第36章 平成14年 団地へ向かう通勤高速バスで吉川、三郷、葛飾を散策 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:「常磐高速バス」東京-三郷・吉川・松伏線、東武バス「有52系統」亀有-吉川線、京成バス「金52系統」金町-戸ケ崎線】


 

「三郷に行ってほしい」


職場が所属する法人の理事長に誘われて、新宿の居酒屋で乾杯した直後に切り出された言葉に、僕は絶句した。

元号が変わって3ヶ月が経った、令和元年8月のことである。


僕が勤める病院が属する医療法人は、複数の都県に事業所を展開し、県境を跨ぐ人事異動はこれまで何度も目にしたことがあったけれども、この歳になって自分の身に降りかかって来るとは思いも寄らなかった。

いや、わざわざ理事長から呼び出されたのだから、それを予想していなかった、と言うのは嘘になる。

法人に属する事業所の中で最も大規模な他県の総合病院の人手不足が際だっていると耳にしていたから、そこへの異動を提案されるかもしれない、と思っていた。

 

杉並区に居を定め、都内の病院に勤めていた僕にとっては、経験したことがない遠距離・長時間通勤を覚悟しなければならず、予想通りの提案ならば辞退したいな、と気が重くなった。

東京の病院で骨を埋めよう、という心積もりで、僕なりに懸命に働き、地域の人々との繋がりも築き上げて来た。

 

5~6年前になるだろうか、同じく都内に住んで、他県の病院へ異動した上司に誘われたことがある。

尊敬し、かつ大変お世話になった先輩であったので心苦しかったのだが、自信がありません、と断った。

 

また同じことを繰り返すのか、と心に重しを乗せられたような気分になり、幾許かの警戒感を抱いていた僕にとって、理事長の提案は、全く予想外の内容だった。

法人の事業所には大抵出向いたことがあったけれども、三郷だけは、足を踏み入れたことすらなかった。

人づてには良い職場であると耳にしたことがあり、地域の評判も悪くないようだったが、自分とは関係のない話と思い込んでいた。

 

ところが、三郷で期待されている仕事の内容を理事長から詳しく聞かされ、やりがいのある仕事のように感じた僕は、自分でも意外なことに、まずはよく考えて検討してくれ、という理事長の言葉を押し止めて、


「行きます。やらせて下さい」

 

と答えていた。

 

それからが大変だった。

相変わらず忙しく仕事をさせる法人だ、と苦笑しながらも、東京の病院での仕事の引き継ぎや地域への挨拶回りなどを短期間で慌ただしく済ませ、三郷の病院に着任したのは、同じ年の9月のことである。

 

 

怖れていた通勤は、案ずるより産むが易し、といった感じだった。

都心から郊外へ、という、大半の通勤客とは逆の行程であるから、それほどひどい混雑に見舞われることはない。

 

JR中央・総武線各駅停車で秋葉原駅まで行き、つくばエクスプレスに乗り換える方法が定番であるが、驚いたことに、中央・総武線各駅停車は、午前6時前から座ることが出来ない。

そのうちに、僕は、三鷹駅を始発として中野駅から地下鉄東西線に直通する電車ならば、杉並区内の区間ががらがらにすいていることを発見し、東西線で西船橋駅まで乗り通して、JR武蔵野線に乗り換えるという方法を編み出した。

これならば、午前6時台であれば、最初から最後まで座れる。

所要時間は秋葉原経由よりも20分ほど多くなってしまうけれど、つくばエクスプレスの運賃が割高であるためか、定期代も西船橋経由の方が3分の2程度に抑えられる。

 

 

新型コロナウィルスの流行が話題になり始めた令和2年2月から、僕は車で通勤することにした。

感染して長期間休める、という立場ではなくなっていたのである。

 

最短の経路は、環状八号線を北に向かい、大泉ICから三郷西ICまで外環自動車道外回りを使う方法であるが、こちらも驚愕したことに、川口中央ICから三郷西ICまで、午前6時台から10kmもの渋滞が生じ、2時間近くを要することが判明した。

