第31章 平成12年 高速バスで霞ヶ浦南岸の古き港町を訪ねる | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:常磐高速バス東京-江戸崎線、JRバス関東霞ヶ浦線】

 

 

東京駅と江戸崎駅を結ぶ高速バスが走り始めたのは、平成12年7月のことで、僕はその直後に乗りに行っている。 

運行距離が片道90.8km、所要時間2時間10分程度の路線であるから、休日の散歩には手頃である。

 

僕が東京駅八重洲南口バスターミナルから、10時10分発のJRバス関東便に乗車したのは、そろそろ長袖が必要になるかな、と感じた、雨上がりの肌寒い日曜日であった記憶があるから、開業から1~2ヶ月は経っていたのだろう。

開業当初から1日16往復と多数の便が運行されていて、しかも予約制ではないから、出発まで自宅で愚図愚図していたような気がする。

あまりに便利で、かつ遠隔ではない土地の乗り物は、自分の生活パターンを変えてでも断固として乗りに行くぞ、という意気込みに欠けてしまう。

 

 

始発の下り便は7時40分発で、朝早い便はすいていることが多く、乗り場で長い列に並んで最前列や窓際の席を確保するために血眼になる必要がないので、とても気楽であるけれど、そのためには6時過ぎに家を出なければならない。

 

そこまでする必要はないよな、もうひと眠りして次の8時50分の便にしようか、と思ったが、その便は、1日4往復だけ設けられている途中の阿見中央止まりである。

せっかく初乗りの高速バスを体験するならば、終点まで行くバスに乗りたい。

途中で折り返す区間便が設けられている土地は、沿線で有数の大きな町だったり、高名な名所や人気のある施設の最寄りだったり、それなりの理由があるもので、路線バスの旅を楽しむ人々の中には、まず区間便に乗ってから、終点へ向かう行程を組んだりする。

 

ところが、高速バスは、そのように柔軟な乗り方が出来ない。

高速バスは、出発地側の停留所は乗車のみ、到着地側は降車のみというクローズド・ドア方式を採用している路線が多く、僕が乗る東京-江戸崎線も、乗車は東京駅だけ、茨城県側の関鉄ニュータウンつくば、北荒川沖、住吉、右籾三区、阿見原西、東京医大前、県立医療大学、阿見中央、ガーデンシティ湖南、美浦村光と風の丘公園、トレセン前、そして終点の江戸崎は降車だけの停留所である。

つまり、阿見中央で降りてしまうと、次の東京発下り便に乗り直すことは出来ないのである。


その次の江戸崎まで行く便が10時10分発だったから、午後の便にしなかっただけマシであり、それなりに寝坊して、中途半端な時間に出掛ける態になった。

この便に乗り合わせた客も十数人とそれほど多くなく、定刻に動き出したバスの中で、ゆったりとしたシートに身を任せながら、さて、これから僕が向かうのはどのような土地なのだろう、と思った。

 

 

江戸崎と言う地名は、この高速バスの開業で初めて知った。

 

江戸崎の名が文献に見られるのは、15世紀の熊野大社の文書が最初であると言う。

中世の霞ヶ浦では、近世よりも漁業や軍事的役割の強い、津、と呼ばれる集落が沿岸に多く見られるようになり、江戸崎の近くに津が置かれた古渡の集落には、海夫という民が活躍していたと伝えられている。

吉野や伊勢から海路を渡ってきた南朝方の北畠親房に、江戸崎に置かれた熊野大社系列の高田神社の神官が加勢したり、近江に本拠を置く佐々木氏が建武の新政の論功行賞で足利尊氏から高田郷を与えられるなど、霞ヶ浦の水運を通じて中央の情勢と結びついていた痕跡が、歴史書に見受けられるという。

 

江戸、と言えば、徳川幕府が置かれた江戸を思い出す人が多いのだろうが、川を意味する「江」と、入口を意味する「戸」を合わせて、川の入り口を意味する。

江戸崎も同様の地形であることが地名の由来であるとの説が有力であるようだが、地元の資料館の説明文によると、江戸崎と江戸は、霞ヶ浦と利根川系を通じて繋がっていたものの、地名の関連性に確証はないとのことである。

