第48章 令和元年 みちのくの風を関西に運ぶ夜行高速バス・前編~いわき-大阪線「シーガル」号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:夜行高速バス「シーガル」号・阪急バス有馬急行線・高速バス京都-有馬温泉線・特急「ひたち」】
 

帰宅する人々でごった返す東京駅に着くと、コンコースやホームに掲げられた上野東京ラインの発車案内が、どこかヘンであることに気づいた。
 
「快速 常磐線 15両 18:00 水戸」
「普通 高崎線 15両 18:03 高崎」
「特急 ひたち 10両 17:53 いわき」
「普通 宇都宮線 15両  18:08 小金井」
「普通 高崎線 15両 18:14 篭原」

平成27年3月に開通した上野東京ラインに乗るのは、初めてだった。
かつては、東京駅を起終点とする列車だけが出入りしていた東海道本線ホームに、常磐線や東北本線、高崎線といった各方面へ通り抜けていく下り列車が混沌とひしめいている様子は、便利になったと考えるべきか、煩雑になったと捉えるべきか。
 
新宿駅の湘南新宿ラインのホームも同様だから、物珍しさは感じなかったけれども、ラッシュ時には様々な行き先の乗客が入り乱れて大変だろうな、と感じる。
 
 
だが、当面の問題はそこではない。
発車する列車が電光掲示板に示されているのを見上げながら、僕がこれから乗ろうとしている17時53分発のいわき行き特急「ひたち」23号が、どうして18時過ぎの列車より後に表示されているのか。
 
『繰り返し常磐線の特急「ひたち」号を御利用のお客様にお知らせ致します。常磐線は日立駅付近での送電設備のトラブルにより一時運転を見合わせておりました関係から、現在、大幅な遅れで運行されております。お急ぎのところを誠に申し訳ありませんが、いわき行き「ひたち」23号の発車は、18時05分頃を予定しております。今しばらくお待ち下さい』
 
ホームに流れるアナウンスで、ようやく事態を理解した。
 
困ったことになったと思う。
令和元年5月の金曜日に、仕事を終えてから出掛けてきた今回の旅の目的地は、京都である。
なぜ、京都へ向かう人間が、東京駅の東海道新幹線ではなく、上野東京ラインのホームで、福島県いわき市へ向かう特急列車を待っているのか、と言えば、訳がある。
 
 
首都東京を中心に放射状に伸びていることが主流となっている我が国の交通網を見ていると、時に、その風潮に逆らうように、東京と関係がない交通手段に憧れることがある。
 
その筆頭は、関西と東北各地への行き来であろう。
航空機では珍しいことではないが、鉄道による関西から東北への直通列車は、北陸本線から羽越線・奥羽本線を結ぶ日本海縦貫線だけが実現していたに過ぎない。
しかも、大阪と青森の間を昼間に走っていた特急「白鳥」は平成13年に、同じ区間を結んでいた寝台特急「日本海」も平成24年に廃止されてしまったから、今では鉄道を利用しての往来は、東京で新幹線を乗り継ぐだけになって、ますます東京に人が集まるという仕組みになっている。
 
東京と金沢を結ぶ北陸新幹線の開業によって、日本海縦貫線の一角を成していた北陸本線が、第3セクターとしてJRから分離し、各県ごとに分割されたことで、日本海縦貫線はずたずたに引き裂かれてしまった。
 
 
関西との結びつきが強いと云われていた北陸地方が、新幹線の開業で首都圏の影響が強まり、関西経済界が危機感を抱いていると報じられていること自体が、東京中心主義に偏っている交通網の弊害と言えるだろう。
 
北前船の伝統を受け継ぎ、北海道や東北と関西の間を往来する物流の主力である貨物列車は、今でも日本海縦貫線を使っているのだろうが、そもそも、多くの貨物列車が行き交う北海道の五稜郭-木古内間や、東北の青森-盛岡間、そして北陸の直江津-金沢間が、東京を起点とする新幹線建設を理由に並行在来線として第3セクター化されている現状を、僕は密かに憂慮している。
地元志向の地方自治体が運営する第三セクターが、国家の命運を担う長距離貨物輸送にどれだけ責任を負えると言うのか。
 

 

