蒼き山なみを越えて 最終章 令和5年 高速バス新宿-長野線夜行便 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

令和5年の大型連休の前半が終わり、翌日から後半の5連休が始まるという中日に、今回の旅が始まった。

 

新宿駅南口の改札を出て、甲州街道の向かいで煌々と明かりを灯しているバスタ新宿を見上げたのは、午後10時半を回った頃合いだった。

この年は春の訪れが早く、桜の開花も例年より早まって、日中は半袖でも汗ばむような陽気になっていたが、夜になると頬に当たる風が心地よかった。

 

ここまでの電車内も、駅のホームやコンコースも、甲州街道を渡る横断歩道で信号を待っている人々も、マスクをつけているのは半数程度に止まっている。

世の中は復元しつつあるのだな、と思う。

 

 

令和元年12月に、中華人民共和国の武漢で発生した新型コロナウィルスSARS CoV-2の感染は、瞬く間に全世界に広がり、強い伝染力と高い重症化率・死亡率から、どの国でも多数の人間が集まる活動が困難となり、生活や経済に多大な影響を及ぼした。

通勤通学を含めた労働や学校生活、買い物、娯楽、旅行、催し物など、生活の根幹が制限を余儀なくされ、不自由を強いられる社会の有様に、人間とは集い、出掛けることで社会を築き上げてきた生き物であることを、改めて認識した。

 

僕は、大好きな高速バスに乗れなくなった。

仕事が忙しかったこともあるが、新型コロナウィルスに感染して長期間休めるような身分ではなかったので、自粛していた側面もある。

19歳で高速バスに魅入られてから、これほど長期間に渡って高速バスに乗らなかったのは、初めてだった。

 

鉄道や航空機より客室の容積が小さく閉ざされた空間に、数十人の人間が長時間詰め込まれるのだから、高速バスの乗車中に感染する可能性は決して少なくない、と誰もが考えたに違いない。

 

 

致命的だったのは、流行の初期に、乗り物が関連する報道が注目を浴びたことではないだろうか。

 

令和2年1月20日に横浜を出発し、鹿児島、香港、ベトナム、台湾、那覇を経て、2月4日に横浜港へ帰港した英国船籍の豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」において、1月25日に香港で下船した乗客が、新型コロナウィルスに感染していたことが判明、横浜港の大黒埠頭で長期の検疫体制に入った。

2月5日以降に、乗員乗客合わせて約3700人が船内に足止めされ、706人が感染し、うち4人が死亡した。

 

ニュース番組や新聞紙面で「ダイヤモンド・プリンセス」の名が出ない日はなく、乗船客の待遇や隔離方法などに賛否両論が噴出したものの、乗員乗客は3月1日までに全員が下船した。

英国のジョンソン首相が日本の安倍首相に謝意を表し、米国の駐日臨時代理特命全権大使が、「『ダイヤモンド・プリンセス』号の米国人乗客は最高のケアを受けました」「これは優秀な地域医療だけでなく日本の素晴らしい“おもてなし”の心を映し出すものです」と述べている。

 

世界保健機関(WHO)と米疾病予防管理センター(CDC)、日本の国立感染症研究所の指示の下に除染作業を終えた同号が、改修のために本牧埠頭に向かう際に、船室の照明を利用して「ARIGATO JAPAN」のイルミネーションを点灯したと聞いたのは、コロナ禍で数少ない心温まるニュースであった。

この時は、国内の感染者数がそれほどでもなく、関心は「ダイヤモンド・プリンセス」に集中していた感があり、解決すれば事態が終わったかのような錯覚に陥ったのだが、災厄の序章に過ぎなかったのである。

 

 

都内に住む20代の女性の事例は、高速バスが絡んでいる。

令和2年4月26日から味覚や嗅覚に異常を感じた女性が、28日まで出勤を続け、29日に新宿発山中湖旭日丘行きの「中央高速バス」富士五湖線で県内の実家に帰省したのである。

30日に友人宅でバーベキューをして、勤務先の同僚が新型コロナウイルスに感染していたため、5月1日にPCR検査を受けて陽性と判明した。

山梨県は、その女性に、実家に待機して公共交通機関の利用を控えるよう求めていたにも関わらず、自身の感染を知りながら5月2日に高速バスで都内に戻ったことや、東京在住の友人も感染していたことなど、ネットで誹謗中傷が飛び交う騒ぎとなった。

 

この頃は、まだ、感染系経路が探れる程度の状況であったが、新型コロナウィルスの伝染力が増し、流行が大規模になるにつれ、感染経路は曖昧になっていった。

 

 

令和2年2月から6月頃までの第1波に始まり、同年7月から10月頃までの第2波、同年11月から令和3年4月頃の第3波、同年5月から8月頃の第4波、同年9月から11月頃の第5波までは、流行の波がいつ始まり、いつピークを迎え、いつ終息したのか、全く実感がなかった。

後になって感染者数や死者数のグラフを目にして、このあたりが山場だったのかと振り返ることはあっても、騒然とした世相は、流行が途切れずに連続しているかのようで、僕も常に無我夢中だった気がする。

勤務先の病院で、full PPE(personal protective equipment)の防御服に身を包んで診察に当たる時は、自分が、細菌兵器で人類が滅亡する小松左京のSF小説「復活の日」や、同じくパンデミックを題材にした映画「アウトブレイク」「感染列島」の登場人物になったかのような、どこか非現実的な感覚が拭い切れなかった。

 

少し落ち着いたのかも、と初めて愁眉を開いたのが令和3年の師走で、頼むからこのまま終息してくれ、と祈ったものだった。

ところが、令和4年1月から同年6月頃までの第6波は、僕が勤務する病院で入院患者と職員が罹患する大規模なクラスターが発生し、ウィルスの伝染力が増大したことを実感した。

