第16章 平成2年 伝統の「東北急行バス」2路線に新設された昼行便で仙台から山形を周遊 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:「東北急行バス」東京-仙台線昼行便・東京-山形線昼行便・JR仙山線】

 

 

「東北急行バス」と言えば、現存している高速バスで最も老舗の路線を運行していると言っても良いのではないだろうか。


昭和37年8月に東京と仙台、山形、会津若松を結ぶ長距離バス3路線が一斉に開業し、昭和39年5月に東京-松島線も加わった時は、まぎれもなく、日本最長距離を運行するバスだった。
現在の東北道経由の運行距離で見るならば、山形系統は384km、仙台系統は377kmである。

 

開業当初、東京-仙台線は1日4往復(夜行1往復)、所要9時間から9時間50分ほどであった。

東京-山形線は昼夜行1往復ずつが運行され、所要時間は10時間から10時間30~40分程度。
東京-会津若松線は1日2往復、所要8時間前後。
東京-松島線は1日3往復、所要10時間半であった。

 

 

その後、東京-仙台線は7往復に増便され、下りが昼行4往復と夜行3往復、上りが昼行3往復と夜行4往復であった。

上り下りで昼夜行の本数が異なっていたり、昼行便は下りが10時間10分、上りが9時間55分から10時間10分、夜行便は下りが9時間25分から9時間55分、上りが8時間52分から10時間00分と、便によって微妙に所要時間が違うあたりが興味深い。

およそ10時間前後もかけて国道4号線を行き来するバスが、これほど多数運転されていたことには、驚くばかりである。

全線を一般国道で行くバス旅、1度は経験してみたかったと思う。
 

 

僕が初めて「東北急行バス」に乗車した昭和61年は、会津若松線と松島線がとっくに廃止され、仙台線も山形線も減便して、夜行1往復だけになっていた。

東京から約300km圏で似たような距離にある名古屋や新潟には何往復も昼行便が走っているのに、どうして仙台だけ夜行便一択なのか、と首を傾げたものだった。


当時に使われていた車両は、旧型の普通の観光バスタイプで、乗り込んでみれば、恐縮してしまうくらいに古びていた。
客室は、普通の観光バスと全く同じ構造や座席配置で、長距離路線としての配慮は全く感じられなかったと言ってもいい。

このようなバスに乗るのは、高校の修学旅行以来ではないか、と思った。

 


その時に僕が乗車したのは東京-山形線で、浜松町バスターミナルを出発してから、東京駅、上野駅、東武浅草駅、北千住駅、新越谷駅、岩槻駅と丹念に停車した。

東京、上野、浅草はともかく、越谷や岩槻と東北を行き来する人々がどれほどいるのだろう、と首を捻りたくなった。

 

岩槻ICからようやく東北道に入るのだが、福島県に入って間もなく、須賀川ICで降りてしまい、深夜の須賀川、郡山駅に停車する。
郡山ICから再び高速に戻るものの、1時間足らずで福島西ICを降りて、福島駅に寄る。
開業当初からの、沿線の街々に小まめに停車していた運行形態を頑なに守っている走りっぷりは、もどかしいほどだった。
昭和36年の開業当初の運行形態を残した夜行高速バスだったと言えるだろう。
 


平成2年5月の土曜日の昼下がり、僕は、仙台行きの「東北急行バス」に乗っていた。

当時の仙台行き夜行便も、僕が乗車した山形系統と同じく、一般道で東京、上野、浅草、北千住、新越谷、岩槻の各駅に停車し、岩槻ICから東北道に乗り、須賀川ICで降りて須賀川と郡山駅に停車していた。
郡山ICから再び高速に戻って、1時間足らずで福島西ICを降りて福島駅にも停車。
福島飯坂ICから三たび東北道に乗って、仙台南ICから長町駅を経由して仙台駅前に到着するという、昔ながらの経路を頑なに堅持していた。

平成2年の新緑の季節に僕が乗ったのは、前年に久々に登場したばかりの昼行便である。
みちのくの車窓を楽しめる日中の便が運行を始めたことを知り、無性に乗りたくなった。

 


午前11時30分に浜松町バスターミナルを発車した時はガラガラに空いていたが、東京駅前八重洲通りの乗り場から、20人ほどが乗りこんできた。
首都高速の高架に駆け上がってからも、渋滞につっかえながらの、ちょっぴりもどかしい旅の前奏曲となった。
荒川を渡って東京を出るだけで、30~40分以上かかった気がする。

それでも、バスの高い視点から眺めれば、ごちゃごちゃと密集した東京の佇まいが、別の街のように新鮮に見えるから、全く飽きが来なかった。

 

クリーム色に赤い帯の塗装と、「EXPRESS TOHOKU」のロゴは、昔と変わりがなかったものの、車両は見上げるように背の高い新型のスーパーハイデッカーに代替わりしていたから、無性に嬉しくなった。
僕が指定された席は最前列の右側で、前方の眺望が存分に楽しめた。
運転席との間の仕切りにはくり抜きがあって、中に足を伸ばしながら、ゆったりとくつろいだ。

首都高速の高架から隅田川に沿った下町の街並みを見下ろし、都心を抜けて東北自動車道に入れば、視界がいっぺんに開ける。
広大な関東平野の田園風景をぼんやりと眺めているうちに、左手遠方に霞んでいた奥羽山脈が、だんだんとこちらへ近づいてくる。
やがて、東北道は、那須高原に向けて標高を上げ、白河ICの手前で、福島県に入った。