そのような時勢にあって、大阪を発着し、名神・東名高速道路から東北自動車道へ直行して仙台まで、934.0kmを走り抜く夜行高速バス「フォレスト」号が平成2年3月に開業したことは、画期的であった。
僕が乗車した時にも、東京を素知らぬ顔で深夜に通過することに、何やら特別な旅をしているかのような感慨が湧いたものだった。
非日常を求めて旅に出るならば、これ以上、日常と懸け離れた行為はないではないか。
 
「フォレスト」号の人気は上々で、平成4年3月に郡山・福島行き「ギャラクシー」号、平成14年3月に山形行き「アルカディア」号、同年4月にいわき行き「シーガル」号といった、関西と東北を結ぶ夜行高速バスが次々と開業したのである。
「フォレスト」号以外の夜行高速バスにも乗車してみたい、と願いつつも、東京に住む人間が東京を素っ飛ばして行く交通機関に乗るのは至難の技で、それらの路線の登場から瞬く間に20年もの歳月が流れてしまった。
 

 
平成29年4月に、大阪と鶴岡・酒田を結ぶ夜行高速バス「夕陽」号が開業した。
 
運行距離809kmに及ぶ「夕陽」号が登場したという一報を目にして、まずは、大阪から庄内への行程が仙台に行くより100km以上も近いのか、と蒙を啓かれたのだが、この路線の開業が眠っていた衝動に火をつけた形で、乗ってみたい、との思いが一層強まった。
 
せっかく「夕陽」号に乗るのであれば、関西と東北を結ぶ夜行高速バス路線をもう1本組み合わせてみようと目論んだ。
仙台線「フォレスト」号は乗車済みであるから、選択肢は山形線「アルカディア」号、福島線「ギャラクシー」号、そして、いわき線「シーガル」号である。
僕は、何となく、大阪-いわき線「シーガル」号に惹かれた。
敢えて理由を挙げるとするならば、仙台、山形、福島線と異なり、県庁所在地でない街へ向かう路線という共通点に、そこはかとない風情を感じたのかもしれない。
片や日本海沿岸、片や太平洋沿岸という対照の妙も魅力的である。
 
それでも、「夕陽」号や「シーガル」号に乗るためには、前後で東京と大阪を往復せねばならず、なかなか時間を捻出できないまま、更に2年が経ってしまった。
 
 
そのような折りに、大阪での所用が持ち上がったのである。
 
大阪に出掛けて所用を済ませてから、一晩を費やして酒田へ向かい、翌日に東北地方を横断して、いわきから大阪への夜行バスで折り返し、東京に戻るためには、丸々3日間を要する行程になる。
同じ2泊でも、今回は、金曜日の夕方まで仕事で束縛され、日曜日の午後から別の用事に挟まれたことで、捻出できる時間が限られてしまった。
関西と東北はそれだけ遠く、東京の人間が往復するという酔狂な真似を、仕事の片手間に実行することはやっぱり難しいのか、と諦めかけた。
 
しかし、ああでもない、こうでもないと時刻表を引っ繰り返しているうちに、発想を変えて、金曜日の夕方に東京からいわきまで出掛けて「シーガル」号に乗り、土曜日の日中を大阪での所用に充ててから、「夕陽」号を捉まえ、日曜日の午前に東京へとんぼ返りすれば、全ての命題を満たすことが出来るではないか。
難しい数式を解き終えた時のように高揚した気分で、僕は夕方の常磐線特急「ひたち」23号に乗るべく、東京駅まで出掛けて来た次第であるが、最初から出鼻を挫かれた形である。
 
 
「ひたち」23号のいわき駅着は20時15分、「シーガル」号のいわき駅前発は20時45分で、30分の待ち時間は充分余裕がある筈だったが、既に列車は10分遅れている。

もどかしい思いで待つうちに、17時27分に東京駅へ着く予定の品川行き上り「ひたち」22号が、18時頃に向かいのホームに滑り込んで来た。
30分以上の遅れである。
まさか、この列車が品川で折り返して来るのではあるまいな、と胸が塞がるような不安を覚えたが、程なく、
 