または、霞ケ浦から江戸崎への入り口に、榎が浦という浦が存在し、そこに突き出ている岬、つまり「榎の崎」が「江戸崎」になったという説も存在するらしい。

 

これらは旅の後に調べた知識で、江戸から江戸崎へ向かうバスに乗った僕は、目的地について何も知らないまま旅に出て来た。

 


宝町ランプから首都高速6号線、三郷JCTからの常磐自動車道を瞬く間に走り抜け、バスが高速を降りたのは桜土浦ICであった。

東京では今でも泣き出しそうだった空模様が、ここでは青空に変わったから、幸先がいいぞ、と思う。

天候は回復すると言う予報だったので、傘は持ってこなかったのである。

 

このインターを使う高速バスは初めてだった。

「常磐高速バス」の1番手であった東京-つくばセンター線「つくば」号と東京-筑波山線「ニューつくばね」号は1つ手前の谷田部ICで出入りしていたし、東京-水海道線・岩井線は更に手前の谷和原ICを使っていた。

江戸崎は霞ケ浦の南岸、という程度の知識しかなかったから、なるほど、桜土浦で降りるのか、と思う。

土浦と言えば、常磐線では上野発着の近郊電車で1時間程度、と言う印象を抱いていたので、40分程度の高速走行が物足りなく感じてしまう。

最初に停車する関鉄ニュータウンつくば停留所は、東京駅から僅かに53分の位置である。


インターが接続しているのは国道354号線で、東に進めば霞ケ浦に沿って東西を紡ぐ国道125号線に繋がっているが、バスはいったん西へ進んでから、県道土浦稲敷線へと左折する。

あれあれ、常磐道より西へ行ってしまうのか、と不安に駆られたが、県道は常磐道をくぐって東に抜けたので、胸を撫で下ろした。

 

これまでに「常磐高速バス」で訪れたつくばセンターも、筑波山、水海道、岩井も、全て常磐道の西側の街であったから、東側へ進む道筋は、なかなか新鮮である。


 

関鉄ニュータウンつくば停留所付近の道路は、綺麗な並木が生え揃っているけれど、草ぼうぼうに荒れた空き地が随所に見受けられる。

ニュータウンと名乗るからには、瀟洒な集合住宅が立ち並んでいるのかと勝手に思い描いていたのだが、このあたりは住宅団地が主体のようで、バス停がなければ、ニュータウンとは思いもしなかったことだろう。

 

次の停留所である北荒川沖とは、常磐線の荒川沖駅の北側という意味であろうか。

常磐線を越える跨線橋を登ると、右手は荒川沖駅前のビル街が視界を塞ぎ、前方に目を転じると、一面に瓦屋根の住宅地が広がっている。


 

線路の東側に渡れば、土浦市域を抜けて阿見町である。

道幅が広がり、住吉、右籾三区、阿見原西と停留所が過ぎていくにつれて、ぽつり、ぽつりと古びた集合住宅が住宅地の中に見られるようになった。

右籾とは気になる地名であるけれど、奥州征伐に向かう源義家がお告げを受けたという伝説を起源とし、鹿島、香取、息栖の東国三神を祀る日先神社が鎮座する古い土地であるらしい。

〇区、とは昭和に開発された団地でよく見られる区画名である。

 

阿見西郷の交差点で国道125号線阿見美浦バイパスに合流すると、程なく阿見中央停留所である。

東京-江戸崎線の一部の便が起終点としている阿見中央とは、どのような場所なのかと身を乗り出したが、乗用車やトラックが轟々と地響きを上げて行き交う道端に、全国チェーンのファミレスやコンビニ、自動車販売店やショッピングセンターが軒を連ねている。

右に折れれば阿見町役場、という標識がなければ、ごくありふれた郊外風景である。

 

