第8章 昭和63年 常磐高速バス「みと」号で関東平野を見直す | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:常磐高速バス「みと」号、特急「ひたち」】

 

 

昭和63年4月に開業した「常磐高速バス」第2弾、東京駅と水戸駅を結ぶ「みと」号に初めて乗車したのは、開業後間もない春の週末であった記憶がある。

昼下がりの東京駅八重洲南口バスターミナルの3番乗り場に、定刻に姿を現したのは、カラフルな塗装を身にまとった茨城交通バスのハイデッカーであった。

 

「つくば」号を待つ長い行列が途切れることがない2番乗り場を横目に、「みと」号の案内板がある3番乗り場に行けば、対照的に待ち客が少なく、30分程前から待ち構えていた僕は、目出度く最前列の席をせしめることが出来た。

1年前に初めての「常磐高速バス」である「つくば」号に乗車した時は、最前列の席を占めるどころか、乗れるのか、と心配になるほどの混雑であったので、この席で常磐道の車窓を楽しむことが出来ると思えば、それだけで心が躍る。

 

 

外見はかなり使い古された車両のようで、少しばかりたじろいだけれども、座席に腰を落ち着けてみれば、座面は程よく柔らかくふかふかして、尻をすっぽりと包み込む感触が心地良く、ヘッドレストも大型である。

 

茨城交通の高速バス用車両における大型のヘッドレストは、ファンによく知られていたらしい。

平成21年に開業した水戸と宇都宮を結ぶ「北関東ライナー」でもお目にかかり、これこそ茨城交通のバスだよなあ、と嬉しくなったものだったが、いつの間にか他の会社と変わり映えのないシートになってしまい、平成25年に開業した水戸-仙台線に乗った時は、少しばかりがっかりしたものだった。

 

 

定時に東京駅を発車し、首都高速都心環状線宝町ランプの急勾配の流入路を駆け下ると、「みと」号の高速走行が始まる、と言いたいところであるけれど、実際は隅田川から離れて中川の堤防に造られた中央環状線に合流する小菅JCTの辺りまで、渋滞に阻まれるのろのろ運転が続いた。

 

首都高速三郷線に入れば速度も回復し、30分程度で通過する谷田部ICまでは、何回か「つくば」号でたどった道筋であるけれど、最前列の席に座っていると、初めての車窓のように新鮮味がある。

「常磐高速バス」の行程で最も面白いのは、首都高速から常磐道流山IC付近までの都市景観であると思っているけれど、視界が開けてからの関東平野もなかなかいいぞ、と改めて思う。

 

 

谷田部ICから先の常磐道は初体験であるけれども、特にこれと言った特色がある訳ではない。

同じ関東平野でも、緑濃き東北自動車道沿線とは全く異なる景観に感じられるのは、どうしてだろうか。

こちらも緑は多いけれども、何となく湿っぽいような、乾いているような、雑然としているようでいて整然としているような、取り留めのない荒削りな印象である。

 

四国の面積に匹敵する約1万7000平方キロ、国土の5%近くを占める関東平野は、新第三紀以降の関東造盆地運動により、現在の平野の中央部を中心にした沈降が起こり、周囲の山地などが隆起することで土砂が最大3000mにも及ぶ厚さで堆積し、更に隆起することで、丘陵や台地が数多く形成されている。

260万年前に始まる第四期の12~13万年前までは海面が高く、阿武隈・八溝・越後・関東山地といった平野を囲む山裾まで海が入り込んでいて、古利根川、古荒川、古多摩川から流れて来た土砂や生物の死骸が海底に堆積する。

 

5万~10万年前の氷河期には、海面が低くなって海岸線が後退し、山麓や谷に砂礫が堆積して行方・鹿島から成る常陸台地と、新治・稲敷・猿島から成る筑波台地といった北部台地群、 そして南部の武蔵野台地と下総台地が形成され、3万年前に海岸線の後退が最も大規模だった時期に河川が台地を削って谷が形成される。

縄文時代前期の5000~1万年前の間氷期に入ると再度海面が上昇、東京湾や鹿島灘から台地の合間の谷へ海が入り込む縄文海進が起き、古鬼怒湾や奥東京湾が内陸に形成されるが、弥生時代前期になると、河川が運ぶ土砂で海底が埋まって沖積低地となったという。

 

 

現在の常磐道沿線は、殆どが弥生時代前期に形成された沖積低地に相当し、海底になったり陸地になったり、最も変動が大きかった地域と言える。

比較的新しい地形であるため、東北道沿線のような、縄文時代以前に形成された古く安定した土地に育っていないことが、景観の違いの一因かも知れない、と思う。

 