『お待たせしました。いわき行き特急「ひたち」23号が入ります。黄色い線の内側までお下がり下さい』
 
との案内が流れた。
僕が指定された席を探し当てて、座り心地の好いシートに深々と身を任せるより早く、「ひたち」23号は慌ただしく東京駅を後にした。
 

東京駅と上野駅の間は、昭和50年代に、長野からの「あさま」やディーゼル特急時代の「ひたち」など、上野発着の特急列車が足を伸ばしていたことがあったけれども、その後、東北新幹線の東京駅延長工事に伴って直通する連絡線が外されてしまい、僕はこの区間を山手線と京浜東北線で行き来したことしかない。
数え切れないほど目にした景観であっても、通勤電車に揺られて立ちん坊で見るのと、特急列車のゆったりした座席で眺めるのとでは、趣が大いに異なる。
神田駅のあたりの整然としたオフィスビル街や、 首都高速道路が幾重にも覆い被さるお茶の水川、そして、全貌を一望したのは何年ぶりだったっけ、と思う上野駅舎の古風な佇まいなど、このような車窓だったのか、と新鮮に感じながらも、この日はそれどころではなかった。
 
 
先行する列車が詰まっているのか、「ひたち」23号は徐行と一時停止を繰り返しながら遅れが広がる一方で、18時00分に発車する予定の上野駅を後にしたのは、18時15分を過ぎていた。
しかも、車内放送では、
 
『この先、更に遅れる可能性がありますことを御了承下さい』
 
などと、けしからぬ事を言っている。
 
「ひたち」が上野東京ラインに乗り入れず、従来通り上野駅を起終点にしていれば、ひしめく列車に邪魔されることもなく、遅延がここまで広がることもなかったであろう。
都心を貫く広域路線の開通は便利には違いないけれども、思わぬ弊害も生むことがある。
了承なんぞするものか、と憤慨しながらも、一介の無力な乗客としては、如何ともし難い事態である。
 
僕は、なかば真剣に打開策を模索し始めた。
「ひたち」23号は、上野を出た後は水戸、勝田、大甕、常陸多賀、日立、磯原、泉、湯本、いわきと停車していく。
一方、「シーガル」号は、いわき駅前を発車してから、好間一小、いわき好間、いわき中央インター、いわき湯本インター、いわき勿来インター、磯原駅西口、高萩、日立市役所前で乗車扱いをしてから、大阪へ向かう。
時刻表を見る限り、「シーガル」号が確実に鉄道駅に立ち寄るのは磯原駅で、「ひたち」23号の同駅への到着は19時48分、「シーガル」号の同駅西口発は21時38分であるから、これならば「ひたち」23号が1時間以上遅れても「シーガル」号を捉まえることは出来そうである。
 
ようやく安心して、すっかり暮れなずんだ窓外に目をやりながら、磯原とはどのような町なのだろう、と思いを馳せた。
常磐線に入ってからの「ひたち」23号の走りは快調で、どうやら20分程度の遅れのまま運転を続けているようである。
 
 
20時10分頃に停車した磯原駅のホームは、照明で燦然と明るかったけれど、その向こうに覗く町並みは暗く、家やマンションの小さな明かりが点々と灯っているだけであった。
ここで降りた方が安全であるのは確かだけれど、これ以上に遅れることはなさそうであるし、暇つぶしが出来るような店も見当たらず、腰を上げるのが億劫になる。
 
何とかなる、と楽観主義に徹することに決めた僕を乗せて、「ひたち」23号が終点のいわき駅に滑り込んだのは20時35分、「シーガル」号の発車まで10分しか残されていなかった。
脱兎の如く乗降口を飛び出した僕は、ホームの向かいに待機していた普通列車の行先表示に掲げられた「冨岡」の文字を目にして、思わず足を止めた。

そうか、冨岡まで行けるようになったのか、と、胸が熱くなる。
 
 
平成23年3月11日の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故により、多大な被害を受けた常磐線は、同年4月上旬までに、いわき以南の区間の再開通を果たしている。
 
いわき以北では、同年4月12日に亘理-岩沼間、4月17日にいわき-四ツ倉間、5月14日に四ツ倉-久ノ浜間が復旧し、5月23日から相馬-亘理間で代行バスの運行が開始された。
同年10月10日に久ノ浜-広野間、12月21日には原ノ町-相馬間、平成25年3月16日に浜吉田-亘理間が復旧し、常磐線は上野-広野、原ノ町-相馬、浜吉田-仙台と3分割された鉄道の区間と、相馬-亘理間が代行バス、そして広野-原ノ町間が代行手段のない不通区間という状態が続く。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†
†ごんたのつれづれ旅日記†
 