自宅を午前5時半に出れば、渋滞はまだ発生しておらず、1時間たらずで着くことが出来ることも判ったけれど、さすがに御免被りたい時間帯である。


三郷の名を最も耳にする機会が多いのは、ラジオの道路交通情報ではないだろうか。

首都高速三郷線と外環自動車道、常磐自動車道が交差する要所で、特に首都高速三郷線の上り線と外環道両方向の渋滞が三郷近辺で発生する頻度が高いため、

 

『首都高速三郷線上りは、加平を先頭に〇km、三郷付近まで渋滞が伸びています』

『外環自動車道外回りは三郷を先頭に×km、通過に30分掛かります』

 

などと、三郷の名が飛び出すことが非常に多い。


 

ところが、意外なことに、首都高速道路が使えたのだ。

最寄りの首都高速4号線高井戸ランプは環八の渋滞が激しいので使わず、青梅街道を東に進み、山手トンネルの中野長者橋ランプを入って、板橋JCT、堀切JCT、江北JCTと中央環状線を回って三郷線に入ると、交通量は多いものの、三郷ランプまで1時間と掛からない。

三郷ランプから三郷駅まで下道を走り、駅前の喫茶店でゆっくり朝食を摂ってから病院へ向かう、という通勤方法が、僕の日課となった。

片道40kmあまり、往復で80kmを優に超える長距離通勤であるが、元々運転が嫌いではないので、電車に揺られるよりも楽しい時間を過ごした。

 

別の総合病院に勤める先輩の外科医が、手術を請われれば複数の病院を公共交通機関で飛び回っている様子を目にして、車で移動しないのですか、と聞いた時の答えが、今でも心に残っている。

 

「車ってのはさ、一定の確率で事故るもんだろう?だから乗らない」

 

肝に銘じて、安全運転を充分に心掛けている毎日である。

 

 

三郷市は、最高点で海抜8m、最低点が1.4mという平坦な地形で、弥生時代後期の2~3世紀に人間が定住し、5~6世紀には河川を使う水運の拠点になっていたという。

昭和31年に、かつて「二郷半領」と呼ばれていた東和村、彦成村、早稲田村の3つの村が合併し、三郷村と名付けられた。

吉川市にある定勝寺の鐘銘に「郡有吉川・彦成二郷諸邑戸属之。而彦成以南称下半郷。故有二郷半之名」と書かれている。

50戸以上の集落を「郷」、50戸に満たない集落を「半郷」と呼んでいたことから、吉川郷と彦成郷の2つの郷と、彦成より南にあった半郷を合せて、二郷半と呼ぶようになったらしい。

 

高度経済成長期に東京近郊としての宅地化が進み、武蔵野線に沿う市域の北部には三郷団地、早稲田団地、さつき平団地が開発され、近年は、平成17年に開通したつくばエクスプレス三郷中央駅周辺の南部でも開発が進んでいる。

昭和39年に町制が敷かれて三郷町となり、市に昇格したのは昭和47年と、行政制度の進化が非常に早いのも、人口の急激な増大を意味しているのであろう。



三郷に初めて車で行ったのは、新しい勤め先への挨拶と申し送りを受けた日であったが、何とトラックの多い街だろう、と思った。

広々と整備された道路も少なくないが、倉庫や工場が多いため、大型トラックやトレーラーが、せせこましい住宅密集地ですら、家々の軒先に排気ガスを浴びせながら轟々と行き交っている。

市内の道路が五十日や月末できちんと混雑するのも特徴で、車の流れが悪いと、今日はそのような日付だったか、と思い至る始末である。

 

人々の生活も車なしでは成り立たないようで、決して路線バスが不便な地域ではないのだが、僕が仕事で市内に出かける際も、車の方が遥かに機動力があり、時間の節約にもなる。

病院の駐車場も、東京とは比べ物にならないほど広い。

東京では仕事や日常生活で車を利用することなど皆無だったので、これが車社会と言うものか、と実感した。

 

市内の県道三郷松伏線を車で走った時のこと、道端に「しばられ地蔵本舗」と書かれた和菓子屋の看板を見つけて、僕はハッと居住まいを正した。

三郷に「しばられ地蔵」がある訳ではなく、チェーン店に過ぎないけれども、ささやかなバス旅に出掛けた20年前の初夏の思い出が、懐かしく脳裏に蘇ったのである。

 