いつまで続くのか、と暗然たる思いだった。

 

人影がなく閑散とした羽田空港や東京駅を目にした時は、愕然とした。

車で高速道路を走っていても、高速バスを見掛ける頻度は明らかに減っていたし、たまにすれ違っても、どの車内もがらがらにすいているのを目にして、胸が痛んだ。

どのような災厄であっても、いつかは終わるのだから、それまで何とか耐えてくれ、と祈るしかなかった。

 

小松左京の「復活の日」は映画化もされ、未知のウィルスがもたらした世界的流行で患者が押し掛ける日本の病院の場面が、僕の母校の大学病院でロケされたのだが、原作でも映画でも取り上げられた場面が、強く印象に残っている。

治療に奮闘する医師が、小説では後輩医師、映画では看護師の「こんなこと一体、いつまで続くんでしょうか?」という悲痛な問いかけに答える一言である。

 

『どんなことにも……終りはあるさ……ただ……どんな終り方をするかが、問題だ』

 

 

令和4年7月から同年11月頃までの第7波、同年12月から令和5年3月頃までの第8波では、明らかに罹患者の症状が軽くなり、重症化率や死亡率が減少して、気を緩めてはいけないと自戒しつつも、人類はSARS CoV-2との闘いを乗り越えつつあるのではないか、と思えるようになった。

 

僕も、令和5年の正月明けに感染し、幸い軽症で推移したのだが、隔離生活を余儀なくされた。

これほど仕事を休んだのは、社会人になって初めてであった。

 

第8波の流行では感染者の重症化率が下がったため、マスク着用や手洗いの励行、食事中の会話を控えるなどといった基本的な感染対策以外の防御策が緩和され、経済活動や学校生活、旅行などの規制が解除された。

自分が新型コロナウィルスに感染したことで、しばらくは他者からの伝染や、人にうつす可能性が減ったものと解釈した。

医療者は、新型コロナウイルス感染が治癒した直後を、諧謔的に「無敵」と呼ぶ。

 

無敵の身体を授かったならば、久しぶりに趣味の高速バス旅行に出掛けてみよう、と思い立ち、令和5年2月に、おそるおそる東北へ出掛けた。

新型コロナウィルス感染症の軽症化を反映して、世の中はどんどん規制が緩和され、交通機関の利用客が増え始めていた。

東北への高速バスを待っている間、東京駅八重洲南口バスターミナルで成田空港行きのリムジンバスが乗客を満載しているのを目にして、世の中が復元しつつあることを実感した。

 

久しぶりの高速バス旅は楽しかった。

味をしめた僕は、次に、故郷への高速バスに乗ろう、と決めた。

 

 

お誂え向きの路線がある。

平成4年4月に、京王バスと川中島自動車が開業した「中央高速バス」新宿-長野線は、開業直後に乗車したことがある。

上信越自動車道や長野自動車道が長野に達していない時代であったので、中央自動車道と部分開通の長野道を豊科ICまで走ると、国道19号線に降りて長野へ向かっていた。

 

平成5年に全線が開通した長野道に乗せ替え、平成8年に上信越道が長野まで開通するとそちらに経路を移して、開業時に4時間45分を費やしていた所要時間を、3時間40分まで短縮している。

最初は1日2往復だけの細々とした運行であったが、その後、1日15往復まで増便を重ね、平成22年に、下りだけであるが夜行便も登場した。

 

 

僕は、夜行の交通機関に強い思い入れがある。

鉄道でも高速バスでも、夜の旅が醸し出す独特の雰囲気に、限りない郷愁と憧憬を感じる。

 

東京と長野の間に高速バスが走り出す前から、僕は夜行急行列車「妙高」で帰省したことがあるし、平成9年に「妙高」が廃止された後も、夜行急行「アルプス」と「ちくま」を乗り継いで長野に向かったこともある。

高速バス新宿-長野線を体験したのは、「中央高速バス」の一員であった時代に1度だけで、全行程を高速道路に乗せ替えてからとんと御無沙汰していたが、同時に開業した夜行高速バス東京・新宿-長野・須坂・中野・湯田中線「ドリーム志賀」号は、複数回の利用経験があった。

「ドリーム志賀」号は平成11年に廃止されたが、平成24年から夜行高速バス千葉・TDR・上野・浅草-松本・長野線が運行を開始し、こちらも勇んで乗りに出掛けた。

新幹線ならば1時間半ほどの区間でありながら、これだけ夜行の乗り物を使っているのだから、僕の夜行好きも筋金入りである。

 

新宿-長野線に片道だけ設定された夜行便も、いつか乗ってみたいものだ、と恋い焦がれる思いを抱きながら、いつしか10年以上が過ぎていた。

 

 

夜行で思い起こすのは、令和元年5月1日のことである。

平成天皇が御高齢を理由に御引退を表明し、この日、令和が始まった。
 
新時代は、小雨の中の幕開けだった。
世の中は10連休であったが、僕は前日もこの日も、そして翌日も仕事だったが、出勤途中で、秋田から夜を徹して上ってきた夜行高速バス「フローラ」号を見掛けた。
元号は変わっても、変わらずに夜通し働き続けている人もいるのだな、と思った。
 
 
夜行高速バスの膨大な路線数を考えれば、何百人もの運転手が、夜の高速道路でハンドルを握りながら、新しい時代を迎えたことになる。
その何倍かにのぼる乗客もまた、車中で時代の変化を体験したのである。
 
渋谷をはじめとする繁華街は、カウントダウンで年越しのような騒ぎだったと聞いたが、夜行高速バスの車内で令和を迎えるのも悪くなかったかも、と思った。
 

 

令和が幕を開けた時点で、定期の夜行列車はほぼ壊滅状態であり、東京と高松・出雲を結ぶ「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」だけという有様だった。
 