平成26年6月1日に広野-竜田間が復旧、平成27年1月31日から竜田-原ノ町間で代行バスの運行が開始されて、曲がりなりにも常磐線全線を行き来できるようになる。
平成28年7月12日に小高-原ノ町間、12月10日に相馬-浜吉田間、平成29年4月1日に浪江-小高間、10月21日に竜田-富岡間がそれぞれ復旧し、列車が運転される区間も少しずつ延びた。
 

僕は、震災から2年後の平成25年に常磐線の不通区間の南端だった広野駅と、孤立した運転再開区間である相馬-原ノ町間を訪ね、また平成27年に、列車運転区間が延びてきた広野-竜田間に乗って、原ノ町までの代行バス、そして相馬-亘理間の代行バスに乗車したことがあった。
跡形もなく流出してしまった駅や路床、海岸線からかなり内陸部に入った地点にも掲げられている「東日本大震災浸水区間」という国道6号線の標識を目にして、この地を襲った津波の凄まじさに心を痛めたものだった。
一方で、あちこちで新線を建設するのと同様の工事が進捗していることに、復興の力強さを感じて目頭が熱くなった。
 

片や、災害対策基本法に基づく警戒区域や緊急時避難区域に指定された原発から半径30km以内の区域を走る竜田-原ノ町間代行バスは、車内の換気を内気循環にして、途中停留所には1ヶ所も停まらずに運行されていたこと、そして車窓から見える無人の町と、あちこちに無数に積み重ねられた除染土を詰めた土嚢の山には、胸に重石を乗せられたような気分になった。

この地の再生を遅らせている最大の原因が、原発事故であることを目の当たりにした。
原発が産む電気で繁栄を謳歌している首都圏の人間は、1度はこの地を訪れるべきだと思った。
 

平成29年2月1日には、竜田-原ノ町間の代行バスが浪江と富岡への停車を開始し、同年10月21日には竜田-富岡間の鉄路が復旧、代行バスの運行区間は冨岡-浪江間に短縮されて、現在に至っている。
 
令和元年11月には富岡-浪江間の復旧工事が終了し、翌年3月までに列車の運転が再開される予定と聞いているが、除染作業の後も、未だに2.8 μSv/時(24mSv/年)という空間放射線量が検出されている大熊町など、この区間の放射能汚染は本当に居住に問題がないと言えるのか、更には、9年間も破壊されていた地域社会がどこまで蘇るのか、懸念は尽きない。
 
 
これから乗車する「シーガル」号も、平成20年に広野インター、常磐富岡インター、大熊町役場、双葉町役場、浪江駅まで延長されて運行していたのだが、震災後、時刻表のいわき以北の区間は「当面の間運休」と書かれた空欄のまま、という状態が続いている。
東京方面の高速バス路線も同様の有様で、時刻表をめくるたびに、当面の間とはどれくらいの期間なのか、と暗然とした気分を払拭できない。
原発事故はまだ終わっていないのだ、と思う。
 
常磐道や国道6号線が再開通しても高速バス路線が復活していない現状を考えると、常磐線だけがどんどん開通していくことに、拙速でなければ良いのだが、と首を捻らざるを得ない。
 
 
気を取り直して、小走りにいわき駅舎の外に出ると、ペデストリアンデッキの下に設けられたバスターミナルに進入して来る、白と緑に塗られた近鉄バスが目に入った。
間一髪、という言葉が頭をよぎる。
 
「お待たせしました。大阪行きです」
 
乗降口から元気に降りてきた運転手の改札を受けて、慌ただしく乗り込んだ車内には、横3列独立シートが整然と並び、僕が指定された最後部の座席に腰を降ろすと間もなく、「シーガル」号は動き始めた。
大いにやきもきさせられて、少しばかり息が切れたけれども、行程が無事に繋がったことに安堵した。
カーテンの隅をめくり、闇の底でひっそりと眠りについているいわきの街並みを眺めながら、僕は、間もなく、ことん、と眠りに落ちてしまった。
 