桜土浦、土浦北、千代田石岡、岩間と点在するインターチェンジも、最初は4~5km間隔で現れるが、千代田石岡ICと岩間ICの間は15km、岩間ICと水戸ICの間は13kmも開いている。

後に、石岡小美玉、友部のスマートインターが増設されたけれど、いずれも平成10年代の話で、ここまで来れば常磐道沿線も鄙びている、ということなのだろう。

 

鋏を振りかざすザリガニのような形をしている霞ケ浦の、左腕の先が土浦市、右腕の先が石岡市だったな、などと地図を思い浮かべる程度で、あとは緑の田園地帯や湿地帯が延々と続く。 

「みと」号の車中でふっくらと心地良いシートに身を任せ、次々と浮かんでくる取り留めもない思索に心を奪われながらも、こうも単調な風景が続くと、水戸とは案外に遠いのだな、と思う。

張りつめた雰囲気だった「つくば」号と異なり、30人ほどの乗客も、大半が居眠りをしている。

 

時が止まったかのような、「みと」号の午後のひとときであった。

 

 

「みと」号は常磐自動車道を水戸ICまで走り、市街地を東西に貫く国道50号線を、内原、大塚、赤塚駅、自由ヶ丘、大工町といった市内停留所に停車しながら、JR水戸駅へと向かう。

水戸ICから水戸駅北口までおよそ10km、30分近くを要するけれども、市街地の佇まいがじっくりと眺められるから、地理に疎い余所者としては、いつになったら終点に着くのだろう、と思いながらも、飽きが来ない車窓である。

 

 

地方都市では、高速道路の最寄りのインターチェンジが市街地に設けられることは、まずないと言って良い。

高速走行を終えていきなり速度が鈍り、インター出口の信号で停車した時の、ホッと一息つくような瞬間が、僕は好きである。

どのような土地にたどりついたのか、と周囲を見回せば、長閑な郊外風景が高速道路より遥かに身近に思える。

道端に咲くタンポポに、心を洗われたような気分になる。

 

進むにつれて、沿道の建物の高さと密度が少しずつ高くなり、やがて中心街に入っていく高速バスの車窓は、見知らぬ土地を訪れる序曲としては、景観の変遷もテンポもちょうど良く感じられる。

鉄道では、駅の間際まで速度を落とさない列車が多く、窓外を矢のように過ぎ去る街の景観が目まぐるしくて、お、スピードが落ちたな、と視線を転じると、既に駅の構内だったりする。

 

国道50号線の大工町に設けられた降車停留所のあたりで、右折すれば偕楽園という標識を目にして、梅を見るには時期が遅すぎるな、と思った記憶がある。

 

 

僕は偕楽園を訪れたことがないという無粋な人間であるが、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の1つということは知っていた。

 

水戸藩の第9代藩主徳川斉昭が、千波湖に臨む七面山を切り開き回遊式庭園とした上で、藩校「弘道館」で学ぶ藩士の余暇の場として供するとともに、「孟子」の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節に倣い、領民にも毎月三と八のつく日に開放したのが偕楽園である。

徳川斉昭とは江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の父親であるから、比較的新しい庭園なのだな、と少々意外でもある。

 

 

偕楽園について記された文としては、紀行作家宮脇俊三氏のエッセイ集「汽車との散歩」に収められている「駅のない駅」が印象的である。

 

『水戸の偕楽園は東西に長い丘陵にある。

千波湖を見下ろす眺望のよいところだ。

言うまでもなく偕楽園は梅の名所である。

水戸の人びとと偕に楽しもうと、藩主徳川斉昭が開いた庭園や梅林に、いまは東京をはじめ各地からの行楽客が訪れる。

梅を植えたのは、非常時に備えて「梅干し」を確保するためであったというが、それも昔話の、のどかな公園である。

その偕楽園の裾に沿って国鉄の常磐線が通じ、「偕楽園」という臨時乗降場が設けられている。

ふだんは全列車が通過するが、白梅が咲き始めると、休日には特急「ひたち」も臨時停車して行楽客にサービスする。

ただし、停車するのは下り列車のみで、上りは通過する。

時刻表を開いても「偕楽園」に着時刻が載っているのは下りのページのみで、上りには見当たらない。

じつは、上り線にホームがないのである。

妙な駅だが、帰りは水戸駅まで行って乗りなさいということなのだろう。

私は汽車好きで、かつ物好きだから、偕楽園の丘を下って線路を跨ぎ、上り線の線路際に立ってみたことがある。

向かい側にはホームがあるのに、こちらにはない。

列車が私を無視して通り過ぎていく。

片思いのような駅だ。

無情に過ぎていく列車を見送っているうちに、哀れな男の心境になってきた。

 