阿見町そのものが、土浦市の郊外と言えないこともないのかもしれないけれど、前年に高速バスで訪れたひたちなか市や東海村も、似たような佇まいであったことを思い出す。

役場が置かれている中心街と言えば、それなりに建物がひしめいて、年季の入ったビルや店舗が地域の年輪を偲ばせることが多いのだが、最近は、阿見町のような乾いた町並みが増えたな、と思う。

一律に拡張された道路が、そのように平凡な雰囲気を醸し出すのであろうか。

 

  

阿見町は畑作が中心の農村地帯であったが、大正10年に帝国海軍が霞ヶ浦飛行場を建設し、霞ヶ浦航空隊が配属されると、軍需で賑わうことになる。

昭和4年にツェッペリン飛行船が寄港し、昭和6年には飛行家のチャールズ・リンドバーグ夫妻が訪れたこともある。

 

若い血潮の 予科練の

七つボタンは 桜に錨

今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ

でっかい希望の 雲が湧く

 

西條八十作詞、古関裕而作曲の「若鷲の歌」は、軍隊経験のある父がよく歌っていた。

僕が幼い頃に、我が国で第2位の面積を持つ湖として霞ケ浦の名を知ったのは、父が口ずさむ「若鷲の歌」であったかもしれない。

右籾の日先神社も、戦時中は霞ケ浦航空基地に近いことから、戦勝祈願、生還成就の神として広く参拝者を集めていたという。

 

戦後になると引揚者や海軍除隊者による開拓が進み、昭和40年代以降は、首都圏や筑波研究学園都市への通勤者の住宅開発や工業団地の造成が促進されたのである。

高速バス東京-江戸崎線が開業当初から頻回に運行したのも、これら霞ケ浦近辺の住宅や工場と首都の往来を当てにしていたのだろう。

 

ただし、僕が乗る便は日曜日午前の下り便であるから、地元の人が大勢乗り込む時間帯ではなく、客がぽつり、ぽつりと降りていくだけである。

東京の人間が大挙して訪れるような地域でもない。

この旅の9年後、平成21年には、首都圏中央連絡自動車道の阿見東IC付近にあみプレミアム・アウトレットが開店し、平成24年7月に東京駅とあみプレミアム・アウトレット・北竜台地区・龍ヶ崎ニュータウンを結ぶ高速バス路線が開業したものの、運行開始当初から利用者が少なく、僅か1年余り後の平成25年9月に運行を終了している。

 

 

阿見中央を過ぎてしばらくすると、それまでの賑わいが嘘のように建物が減り、交通量も少なくなって、いきなり車窓が鄙びてしまう。

草木に覆われた台地と水田の合間に、小さな集落が程良い間をあけて点在し、その台地も、ガーデンシティ湖南停留所のあたりまでは綺麗に手入れが行き届いていたが、やがて色褪せた笹が混じる雑然とした草むらと、鬱蒼と生い繁る雑木林ばかりになる。

いつの間にか、どんよりと分厚い雲が垂れ込めて、暗く陰りが濃い車窓に変わっている。

雨に見舞われたばかりなのか、路面も、草木や家々の生垣も、しっとりと濡れているから、おやおや、と思う。

 

阿見町までは欠伸が出るような代わり映えのしない車窓だったが、東京から1時間あまりで、このような潤いのある風景に巡り会うことができるのは、バス旅の至福である。

この高速バス路線に乗りに来て良かった、と嬉しくなる。


 

ただ、東京-江戸崎線の車窓は、思った程に霞ヶ浦を見せてくれない。

霞ヶ浦の南岸に沿うのは国道125号線の旧道で、バイパスは、美浦村光と風の丘公園停留所の先で旧道と合流する美浦村役場東の交差点まで、内陸側を通っているためである。

地図を見れば、バイパスが湖岸に近づくのではなく、旧道が右へカーブして内陸に入り込んで来た地点である。

 

江戸崎に行くバスに乗れば霞ケ浦が見えるのだろう、と簡単に考えていたのだが、バスは間もなく「トレセン入口」と標識が掲げられた交差点を右折し、国道を離れて南へ鼻先を向ける。

江戸崎とは、地名から推しても霞ケ浦沿岸にあるのだろう、と思い込んでいた僕は、これ以上霞ケ浦から離れて何処へ行くのか、と不安になる。


 