 
このバスの愛称である「シーガル」とは、カモメを意味する。
 
近鉄バスが展開する東北方面路線には、杜の都の仙台を意識していると思われる「フォレスト」はよいとしても、「ギャラクシー」「アルカディア」など、福島や山形と何の関係があるのですか、という愛称ばかりである。
夜行高速バスが数を増やし始めた昭和の終わりから平成初頭にかけて、「ドリーム」「ムーンライト」「ノクターン」などといった、夜を連想させる言葉を愛称にする路線が幾つか登場した時代があったから、「ギャラクシー」もその名残りなのかな、と思う。
楽園の代名詞となっているギリシャ語の地名を意味する「アルカディア」と聞けば、僕は松本零士のアニメ「キャプテンハーロック」を思い浮かべてしまうクチである。
 
それらに比べれば、「シーガル」は、常磐線や常磐自動車道から眺めた太平洋の眺望のことが想起されて、なかなか素敵な名前ではないかと思っている。
福島県浜通り地域は、我が国でも有数のカモメの飛来地とされている。
今でも、海上を飛び回るカモメの甲高い啼き声が、変わらずに聞けるのだろうか。
 
 
ふと目を覚ますと、バスは次々とギアを落として減速し、常磐道の東海PAへ進入しているところであった。
いわきを発車する時には数人だった乗客数も、いつしか20名程に増えている。
交替運転手が、消灯前に10分程の休憩をとることを告げる。
車外に出て思いっきり伸びをしながら、やっぱりこちらへ来たのか、と思う。
 
近鉄バスと常磐自動車の2社によって、平成14年に「シーガル」号が開業した際には、磐越自動車道で日本海側に出て、北陸自動車道で関西に向かうという経路が採られていたという。
仙台、山形、福島を発着する大阪発着の各路線も、雪の少ない夏季に日本海経由で運行されていた時期があり、首都高速道路など東京近辺の渋滞を嫌っての策であったのか。
 
 
そのような大廻りをして大丈夫なのか、と早とちりしたものだったが、よく調べてみると、北廻りの経路は東北道・東名高速・名神高速経由と数kmの差があるだけで、反り返ったように弧を描く日本列島の形状を改めて思い知らされた。
 
その後、首都高速中央環状線や圏央道など首都圏の高速道路の整備に伴い、「シーガル」号は平成18年に常磐道・東名高速・名神高速経由に変更され、同時に日立・高萩・磯原といった茨城県北部の停留所が追加されたのである。
 
 
福島県を発着する高速バスが、近鉄バスも常磐交通も営業エリアではない茨城県内に停留所を設けることに違和感を感じてしまうが、前例はある。
 
平成8年7月に常磐交通と京成電鉄の共同運行で開業したいわき-東京ディズニーランド線が、平成10年12月から日立駅に乗り入れるようになり、日立電鉄バスが参入している。
ところが、その8年後の「シーガル」号の日立周辺への乗り入れに日立電鉄は参入しておらず、自社の営業エリアへ他社の路線が影響を及ぼすことに神経を尖らせるバス業界にしては珍しい。
 
平成12年に成田空港への停車を中止したものの、利用客数が多く1日3往復が続行便も従えて運行されているいわき・日立-TDR線と異なり、1日1往復の夜行便だけで運行する「シーガル」号に3社が参入することは難しいのかも知れない。
令和元年に日立電鉄が茨城交通に吸収合併されたことから、同社に大阪便を運行する体力がなかったのかもしれない、などと、一般の乗客にはどうでも良いようなことが気に掛かってしまうのが、マニアのマニアたる所以であろう。
 
 
東海PAを出てからもよく眠り、東京は白河夜船で通過して、次に目を覚ましたのは、新名神高速の土山SAである。
土山SAはこじんまりとしているけれど、首都圏と関西を行き来する高速バスが昼夜行便を問わずに数多く利用しているから、すっかりお馴染みに感じられる。
 
バスを降りれば、辺りはすっかり明るくなっていた。
日が長くなったな、と思うと同時に、関西まで来た、という嬉しさが込み上げてくる。
旅立ちが混乱を極めていただけに、安堵感もひとしおだった。
 
甲賀の山中から琵琶湖の南岸にかけて、うつらうつらしながら過ごすうちに、「シーガル」号は、定刻6時41分より10分ほど早く京都駅八条口に到着した。
本来の目的地はここであるけれども、時間はたっぷりあるし、せっかくみちのくから関西まで疾駆して来たのだから、終点まで乗りたいと思っている僕は動かない。
 