昭和から平成に移り変わった30年前は、全国各地に夜行列車が走り回っていた。
壇上完爾の著作で、寝台特急列車の勤務中に年越しを迎える車掌の物語を読んだことがある。
勤務が一段落すると、閉店した食堂車に乗務員が集まり、ノンアルコールの飲料で乾杯する写真が添えられていた。
 
逆に、当時の夜行高速バスの路線数は、微々たるものであった。
東京と名古屋、京都、大阪を結ぶ「ドリーム」号、東京と仙台、山形を結ぶ「東北急行バス」、大阪と山陰を結ぶ「山陰特急バス」といった老舗路線と、札幌と釧路を結ぶ「スターライト釧路」号、札幌と函館を結ぶ「オーロラ」号、東京と弘前を結ぶ「ノクターン」号、東京と新潟、富山、金沢を結ぶ「関越高速バス」、そして大阪と福岡を結ぶ「ムーンライト」号といった、昭和60年代に新規に開業した路線など、数える程度だった。
 

 
高度経済成長期に、私的な時間を削ってまで夜行で移動しながら猛烈に働いていた人々が、平成の御世には、いつしか自宅やホテルで夜を過ごすようになり、夜行需要が減少して、主役が夜行列車から夜行高速バスに移っていた。
 
ただし、夜行高速バスの本数は多いものの、流動に占める比率は1~2%程度と言われている。
日本人のライフスタイルは、30年間で大きく変わったのである。
 

 

高速バス新宿-長野線の予約を入れたのは4月の中旬であったが、期待と怖れと後悔が入り混じったような感覚で、本当に行って良いのだろうか、と何度も自分に問い直した。

まるで、生まれて初めて高速バスに乗った30年前のようだった。

 

新宿発着の「中央高速バス」や、名古屋発着の「中央道特急バス」などのネット予約が可能な「ハイウェイバスドットコム」を開くのは、久しぶりだった。

以前に登録したIDやパスワードが無効になっていたので、改めて、どれほど高速バスから遠ざかっていたのかを噛み締めた。

 

昭和の終わりから平成の初頭にかけての「中央高速バス」は、電話で予約を入れると、発車間際に乗車券を購入すれば良いシステムだった。

この方法では、電話予約を入れながらも乗車しない客の扱いが難しく、下手をすれば空席で運行する羽目になりかねないので、乗車券の購入期限を設ける事業者も少なくないのだが、「中央高速バス」は、航空機のように発車直前のキャンセル待ちを募集することで対処していた記憶がある。

 

原始的でありながら便利な方法だったが、今では支払いをクレジットカードで済ませ、返信されるメールに記されたURLを開けばWEB乗車券が表示されるので、窓口に行く必要すらなくなっている。

世の中は着実に進歩していることを実感した。

 

 

「バスタ新宿」は、予想以上の混み様だった。

広い待合室も、回廊になっているバス乗り場も、余所行きの身なりをした人々で溢れ、外国人も少なくない。

 

『御案内致します。23時20分発仙台・古川方面「ドリーム仙台・大宮・新宿」は、A1乗り場より発車致します』

『御案内致します。23時20分発富山・金沢・小松方面JX401便は、B4乗り場より発車致します』

『御案内致します。23時20分発名古屋・栄方面NA13便は、B5乗り場より発車致します』

 

ひっきりなしに、無機質で固い女性の声が出発便を告げ、独特の抑揚がある男声の英語の案内が続く。

その合間に、

 

『御案内致します。バスは出発時刻と同時に発車します。お乗り遅れのないよう御注意下さい』

 

などの注意喚起や、

 

『御案内致します。22時45分発京都・大阪方面JAMJAMエクスプレスJX221便は、到着が遅れております』

 

という遅延の案内が混じる。

東京を発着する高速バスは、起終点を郊外に置いている路線も多く、新宿までの道路が渋滞しているのかもしれない。

 

 

掲示を見れば、午後11時を過ぎたというのに、各方面へ向かう数十本の夜行高速バスがずらりと並んでいる。

コロナ禍がひと段落したと見て、最初の大型連休にどっと人が繰り出しているのであろう。

 

混雑は辟易するけれども、大きな災厄が終わりを迎えつつあるという解放感は格別であるし、陽気な祭典に参加しているような高揚感を覚える。

この感覚、久しぶりだな、と思う。

僕が乗るバスの発車時刻まで手持ち無沙汰であるけれども、ベンチに座って行き交う様々な人々を眺めているだけで飽きが来ない。

 

 

『御案内致します。23時20分発大阪、奈良、西大寺方面「ドリームスリーパー東京・大阪奈良」号は、C7乗り場から発車します』

 

との案内放送を耳にした僕は、待合室を出て、乗り場に足を運んだ。

C7は、高速バス新宿-長野線も出発する乗り場であるし、全席が個室になっている夜行高速バス「ドリームスリーパー」を見れば、目の保養になるかと思ったのである。

 

 

平成29年の初夏に、僕は、登場したばかりの「ドリームスリーパー」東京-広島線に乗り、贅沢な一夜を過ごしたことがあった。

後発路線であるためなのか、東京の停留所が後楽園と大崎駅で、東京駅、バスタ新宿、渋谷マークシティなどといった知名度の高いターミナルに乗り入れていないことが気になった。

 

「バスタ新宿」が完成した当初は、想定以上に多数の高速バスが乗り入れることになったために、新規参入が難しくなり、同じ路線でも続行便は周辺の停留所を使わざるを得なくなっている、と聞いた。

同じ年に「ドリームスリーパー」東京-大阪線も開業し、広島線とともに、新幹線より高い運賃と豪華な車内設備で話題になったが、最初は池袋駅前を起終点とし、令和元年に新宿を拠点とする関東バスが参入したにも関わらず、新宿駅西口を発着していたので、「バスタ新宿」には入れないのか、と首を傾げた。

