り便の新宿発が16時10分、烏山駅着が19時40分という下り便が新たに加わった。

これならば、烏山線の最終どころか、もっと早い列車で帰路につくことも可能ではないか。

 大いに安心した僕は、「常磐高速バス」烏山系統に初乗りすべく、増便直後の週末に出掛けて来た次第である。

 

出掛けて来たのだろう、と思う。

僕は、長いこと、新宿を午前中に出発したとばかり思い込んでいたのだが、路線の推移を幾ら調べてみても、烏山系統の下り便が、明るいうちに烏山駅に着いた事実はない。

運行時刻が早くなったと言えども、烏山に到着する19時40分は、夏でも真っ暗のはずである。

当時の時刻表を調べて、そのことを知った時には、真底驚いた。

 

 

「山あげ」号とは、烏山町の山あげ祭を由縁とする愛称で、真夏の7月に執り行われる八雲神社例大祭の奉納行事である。

16世紀に烏山城主が疫病退散を願って始めた祭が起源とされ、江戸時代に那珂川水運の拠点となり、木材や和紙の産地となった烏山の繁栄を受けて、網代に和紙を貼った幅7m・高さ10m・奥行き100mの山と舞台を組み上げ、歌舞伎や神楽を奉納し、解体と移動を1日6回、3日間に渡って繰り返しながら町内を巡行するという。

 

栃木県に属するとは言え、那須岳を源流とする那珂川の流域にある烏山町は、茨城県と共通の地理的条件で発展したのである。

平成17年に、隣接する小川町と馬頭町と合併して誕生した町名も那珂川町で、那珂市、ひたちなか市など那珂川由来の地名が多い茨城県の自治体の1つなのか、と早とちりしてしまう。


「山あげ」号の愛称は、延伸から2年近くが経過した頃に烏山系統に限って用いられていたようで、時刻表でその名を見た記憶はなく、乗車した当時も、自分は「山あげ」号に乗っているんだぞ、と考えたことは1度もなかった。

僕は、高速バスにも鉄道と同様に愛称があった方が良いと考えている人間なので、時期的にずれているけれども、この記事では「山あげ」号で統一させていただく。

 

 

甲州街道を東に進んで皇居に突き当たり、内堀通りをぐるりと回って東京駅八重洲南口で乗車扱いをしたのが16時50分。

首都高速都心環状線、6号向島線、三郷線から常磐道をひた走り、最初の降車停留所である那珂ICに着いたのは、18時26分。

既に車窓は暗かった筈である。

続いて18時31分に停車する鴻巣停留所は、那珂ICから県道を北上した水郡線常陸鴻巣駅の近くである。

18時40分着の瓜連町総合センターらぽーる停留所が置かれた瓜連町は、うりづら、と読み、この旅の翌年に隣接する那珂町と合併して那珂市となった。


瓜と言われれば、マクワウリや胡瓜などを思い浮かべがちであるが、元はインドや北アフリカを原産地として、縄文時代に日本に伝わってきたというメロンが起源であり、茨城県が我が国最大のメロンの出荷地であることから、僕は瓜連町を瓜の産地なのかと勝手に思い込んでいた。

 

瓜、という字面を見ると、今でも思い出すのが、中学校時代の記憶の断章である。

僕が通った中学校の英語の先生は、ゴダイゴの「MONKEY MAGIC」を僕らに歌わせて和訳させるなど、なかなか斬新な授業をするので人気があったが、ある日、授業が始まるやいなや、満面の笑みを浮かべながら、


「みんなは、ウリ、という漢字をきちんと書けるかな?」

 

と言い出した。

おやおや、英語ではなくて国語の授業になってしまうのか、と、ざわめき始めた僕らに構わず、

 

「昨日、僕の家の近くを暴走族が走っていてね、バイクに掲げた旗にこう書いてあったんだ」

 

と、先生は黒板に白墨で、

 

「サタンの瓜」

 

と大書したのである。

頭の回転の早い奴は、既に吹き出している。

 

「瓜に爪あり爪に爪なし、という言葉がある。サタンの『瓜』!惜しかったよな。暴走族と言えども、勉強はきちんとしろってことだ。さて、サタンの意味はみんな知ってるだろうが、瓜は英語で何と言うのか。そして爪は?はい、答えられる人、手を挙げて」

 

瓜連の「うり」とは「潤」から転訛したもので、谷や川の曲がった場所を指すことが多く、瓜連の由来は湿地帯が連なっていること、もしくは「づら」を「づれ」から転じた言葉と解釈するならば、崩れやすい土地の意味があると言われている。



