第50章 令和5年 原発事故に揺れる町へ~被災地に復活した高速バス「いわき」号と特急「ひたち」~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス「いわき」号東京-富岡線・特急「ひたち」・常磐線富岡-原ノ町間普通電車】



東京駅八重洲南口高速バスターミナルは、広い敷地が狭く感じる程の人出だった。

前日は首都圏に雪が降り、東京都内でも数センチの積雪が見られたが、この日はすっかり晴れ渡って、日差しの温もりがありがたかった。


バスの発車時刻まで間があるので、行き交う人々をぼんやり眺めていると、傍らで制服に身を揃えた高校生の団体が集まり始めた。

先生らしき人物が、


「集まった者からバスに移動しますか」


と聞くと、それまで微笑みながら生徒を見ていた2人のバスガイドが、


「あ、ちょっとお待ち下さい、用意が出来ているか確認しますから」


と慌ててスマホを取り出して、電話を始めた。


「よし、2組、集まれ!ほら、集まれ!」


と、先生が声を張り上げても、


「きゃあ、〇〇がいる!」

「どこどこ?」

「あそこ!ねえ、絶対〇〇だよ」


芸能人でも見つけたのであろうか、女子が嬌声を上げて集団を離れたり、なかなか意のままにならないものだな、と苦笑した。



全員がマスクをつけているが、数ヶ月前まで、このように集団で行動するなど思いも寄らなかったから、世の中は復元しつつあるのだな、と思う。

令和元年12月に、中華人民共和国の武漢で発生した新型コロナウィルスSARS CoV-2の感染は、瞬く間に全世界に広がり、強い伝染力と高い重症化率・死亡率から、どの国でも多数の人間が集まる活動が困難となり、生活や経済に多大な影響を及ぼした。

通勤通学を含めた労働や学校生活、買い物、娯楽、旅行、催し物など、生活の根幹が制限を余儀なくされ、不自由を強いられる社会の有様に、人間とは集い、出歩くことで社会を築き上げてきた生き物だったのだな、と改めて認識した。



僕が高速バスに乗るのは3年半ぶりだった。

仕事が忙しかったこともあるが、新型コロナウィルスに感染して長期間休めるような身分ではなかったので、自粛していた側面もある。

19歳で高速バスに魅入られてから、これほど長期間に渡って高速バスに乗らなかったのは、初めてだった。


令和5年の正月明けに、僕もとうとう感染してしまい、幸い軽症で推移したのだが、隔離生活を余儀なくされた。

これほど仕事を休んだのも初めてである。


第8波の流行は感染者の重症化率が下がったため、マスク着用や手洗いの励行、食事中の会話を控えるなどといった基本的な感染対策以外の防御策が緩和され、経済活動や学校生活、旅行などの規制が解除された。

僕自身が新型コロナウィルスに感染したことで、しばらくは他者からの伝染や、人にうつす可能性が減ったものと解釈した。

医療者は、新型コロナウイルス感染が治癒した直後を、諧謔的に「無敵」と呼ぶ。


無敵の身体を授かったならば、久しぶりに趣味の高速バス旅行に出掛けてみよう、と思い立った。

令和5年2月の週末、出発の前日にネットで高速バスの予約をした際には、期待と怖れと後悔が入り混じったような感覚で、本当に行って良いのだろうか、と何度も自分に問い直した。

まるで、生まれて初めて高速バスに乗った30年前のようだった。



昼下がりの東京駅八重洲南口バスターミナルで、ダブルデッカーの13時40分発名古屋行き「新東名スーパーライナー」号をはじめ、水戸、鹿島神宮、成田空港へのバスが、乗車場で列を成す多数の利用客を収容して次々と発車していく光景を目にしながら、ようやく世の中は元に戻りつつあるのだな、と安心した。

成田空港行きのバスが満員で出発する姿に、航空業界も復調しつつあることを察した。


境町行き、と案内された関東鉄道バスを見て、そのような路線があったっけ、と記憶の底をまさぐり、長いこと僕が高速バスから離れていたことを実感した。

境町は茨城県猿島郡にあり、コロナ禍の真っ最中だった令和3年7月から、東京に直通する高速バスの運行を開始したのである。

未乗の新路線であるから心を惹かれるが、この日の僕の目的は、長年恋い焦がれていた別の高速バスであるから、趣旨を変える訳にはいかない。



東京駅を発つ高速バスは10分刻みの発車時刻になっていて、12時50分発のバスが一斉に発車すると、待機していた数台のバスが、係員の誘導に導かれて動き始めた。

隊列の最後で、成田空港行きのバスが乗り場を離れるのを辛抱強く待っている新常磐交通の「いわき」号が、僕の目指すバスである。


昭和63年に東京といわきを結ぶ高速バスが開業した頃は、高速バスの黎明期とも言うべき時代で、喜び勇んで何度も乗ったものだった。

「いわき」号は瞬く間に人気路線にのし上がり、開業当初は1日3往復だったにも関わらず、次々と本数を増やして、平成21年には39往復まで膨れ上がったのである。



平成16年に浪江まで足を伸ばす系統が登場し、平成21年に南相馬まで延伸された。

広野IC、常磐富岡IC、大熊町役場、双葉町役場、浪江駅、原町営業所、道の駅南相馬に停留所が設けられて、福島県浜通りの北部をカバーしたのである。

平成17年に、いわき湯本ICからスパリゾートハワイアンズ、温泉神社を経て小名浜に向かう系統も登場し、どちらもいわき市内に立ち寄らない経路であったから、「いわき」号を名乗りながらも別路線のようであった。