名神高速を吹田ICで高速走行を終え、新御堂筋を南下して、大阪駅前の停留所で殆どの乗客が降りてしまう。
雲の切れ間から陽が射し始めた大阪の街並みを気持ちよく進み、難波のOCATを経由してから、終点の近鉄あべの橋駅前に「シーガル」号が到着したのは、ちょうど午前8時になろうという頃合いであった。
 
 

所用のある京都には、昼までに着けば良い。

さて、このまま京都に行くのも芸がない、と色々企みながら、僕は天王寺駅から大阪環状線に乗った。

 

大阪駅で東海道線上り電車に乗り換えて京都に向かおうか、という瀬戸際になって、不意に、阪急バスの「有馬急行線」が思い浮かんだ。

時間が余っているとは言え、大阪から遠方へ向かう高速バスに乗る程の余裕はない。

中途半端な時間しかないのならば、有馬に行ってみよう、と思い立った。

 

 

大阪梅田と、六甲山系の懐にある有馬温泉を結ぶ路線バス「有馬急行線」の歴史は古く、太平洋戦争の終戦後間もない昭和23年7月に運行を開始しているという。

運行事業者は阪急バスで、親会社である阪急電鉄の前身が「箕面有馬電気軌道」と名乗ったことからも、当初は宝塚駅から有馬まで鉄道を建設し、梅田駅から直通電車を走らせる計画だったようだが、結局は鉄道と連絡する路線バスで湯浴み客を運ぶ方法にとどまった。

未成の鉄道の意思を継いだ「有馬急行線」は、当初一般道を経由し、昭和47年より中国自動車道の中国池田ICと宝塚ICの間は高速道路を使うようになって、昭和51年には高速利用区間を西宮北ICまで延長している。

 

僕は、梅田の阪急三番街にある高速バスターミナルを何度か利用したことがあり、そのたびに「有馬温泉」と行先標示を掲げたバスを横目で見てきた。

30分から1時間おきの運行なので、ターミナルに「有馬急行線」がいる確率が高いのである。

いつかは、我が国で有数の歴史を誇る高速バスに乗ってみたいものだ、と思いながらも、果たせないままずるずると歳月だけが経ってしまった。

 

 

温泉に入るのが嫌いな訳ではない。

むしろ大好きなのだが、温泉よりも有馬に向かう高速バスに興味があった。

 

公共交通機関の中で、直接温泉街に乗り入れる芸当が出来るのはバスだけであろう。

これまで、高速バスで津々浦々の温泉地を訪ねたことは数あれど、温泉に浸かった記憶はなきに等しい。

僕が好む1人旅で、温泉は扱いにくい。

「日本書紀」や「風土記」で道後、白浜と並ぶ日本三古湯に数えられ、室町時代から江戸時代にかけては草津、下呂とともに日本三名泉と称された有馬温泉には、金の湯、銀の湯、太閤の湯と言った気軽な日帰り利用が可能な外湯もあるらしいが、温泉に浸かる暇があれば、別の乗り物でもっと遠方を目指したい、という他人には理解されにくい嗜好が僕にはある。

 

 

大阪駅の改札を出て、雑踏を掻き分けるように梅田三番街を通り抜ければ、有馬温泉行きはちょうど9時20分発の急行便があるではないか。

 

55人乗りという若干窮屈なハイデッカー車両の1席を占め、バスが狭い路地を抜け出して新御堂筋の高架に駆け上がる頃、僕は何となく夢見心地だった。

衝動乗りも極まれり、という推移であるが、いわきから大阪までおよそ700km、12時間半のバス旅を終えてもなお乗り足りないのか、という自嘲とともに、高速バスファンになって30年以上、寄りによって老舗路線をここまで放置してきたのだなあ、という感慨が入り混じった奇妙な心持ちである。

 

 

淀川を渡り、新大阪駅で幾許かの乗客を加えた「有馬急行線」は、続いて千里ニュータウンに立ち寄る。

「有馬急行線」には、梅田から有馬温泉までノンストップの特急便と、新大阪駅、千里ニュータウンに停車する急行便が運行され、前者の所要時間は55分、後者は60分である。

 

居並ぶ高層住宅を見上げながら、久しぶりだな、と思う。

かつて、大阪駅や梅田三番街を発着して名神高速道路と中国道に向かう高速バスは、全て新御堂筋を北上して新大阪駅と千里ニュータウンに停車し、僕にとっても馴染みの道筋であったが、最近、大阪や梅田から出る路線に乗っていなかった。