思えば、「常磐高速バス」各路線で訪れた土地は、太古には海に覆われ、関東平野を網の目のように流れる河川が洪水を繰り返し、流路を蛇のように変えながら形づくってきた湿地帯ばかりであった。


現在の茨城県は、総面積こそ全国47都道府県の24番目に過ぎないが、可住地面積は全国第4位で、11番目に人口が多い。

「常陸国風土記」で「常世の国」と謳われたように、屈指の農業地帯であり、農業産出額は北海道に次ぐ第2位を誇るという我が国有数の農業県であることを考えると、感慨深い

県土の大半を平地が占め、その多くが農地が占め、森林の比率は31%と大阪府に次いで2番目に少なく、全国1位の生産量を誇るメロンをはじめ、数多くの野菜や果物を産出し、東京中央卸売市場での茨城県産青果物取扱高も全国1位の地位を保ち続けているという。

 


僕は、昭和62年に開業した「つくば」号を皮切りに、「みと」号、「ひたち」号、「ニューつくばね」号、「勝田・東海」号、「常陸太田」号、笠間線、水海道線、岩井線、江戸崎線と、茨城県内を発着する「常磐高速バス」の車窓に親しみ、潤いのある風景に心を洗われながらも、水と闘いながら長い歳月を費やして営々と土地を切り拓いてきた先人たちの偉業に思いを馳せたものだった。

 

高名な観光地を訪ねる訳でもなく、走行距離も所要時間も大して長くないので、夜行高速バスに乗車する時のように心が沸き立つ旅の形でなかったのは事実である。

それでも、鉄道に比べれば、遥かにきめの細かい旅を重ねられたことは間違いなく、消えてしまった路線も少なくないけれど、「常磐高速バス」各路線を展開してくれた事業者には感謝である。

 

富士見台団地前、泉入口と大宮町内に停車してから、18時55分着の大宮町総合福祉センターに立ち寄った「山あげ」号は、大子方面に向かう国道118号線と別れて、那珂川沿いに県境に向かう国道293号線に左折する。

大宮町から烏山町までの延伸区間に設けられた停留所は、19時12分着の緒川村役場前と、19時21分着の道の駅みわの2ヶ所で、緒川村も美和村もこの旅と同じ年に合併し、栃木県境まで広く常陸大宮市域に含まれるようになった。

 

 

白状するならば、「常磐高速バス」烏山線が大宮町から烏山町まで山々を踏み越えていく50分どころか、那珂ICからの1時間半の記憶すら、完全に忘却の彼方である。


乗り継いだ烏山線のディーゼルカーの車中も同様の有様で、かろうじて残っているのは、目指す高速バス路線と未乗線区に乗り終えた満足感に浸り、夜更けの宇都宮駅に着いた時に、この時間に東京まで冗長な普通列車に揺られるのはさすがに辛いな、と溜息をつきながらも、いやいや宇都宮と東京の間で新幹線を利用するのは贅沢が過ぎるかな、と迷った挙句、新幹線特急券を購入した断片的な記憶だけである。

旅立ちと終着駅だけとは、まるでキセルのような思い出ではないか。


「常磐高速バス」烏山系統の運行時刻の推移から、旅をした時間帯を推し量ることが可能となった今となれば、その理由が分かるような気がする。

午後6時過ぎに常磐道を降りてからの車窓は、日の短い冬の旅ゆえに、終始、漆黒の闇に塗り潰されていたのだろう。


「山あげ」号は、平成18年に常陸大宮-烏山間が廃止され、同時に愛称も消えたから、もう乗り直すことは出来ない。

平成20年に大子系統が1往復増便されて、大宮止まりの系統と合わせて1日5往復体制で現在に至っている。

平成23年には、繰り返されるローカル路線バスの廃止という情勢下で、最後まで運行されていた常野線が廃止されて、烏山駅にJRバスが乗り入れることはなくなった。


夢か幻だったのではないだろうか、と人間の記憶の曖昧さを噛み締めながらも、旅も人生も、所詮はそのような儚さを併せ持っているのではないか、と思う。

「山あげ」号が午前中に新宿を発車して、木々の緑が鮮やかな日中の烏山に着いた記憶を現実と信じたまま、大切に心に封印しておいた方が良かったのかも知れない。


曖昧でも儚くても、こよなく懐かしさを感じる平成半ばのバス旅の思い出は、どのような形であれ、僕の心にいつまでも残るに違いない。

 

 

 

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