 

平成14年5月の日曜日のこと、当時付き合っていたT子と、高速バスの日帰り旅行をした。

僕が乗ろうと目論んでいたのは、「常磐高速バス」東京-三郷・吉川・松伏線である。

 

平成12年10月に開業した東京-松伏線は、運行距離46.4km、所要時間1時間15分と、とびっきり短距離の路線でありながら、1日18往復という大所帯であった。

埼玉県松伏町が直通バスの開設をJRバス関東に要望し、通勤など日常的な流動に対応する試験的な意味合いで運行が開始されたと聞く。

 

ファンとして興味深かったのは、「常磐高速バス」グループに属しながらも、東京駅から首都高速都心環状線、6号向島線、三郷線、そして常磐道へ歩を進めながら、三郷JCTから僅か6kmの最初のインターである流山ICでさっさと高速を降り、吉川団地、吉川市役所入口、市民交流センターおあしす前、吉川市立旭小学校入口、吉川・松伏工業団地入口、田鳥、ふれあいセンター、松伏役場前、内前野、ゆめみ野、JA松伏前と、吉川市と松伏町内をぐるりと回りながら、終点の松伏バスターミナルに達する経路だった。

 

 

経由地に吉川団地が含まれているのは、前後して開業した「常磐高速バス」水海道線、岩井線、江戸崎線と同じく、東京への直通手段を持たない郊外の住宅地や工業地区と都心を行き来する需要を見込んで、高頻度の便数が設定されたのであろう。

 

吉川団地が建設されたのは昭和48年のことであるが、住宅公団による入居募集では、都心から遠いことが災いして、住宅難と言われた時代であるにも関わらず、競争率が0.5倍と低かったことが、『住宅難といっても不便は敬遠・通勤には1時間半』と当時の新聞で報じられている。

東京と吉川・松伏を結ぶ高速バスの開業は、その不便さの裏返しであったと言えるだろう。

 

松伏と言う町名は、この高速バス路線の開業で初めて耳にした。

江戸川と古利根川に挟まれ、中川が町内を貫く川の町で、埼玉県春日部市、越谷市、吉川市と千葉県野田市に挟まれているが、鉄道が敷かれていないので、鉄道ファンでもあった僕が注目するきっかけはなかった。

流山ICの至近距離に、30社を超える企業が進出する吉松工業団地(現・東埼玉テクノポリス)を抱える工業の町で、当時の人口は3万人を超え、市に昇格してもおかしくないではないか、という規模である。

 

どのような佇まいなのだろう、と興味が湧くけれども、松伏から先の旅程が組みにくいことが難であった。

周辺の鉄道駅に向かう路線バスがあるだろうと予想はできるのだが、ネットでバス路線や運行時刻を手軽に調べられる時代ではない。

東京-松伏線に乗車した後の行程が定まらず、愚図愚図と躊躇っているうちに、月日だけが経過してしまった。

T子と付き合い始めて、バス旅に出掛ける頻度が減ったのも一因であろう。

 

 

平成13年7月に、同様の近郊住宅地である千葉県柏市と流山市を跨いで、国立がんセンター、税関研修所、柏の葉公園中央、三井住宅前、柏の葉公園住宅前、柏の葉公園西、柏の葉公園、青田大橋と停車しながら東武野田線江戸川台駅を都心と直結する、運行距離46.4km、所要50分の「常磐高速バス」東京-江戸川台線が、1日12往復で開業した。

翌年には14往復に増便されたが、つくばエクスプレスが開通すると11往復に減便され、平成18年には呆気なく廃止された。

 

平成14年の時刻表を眺めながら、松伏よりも、鉄道駅である江戸川台に先に行ってしまおうか、などと考えているうちに、「常磐高速バス」東京-松伏線の経路が変更されて、吉川団地の手前に、三郷団地、五街区、吉川駅前、中野尻、法務局入口といった停留所が加わっていることに気づいた。

そうか、三郷にも寄ることになったのか、と思った。

この頃の僕は、三郷、吉川、松伏の正確な位置関係すら頭に入っておらず、三郷駅は武蔵野線で吉川駅の2つ西船橋駅寄りだったっけ、などと、うろ覚えに過ぎなかった。

ただし、運行開始から1年程度で停留所や経路をいじり始めたならば、乗車率が良くないのかもしれない、と嫌な予感がした。

 