 

 

令和5年にようやく「バスタ新宿」への乗り入れを果たし、関西側で奈良交通が参入して、JR奈良駅と近鉄西大寺駅まで延伸されたのは、御同慶の至りである。

 

「DREAM SLEEPER」と大書された派手な車体は6年前と同じで、定員がたった11人であるから、乗降口に並んでいる乗客は少ない。 

乗降口に詰め掛けた乗客は、1人ずつ靴を脱がされてスリッパに履き替え、運転手が靴をレジ袋に入れて渡すという手間を掛けるので、見ていてもどかしいけれども、羨ましい。

大阪に所用が生じたら、是非とも乗ってみたいものである。

コロナ禍で、学会など遠隔地の所用の大半がWEBで済ませられる御時勢になり、そのような機会がいつ訪れるのか、全く分からない。

 

 

後ろのC8乗り場では、八木・高田・五條行きの夜行高速バス「やまと」号が客を乗せている。

 

乗り場に並べられた荷物はどれも嵩が大きく、トランクに入り切るのか、と心配になるほどの数である。

登山用の荷物が多いように見受けられ、吉野や紀伊の山地を歩く人が多いのかもしれない。

改札を終えた2人の運転手が、荷札で行き先を確かめながら、汗だくで積み込んでいるのを見ながら、なかなかの重労働だな、と同情したくなった。

 

 

「ドリームスリーパー」の改札が終わって扉が閉められると、控えていたジャンパー姿の女性係員が、

 

「京都、大阪行き『VIPライナープルメリア』のお客様は、こちらにお並び下さーい!」

 

と大声を張り上げ、C7乗り場に大勢の乗客が列を成した。

23時25分発のこの便は、C8乗り場で案内されていたのだが、間際に乗り場が変更になったらしい。

 

「ドリームスリーパー」が発車する寸前に、「京都・大阪」と行先表示を掲げた「JAMJAMエクスプレス」が見えたので、遅延していたバスかな、と思う。

 

 

「VIPライナー」が乗車扱いをしている間に、アルピコ交通のハイデッカー車両が姿を現し、係員に誘導されて後方の待機場に停車した。

案内板に「23:35 長野・善光寺 6051便 アルピコ 満席」と表示されている、僕の今夜の宿である。

 

これまでの記事で、僕は、長野市に本社を置く老舗のバス事業者を「川中島自動車」と呼び続けてきたが、実際は、昭和59年の会社更生法の適応と同時に松本電鉄グループの傘下となって「川中島バス」に社名を変更し、平成23年に松本電鉄、諏訪バスを含めて「アルピコ交通」に統一されたのである。

アルピコ、という語感は嫌いではないが、子供の頃から慣れ親しんで来た名前が消えるのは、やはり寂しい。

 

 

西武バスと長野電鉄バスが運行する高速バス池袋-長野線もまた、運行事業者が変わっている。

長野電鉄が昭和36年から東京と長野を一般道経由で結ぶ特急バスを走らせた歴史があるので、僕はこちらの路線の方に思い入れがあった。

平成8年の開業直後に、新宿-長野線を差し置いて真っ先に乗車したのだが、池袋と新宿の立地条件が一因であるのか、池袋-長野線は運行本数が6往復にとどまっていた。

 

令和元年に西武バスが手を引き、アルピコ交通が参入した時は驚いた。

地方では、バス事業者が乗客の袖を引っ張り合うような激しい競争を繰り広げる場合もあったと聞いたことがあるが、それほど激烈ではなくても、何かと競合してきた川中島自動車と長野電鉄バスが手を組んだも同然であり、時代の変遷に身をつまされた。

令和3年に池袋-長野線と新宿-長野線は統合され、京王バスとアルピコ交通、長電バスの3社共同運行に落ち着いたのである。

通常に運行するだけで生き残れるような、生易しい時代ではないのだろう。

 

 

「VIPライナー」が発車すると、アルピコ交通のバスがのっそりとC7乗り場に近づいて来た。

若い運転手が元気な足取りで降りてきて、

 

「お待たせしました、長野行きです」

 

と案内する。

居並ぶ乗客で紙の乗車券を持っている人は殆んどおらず、大半が、スマホの画面を運転手に見せている。

運転手が手にしているのも、昔ながらの紙の座席表ではなく、タブレットである。

 

 
僕もスマホのWEB乗車券を開いて改札を済ませ、乗降口のステップを上がると、横3列独立シートがずらりと並んでいるので、嬉しくなった。

開業当初は横4列席だった新宿-長野線であるが、今では昼行便でも横3列席の便が増えており、池袋系統も同様であるのは、コロナ対策の一環かもしれない。

 

シートの背もたれに透明のアクリル板が取り付けられているのは、飛沫予防の感染対策であろう。

コロナ禍では、飲食店の席や販売店のレジ、発券窓口など、人の集まる場所がアクリル板だらけになったことを思い起こせば、流行が完全に収束した訳ではないのだな、と気持ちが引き締まった。

 

 

シートに腰を下ろせば、自宅を出てからの慌ただしさが噓のように、心が静まった。

夜行高速バスに乗るのは4年ぶりになる。

別に流浪の民や火宅の人になるつもりはないけれども、やっぱりここが僕の居場所の1つなのだな、と思うと、戻って来られたことを感謝したくなった。

 

座席周りを点検すれば、右の肘掛けの先端のレバーはレッグレストの出し入れ、左の肘掛けの先端は出入りに際して肘掛けを下げるレバー、リクライニングは左の肘掛けの下のくり抜きにレバーがあることを、きちんと覚えていたので、何となく得意になった。

レッグレストは以前より幅が広くなり、前席の座面の下に足を潜り込ませる構造である。

リクライニングの角度も深く、一晩を過ごすには申し分ない。

 