「トレセン」とは何ぞや、と首を傾げたが、小高い丘陵を登り詰めると、JRA美浦トレーニングセンターがある。

 

中央競馬・地方競馬を問わず我が国で最大の競走馬のトレーニングセンターであり、厩舎地区には2600頭を超える競走馬が収容可能で、調教コースとして7つのトラックと坂路コース、脚力の弱い馬向けのプールや水中歩行訓練装置、馬のクールダウンやリラックスのための逍遥馬道、海外レースに出走する競走馬が入る検疫厩舎、診療所などが設置されている。

敷地内には厩務員宿舎・騎手宿舎・独身寮・職員宿舎など競馬関係者とその家族の生活の場も設けられ、美浦村の人口の3割を占める約5000人が暮らし、競馬の公正性の確保や防疫という観点から、センターのゲートは常時厳しく立ち入りが制限されていると聞く。

周辺の牧場や馬具専門店、馬匹輸送、飼料販売、そして競馬新聞の記者などを含めると、競馬関連業に従事する人間は数万人に及ぶとされ、美浦トレーニングセンターを中心とした競馬村を呈している観がある。

 

僕は競馬にお金を賭けない人種であるので、競馬の裏事情については全く知らないと言っていい。

どの街でも、JRAの馬券売り場は、傲慢に思える程の巨大なビルが聳え立ち、多数の警備員が交通整理を行う中で、競馬新聞を手にしたおじさんたちがたむろしている、といった印象が心にこびりついている。

僕が学生時代に住んでいた東京品川区の大井町でも、駅前から観客を満載にしたバスが大井競馬場に向けてひっきりなしに発車していく様子を目にしているから、競馬には一種のキナ臭さを感じてしまう一方で、馬が走る姿が美しいことに異論はなく、どうして競馬を賭け事にしてしまったのか、と思う。

 

ところが、バスの窓から見るトレーニングセンターは、緑豊かな公園を思わせる佇まいで、動くものもなく静寂が支配し、トレセン前停留所で降りる客もいなかった。

この辺りの地名は美駒で、トレセンが出来る前から、馬を育てる牧場があったのではないか、と想像した。

 

 

ゆっくり丘を下っていくと、間もなく終点の江戸崎駅である。

このような内陸の土地を江戸崎と呼んでいたのか、と意外であるけれど、トレセン入口の交差点から国道125号線を東に進んだ所に古渡入という名の霞ヶ浦の入り江があり、そこに流れ込む小野川の畔にあるのが、江戸崎の町である。

国道をもう少し進んで小野川の橋を渡れば、霞ケ浦が拝めたはずであるから、そちらを回ってくれれば良かったのにと思うけれど、トレセンを無視する訳にはいかないのだろう。

 

小野川の川幅は、河口から江戸崎まで、開削されたように広くなっている。

江戸に当てはめるならば、東京湾から墨田川を遡った築地に相当する、と言ったところであろうか。

バスが進む町並みは、古びた商店が軒を並べ、通りも狭く、中心街と言えばこういう雰囲気じゃなくちゃ、と嬉しくなってしまうのだが、殺風景でありながらも道幅が広く活気が見られた阿見中央に比べれば、人通りや行き交う車は少なく、シャッターを下ろして埃をかぶっている店の方が多い。


 

14世紀に江戸崎城が築城され、城主の土岐原氏が海夫の力を利用して霞ヶ浦の海賊を取り締まる任務を果たしていたことが、古文書によって確認されている。

江戸崎城は、豊臣秀吉の配下である佐竹氏と浅野氏に攻められて落城するが、佐竹氏の家来の芦名氏が入城し、また、秀吉によって三河から関東に鞍替えさせられた徳川家康が利根川の瀬替え事業を開始することで、霞ケ浦-利根川-江戸川-江戸という内陸運河が完成、川船による米や醤油などの物資が集積する河岸の町として発達することになる。

江戸崎は知られざる醤油の特産地であり、江戸時代に作成された醤油番付では、野田、銚子と肩を並べて江戸崎の豪商の名が挙げられている。

 