僕にとっての吉報は、東京-松伏線が鉄道駅に寄るようになったことである。

 

 

「東京都内乗合バスルート案内」という冊子がある。

都内のバス路線と停留所を全て、鉄道の線区ごとに分類し網羅している出版物である。

僕は昭和61年に発行された初版を入手して、日々眺めては、時々気になる路線に乗りに出掛けたものだったが、埼玉県内の三郷、吉川、松伏に向かうバス旅の計画作成には役に立たない。

 

ところが、「東武線竹ノ塚・西新井、常磐線南千住-金町間各駅発着バス系統図」のページを開くと、常磐線亀有駅と吉川駅を結ぶ「有52系統」のバスが掲載されているではないか。

その他に、金町駅と三郷駅もしくは三郷団地を結ぶ路線も載っている。

 

普通の路線バスで県境を超えるとなれば、珍しい経験であるから、俄然、意欲が湧いて来るところが、マニアのマニアたる所以である。

終点の松伏まで行けないのは残念だが、途中の吉川駅か三郷団地で降りれば、越境して東京都内に戻る路線バスに乗り継げる。

そうなると居ても立ってもいられなくなり、T子を誘って小旅行に出かけたのは、「常磐高速バス」東京-松伏線が開業してから2年が経過していた。

 

 

「亀有に行くなら、柴又の帝釈天に行きたいな」

 

と、出発前にT子が目を輝かせた。

 

「それと、水元の『しばられ地蔵』にもお参りしたいんです」

「『しばられ地蔵』?大岡越前で出て来たお地蔵さんだよね。へえ、水元にあるんだ」

 

「しばられ地蔵」は、時代劇で馴染みの大岡裁きに由来する伝承がある。

日本橋の呉服問屋の手代が、南蔵院の境内でうっかり居眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまう。

大岡越前守忠相は、

 

「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり。直ちに縄打って召し捕って参れ」

 

と配下に命じ、ぐるぐる巻きに縛られた地蔵は、市中を引き廻されて南町奉行所へ連れ込まれたのである。

どんなお裁きが始まるのか、と物見高い野次馬連中も一緒に奉行所になだれ込んだため、大岡越前は門を閉めさせてから、

 

「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申し付ける」

 

と一声、南町奉行所にはその日のうちに反物の山が出来る。

手代に調べさせると、その中から盗品が見つかり、それをきっかけに当時江戸を荒していた大盗賊団を一網打尽にすることが出来たという。

大岡越前は地蔵の霊験に感謝し、立派なお堂を建立して盛大な縄解き供養を行った。

以来、南蔵院の「しばられ地蔵」は、願を掛ける際には縄で縛り、成就すると縄解きする、という風習が生まれた。

 

この話を聞き噛ったことはあったけれど、場所は知らなかった。


「『しばられ地蔵』は、水元公園の近くなんだね。亀有駅の隣りの金町駅からバスで行ける」

「吉川からのバスは行かないんですか?」

「うん、金町から戸ヶ崎ってところに行くバスに地蔵前って停留所があるから、多分、ここじゃないかな。おや、戸ヶ崎は、吉川から亀有へ行くバスも通ってる。戸ヶ崎で乗り換えればいいのかな。金町から柴又へは京成電車が走ってるから、帝釈天にもすぐ行けるし」

 

僕が1人旅をする場合、観光の要素が加わることは滅多にない。

T子の提案のおかげで、僕も先行きが楽しみになった。

彼女は寺社参りが好きなのだが、僕は、柴又と言えば映画「男はつらいよ」の寅さん、亀有と言えば漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が思い浮かぶクチである。

 

 

高曇りの日曜日の朝、僕とT子は東京駅八重洲南口に向かった。

 

つい10年ほど前まで、ここのバスターミナルは静岡・名古屋方面の「東名ハイウェイバス」と名古屋・関西方面の夜行高速バス「ドリーム」号が出入りするだけだったが、今では茨城、福島浜通り方面の「常磐高速バス」や、千葉方面の東関東自動車道を経由する高速バス路線が発達して、高速バスの出入りが途切れることはなく、瞬く間に手狭になってしまった。