発車前からカーテンがぴっちりと閉ざされて、境目に隙間が生じないよう、上から下までマジックテープでくっついている。

剥がそうとすると、バリバリとかなり大きな音がしたので、眠る前に少し夜景を楽しみたいと思っていたのに、人目が憚られた。

 

 

「お待たせしました。発車致します」

 

とアナウンスが流れて、バスはスッと動き始めた。

外は見えないけれども、運転手のハンドル捌きは滑らかで、バスタ新宿の3階乗り場から2階の降車場、そして1階の出口へ降りていく曲線だらけの流出路も、甲州街道を走り出してからも、気になるような衝撃は感じない。

 

録音された女性の案内が、静まり返った車内に流れ始めた。

 

『お待たせ致しました。今日も、高速バス長野行きを御利用いただき、誠にありがとうございます。バスはこの先、関越自動車道、上信越自動車道を経由して、長野バスターミナル、長野駅、善光寺大門、ホテル国際21まで参ります。お客様にお願い致します。お客様の安全のため、シートベルトの着用をお願い致します。車内は禁煙です。車内では、携帯電話はマナーモードに設定し、通話はお控え下さい。このバスは夜行便ですので、座席がゆったりと造られています。お座席を倒される時は、後ろのお客様にひと声掛けてから、座席脇のレバーをお引き下さい。皆様がお休みになれますよう、リクライニングに御協力をお願い申し上げます。それでは、ごゆっくりとお寛ぎ下さい。次の停留所は、中野坂上でございます』

 

 

夜行高速バスにおけるリクライニングの扱いは、永遠の課題であろう。

一般的な横3列独立席、前後11列で定員29名のバスの前後の座席間隔は90~100cm、リクライニング角度は約140度と言われている。

ネットでは、座席を購入した乗客の権利なのだから、後席に挨拶すれば目一杯倒して当たり前、という意見から、リクライニングをフルに倒すなんて信じられない、という声まで、賛否両論、議論百出であり、中には、全員が一斉に背もたれを倒せるよう運転手が号令をかける路線まであると聞く。

 

僕の隣りの中央列を占めた女性が、後席に声を掛けてリクライニングさせたのを見て、僕も振り向くと、後席の若い男性は俯き加減にスマホに見入り、両耳にイヤホンをつけて、声をかけても反応がないので、大いに困惑した。

やむを得ず、控えめに背もたれを倒し、後席の男性が困っていないのを確認してから、消灯後に深く倒すことにした。

 

 

『本日もアルピコ交通長野行き夜行バスを御利用下さいましてありがとうございます。バスはこの先、関越道に入りまして、三芳パーキングエリアにて休憩を予定しております。三好パーキングは、お客様が外に出られます最後の休憩になります。お飲み物等必要なお客様は、そちらでお買い求め下さい。また、長野での降車場所の変更がございましたら、必ず三芳パーキングまでに乗務員にお知らせ下さい。なお降車予定のない停留所は、降車場所変更のお知らせがなければ、通過して参りますので御注意下さい。三芳パーキングを発車しまして、何度か停車をしながら長野へと向かわせていただきますが、途中の停車は乗務員の休憩、仮眠のための停車となっております。お客様は外へは出られませんので、予め御了承下さい。また、道路状況によっては、経路の変更、到着予定時間が前後する場合がございますので、御了承下さい。なお、ただいま、関越道の方は渋滞の方が出ております。休憩場所が変更になる場合がございますので、御了承下さい』

 

運転手の肉声の案内が続く。

夜行高速バスに相応しく、甘く低い声色だったが、運転操作を行いながら、つっかえもせずによく喋れるものだと感心する。

少しくらい遅れたって一向に構わない旅程であるが、関越道は何処で渋滞しているのであろうか。

 

 
『続きまして、車内の御案内を致します。車内事故防止のため、シートベルトの着用をお願い致します。非常口はバス車内後部右側にございます。携帯電話はマナーモードに設定し、通話は御遠慮下さい。音楽プレーヤー等を御利用の際には、イヤホン等を御利用いただきまして、周りのお客様の御迷惑にならないよう御利用下さい。お煙草は電子煙草も含めまして車内禁煙になります。リクライニングを御利用の際には、後ろのお客様に一声お掛けになって御利用下さい。また休憩の際やお降りになる際は、リクライニングをお戻しになりますよう御協力をお願い致します。車内のお手洗いは車内後部にございます。走行中御利用の際には、揺れることもございますので、しっかりおつかまりいただき、着座にて御利用下さい。なお、深夜お手洗い御利用のお客様がいらっしゃいますので、通路にお荷物を置かれることは御遠慮下さい。そのほか御不明の点がございましたら、三芳パーキングで乗務員までお知らせ下さい。なお、三芳パーキング発車の際に、車内完全に消灯となりますので、お願い致します。それでは、狭い車内ではありますが、ごゆっくりお過ごし下さい』
 
用足しの姿勢にまで言及する案内は、初めてだった。
男性が洋式便器でどのように小用を済ませるのかも、座席のリクライニングと同様の大問題なのかもしれない、と思えば、頬が緩む。
 

 

アナウンスが終わるあたりで、僕は我慢しきれなくなって、バリッとカーテンのマジックテープを数センチだけ開けた。

バスは、中野坂上の交差点で青梅街道から山手通りに右折するところであった。

 

大久保通りと交差する宮下交差点に近い中野坂上停留所に停車すると、若い男性が乗って来て、あいていた僕の前席に腰を掛けた。

別の人物が乗降口を挟んで運転手に話し掛けているようだったが、声は聞こえない。

 

「今日は満席で乗れませんよ」

 