南相馬まで足を伸ばす系統は、バスファンとして是非とも乗車してみたかったが、朝に上り便が出発し、夕方に下り便が運行される地元志向のダイヤであったので、なかなか機会に恵まれないまま、平成23年3月11日を迎えてしまう。



東日本大震災のために全便が運休を余儀なくされた「いわき」号であったが、1週間後の3月18日から、東京駅といわき駅の間で運行が再開されている。

震災前ほどではないにしろ、少しずつ便を増やして、平成30年には1日27往復まで回復した。


復旧できた系統はまだ幸いで、南相馬線と小名浜線は運休が続いた。

震災から7年後の平成30年6月に小名浜線が復活し、以前にツアーバスを運行していたさくら観光が、池袋サンシャインシティ・鍛治屋橋と南相馬・相馬を結ぶ高速バスの運行を平成27年に開始した。


一方で、時刻表の「いわき」号南相馬線の欄は、「当分の間運休」と素っ気ない注釈が書き込まれているだけになり、平成27年の時刻表からは、枠すら消えてしまった。

無理もない、と思った。

福島第一原子力発電所の事故により、運ぶべき住民が消え失せたのだから。

このような現象は、どのように激甚な災害であっても、通常は起こり得ない。

どの被災地でも、故郷に踏みとどまって復興に従事する住民がいて、だからこそ、万難を排して高速バスが運行を再開したのである。


フクシマが、先が見えない困難な闘いの最中にあることを、「いわき」号の空白の時刻表が、何よりも雄弁に物語っていた。



僕が、東日本大震災の被災地を初めて訪れたのは、平成25年の初夏であった。

その時のことを思い浮かべれば、様々な感慨が込み上げてくる。 


最初は、震災から2年余が経過した平成25年5月に、高速バス仙台-相馬線で相馬駅に向かい、原ノ町駅まで孤立して部分開通していた常磐線に乗ってから、高速バス仙台-原ノ町線で折り返した。

その半年後に、常磐線不通区間の南端である広野駅まで、電車で訪問している。



2年後の平成27年11月には、特急バス福島-南相馬線で飯舘村を経て原ノ町に向かい、高速バス東京-相馬線で南相馬から常磐道で東京に向かった。


平成28年5月には、上野駅からいわき駅まで特急「ひたち」、竜田駅まで延びた常磐線の普通電車と、竜田駅と原ノ町駅を結ぶ代行バスに乗り継いで、無人の被災地の惨状を目の当たりにした。

更に、原ノ町-相馬間の常磐線孤立区間の電車と、相馬-亘理間の代行バス、そして仙台まで普通電車に乗り継いで、曲がりなりにも常磐線全線を走破した。



震災後に初めて訪れた原ノ町駅では、構内で雨ざらしになっている特急「ひたち」の姿や、雑草が繁るままになっている赤錆た線路に胸がつまった。

一方で、孤島のように取り残された相馬-原ノ町間で運転されている列車の健気さに心を打たれ、いわき駅を訪れるたびに、「広野」「竜田」「冨岡」と下り列車の行先表示が先へ伸びていることとに、言い知れぬ感動を覚えた。


†ごんたのつれづれ旅日記†


被災地の交通網における復旧の先鞭を切ったのは、高速道路であった。

いわきから北の常磐道は、平成11年にいわき中央-いわき四倉間の開通を皮切りに、平成14年にいわき四倉-広野、平成16年に広野-富岡、平成21年に山元-亘理の区間がそれぞれ開通した状態で、東日本大震災が起こる。

震災の時点で未開通だった区間は、奇しくも福島第一原発事故の避難地域と一致していた。

いや、そのような土地を選んで原発を建てたと言うべきか。


鉄道の復旧が遅々として進まない情勢下で、平成24年に南相馬-相馬、平成26年に浪江-南相馬及び相馬-山元間が開通、そして平成27年3月に富岡-浪江間が開通したことにより、三郷JCTから亘理ICまでの全線が完成、亘理で仙台東部道路に接続して、浜通りが仙台市内と直結された。

常磐道の未開通区間の建設と、既存区間の除染、復旧について、政府が復興の象徴として位置づけた故と言えるだろう。


IMG_20150924_221905757.jpg


だが、平成27年の8月に、水戸から仙台に向かう高速バスに乗った時は、既に常磐道が全通していたにも関わらず、いわきJCTで磐越道、郡山JCTで東北道へと迂回する経路に、忸怩たる思いを抱いたものだった。


当時のバス事業者は、乗客のみならず、何度も行き来する運転手の被爆の影響を不安視して、なかなかいわき以北の常磐道を使う高速バスの運行に踏み切れなかった。

常磐道の新開業区間を含む広野ICと南相馬ICの間には、各インター間に3ヶ所ずつモニタリングポストが設置されている。

10分間の平均放射線量を道端の電光掲示板で表示し、NEXCO東日本のHPにも掲載される。



常磐道が開通した日に、新聞の一面で「5.5μSv/時」の数値を掲示している写真を見て、仰天したことを覚えている。

創業者が我が国の原子力発電の導入に関わり、原発稼働を支持している新聞だったから、尚更であった。

時間によって増減はあるのだろうが、単純計算で、年間48mSvにもなるではないか。

原発事故の後に、我が国での年間被曝量の制限が1mSvから20mSvに引き上げられたが、その2倍を超える数値である。


IMG_20151201_221603852.jpg


原発周辺には、まだまだこのような高線量の土地が残っているのか、と愕然とした。

そのような土地に高速道路を通して、どうぞお使い下さい、と言っていることに驚愕した。


8年前に、僕が高速バス東京-相馬線で通り抜けた日の常磐道富岡-浪江間の最高線量は、4.87μSv/時だった。

令和5年2月の旅における線量は、常磐道広野-富岡間で0.09~0.93μSv/時、富岡-浪江間で0.44~2.17μSv/時、浪江-南相馬間で0.99~0.40μSv/時である。