1番乗り場が東名高速線、2番乗り場がつくばセンター線、3番乗り場が常磐高速線、4番乗り場が東関道高速線と行先別に分けられるようになったのも、それほど昔の事ではない。

 

乗り場に掲げられた行先表示を物珍しそうに眺めていたT子が、微笑みながら僕に向き直った。

 

「色んな所に行くバスがあるんですね。他のバスに乗ったこともあるんですか?」

「うん、まあね」

 

本当は、この時点で、東京駅を発着する高速バスはほぼ全系統を乗り潰していたのだが、T子に正直に白状することが何となく恥ずかしくて、僕は言葉を濁した。

 

東京-松伏線は3番乗り場であるが、「吉川・松伏」と書かれた掲示板に、「三郷」の文字が後から付け加えたように貼られている。

乗り場に並び始めたのは発車の10分くらい前であったが、先客は1人だけであった。

これならば、最前列の席に座れるじゃないか、と心が躍ったが、客数の少なさは気になるところである。

 

 

待ち客の列が10人程度に増えた発車5分前に、乗り場に横づけされたのは、見上げるようなスーパーハイデッカーであった。

当時の「常磐高速バス」には、夜行高速バス路線の間合いとして、スーパーハイデッカーやダブルデッカーが運用されることが少なくなかったようである。

 

「へえ、こんなにいいバスなんだ」

 

乗降口の高いステップを昇って最前列左側の席に落ち着いたT子は、嬉しそうに車内を見回している。

 

「降りるのは何処でしたっけ」

「吉川駅」

「そこまでどれくらい掛かるんですか?」

「40分くらい」

「えー、勿体ない。それだけですか?」


当時はつくばエクスプレスがなく、三郷や吉川に出掛けるには、上野駅から常磐線で新松戸駅に行き、武蔵野線に乗り換えて1時間弱を要した時代である。

これならば充分に競争力があるではないか、と頼もしくなるけれども、それにしては乗客数が少なく、空席が目立つ。

 

東京-松伏線が運行を開始してから数ヶ月後の新聞に、『渋滞するイメージが先行して、利用客が増えない』という見出しの記事が載っていたことを思い出す。

平日朝の上り便は下り便より15分余計に所要時間を見込んだダイヤが組まれていたが、それでも首都高速三郷線と向島線の激しい渋滞により定時運行が困難という、「常磐高速バス」に共通する悩みは、東京-松伏線も逃れられなかったのである。

短距離であるだけに、一層際だっているのかもしれない。

 

 

僕らが乗ったのは東京駅を10時10分に発車する便であった。

東京駅を背にして八重洲通りを東へ進み、宝町ランプから首都高速都心環状線、江戸橋JCTで6号向島線に入って行く道筋は、僕にとって馴染みであるけれども、T子は窓に目を釘づけにして歓声を上げている。

 

「この川、墨田川ですか?こんな角度から見たことないです。あ、あの五重塔、もしかして浅草寺じゃありません?」

 

高速バスから眺める都心の景観は、「常磐高速バス」が最も楽しいのではないだろうか。

これだけ喜んで貰えるならば、T子を連れて来て良かった、と思う。

 

白髭橋のあたりから隅田川の川幅が広がり始め、右手に都心を一望しながら更に広大な河川敷を持つ荒川を渡り、堀切JCTで中央環状線に入り、続けて三郷線へ歩を進めると、防音壁で視界が閉ざされてしまう。

沿道に目立って高い建物がないので、ところどころ防音壁の上にひょっこりと頭を出しているビルやマンションが散見されるだけで、あとは空でも眺めているより仕方がない区間である。

敷地の確保が難しかったのか、加平ランプの前後では上下線が折り重なって下り線だけにパーキングエリアが設けられている。

 

このあたりが東京都と埼玉県の境で、荒川の支流である綾瀬川と中川を繋いでいる垳川に境が引かれているのだが、防音壁に囲まれた高架からは、綾瀬川も垳川も見ることは出来ない。