大阪を起終点とする高速バスで初めて乗車した梅田-福岡線「ムーンライト」号や大阪-名古屋線「名神ハイウェイバス」、大阪-津山線「中国ハイウェイバス」、そして故郷の信州各地へ向かう「アルペン」号など、梅田を出発する高速バス路線の懐かしい記憶が蘇り、千里ニュータウンあたりで、始まったばかりのバス旅の期待に心を踊らせていたことまで思い出された。


後の話になるが、「名神ハイウェイバス」は、令和2年に千里ニュータウン停留所を廃止している。

同線で各駅停車便が廃止されてノンストップの超特急便ばかりになったという事情もあるのだろうが、大阪万博の直前に開発され、高度経済成長期とバブル経済、その後の長期間の不況を越えてきた一大住宅団地も、最近は高齢化や入居者の減少が目立っていると聞くので、その影響なのだろうか。

 

千里ニュータウンを発車した「有馬急行線」は、そのまま新御堂筋から住宅地の中の道路に左折し、池田ICに向けてなだらかな丘陵を走る。

中国道が新御堂筋と交わる地点にインターを設けていないのは知っていたが、千里ICまで新御堂筋を北上してから大阪中央環状線に折れて池田ICに向かうものと思い込んでいたので、大阪駅や梅田三番街を発って中国道に入る高速バスとは、このような経路だったっけ、と記憶が混乱する。

 

 

行き方は意外だったけれども、低層から高層までの板状住棟をはじめ、2階建てのテラスハウス、星型のスターハウスなど、様々な建物が目に入ってくるのは楽しい。

建物は画一的でも、ベランダにはどの部屋も一様に布団や洗濯物が干されていて、なかなか色彩が豊富である。

このマンモス団地が、住んでいる何万人もの人々とともに、昭和と平成を歩んで来たのだな、と思う。


中でも、5階建ての階段室型の集合住宅は、東京で何度も出入りしたことがあるので懐かしい。

階段室型とは、平べったい直方体の建物に複数の階段が設けられていて、どの階でも、階段の両側に各戸の玄関が設けられている形状なのである。

つまり、同じ階でも横へ移動することが出来ないので、苦い経験をしたことがある。

法律上、5階建てまではエレベーターを設置しなくて良いことになっているらしいのだが、都営住宅を訪問した際に、5階まで昇り切ってから表札を確かめると、階段を間違えたことに気づいた。

階段室型なので、隣りの部屋に行くにも、いったん1階まで降りて別の階段を昇り直さなければならない。

なんの5階くらい、と観念してもう1回駆け上がり、呼吸を整えている間に、

 

「合計すれば10階まで昇ったことになるんですねえ」

 

と、同行者がぽつりと呟いたので、一気に疲労感に襲われたものだった。

 

 

そのようなことを思い浮かべながら、1人で苦笑している間に、「有馬急行線」は池田ICから中国道に入って速度を上げた。


次の宝塚ICを過ぎると少しずつ登り坂になって、バスはいつの間にか六甲山地の懐に踏み込んでいる。

南麓の神戸市街から六甲山地に向かうと、北に抜ける長大トンネルがあったり、山頂にケーブルカーで登らなければならなかったり、何となく険しい山地という印象を抱きかねないが、東側から中国道で入っていくと、さほど険しい地形には感じられず、バスの速度も衰えを見せない。

急曲線や急勾配を避ける高速道路ならではの構造が一因かもしれないが、眠気を誘うような、なだらかな稜線が掘割の両側に連なっているだけである。

 

平成20年まで、「有馬急行線」が宝塚インター、西宮名塩、西宮北インターと、途中のバスストップに寄っていた時代もあったが、現在は全て通過になっている。

 

 

近郊の高名な温泉地に向かう高速バスは東京にもあって、僕は昭和44年の東名高速道路開通と同時に開業した、新宿と箱根桃源台を結ぶ「小田急箱根高速バス」を思い浮かべた。

こちらは向ケ丘、江田、大和、厚木、大井 松田、小山、足柄と東名高速道路上のバスストップにも小まめに停車し、御殿場駅で都市間輸送の任も果たしているが、西宮北ICで短い高速走行を終えた「有馬急行線」は、西宮市内を無停車で走り抜けてしまう。

 