さくら交通の東京-相馬線も、常磐線の代行バスも、空調を内気循環にして、避難指示区域に停留所をいっさい設けずに走り抜けた。

代行バスが竜田駅を発車する時に、女性の添乗員が案内した内容が、今でも忘れられない。


「このバスは常磐線の代行バスで、原ノ町駅まで参ります。途中駅には停車致しません。原ノ町までの所要時間は1時間15分を予定しておりますが、道路事情により、遅れが出る場合がございます。列車には接続しておりませんので、御了承下さい。なお、これから先は帰宅困難地域を通っていくことになりますので、車内の空調を内気循環に致します。窓を開けることは禁じられておりますので、よろしくお願い申し上げます。途中でバスを降りることもできません。御用の際は乗務員までお申し出下さい」


吶々とした抑揚のないアナウンスだったが、内容はずしりと重く、聞いているだけで胸に重石をずしりと乗せられたような気分になった。



鉄道が復旧に長期間を要したのは、津波により線路が駅や付属施設もろとも流失してしまうという甚大な被害を受けたのも一因だが、加えて、福島第一原子力発電所の事故が起きたことで、沿線地域が立入制限を受けたことを無視できない。

夜ノ森駅と浪江駅の間は、平成27年の初頭まで被害調査すらままならない状況で、当初は復旧まで数十年を要すると言われていた。


それでも、復旧工事は少しずつ進められていた。

相馬駅と浜吉田駅の間では、線路を内陸に移設し高架にするという新線建設と同様の工事が行われ、最後の不通区間だった冨岡-浪江間が開通することで、震災以来9年の歳月を経た令和2年3月14日に、とうとう全線が開通を果たしたのである。

特急「ひたち」が、上野-仙台間で1日3往復の直通運転を開始した。

代行バスや高速バスが運行されていたとは言え、鉄道の開通には、未来を切り拓く力強さと希望が感じられた。


 


数々の不安や懸念を抱きながら被災地に足を運び、その惨状を目の当たりにした当時は、そこに鉄路が甦り、特急列車が運転される日が来ようとは、想像も出来なかった。

地元の人々にとって、どれほど長い道のりだったことだろう。

同時に、避難地域に指定されていた帰還困難区域の指定が一部解除されている。



年号が令和に変わったばかりのある日のことである。

何気なく時刻表を開いてみると、東京駅からいわき駅を経由して、六十枚入口、広野IC、Jヴィレッジ、道の駅ならはに停車し、富岡営業所まで運行される系統が登場しているではないか。

令和元年6月20日に、まず常磐富岡IC発着で暫定的に運行が開始され、同年9月1日より富岡営業所まで延伸されたのである。

迂闊にも、全く知らなかった。


交通網の復旧が叶ったと思えば、今度は新型コロナウィルスの世界的流行である。

僕は高速バスに乗れなくなった。

以前は、毎月時刻表をめくって新路線をチェックすることが楽しみだったが、いつしか、それもやめていた。

平成元年に創刊され、最低でも年2回刊行されていた交通新聞社の「高速バス時刻表」も、力尽きたかのように、令和2年冬の発行を最後として、新刊が出版されなくなった。

毎号を欠かさず買い求めていただけに、大いに落胆した。

これが、新型コロナウィルスの恐ろしさか、と思った。



それでも、「いわき」号富岡線の運行開始は、僕に希望を与えてくれた。

令和2年4月から10月まで、新型コロナウィルス感染の流行により運休を余儀なくされていたものの、同年11月に運行が再開されている。


東日本大震災と福島第一原発事故、そして新型コロナウィルス感染の流行で、僕たちの国は少なからぬ打撃を受けた。

それでも、「いわき」号富岡線に乗れる日は必ず来る、と信じながら日々を送っていた。


遂にその日が来たか、と思う。



「北茨城・いわき経由富岡」と行先表示を掲げたバスが、東京駅八重洲南口6番乗り場に横づけされると、三々五々と利用客が集まって来た。

僕はWEB乗車券を所持していたので、スマホの画面を提示すると、


「拝見します。富岡営業所ですね。お降りの際にまた拝見させていただきます」


と、運転手が笑顔で目を凝らした。


指定された席に腰を下ろすと、帰って来たな、と胸がいっぱいになった。

車内設備と言えば、リクライニングが可能な横4列のバケットシート、前席の背部のポケットに差し込まれたリーフレット、後部左側のトイレくらいという素っ気なさであるが、久しぶり、と声を掛けたくなる。


この日の乗客数は10人程度と少なく、全員が1人旅のようで、誰もが片側2列の席を独占している。

連休初日の下り便であるからこんなものであろうし、基本的に乗り物は空いている方がありがたい。

高速バスが1日1~2往復で運行される場合は、地方に住む人々が都市圏を往復する流動に合わせて、朝早くの上り便と夕方の下り便を組み合わせることが多い。

「いわき」号東京-富岡系統は、上り便の富岡営業所の発車時刻が5時45分であるものの、下り便の発車が昼過ぎと比較的早めであり、もう少し東京に滞在したい利用客もいるのではなかろうか、と思う。