間もなく現れる「埼玉県 八潮市」の標識を見て、埼玉県に入ったんだな、と思うばかりである。

防音壁が途切れて、中川に架かる橋を渡ると、倉庫や工場を囲んで住宅やアパートが川沿いにひしめいている。

 

 

八潮ランプの先が、外環自動車道と交差し、常磐道に真っ直ぐ繋がる三郷JCTである。

 

外環道の三郷-大泉間が開通したのは平成6年で、常磐道・首都高速三郷線、東北道・首都高速川口線、そして関越道が初めて相互に連絡されたのだが、東側の三郷-高谷間が開通するのは、平成30年まで待たなければならない。

当時の外環道も常磐道も、渋滞が滅多に発生しないという首都圏では稀な高速道路で、東京-松伏線に乗車した日も、車の流れは至ってスムーズだった。

 

この先の市街地をくぐるアンダーパスも面白いよ、とT子に教えるつもりだったが、あろうことか、バスは三郷JCTの流出路にひょいと逸れて、三郷ランプで一般道に降りてしまった。

三郷市内を経由するようになって、流山ICまで行かない経路に変わったらしいが、これではもはや「常磐高速バス」と呼べないではないか。

 

 

バスは、県道葛飾吉川松伏線を北上して県道草加流山線に右折、更に柳通りに左折して三郷団地の敷地内に入り、新三郷駅前通りに右折して三郷団地、五街区のバス停に停車する。

新三郷駅の手前で武蔵野線通りに左折し、ショッピングセンターが建ち並ぶ「ららぽーと」の脇を抜けて、団地の北部を東西に横切り、県道葛飾吉川松伏線に戻って吉川市に向かう。

 

三郷団地の入居が開始されたのは、吉川団地と同じ昭和48年のことで、総戸数9867戸、ピーク時には2万3千人もの入居者を擁する我が国有数のマンモス団地であった。

1~6街区から構成される南ブロックと8~14街区から成る北ブロックに分かれ、南ブロックは5階建て低層住宅が主体の賃貸住宅、北ブロックは11階建て高層住宅の賃貸住宅並びに5階建て低層分譲住宅があり、北と南のブロックを繋ぐ7街区には2つの商店街があるという。

東京-松伏線が停車する三郷団地と五街区バス停が置かれている新三郷駅前通りは、南北のブロックの境目である。

 

昭和60年に、JR武蔵野線の新三郷駅が団地の東側に新しく開業した。

当時の新三郷駅は、全長5.2km、幅350m、敷地面積105万平方メートルという国鉄有数の武蔵野貨物操車場を跨いで設置されたため、上下線のホームが350mも離れていた。

武蔵野操車場は鉄道貨物が衰退したため昭和61年に廃止され、平成11年に新三郷駅の上下線が統合されている。

 

常磐道が三郷JCTと流山ICの間で地下に潜るのは武蔵野操車場を避けるためで、東京-松伏線から横目で眺めた「ららぽーと」は、武蔵野操車場の跡地を再開発したのである。

 

 

当時の僕は、三郷に土地勘がある訳でもなく、続け様に交差点での右左折を繰り返すうちに、何処を走っているのか分からなくなってしまった。

瀟洒な戸建てや巨大な高層住宅が連なっているかと思えば、大型店舗や、社名を大書した倉庫が姿を現し、合間に雑草が生い繁る空き地が広がっている場所もある。

これほど広くする必要があるのか、と首を傾げたくなるような、交通量と道幅が乖離している道路を走り出したかと思えば、その道路が先窄みに狭くなったり、狭隘と言う程ではないけれど、このような狭い道を高速バスが走るのか、と目を見張ってしまう街路に鼻先を突っ込んだり、普通の路線バスのような目まぐるしい乗り心地である。

取り留めのない車窓は、如何にも新開地の趣だった。

 

三郷駅の周辺には古い街並みも見受けられるのだが、東京-松伏線は、駅近の輸送は自分の仕事ではありません、と言わんばかりに、旧市街地を避けている。

 

「なんか、大変そうですね」

 

交差点を曲がるたびに、対向車に気を使いながらぐるぐるとハンドルを回し続ける運転手を観察していたT子が、ぽつりと呟いた。

客席から運転席を見下ろすような床面の高いスーパーハイデッカーで、このような街路を走るのは、独特の味わいがある。

 