「有馬急行線」と「箱根高速バス」が似ているのは、前者は神戸市街、後者は箱根湯本といった表玄関ではなく、裏口とも言うべき西宮、御殿場側から入る点であろう。

無論、表裏と言うのは僕の勝手な解釈であって、箱根で湯本や小田原ばかりでなく御殿場や沼津方面からの路線バスが頻繁に運行されているように、有馬も、三宮、宝塚、西宮への路線バス網が伸びていて、大阪の人が主としてどの経路を使うのかを把握している訳ではない。

 

 

西宮の街並みを抜け、有馬川に沿う県道51号線で、こんもりと木々が生い繁る丘陵を1つ越えれば、魔術のように、忽然と温泉郷が姿を現した。

散策する湯浴み客を掻き分けるように坂道を登ると、その途中にある阪急バスの営業所が「有馬急行線」の終点だった。

 

バスを降り、改めてあたりを見回せば、山あいを流れ下る有馬川のほとりの傾斜地に、ホテルや旅館、土産物店がぎっしりとひしめいている。

まさに温泉街だな、と嬉しくなるような風情に溢れているけれども、如何せん、道行く人が多く、ざわざわと落ち着きがない。

阪急バスの営業所は小ぢんまりとして、両隣りを木造の旅館に挟まれて独特の佇まいであるが、「大阪(梅田) 特急55分 急行60分」との看板を掲げているために、あたかも阪急電車のターミナル駅のように見える。

 

 

ぶらぶらと散策してから営業所に戻ると、梅田を9時50分に発った特急便が、営業所の狭い駐車場の手前で道路に止まったまま、往来を遮っている。

僕が乗って来たバスが10時45分発として梅田に折り返すので、発便と着便の時刻が重なったのだが、梅田行きが出ないと駐車場に入れないらしい。

ようやく梅田行きが道路に進み出たものの、それをやり過ごした到着便が後進で駐車場に収まるまで、人波が途切れるのを待ったり、警備員さんが大声を張り上げて誘導したり、なかなか大騒ぎであった。

 

 

平成20年に、驚くべき路線が誕生した。

「有馬エクスプレス」号を名乗り、大阪駅、三ノ宮・新神戸駅と有馬温泉を結ぶ2系統の高速バスを、西日本JRバスが開業したのである。

70年以上も阪急バスが独占していた区間に割り込むとは、規制緩和の風潮を目の当たりにする思いだった。

 

僕は、大阪から有馬に行くならば老舗の「有馬急行線」、と決めていたのだが、帰りは「有馬エクスプレス」号で大阪か神戸に戻ろうか、それとも路線バスで阪急線か神戸電鉄線に乗り継ぐ手もあるな、と漠然と考えていた。

 

 

「有馬エクスプレス」号の乗り場は、阪急バスの営業所と離れているらしい。

道端に案内板があったので、何時の便があるのだろう、と足を向けかけたところ、営業所に「京都-有馬温泉」と行先を掲げた京阪バスが待機しているのを見つけて、一瞬にして心が翻った。

 

平成30年2月に誕生したばかりの新路線で、僕は開業を全く知らなかった。

そうか、京都行きがあったのか、と驚くと同時に、この日の僕の最終目的地が京都であることを思い出したのである。



次の便の有馬温泉発は11時ちょうど、梅田に向かうよりも15分長いだけの所要1時間15分で京都駅に着くのだから、大阪で電車に乗り換えるより、遥かに気の利いた方法ではないか。

また温泉に入らない高速バス旅になってしまった、という無念を、帳消しにするほどの妙案である。

 

ちなみに、平成29年に「有馬エクスプレス」号にも京都系統が加わっていたのだが、こちらも全く聞き及んでいなかった。

 


「有馬急行線」で来た道を戻り、吹田JCTでそのまま名神高速道路に入った京都行き高速バスの車内は、快適の一語に尽きた。

夜行仕様のバスより窮屈でも、リクライニング・シートである。

 

大阪から京都まで合計3時間、直行するより何倍もの時間を費やしたものの、電車ならば座れるとは限らないし、長年恋い焦がれていた「有馬急行線」を体験できたのだから、僕はこの小旅行に大いに満足していた。

咄嗟の思いつきだったが、出来の良い行程になったな、と思う。

順調に京都駅八条口に到着し、地下鉄に乗り換えて所用を片づけに行く前に、駅ビルで昼食を摂る暇も出来たのである。

 

 
 
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