「わたし、水戸から乗るわ。あなた偕楽園のホームで待っててね」

 

そう言われて、喜んで出かけたら、ホームがない。

そのうちに彼女の真意がわかってくる……。

梅が散ると、偕楽園臨時乗降場は閉鎖される。

そして、ほんとうの春がくる』

 

名著というものは、読むだけでその舞台に足を運びたくなるものであろうが、読むだけで訪れたつもりになってしまい、気づいたら未訪のまま放置していた、という著作もまた、名文と言っていいのではないだろうか。

兼六園や後楽園を訪れたことがあるのは、この2つの庭園について心に残る文を読んだことがないからかな、と苦笑したくなる。

 

高速バスが偕楽園に沿って走ってくれればいいのだけれど、国道50号線から離れた回り道にあるし、地図を見れば一方通行の狭隘な道路ばかりで、なかなか難しそうである。

 

 

僕は、このバスの終点である水戸に用事がある訳でもなく、特急「ひたち」でとんぼ返りと決めていた。

この時が、僕にとって「ひたち」の初乗りだったかもしれない。

梅の季節ではないから偕楽園駅は営業していないのだろうけれど、せめて列車の窓から片ホームの駅と隣接する庭園を見てみたい、と思った。

 

水戸と言えば、偕楽園ばかりでなく、水戸黄門、水戸納豆などが思い浮かぶけれども、梅の時期でない偕楽園に行ってもしょうがないし、納豆を地元の店で食べても始まらない。

納豆を土産に持って帰ることは出来るかもしれないが、たとえば、駅の食堂で納豆がついた食事を注文すれば、水戸納豆を味わったことになるのだろうか。

 

「水戸黄門」は、思い起こせば、併せて幼少時の様々な記憶が蘇ってくるから、こよなく懐かしい。

水戸黄門こと徳川光圀は、「大日本史」の編纂のために儒学者らを各地へ派遣して史料を蒐集しているものの、自身は世子時代の鎌倉遊歴と、藩主時代に江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、諸国を漫遊したという記録が確認されていないことは、よく知られている。

それでも、講談師が創作したという「水戸黄門漫遊記」が、「天下の副将軍水戸光圀公がお供を連れて諸国を漫遊して世直しをする」という筋書きで幕末にほぼ完成し、大変な人気作となったのは事実である。

 

明治以降は時代劇映画の定番として持て囃され、昭和になると、尾上松之助、山本嘉一、大河内傳次郎、市川右太衛門、月形龍之介など錚々たる時代劇のスターが黄門様を演じている。

僕の記憶に強く残っているのは、テレビ時代を迎えてから毎週放送されたシリーズである。

昭和44年から同58年まで放送された東野英治郎主演の「水戸黄門」が爆発的な人気を博し、昭和58年から平成4年までは西村晃、続いて平成12年までが佐野浅夫、平成13年から翌13年まで石坂浩二、平成13年から平成23年まで里見浩太朗、そして、BS放送であるがテレビ局も製作会社も同じ作品として平成25年から同29年までを武田鉄矢が、それぞれ水戸の御老公を演じている。

 

何よりも1作目の東野英治郎の存在感と人気は圧倒的で、黒澤明監督の「用心棒」や山本薩夫監督の「白い巨頭」、米映画「トラ・トラ・トラ」など大作映画への出演も多い同氏であるが、違う作品でお顔を拝見しても、あ、黄門様だ、と思ってしまうのだった。

 

 

月曜日夜8時になると、“明るいナショナル 明るいナショナル みんな 家中 何でもナショナル”という提供会社のCMメロディが流れ、勇ましい前奏に続いて、

 

人生 楽ありゃ苦もあるさ

涙のあとには 虹も出る

歩いて行くんだ しっかりと

自分の道を 踏み締めて

 

人生 勇気が必要だ

くじけりゃ 誰かが先に行く

あとから来たのに 追い越され

泣くのがいやなら さあ歩け

 

人生 涙と笑顔あり

そんなに 悪くはないもんさ

何にもしないで 生きるより

何かを求めて 生きようよ

 