運転手が素っ気なく返事をして扉を閉めたので、飛び乗り希望だったのかもしれない。

日付が変わる頃合いに、わざわざ足を運んだバス停でお目当てのバスに乗れないとは、どのような心持ちになるのだろう、と他人事ながら心配になった。

 

 

程なく、頭に膜が張られたような眠気が襲ってきた。

それまでのような信号待ちの停車がなくなり、バスの走りの勢いが増したので、練馬ICで関越道に入ったのだな、と推察したくらいで、後はよく覚えていない。

 

減速の感触に目を覚ますと、バスは本線を逸れて三芳PAに入ろうとしているところだった。

前方のデジタル時計は、午前0時30分を過ぎている。

 

「三芳パーキングです。ここで休憩致します。発車は0時45分です」

 

と、運転手の囁くような案内があった。

 

 

バスを降りると、ひんやりとするそよ風が優しく頬を撫でた。

足早に用足しを済ませて一服するだけで、15分はあっという間に過ぎた。

発車時刻になると、運転手が客席の人数を確認し、前方の仕切りカーテンを閉めて消灯してから、バスを発車させた。

 

長野まで残された時間は4時間しかないけれども、とにかくよく眠った。

これまで東京から長野まで利用した夜行高速バスは、「ドリーム志賀」号にしろ、千葉-松本・長野線にしろ、中央道と長野道、もしくは国道19号線経由だったので、上信越道経由の夜行路線は初体験であることに気づいた。

下り便だけの夜行便であるから、仕事やイベントなどのために東京に夜遅くまで滞在したい需要を見越して設定されたのであろうが、仮眠程度の車中である。

 

往年の夜行急行列車「妙高」も、23時59分という日付が変わる寸前に上野駅を発ち、長野駅の到着が午前5時前であったことを思い出す。

 

 

ふと目を覚ますと、バスが停車している気配に、運転手が休憩中なのだな、と察した。

もうひと眠りしても、まだ停車したままだったので、ここは何処なのだろう、と思う。

時計を見ると、午前4時を過ぎていた。

長野ICの手前にある松代PAあたりで仮眠しているのか、などと想像するのは、夜行高速バスならではの味わいである。

 

運行距離がそれほど長くないとは言え、運転手は6時間近くを1人で乗務するので、少しくらい寝過ごしたって良いから、ゆっくり休んでほしいと思う。

 

 

高速バス新宿-長野線夜行便は、早暁4時37分到着予定の千曲川さかき、4時46分着の上信越道屋代から降車扱いをするが、全くの白河夜舟で通り過ぎたので、降りた客がいなかったのかもしれない。

 

いきなり、客室天井の照明が灯されて、眩しい光に目をこじ開けられると、

 

「間もなく長野インター前です。お降りのお客様はお忘れ物のないようお気をつけ下さい」

 

という案内が流れ、5~6人の乗客が降りた。

運転手の声が少しばかり嗄れているように聞こえたので、お疲れ様、と思う。

次の降車停留所である川中島古戦場の案内はなく、下氷鉋と丹波島橋南に停車した。

 

 

車内の照明がつけっぱなしになり、殆んどの乗客が目を覚ましたようなので、僕は、バリバリとマジックテープを剥がして、カーテンを開けた。

 

丹波島橋では、広い河川敷を抱く犀川の向こうに、山ぎわの雲を払って太陽が顔を出していた。

隣席の女性が、窓の外に目を向けて、息を呑む気配がした。

いい天気になりそうだ、と嬉しくなる。

 

 

見慣れた街並みを走り抜け、長野バスターミナルで数人が下車し、長野駅前で一斉に乗客が席を立って、車内に残されたのは、僕ともう1人だけになった。

 

高速バス新宿-長野線は、長野駅から善光寺大門を経て、長野県庁の近くのホテル国際21まで足を伸ばすので、乗車券も終点まで予約してある。

長野市の繁華街は、長野駅から善光寺に伸びる中央通りに沿って広がり、西に外れた県庁付近に目ぼしい店舗はない。

長野五輪の頃から、長野駅付近の賑わいが飛び抜けた観があり、長野駅で降りた方がいいのかも、と思ったが、まだ午前5時を過ぎたばかりであるから、いくら繁華街でも暇を潰すアテは何もなさそうで、僕は腰を上げなかった。

 

 

バスは、長野駅前を横切って長野大通りを北へ進む。

中央通りを通らないのか、と訝しんでいるうちに、国道406号線に左折して、中央通りとの交差点の手前にある善光寺大門停留所に停まると、車内は僕1人になった。

長野大通りから中央通り、県庁通りを東西に紡ぐ国道406号線は、以前は狭隘であったが、長野冬季五輪を前にして見違えるように拡張された。

建て込んだ市街地で、よくぞ、ここまで広げられたものだと驚嘆したものだったが、この経路ならば、中央通りよりも道幅は余裕がある。

 

善光寺に向かう中央通りや、長野西高校と七曲りを経て大峰山、飯綱、戸隠方面に向かう西高通りなど、国道406号線と交差する道路はどれも幼少時からの馴染みで、車窓で覗くだけでも懐かしい。

信州大学教育学部の広大なキャンパスや、バスが左折した県庁通りに並ぶ合同庁舎、議員会館、長野県庁などの街並みも、昔と同じだった。

小・中学生時代の通学路でもあった県庁通りを、大好きな高速バスで走ることになるとは、感慨深い経験だった。

 

信大の敷地に生い繁る木々の新緑と、1本だけ浮き出ている遅咲きの桜が鮮やかだった。

 

 

「終点ホテル国際21です。玄関前に車が駐まっていますので、道路に停めます」

 

たった1人の乗客であっても、運転手の案内は、最後まで丁寧だった。

風のように走り去るバスを見送りながら、ようやく高速バス新宿-長野線を体験できたのか、と嬉しさが込み上げて来る。

片や、もう終わってしまったのか、と乗り足りない気分の後始末に困ったのも事実である。

予約を入れてから1ヶ月近く心待ちにしていただけに、虚脱感に苛まれた。

 