狭い路地でも、道端に一定の間隔でバス停のポールが立ち、三郷団地と五街区バス停もそのような停留所の1つなので、路線バスが通う道路であることは分かるが、東京-松伏線は全てに停まる訳ではない。

路線バスを待っている人が、何やら見慣れんバスだが、と訝しそうにこちらを見上げている。

 

「吉川駅に行きますか」

 

三郷団地では、降りていく客と入れ違いに、乗降口を覗き込んで聞いてくるおばさんがいた。

 

「行くけど、高速バスだから乗れないよ」

 

と、運転手が素っ気なく答える。

 

「乗れないんだ」

 

と、T子が怪訝そうに首を捻った。

バスファンや常連客でない限り、出発地側は乗車だけ、到着地側は降車だけに限定している高速バスのクローズドドア方式を理解するのは難しいだろうと思う。

 

「うん、このあたりは東武バスの路線があるから、JRバスが三郷団地から吉川駅へ行く人を乗せたら、客を奪ったことになっちゃうよ」

「ふうん」

 

三郷団地を出入りするバス路線は、東武バスが、三郷駅、金町駅、亀有駅、松戸駅、獨協大学前駅方面の路線を展開している。

現在は、新規参入事業者のメートー観光が三郷団地と吉川駅を結ぶバス路線を走らせているが、僕の説明は厳密に言えば間違いで、当時は吉川駅に行くバス路線は存在しなかったらしい。

「吉川・松伏」と表示を掲げたバスが目の前に現れれば、利用したくなる人がいても不思議ではない。

 

 

県道葛飾吉川松伏線を北上したバスが、繁華街の中にある吉川駅前バス停に停車すれば、僕らのささやかな高速バスの旅は終わりを告げる。

 

駅前は賑やかな繁華街になっていて、閑静な団地や住宅地、倉庫ばかりを眺めてきた眼には新鮮に映る。

江戸川と中川に囲まれた川の街である吉川には、江戸時代から川魚料理の伝統があり、「吉川に来て鯰、鰻食わずなかれ」という言葉があるという。

駅前には金色の鯰のモニュメントが置かれ、土産物店の「ラッピーランド」には、鯰の煎餅やクッキー、鯰をデザインしたハンカチなどが並べられている。

 

 

僕もT子も鯰料理を食べたことがなかった。

ランチを出している料亭で、ぶつ切りの鯰をすり身にして叩き揚げる「鯰のたたき」を賞味してから、亀有駅行き「有52系統」の東武バスに乗って戸ヶ崎バス停で下車、戸ヶ崎操車場始発の京成バス金町駅行き「金52系統」に乗り換えて、「しばられ地蔵」と水元公園に遊び、更に柴又帝釈天にも足を伸ばして、のんびりと午後を過ごした。

 

「しばられ地蔵」がある南蔵院境内の静かな佇まいと、対照的に大変な賑わいぶりを呈していた柴又帝釈天、そしてゆったりした江戸川の流れと木立ちの緑が調和した水元公園の情景は、今でもありありと瞼に浮かべることが出来る。

 

 

あれから20年が経ったのか、と思う。

 

7年という歳月を一緒に過ごし、真剣に結婚を考えていたT子とは、残念ながら別れることになり、以来1度も会う機会はなかった。

僕は別の女性と結婚したが、9年後に死別した

妻の葬式に参列した叔父が、

 

「人生とは波瀾万丈だね」

 

と囁いた言葉に、僕は万感の思いが込み上げてきて、ただ頷くしかなかった。

 

その3年後に、毎日、東京と三郷を車で行き来する生活が始まったのである。

 

「常磐高速バス」東京-松伏線は、三郷団地を経由する梃入れ策にも関わらず利用者数が低迷し、平成15年には松伏発着便が18往復から12往復に減便、代わりに吉川折り返し便が3往復新設され、深夜便「ミッドナイト三郷・吉川」号の運行が開始された。