定刻の13時になると、富岡行き「いわき」号は、同時発車のバスと一緒に東京駅を後にして、八重洲通りへ進み出た。

本日は新常磐交通の高速バス「いわき」号を御利用下さいましてありがとうございます、と女性の声で録音された放送が流れた後に、運転手が肉声の案内で詳細を補った。


「はい、本日は新常磐交通の高速バス『いわき』号を御利用下さいましてありがとうございます。このバスは、北茨城、いわき経由富岡行きです。途中、北茨城インターに15時15分、いわき勿来インター15時26分、いわき湯本インター15時39分、いわき好間15時49分、いわき中央インター15時50分、叶田団地入口15時56分、平中町16時01分、いわき駅16時03分、六十枚入口16時27分、広野インター16時51分、Jヴィレッジ16時57分、道の駅ならは17時01分、終点の富岡営業所には17時18分の予定です。なお、道路状況により到着が遅れる場合がございますので、あらかじめご了承下さい。新常磐交通では、特別テロ対策を実施しております。不審な荷物等がございましたらお知らせ下さい。本日担当しますのは、新常磐交通中央営業所の○○です。終点富岡営業所まで安全運転で参りますので、よろしくお願いします。なお、本日の常磐道は風が強く、バスが大きく揺れることがございます。シートベルトをしっかりとお締め下さい」


案内の途中で、バスはぐいっと舵を切って、首都高速都心環状線宝町ランプに進入した。

狭隘な曲線の先にある料金所を抜けて、急勾配の流入路を駆け下り、本線への合流直後に車線を右に渡り、江戸橋JCTで首都高速6号向島線に入ると言う芸当をこなさなければならないのだが、若い運転手は流暢な案内を滞らせることもなく、バスを巧みに操っている。

ハンドルを握りながら、全ての停車時刻をすらすらと羅列したのには感心した。



僕がこの便を予約したのは、「発車オーライネット」である。

以前、JRバスが参入している高速バスの予約は「高速バスネット」だけの扱いだったので、新常磐交通のHPで「発車オーライネット」も案内されているのを知り、驚いたものだった。


「発車オーライネット」は、株式会社「工房」が運営する、高速バス座席予約システムで、平成10年に稼動を開始し、多くのバス事業者が参加している。

東京を発着する高速バスばかりでなく、遠隔地の路線に乗りに出掛けることも少なくなかった僕は、「発車オーライネット」が登場した初期から利用しているが、電話予約をしてから旅行代理店に出向かねば乗車券が入手できなかった手間を考えれば、何と便利になったものか、と感嘆した。



一方の「高速バスネット」は、JRバス関東、JR東海バス、西日本JRバスの3社が「鉄道情報システム」と共同で開発し、平成18年に稼働を開始した。

共同で運行する事業者が「発車オーライネット」に加入している場合も多く、後に、JRバスグループも「発車オーライネット」に参加したが、路線に応じて「発車オーライネット」、「高速バスネット」、「マルス」の3つのシステムで販売するようになった。

平成18年に「発車オーライネット」と「高速バスネット」が接続されている。


「いわき」号も双方の予約システムで取り扱っており、「発車オーライネット」では予約やクレジットカードによる決済、チケットレスサービスのみならず、座席の選択まで可能だったので、以前のように、どの席に当たるのだろうか、と乗車券を手にするまで心配することもなくなり、大いに満足した。

ただし、座席の選択は大いに迷った。

もちろん窓際に座りたいのだが、スマホの画面に表示された座席表を眺めながら、左側にしようか、右側か、あれこれ逡巡した挙げ句に、右側を選んだ。



「いわき」号は、隅田川の川べりを行く首都高速6号線の高架を走っている。

先程は、青空に突き刺さるような東京スカイツリーが見えたけれど、左手には、のんびりと行き来する団平船や浅草の下町が見下ろせて、ここは左に座りたかったな、と思う。

反対側の窓際に乗客がいる場合は、じろじろとそちらに顔を向けるのが憚られるけれども、座っているのは小柄な高齢の女性で、上半身を窓の方に捻って一心に景色を眺めているので、僕も気兼ねなく左の車窓を楽しんだ。


普段であれば渋滞が多発する区間であるが、この日の流れは滑らかで、バスは瞬く間に常磐道に入ると、三郷本線料金所を過ぎ、新三郷団地やJR武蔵野線の新三郷駅をくぐるトンネルに差し掛かった。