 

一晩かけて故郷まで来たものの、差し迫った所用はない。

これからどうしようか、と思う。

 

僕の実家は、ホテル国際21と通りを挟んだ長野県庁の近くである。

でも、父も母もいない実家に寄るのは、何となく気が進まない。

この旅の2日目の過ごし方、特に東京への帰路については、旅行前から色々と悩んだ。

北陸新幹線は便利で速いけれども、あまりに月並みであるし、せっかくの旅を慌てて終わらせなければならない理由は何処にもない。

 

 
あれこれ考えた挙句、平成29年に特急「あずさ」に投入された新型車両E353系に乗った経験がないことに思いが至り、これだ、と手を打ちたくなった。
 
松本までの行き方も、様々な選択肢がある。

高速バスを使いたくても、長野-松本線は、休日に運休する不思議なダイヤになっている。

時刻表を眺めているうちに、長野駅を6時31分に発車する飯田行き普通電車3520Mを見つけた。

往年の県内急行「天竜」「かもしか」や、快速「みすず」の後継列車でありながら、安く所要時間が短い「みすずハイウェイバス」の影響で、今や長野と飯田を直通する列車はこれ1本だけという体たらくで、どのような雰囲気なのかと興味が湧いた。

故郷の滞在時間が1時間あまり、何のために来たのかという話になってしまうが、今回は高速バス新宿-長野線に乗るのが旅の目的であり、実家に行くより面白そうである。

 


まだまだ楽しみは残っているぞ、と気持ちを奮い立たせて、ホテル国際21から長野駅に向けてぶらぶら歩き始めると、道端に立つ「県庁前」バス停が目に入り、思わず足が止まった。

半世紀の歳月が、一瞬にして短絡した。

 

小学4年生だったある日のこと、生まれて初めて1人で路線バスに乗ったのが、川中島自動車の「中廻り」線だった。

ランドセルを背負ったまま、小学校の近くの妻科神社バス停から中央1扉の古びたバスに乗り込み、加茂神社、桜枝町、信大教育学部前を経て「県庁前」で下車したのが、昨日のことようにありありと思い浮かぶ。

ここが、僕のバス旅の原点だったな、と思う。

 

「中廻り」線は平成3年に廃止されたが、現在は、アルピコ交通と長電バスが共同運行する市内循環バス「ぐるりん」号が、長野駅から長野大通り、国道406号線、県庁通りを反時計回りに運行している。

 

 

「中廻り」線のことなどを思い出したので、容赦のない時の流れが身に迫り、不意に、言いようのない寂しさが込み上げて来た。

故郷の高速バスに乗車するのが最後になるとは思いたくないけれども、次はいつのことであろうか。

僕の人生を通り過ぎて行った様々な人や出来事が、脳裏に浮かんでは消えていく。

 

故郷のバスに乗るのは嬉しいけれども、何かと感傷的になるのは、いつになっても苦手である。

 

 

長野駅から乗り継いだ飯田行き普通電車3520Mは、全車両が代わり映えのしないロングシートで、往年の県内直通列車がこのような体たらくになってしまったのか、とがっかりした。

掛け値なく全ての駅に停車して、11時14分着の飯田まで所要4時間43分、高速バスが3時間で走破する区間であるから、JRは北信と南信を結ぶ役割を放棄してしまったのだな、と思わざるを得ない。

 

ロングシートでも、身体を捻れば景色は眺められる。

筑摩山地を貫く篠ノ井線は何度走っても楽しかったし、日本三大車窓に数えられている善光寺平の眺望に心が洗われた。

スイッチバックの姨捨駅に電車が進入する時は、この駅に停まる鈍行列車を選んで良かった、と思った。

 

E353系「あずさ」は、松本市内を散策して時間を潰し、所要が2時間35分と最短になる10時10分発の18号を選んだものの、従来の車両に比べて、速さはそれほど感じなかった。

それだけ乗り心地が洗練されていたのだろうが、何よりも、この日は安曇野越しに眺める飛騨山脈や、県境付近の八ヶ岳と赤石山脈、山梨県内で遠望する富士山など、沿線の山岳風景が存分に満喫できる文句なしの晴天だったのが嬉しかった。

直前の座席指定で通路側の席しか取得できなかったのだが、窓際席に塩尻から乗車して来た若い男性は、僕が窓にカメラを向けるたびに、邪魔にならないように身体をよけてくれた。

すみません、と頭を下げると、指で丸印を作りながら鷹揚に頷いてくれたのだが、そのうちに自分もスマホで写真を撮り始めた。

 

 

今回の旅の最大の収穫は、久しぶりの乗り物尽くしの旅程を終え、長かった新型コロナウィルスの流行に、ようやく収束の気配を実感できたことであろう。

これまでもそうであったように、今度も、故郷の乗り物に励まされたような心持ちだった。

 

ただし、長期に渡るコロナ禍のために社会が被った被害は甚大で、元通りに復するのは難しいのかもしれない。

交通機関への影響も大きく、航空機や鉄道、バスは、例外なく大幅な減便や運休を余儀なくされ、未だに後遺症で苦しんでいる事業者は少なくない。

 

 

僕の故郷である長野市を発着する高速バスも、例外ではない。

 

高速バス新宿-長野線と池袋-長野線は、令和2年4月6日から一部便が運休するようになり、同年4月14日から6月6日まで全便が運休した。

大阪と長野を結ぶ「アルペン長野」号も令和2年4月16日から全便が運休、高速バス新潟-長野線も令和2年4月20日から1日4往復のうち2往復を運休、同年4月25日から6月1日まで全便が運休となった。