平成16年に松伏発着便が5往復へと一気に削減され、吉川折り返し便は6往復に増えたものの、平成17年から深夜に東京駅を発つ下り便2本、という片道運行だけになった。

深夜便は平成18年に松伏まで延長されたが、深夜急行バスと変わらないダイヤであるためなのか、交通新聞社の「高速バス時刻表」からは姿を消してしまった。

 

 

三郷に通勤するようになってから、自分の車で松伏に行ってみたことがある。

田圃に住宅や倉庫、コンビニエンスストアなどが散財する長閑な県道を進み、JAの裏手にある松伏バスターミナルには、三郷から30分ほどで着いた。


バスターミナル、なのだろうと思う。

カーナビに「松伏バスターミナル」と入力して、きちんと導かれた場所であり、「目的地です。お疲れさまでした」との案内も流れたのだが、幾許かの空き地に軽自動車が数台駐まっているだけである。

「南6 南越谷駅南口行」と書かれたポールが立つ屋根付きのバス乗り場が置かれているが、ここに東京駅からの高速バスが出入りしていた時代を想像するのは、かなり難しい。

停留所に隣接する決して広くはない空き地で、高速バスが転回し、待機していたのだろうか。

時おり見掛ける路線バスはこの区画に乗り入れず、離れた県道に置かれた「松伏バスターミナル入口」バス停を通過していくだけである。


時が止まったかのような静寂に包まれながら、僕は改めて時の流れの無常を噛み締めた。

バスで乗り付ける機会には恵まれなかったが、高速路線が開設されなければ、僕は松伏の地を訪れることなどなかっただろう。



東京-松伏線が高速を降りた三郷JCTは、今は渋滞の名所に成り果てている。

 

出勤は首都高速経由で何とかなっているものの、帰り道は通行料金が安く、急な曲線が少ない外環道を使うようにしているので、職場から三郷西ICに入るまで30分、隣りの草加ICや、次の川口東ICまで更に30分と、長時間を費やすことが珍しくない。

午後6時や7時に職場を辞しても自宅まで所要2時間、午後8時に出れば渋滞が解消していて所要1時間と、結局自宅に着く時間が変わらず、三郷への車通勤でただ1つ困り果てたことだった。

 

インターの入口から料金所までの数百メートルを10~20分も掛かるような渋滞に辟易した僕は、外環っていつもこうなんですか、昔は違いましたよね、と料金所の係員に聞いたことがある。

 

「ああ、千葉まで繋がってから駄目になっちゃったね、この道路は」

 

と、年配の係員は、諦め顔で吐き捨てるように言った。

 

 

「常磐高速バス」東京-松伏線が高速を降りてから辿った県道葛飾吉川松伏線と草加流山線も、それぞれ僕が通勤や仕事で頻繁に利用するようになった。

後者は、1日中車が数珠繋ぎになっている江戸川の流山橋を先頭にして、午前7時を過ぎれば流れが極端に悪くなる。

異動して最初の出勤日の朝、荷物を運ぶために車で職場に向かった僕は、三郷駅前まで渋滞に嵌り、あやうく遅刻するところであった。

地図を調べたり、職場の人に聞きながら、渋滞のない道路を探しているうちに、三郷団地と五街区のバス停の前や武蔵野線通りを何度も行き来した。

三郷は早朝から開いている飲食店が少なく、バスが走った県道沿いのファミレスで朝食を摂ることにしていた時期もある。

 

「有52系統」と「金52系統」を乗り換えた戸ヶ崎も、三郷市南西部の、八潮市と境を接する中川の畔にある集落で、僕は、仕事で何度も訪れるようになった。

 

 

人生は波瀾万丈、思いも掛けない出来事に見舞われる。

 

20年前に高速バスの車窓から三郷の街並みを眺めた時は、まさか、この土地で新しい人生を踏み出すことになろうとは、想像もつかなかった。

三郷への異動を提案された時、高速バスで訪れたことがある街、という記憶が、僕の背中を押してくれたのだと思っている。


結果として、三郷の仕事は大変だったけれども充実していたし、人にも恵まれたから、三郷に来る決断をして良かったと感じた。

僕を三郷に導いた運命に感謝した。 

この不思議な縁を、大切にしようと思った。

僕の人生を通り過ぎていった、懐かしい人々の思い出とともに。

 

 

 

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