江戸川を渡れば伸びやかな関東平野が広がるが、常磐道は堀割が多く、それほど眺望は開けない。

代わりに、左の堀割や並木の切れ目から覗く筑波山が、少しずつ大きくなってくる。

抜けるような青空を背景にそびえ立つ山容が、この日は殊更に目を引いた。


ここも左側に座れば良かったかな、と思ったが、左のおばあさんは、いつの間にか正面に向き直って、スマホを片手にぼそぼそと何かを喋っている。

その声よりもバスのエンジン音の方が大きく、大して気にならなかったが、筑波山を見たくても、視線やカメラを向けにくくなったのは残念だった。



筑波山が後方に過ぎ去り、時計が午後2時を過ぎたあたりで、

「はい、友部で10分ほど休憩します。発車は2時17分です。お乗り遅れのないよう、また他の車に充分お気をつけ下さい」


と、運転手が案内した。


東京駅を発って1時間あまり、終点まで3時間を残しているので、休むのはもう少し先でも構わないのに、と思うが、車外に出て身体を伸ばせるのはありがたい。

筑波、水戸、日立など比較的短距離の路線が多いためであろう、常磐道を走る高速バスで途中休憩を設けている路線は多くない。

初めて「いわき」号に乗車した時に、休憩があると知って小躍りしたことを思い出す。



日差しを浴びながら、ぬくぬくと一服していると、まだ時間があるのに、他の乗客がいそいそとバスに戻るのが見えたので、僕も慌てて切り上げた。

運転手が通路を歩きながら、カウンターを掌中でカチャカチャ鳴らして乗客の数を確認しているのが懐かしい。

高速バスに乗っているのだな、と改めて思う。


運転手が告げた時刻より1分早い出発となり、高速道路の本線に復帰すると、バスの走りは更に勢いを増したようである。

物腰は柔らかいが、案外に果敢な運転手のようで、追い越し車線に移る頻度が高い。


「三郷から100km」の標識が後方に過ぎ去ったのは東海PAの手前で、いつ水戸を過ぎたのか、と驚いた。



なだらかな山並みが行く手を塞ぎ、関東平野のどん詰まりまで来たことが分かる。

日立南太田ICを過ぎると登り勾配になり、周囲の家々や田園が下方に下がったかと思うと、バスは日立トンネルに飛び込んだ。

続いて大久保第一から第二、第三トンネル、諏訪第一と第二トンネル、更に成沢、助川、平沢、大雄殷、鞍掛、小木津と、短い間隔で断続する大小のトンネルをくぐり抜けるたびに、一段と高度が上がっていく。


右手の側壁ごしに、海岸沿いの街並みと、その向こうの真っ青な水平線が見え隠れする。

平板な車窓が多い常磐道では飛び抜けた眺望で、東京から放射状に伸びている高速道路でも、これほど海を見せてくれる道路は思い当たらない。

この景観を味わいたくて、僕は右側の席を選んだのである。



「はい、間もなく北茨城インターです。お降りになるお客様は降車ボタンを押して下さい。お知らせのない場合は、このまま常磐道を走行し、北茨城インターを通過致します」

硬い口調の録音の案内に続いて、運転手が肉声で案内したが、誰も降りる素振りを見せない。


「間もなく北茨城インターです。お降りの方はございませんか」


運転手が念押しをして、しばらくの間を置いてから、


「それでは、このまま常磐道を走行します」


と、バスの速度が上がった。



常磐道は十王トンネルの手前で内陸へと進路を変え、だんだんと海が遠くなって、中郷PAのあたりで見えなくなった。

山々や木々の緑が急激に色褪せて、路面がアスファルトから灰白色のコンクリート舗装に変わり、タイヤが奏でる走行音も、心なしか重苦しい響きになると、「三郷から150km」の標識が目に入り、福島の県境だった。

空調が効いた車内にいても、思わず襟を掻き寄せたくなるような寒々とした車窓である。

東北自動車道のように「ここよりみちのく」という看板はないけれど、風景の変化が、何よりも雄弁に東北へと足を踏み入れたことを教えてくれる。



常磐道は再び山中に足を踏み入れ、関南、関本と2本のトンネルをくぐる。

関、というからには、勿来の関に近づいたのだろうな、と頷いているうちに、いわき勿来ICの案内が流れて、降車ボタンが押された。


来るな、という意味の古語「な来そ」が地名の由来とされている勿来の関は、白河の関と並ぶ高名なみちのくの入口の1つで、蝦夷の南下を防ぐ関所が設けられていたのだが、所在地がはっきりしていない。

古来から数多くの歌枕に詠みこまれている名所でもあり、僕は源義家が詠んだという、


吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背に散る 山桜かな


という歌が好きである。


それまでの絶え間ない高速走行に身体が慣れてしまい、流出路のカーブに備えて慎重に速度を落としていくのがもどかしく感じるのも、高速バスに独特である。

いわき勿来ICに着いたのが15時11分で、時刻表より15分も早い。

北茨城ICから先は降車専用の停留所ばかりで、乗客は減って行く一方であるから、誰にも迷惑は生じないのだろう。


「いわき」号の開業当初は、いわき勿来ICといわき湯本ICで、高速バスに接続する路線バスが運行されており、早着の影響があるとすれば待ち時間が長くなることくらいであろうが、それから30年以上が経過し、地域の路線バスが衰退する風潮の中で、接続バスはまだ運行されているのだろうか。



いわき湯本ICを通過し、いわき中央ICの近くにあるいわき好間停留所で数人の客を下ろしたバスは、気分を入れ替えたようにいわき市内を走り始めた。
以前に運行されていた南相馬行きのバスは、いわき駅に寄らなかったが、復活した富岡行きは、北へ延びる高速道路を横目に市街へ向かう。

バスが走るのは県道20号線であるが、その先が国道6号線に繋がっているので、平長橋町交差点の手前で「仙台152km 南相馬76km」と書かれた標識が目に止まった。

震災と原発事故で国道6号線が分断されていた時代が、今でもありありと思い出されるだけに、道路が間違いなく浜通りを貫いていることが嬉しい。


昭和41年に平市、磐城市、勿来市、常磐市、内郷市の5市と石城郡の3町4村、双葉郡の2町村の計14自治体が合併していわき市が誕生し、当時は日本一広い面積を誇っただけあって、この街は、何度訪ねても茫洋とした印象を受ける。