と、オープニング曲の「あゝ人生に涙あり」が始まると、家族揃ってテレビの前に座ったものだった。

台所で夕飯の後片付けをしていた母も、手を拭きながらいそいそと茶の間に出て来た姿が、昨日のことのようである。

 

旅に出る前の初回、もしくは水戸に帰って来た最終回に、水戸黄門が偕楽園を散策している場面を見た覚えがあるから、偕楽園が幕末に開かれたという史実に違和感を感じたのかも知れない。

ストーリーが佳境に差し掛かると、葵の紋所が描かれた印籠が助さん、格さんの懐から取り出されて、

 

「ええい、控えい、控えい、控え居ろう!この紋所が目に入らぬか!この御方をどなたと心得る!畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!一同、頭が高い!控えおろう!」

 

と、最初は越後の縮緬問屋の隠居と名乗っていた御老公の正体を明かすという展開は、幾らマンネリであっても、待ってました、と身を乗り出した。

この台詞を、今でもそらで言えることに、驚いてしまう。

くっ、とがっくり頭を垂れてそのまま肩を落とす悪役と、ええい、と自暴自棄になって水戸黄門に斬り掛かり、助さん、格さんに倒される悪役の2種類がいて、今夜はどちらなのか、と息を呑んだものだった。

1人で東京に出て来ている身であっても、子供の頃の家族の思い出とは、胸が締めつけられるほどに甘酸っぱい。

 

東京と水戸の間、「みと」号の運行距離にして112.8kmを何度か往復した水戸黄門は、それだけしか行き来していない、と後世で言われているとしても、交通機関が発達した現在に比べれば、決して安楽な行程ではなかったはずである。

その頃の関東平野は、どのような表情を見せていたのだろう。

 

 

常磐線の特急「ひたち」が最速1時間程度で結んでしまう東京と水戸の間を、所要2時間をかけて走る「みと」号に少なからず利用者が定着し、開業当初の1日10往復から増便を重ね、平成22年には1日52往復という大所帯になったことが、最初は不思議でしょうがなかった。

横浜、浦和、水戸、宇都宮、前橋といった関東地方の県都と東京を結ぶ高速バスはなかなか登場せず、現在でも、「みと」号の他には東京・新宿・秋葉原・池袋と高崎・前橋を結ぶ高速バスが1日6往復だけである。

かつては東京・新宿と宇都宮を結ぶ高速バスもあったけれど、程なく廃止されている。

 

水戸以外の県都には新幹線があるから、という解釈が成り立つのかもしれないが、新幹線と並行して成功している高速バスは少なからず存在する。

むしろ、在来線特急列車との競合の方が、高速バス利用のメリットの1つである運賃格差が新幹線よりも小さく、厳しい環境という見方も出来る。

新幹線や特急列車と同等以上の競争力を保持している路線はあっても、廉価な快速列車や普通列車との競争に敗れて消えた高速バスは少なくないのである。

その典型が、「つくばエクスプレス」開通後に廃止された幾つかの「常磐高速バス」路線と言えるだろう。

 

 

「常磐高速バス」第1弾の「つくば」号は、鉄道が通じていない地域を直結して人気を博したが、「みと」号は、鉄道が充分に機能している区間への挑戦であり、運行事業者は高速バスの運行に何らかの手応えを見出していたのかも知れない。

 

「みと」号は、開業当初の赤塚系統だけでなく、停留所設置の要望が地元から出されて、平成12年には茨城町西ICから県自動車学校、茨城県庁前を経由する県庁系統と、平成20年に水戸北スマートICから茨城大学前、上水戸入口、大工町を通る茨大系統が新設された経緯があり、JR水戸駅の西側と南側に広がる市街に、こまめに停留所を設置したことが、好調の一因ではないかと推察される。

特急「ひたち」をはじめとする常磐線の列車が上野駅止まりであるのに対し、「みと」号が東京駅まで乗り入れているのも、利便性が高いと評価されているのかもしれない。

 

 

「みと」号を降りた水戸駅北口は、ペデストリアンデッキが張り巡らされて、敷地の狭さが際立つ印象だった。

駅前を横切っている国道51号線があまりに広く、堂々としているので、どうして街の中心駅がこれほど遠慮いなければならなければならないのだろう、と首を傾げたくなる佇まいである。

 

さて、帰ろう。

東京に出て来たばかりの頃に常磐線の普通電車に乗り、各駅停車とは思えない俊足ぶりに驚いた記憶が忘れられない。

特急電車ならば如何なる乗り心地なのだろう、と楽しみになって、僕はそのまま改札口に足を向けた。

 

 

 

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