大正時代に食糧増産を狙いとした干拓事業が霞ヶ浦沿岸の各地で始まると、江戸崎でも昭和13年から江戸崎入干拓事業が着工となり、太平洋戦争を挟んで昭和33年に完工する。

更に、鹿島灘工業地域や筑波研究学園都市の開発、そして首都圏の拡大により、阿見町と同様に江戸崎も郊外型住宅地として人口が増大傾向となり、沿道の商店主が協力し合ってアーケードを設けるなど、「江戸崎方式」と呼ばれる商店街の隆盛は、全国から視察に訪れる程であった。


しかし、人々が手軽に自家用車を手に入れられるようになり、バイパスが整備され、消費と物流が規模も範囲も拡大した昭和40年代の高度経済成長期以降は、地元の小規模な商店よりも、郊外の大規模店舗に客足が向く傾向に変化したのは、我が国の各地で見られたことである。

眠っているかのような江戸崎の町並みを見ていると、この半世紀における容赦のない時代の変遷に思いが及んで、呆然となる。

 

 

駅、と言っても、江戸崎に鉄道が通じていた歴史はない。

国鉄バスが運行されていた主要な町に設けられていた、鉄道線も含めた切符が購入できる出札機能を備えたバス駅であるが、分割民営化を境にして急激に数を減らしているのが実情で、江戸崎駅は、驚いたことに内部がコインランドリーになっていた。

硝子戸の中には大型の乾燥機が鈍い音を立てて回っていて、洗濯物の乾きを待っている軽装の客が、雑誌を読みながら座っているだけである。

 

それでも、壁には「江戸崎駅」と書かれた看板が掛けられ、乗り場には、土浦駅行きの路線バスが待機している。

以前は、荒川沖駅や竜ケ崎駅方面、または霞ケ浦南岸の東にある桜川、浮島、そしてJR成田線佐原駅方面への路線バスが江戸崎を発着していたが、今では佐原方面の路線は地元の桜東バスに委ねられて、本数が大幅に減らされ、途中の幸田で乗り換えが必要になっている。


 

霞ケ浦に沿って先に進み、潮来や鹿島灘に近づくのは魅力ある旅程であるけれども、江戸崎までの行程でも霞ケ浦を眺められた訳ではない。

土浦駅行き路線バスの木原、島津、阿見坂下という途中経由地を見れば、水辺の国道125号線旧道を走るようである。

ならば、霞ケ浦を愛でながら土浦駅に出て、以前にその快足ぶりが心地よかった常磐線普通列車に乗って東京に戻ろうか、と思う。

 

国鉄バス霞ケ浦線と呼ばれた土浦-江戸崎・浮島・佐原線も、江戸崎の隆盛を受けて、一時はトレーラーバスが投入されるほどの賑わいを見せた時代があるという。

数人の客を乗せているだけの閑散とした土浦駅行きのバスの車内を見回しながら、最盛期には1000戸を数えたという江戸崎の賑わいと人々は、何処へ消えてしまったのだろう、と不思議の念にとらわれる。

 

高速バスの終点でなければ、僕も、江戸崎の地に足を運ぶ計画など思いもつかなかっただろうと思うと、この旅のきっかけとなった東京-江戸崎線の開業に感謝したくなる。

ただ、この町を訪れる機会は、二度とないような予感がした。

 


「常磐高速バス」東京-江戸崎線は、平成16年阿見中央を発着する区間便を休止して1日12往復に減便され、平成18年に1日8往復と更に減便、関鉄ニュータウンつくばと北荒川沖停留所を廃止して、稲岡南・ひたち野うしく・二区西と、常磐道を降りた直後の経路は、僕が乗車した時よりも南寄りを大回りするようになった。

そのような梃入れ策も効を奏さず、平成20年にはJRバス関東が撤退して関東鉄道バスの単独運行となり、1日4往復に減便、平成23年3月31日の運行を最後に廃止されてしまった。

 

予想以上に楽しかったバス旅のことを思い出すと、今でも、一期一会、という言葉が心に浮かぶのである。


 

 

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