土が露出した裸の田園ばかりだった沿道が、少しずつ賑やかになり、十五町目交差点で左に折れると、正面がいわき駅だった。



開業直後の「いわき」号で初めて訪れた昭和63年は、平駅という旧名であった。

当時、駅前の片隅にあったバス乗り場の記憶は曖昧だが、これが本当にバスターミナルなのかと目を疑うほど、狭い路地に面していた記憶がある。

いわき駅と改称されたのが平成6年、ペデストリアンデッキが張り巡らされた橋上駅舎に改築されたのは平成19年で、バスターミナルも広々と造り直されている。


令和元年の7月に出掛けたコロナ流行前の最後のバス旅で、いわきと大阪を結ぶ夜行高速バス「シーガル」号に、ここから乗り込んだ記憶が、不意に脳裏に蘇った。

あの時は、まさか4年近くも高速バスに乗れなくなるような災厄に見舞われるとは、予想もしていなかった。

コロナ禍が収まった、と言えるのかどうか、微妙な情勢ではあるものの、久しぶりのバス旅でいわきを訪れることになったのも、何かの縁なのだろう。



いわき駅で一斉に乗客が席を立ち、東京駅から脇目も振らずにスマホをいじり続けていた若い男性と僕だけが車内に残された。

たった2人とは拍子抜けであるけれど、震災と原発事故以来、8年間もいわき止まりだった「いわき」号が先へ進むのは、喜ぶべきことである。


いわき駅前から「いわき」号が走るのは国道399号線で、逆に進めば、いわき市から阿武隈山地を貫いて山形県赤湯まで伸び、かつては未舗装の部分も少なくない狭隘な酷道として知られていた。

震災と原発事故により、経由地である葛尾村、浪江町、飯舘村が避難区域に指定され、平成24年7月から平成30年8月まで、国道399号線も通行規制を受けた。

一方で、いわき市内の区間は「ふくしま復興再生道路」と位置づけられ、整備が進められている。


いわき駅を出て最初の停留所である六十枚入口は、国道399号線が国道6号線に合流する交差点だった。

六十枚、とは気になる地名であるが、現在の草野駅に近い下神谷御城の畑で育った赤大根が豪雨で流され、それを拾ったこの地の人々が切干しにして並べるのに60枚の筵が必要になったという説や、江戸へ送る米を小名浜の港に運ぶために夏井川に橋を架けた橋に、六十枚の板が必要だったという説、古代の磐城郡の中心だった夏井の寺院を建設する際に運んだ瓦の包みの数ではないか、などの諸説があると言う。



右手の地平線に、白く雲が浮いている。

福島県に足を踏み入れてから、ずっと気になっている不思議な形の雲で、どうかすると雪を被った山なみに見えてしまうのだが、いやいや、あの方角に山はなく、海があるだけだ、と何度も自分に言い聞かせなければならない。


国道6号線を出口交差点まで走り、県道35号線に左折して常磐線を跨線橋で越え、長閑な田圃の中を坦々と伸びる一本道をしばらく進めば、常磐道のいわき四倉ICだった。

「国見⇒村田 雪 80キロ規制」という電光掲示板が窓外を横切る。

どちらも東北道のインター名で、この日のいわき市内の気温は9~10℃と、東北とは思えない暖かさだったが、内陸の中通りは冬空なのかな、と思いを馳せた。


いわき四倉ICを南に進み、いわきJCTで磐越道に乗れば郡山JCTで東北道に繋がっているので、突飛な道路情報ではない。

水戸から仙台へ向かう高速バスが通った道筋であり、あの時は常磐道をいわきJCTから北へ進めないことが残念だったが、この日、僕は、間違いなく常磐道を北へ向かっている。


4車線に拡張されている立派な道路で山中を進み、「三郷から200km」の標識が現れれば、広野ICだった。


†ごんたのつれづれ旅日記†


広野の地名を見ると、平成25年に広野駅を訪れた時のやるせなさが、脳裏に蘇ってくる。

広野駅は、震災と原発事故により分断された常磐線で、長いこと南側の終点を務め、平成26年6月に竜田駅まで、平成29年10月に富岡駅まで復旧工事が進んだのである。


広野ICの流出路で、再び太平洋を見れば、広野駅のホームから広大な海原を眺めたことを思い出す。



広野ICから県道393号線で東に向かい、岩沢交差点を左折したバスは、再び国道6号線を走り始めた。


次の停留所である「Jヴィレッジ」の名を初めて耳にしたのは、福島第一原発事故の対応拠点としてであったが、元々は、原発立地地域の振興事業の一環として、東京電力が広野町と楢葉町に跨って建設した、我が国のサッカー界で初の国立トレーニングセンターである。