県内を結ぶ長野-飯田線「みすずハイウェイバス」は、1日8往復のうち4往復を運休しながらも運行を継続し、長野-松本線も14往復のうち4往復を運休したものの、何とか運行を継続した。

 

 

本数を減らしても、存続できた路線は、まだ恵まれている。

 

「中央道特急バス」名古屋-長野線は、令和2年4月に全便が運休して以来、令和5年5月の時点でも運行が再開されていない。

元々利用客が少なく、平時ですら減便を重ねて1往復になった路線であるから、このまま廃止されるのではないかと危ぶんでいる。

 

深刻な運転手不足のために、ずるずると運休が続いているバス路線も少なくない。

コロナ禍での需要減少に加えて、運行本数の削減のために更に運転手の数を減らした事業者もあり、流行が収束しても、果たして元の運行本数を復活させられるのかが危ぶまれていた。
令和5年を迎えると、一般路線バスの廃止や運行本数の大幅な削減が目立つようになり、9月に発表された大阪富田林市に本社がある金剛自動車の全面的な路線撤退を伴う事業廃止は、その最たる理由として「深刻な乗務員不足」を挙げたことで、全国的に報道された。
この頃から、バス路線の廃止にあたって、事業者が、利用者の減少ばかりでなく、運転手不足を公然と掲げるようになったのは、これまでになかった現象ではないだろうか。
 
 
「みすずハイウェイバス」は、令和5年の11月になっても1日4往復という細々とした運行のまま据え置かれている中で、高速バス長野-松本線が、令和5年度いっぱいでの廃止が発表された。
 

『【高速バス】長野ー松本線の運行終了について

平素はアルピコ交通をご利用いただきまして誠にありがとうございます。
高速バス 長野ー松本線は2023年度末をもって運行を終了させていただく事となりました。
当該路線は、長きに渡り大変多くのお客様にご利用いただいて参りましたが、昨今の慢性的な乗務員不足や、コロナウイルス感染症拡大を契機とした社会環境の変化による利用客の減少も相まって、運行維持が困難と判断し止む無く運行の終了をさせていただくものです。
これまでご利用いただきましたお客様方には厚く御礼申し上げますと共に、ご不便をお掛けしますこと心よりお詫び申し上げます。
何卒、ご理解賜りますよう宜しくお願い申し上げます(令和5年11月10日付 アルピコ交通HPより)』
 

最盛期には1日20往復を数えた県内高速バスの雄であり、今でも1日10往復が運行されている信州の2大都市を結ぶ高速バス路線の、あまりに呆気ない終焉には、驚愕せざるを得ない。

 

鉄道と競合している高速バスは、少ない乗務員数で大量輸送が可能な鉄道に任せて廃止もやむなし、といった論調も散見されるようになった。
ならば、鉄道を圧迫して県内直通列車をほぼ廃止に追い込んだ「みすずハイウェイバス」の惨々たる現状は、どのように受け止めれば良いのか。
コロナ禍で3密や他者からの感染を避けるために自家用車へ移った利用客は、流行が収束しても、高速バスに戻って来なかったのである。
 
バス業界ばかりでなく、トラックや流通業界、医療・介護分野をはじめ、人手不足は、我が国にとって死活問題になりつつあるように感じる。
我が国が、社会を支える重要性がありながらも、労働がきつい職業の待遇や賃金が劣悪な状態を放置してきたツケが、一挙に押し寄せてきたのではないか。

新型コロナウィルスは、僕らの社会の弱点を顕在化させたのだな、と思う。

 

 

衝撃だったのは、平成3年の創刊以来、毎号を欠かさずに購入していた交通新聞社の「高速バス時刻表」が、力尽きたように刊行を止めたことだった。

令和2年の冬に発行された通巻61号が、現時点では最後である。

 

もともと年2回だけの発売という、決して売れ筋の書籍ではなかったようであり、高速バスの利用客が激減したのだからやむを得ないのだろう。

最終巻に廃刊を匂わせるような内容はなかったので、令和3年も新刊を待ち望んでいたのだが、いつまでたっても書店やネット通販に登場せず、ついに命運尽きたか、と大いに落胆した。

30年近くも愛読してきた読み物が、まさか、このような結末を迎えるとは思いも寄らなかった。

 

思ってもみなかったことだが、平成の時勢を敏感に反映して隆盛を極めた高速バスは、令和の御世を迎えて、落日の時代を迎えつつあるのかもしれない。

 

 

思い出すのは、コナン・ドイルが著したシャーロック・ホームズシリーズの短編「最後の挨拶」の一節、第一次世界大戦を目前にした、ホームズとワトスンの会話である。

 

「東の風が吹き出したよ、ワトスン君」

「そうじゃないだろ、ホームズ君。とても暖かい」

「なつかしいワトスン君。きみは、移りかわる時の流れの中の、1つの岩だ。そうではあっても、東の風が、今まで英国に吹きつけたことのないような風が、吹いてくるのだ。身を切るように冷たいよ、ワトスン君。そしてそれに打たれて、多くのものが、力を失って滅びるだろう。だが、それは神の御心で吹く風にほかならない。嵐が去った後には、太陽に照らされて、もっと汚れのない、もっと善良で強い国があらわれることだろう(阿部知二訳)」

 

どれほど激動の時代であろうと「the one fixed point in a changing age」でありたいと思うし、「a cleaner, better, stronger land will lie in the sunshine when the storm has cleared」とは、コロナ禍を乗り越えつつある我が国の姿であると信じたい。

 

高速バス新宿-長野線を降りた時に、県庁の背後にどっしりとそびえる旭山が、穏やかな表情で僕を見下ろしていたことが、今でも脳裏に浮かぶ。

幼い頃から飽きることなく仰ぎ続けた、移り変わる時の流れの中でも変わることのない、故郷の懐かしい山だった。

 

 

 

 

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