令和元年から利用が再開されたはずであるが、シーズンオフだからであろうか、公園のような敷地に人影はなかった。


Jヴィレッジのすぐ北にある「道の駅ならは」で、唯一の相客だった青年が下車し、僕は車内に1人取り残された。

小高い丘の上にある道の駅から国道6号線に降りて行く道路の正面に、紺碧の海原が広がった。

「Mare Pacifico」の名に相応しく、穏やかな海であるが、12年前に牙を剝き出し、津波でこの土地の全てを押し流したことを思い起こせば、粛然とする。



楢葉町役場を過ぎてからの国道6号線は、平成28年5月に、町内にある竜田駅から原ノ町駅まで常磐線代行バスで走った曾遊の地である。


竜田駅から北隣りの富岡駅までは、阿武隈山地が山裾を海ぎわまで延ばし、常磐線で最長の金山トンネルで越えていく区間である。

国道6号線も山越えに差し掛かるが、広々とした切り通しの道路を走っていれば、多少カーブがきつくなったように感じるくらいで、それほど険しくない。

海側の丘陵に送電線の鉄塔が何本も立ち、その向こうに福島第二原発があることを思い出した。


広野駅止まりだった常磐線の運転が竜田駅まで再開した時点で、楢葉町全域が避難指示解除準備区域になった。

避難指示が解除されたのは、平成27年9月のことである。



このバスの終点である富岡の町は、福島第一原発から直線距離にしておよそ10kmである。


緊張感が嫌でも増してくるが、国道6号線は、原発事故がまるで無関係のように、平穏で鄙びた風景の中を坦々と伸びている。

田畑は色褪せた雑草に覆い尽くされている。

雪のかけらもなく、真冬と言えども浜通りは温暖なのだな、と実感する。

7年前に訪れた時は、広野付近の田圃には水がいっぱいに張られて、植えられたばかりの苗が綺麗に生え揃っていたが、富岡まで来ると、5月にも関わらず田畑に作物は見当たらず、澱んだ水たまりと化していたことを思い出した。

今回も、同じように素寒貧とした田園風景だが、真冬であるから、耕作が再開されているのかは判然としない。



富岡駅入口の交差点の先で左折すれば、終点の新常磐交通富岡営業所だった。

時刻は16時33分で、予定より40分以上も早く、極めて順調な運行だった。


乗降口で、スマホのWEB乗車券を取り出そうとすると、


「ああ、大丈夫ですよ。ありがとうございました」


と、運転手が笑って手を振った。

中央営業所に所属しているとの自己紹介を思い出し、これからいわきまで回送して帰るのか、僕1人のために富岡まで来させて申し訳なかったな、と恐縮しかけたが、バスはそのまま奥の車庫に収まった。



富岡営業所は、富岡駅と1.7kmほど離れている。

駅まで行く路線バスくらいあるだろう、と高を括っていたが、道端の停留所の表記を覗き込むと、富岡駅方面の路線はあるものの、驚いたことに1日6本程度の運行で、しかも休日運休である。

タクシーなどが現れる気配もない。


営業所の前の道路をとぼとぼと国道6号線まで戻り、先ほど通過した富岡駅入口の交差点から、更に1kmほど東へ歩かねばならなかった。

営業所の周囲には警察署や銀行があり、国道を渡れば小学校が建っていたが、休日なので人影はない。

ぽつぽつとアパートや戸建て住宅が見えるものの、驚いたことに、営業所から駅まで、1人の人間も見掛けなかった。

国道を行き交う車も少なく、幹線国道とはとても思えない。

「東京から242km」の錆びた標識が目に入り、遠くまで来たな、と思うだけである。

後ろから音もなくパトカーが近づいてきて、警官が品定めするようにじろりと僕を見つめると、速度を上げて走り去った。


まだ避難指示が続いているのか、と疑いたくなるほどに、深閑とした静寂が支配する、黄昏の富岡町だった。



富岡の町名は、2年前に鑑賞した映画「Fukushima 50」で、心に刻まれていた。

佐藤浩市が扮する福島第一原発1号機・2号機の当直長が、家族が待つ富岡町内の避難所で、


「皆さん、富岡を住めない町にしてしまって、申し訳ありません!」


と、避難民に頭を下げる場面である。

泉谷しげるが演じる知り合いらしき人物が、


「いや、○○ちゃんはよく頑張ったよ」


と、その場を取りなすのだが、避難所の微妙な沈黙は、観客としても居たたまれない気持ちになった。

僕が住民の立場でも、そこで謝られても、と困惑したことだろう。


映画のラストは、満開の桜並木で彩られた富岡町夜ノ森の街路だった。



福島第一原発の事故により、国道6号線の富岡町新夜ノ森にある富岡消防署北交差点と、浪江町小高瀬の双葉町との町境付近との間、およそ30kmが、平成23年4月から通行止めとされていた。

この区間こそが、いわゆる帰還困難区域であった。


夜ノ森は、富岡の次の駅である。

つまり、「いわき」号富岡線は、帰還困難地域の手前までの運行だったのである。

令和元年に「いわき」号が富岡まで延伸された際に、どうして震災以前のように南相馬まで行かないのか、僕は不思議でならなかった。


帰還困難地域は、平成24年12月から市町村職員や復旧工事の業者の立ち入りが可能となり、平成25年6月に、通行証を持参すれば住民の立ち入りが時間限定で許可され、平成26年9月に一時帰宅が可能となった。

同時に、国道6号線も、一般車両の通行が全面的に解禁となっている。

平成29年4月に、避難指示が一部を除いて解除され、令和4年1月に、帰還困難区域のうち「特定復興再生拠点区域内」への立ち入りが認められたにも関わらず、「いわき」号は、富岡より北に進もうとしない。


「特定復興再生拠点区域」とは、放射線量が50mSv/年を超えているために、立ち入りが制限されている帰還困難区域の一部を指す。

放射線量を5年以内に年間20mSv/年以下に低減させることや、居住に適することなどを条件として、住民の居住再開を目指して除染やインフラ整備が進められている。



富岡駅の手前にある釜田バス停の表示に、僕は思わず足を止めた。

「お知らせ 当地区における新常磐交通の路線バスは、東日本大震災の影響により『運休』しております」


震災から12年も経ち、居住制限も撤廃されているではないか、と思わず反論したくなった。

いったい、この町で何が起きているのか。



富岡駅には数台のタクシーが客待ちをしていて、駐車場や駐輪場にたくさんの車や自転車が置かれているので、ようやく、人間の生活の気配に触れた気になった。

この駅で17時43分発の品川行き上り特急「ひたち」26号に乗れば、午後9時前に東京へ帰れる。


ところが、僕は、富岡以北の常磐線に無性に乗りたくなっていた。

ただし、下り特急は1時間以上も後の18時49発「ひたち」19号しかなく、無人駅と言うのに、特急券の自動券売機は「発券中止」と表示されて、特急券を買い求めることができない。

無人駅で券売機が故障とは、何たることか。

それとも、発車時刻が近づけば発売する仕組みなのか。


やむなく、僕は、17時29分発の原ノ町行き普通列車に乗り込んだ。

原ノ町駅は南相馬市の中心で、震災前まで「いわき」号が起終点としていた土地である。

せめて、そこまで足を伸ばそうと思った。


すっかり闇に包まれた駅に、煌々と前照灯と客室の照明を輝かせて入線して来た5両編成の電車は、1両あたりの乗客数が2~3人だった。



夜ノ森、大野、双葉、浪江、桃内、小高、磐城太田──。

途中の駅名は、原発事故の報道や、常磐線代替バスで目にしたものばかりで、かつての帰還困難地域を電車で通過していることに、幾許かの感慨が湧いてこないでもない。

この日を僕は待ち望んでいたはずである。

だが、僕の気持ちは軽くなるどころではなかった。


何より心を奪われたのは、電車が小まめに停車して行く各駅の寂しさだった。

ホームや駅舎は真新しく、まさに新線を建設するような復旧工事であったことが窺える。

だが、どの駅も、事務室や待合所の明かりは煌々と灯っているものの、一様に人の姿がなく、乗り降りする客もいない。



福島県が開設している「ふくしま復興ステーション」と題したHPには、「避難指示区域」の地図が掲載されている。

「避難指示解除地域」「特定復興再生拠点区域」「帰還困難区域」が色分けされているのだが、目立つのは、赤色に塗られた「帰還困難区域」である。

これは、震災直後ではなく、間違いなく令和5年の地図である。


JR常磐線や常磐道、国道6号線が全通したと喜んでいたのに、居住不能な地域がこれほど広範囲に残っていることに絶句した。

原発事故から12年が経過して、なお、国土が失われたままである現実を、僕らは今一度直視せねばならないと思う。



こうして常磐線を北へ進めば、「いわき」号が富岡より先に乗り入れない理由が、よく理解できた。


富岡町の現在の人口は、震災前の1割の1600人余に止まっている。

浪江町の人口は、震災前の7%にも満たない1400人、町内全域が避難指示区域に指定されていた双葉町に戻ったのは、震災前の1%、僅か30人と聞いている。

故郷を追われ、他の地域へ避難した人々は、解除までの7年間で、避難先における新たな生活を築き上げたのだろう。

原発事故で破壊された地域共同体は、鉄道や道路が通じ、土地が居住可能になっても、復活しなかった。

「いわき」号にとって、富岡より先に運ぶべき人々が存在していない状況は、原発事故から何年が経過しようとも、変わっていなかったのである。


これが原発事故なのだ、と僕は唇を噛み締めるしかない。



18時12分に到着した原ノ町駅で改札を出ると、照明が眩いコンビニエンスストアや駅前のホテル、酒場を出入りする酔客、談笑しながらカラオケボックスに入って行く高校生の姿に、気持ちが多少和らいだ。

初めてこの駅を訪れた平成25年5月に、同じ駅前で、子供たちの姿に励まされたことを思い出した。


失われた国土と人々の生活は、もう、還って来ないのかもしれない。

しかし、その周辺地域で力強く生きている人々が存在することを、良しとすべきなのであろう。

そう思えただけで、原ノ町まで来て良かった、と思う。



僕は、原ノ町駅を19時06分に発車する品川行きの特急「ひたち」30号を待った。


足下のホームに、「ひたち 〇号車乗車口」と書かれた案内表示を見つけて、時間が引き戻されたような感覚に陥った。

7年前に、常磐線代替バスから乗り継いだ亘理駅のホームで、ふと見下ろすと、「スーパーひたち ○号車乗車口」と書かれた表示が、長期運休中にも関わらず、消されることなく残っていた。

復興に向けて、過酷な災害と勇敢に闘い続けている被災地を、再び特急列車が颯爽と走り抜ける日が来ることを、心から祈ったものだった。


復活なった特急「ひたち」に原ノ町駅で乗り込んだのは、僕だけだった。
浪江、双葉、大野、富岡、広野と小まめに停車していくものの、乗って来る客は皆無で、ホームにも人影は見当たらなかった。

たとえ利用客が寡少であっても、「ひたち」は、国の威信をかけて被災地を走り続けなければならないのだろう。


一方で、高速バス「いわき」号が、震災前のように南相馬まで運行されない限り、原発事故は終わらないのだ、という思いが、いつまでも拭い切れなかった。

果たして、そのような日が来るのだろうか。


いわき駅でどっと客を乗せた「ひたち」30号は、E657系特急用電車の高性能を存分に発揮し、闇を突いて、東京へと軽やかに走り続けた。


 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>