 

 

東北道は、点在する丘陵を縫うように、くねくねと身をよじらせているから、関東平野からここまでトンネルらしいトンネルがない。
郡山を過ぎ、安達太良SAや二本松ICの先にある福島西ICの手前で、初めて愛宕山トンネルをくぐる。


爽快なハイウェイの走り心地を満喫しながらも、強く心に刻まれたのは、山々や田園の眩しいばかりに鮮やかな新緑と、高村光太郎が「智恵子抄」で描いたままの、見上げれば吸い込まれそうな、みちのくの青空だった。

 

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に

毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

病身の智恵子は、東京で思い焦がれるしかなかったけれど、僕は、こうして、東北の空の広がりと青さを、実体験できている。
なんと幸せなことだろうと思う。


大学生活も終わりに近づいて、国家試験を目の前に、臨床実習や試験勉強に明け暮れていた時期だった。
来る日も来る日も、スケジュールに追われながら無我夢中で過ごしているうちに、ふと我に返れば、これが本当に自分の生きるべき道なのか、と思う瞬間があった。
しばらく、好きな旅に出る暇もなかった。
いや、挫けそうになる自分にハッパをかけるために自重していた、と言った方が正しいのかもしれない。

そのような折りに、本能に誘われるように出かけてきた、久々のバス旅だった。
緩やかに流れ過ぎていく、優しげな車窓風景に目をやりながら、深々としたシートに身をゆだねて、僕は、得も言われぬ安堵感に包まれていた。

これだ……これが、僕の本当の居場所だ──。

大袈裟でなく、そう思った。
別に、流浪の民や火宅の人になろうと思った訳ではない。
たとえ自分を見失いかけても、高速バスで旅に出れば、必ず取り戻すことができる、と確信できたのである。

 

僕が高速バスを初めて体験し、その魅力に取り憑かれたのは、昭和58年に乗った「東名ハイウェイバス」だった。

平成2年の「東北急行バス」は、改めて高速バスの魅力を再認識したという点で、僕にとって「東名ハイウェイバス」と双璧を成す存在になった。

 


仙台で1泊した僕は、仙山線で山形に抜けた。
途中、山寺駅で下車して、「閑かさや 巖にしみ入る 蝉の声」の芭蕉の句で有名な立石寺に参拝した。
体力があったなあ、と今でも思うのだが、急峻な山壁に点在する寺域の山頂までのきつい石段を、息を切らせながらもきちんと往復したのである。

 

 

「山形領に立石寺と云う山寺あり。

慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。

一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。

日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。

岸をめぐり、岩を這いて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ 。

 

閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」

 

この句に詠まれた蝉はニイニイゼミか、はたまたアブラゼミなのか、前者を推す小宮豊隆と、後者と断じた斎藤茂吉の白熱した論争はよく知られている。

僕がこの話を知ったのは、茂吉の息子である北杜夫が「どくとるマンボウ昆虫記」の一節においてユーモラスな筆致で触れているからである。

芭蕉がこの句を詠んだ7月中旬にはまだアブラゼミが出て来ていないという決着だったのだが、昆虫好きで知られる北杜夫は、アブラゼミの鳴き声はこの句が描く雰囲気に合致していないのではないかと論じている。

 


山形からは、仙台系統と同時期に運行を開始した東北急行バス東京行き昼行便に乗車した。
こちらも新型のスーパーハイデッカーに代替わりしていたので、7年前とは隔世の感がある乗り心地だった。
運のいいことに、帰りも最前列の右側席で、前方に開ける東北路の眺望が存分に楽しめた。


バスが走ったのは、夜行便がたどった懐かしい国道13号線ではなく、全線開通したばかりの山形自動車道で、村田JCTから東北道に合流する、大回りだがスピーディな道行きとなった。

東北のまばゆい新緑と、抜けるような青空を堪能して、黄昏の東京に30時間ぶりに戻ってきた。

 

 

ゴミゴミした街並みの中を行く首都高速道路は、徐々に混雑の度合いを増していく。
首都高速6号向島線は、両国JCTで7号小松川線、そして JCTで9号深川線と合流する。

3本の高速道路が合わさっているにも関わらず、道路の容量は変わらないので、必ずと言って良いほど車の流れが滞り、乱れがちになる。

しかも、2つのJCTの手前で、2車線が1車線に絞られてしまう。

 

不意に、1台のスポーツカーが右側から強引な追い越しをかけてバスの前に回り込んだので、運転手が慌てて急ブレーキを踏んだ。
最前列にいる僕も、ヒヤリとした瞬間だった。

スポーツカーは左車線に割り込んだが、その先で道路が合流に備えて1車線に狭まる手前でつっかえている。
こちらのバスは、流れ始めた右車線に入ってスポーツカーと並び、僅かなスキをついて、その前にすっと入り込んだので、僕は心の中で運転手に喝采を送ったものだった。
バックミラーに映る運転手の顔は無表情だった。
山形からの快適だった高速クルージングを思い出すと、必ず心に浮かぶ爽快な場面である。

 

 

僕が利用した頃は名無しの権兵衛だった「東北急行バス」東京-仙台・山形線も、平成16年に仙台線が「スィート」号、山形線が「レインボー」号と愛称がつけられ、横3列シートの豪華車両がお目見えした。
 

平成21年2月に、夜行便の草加・岩槻・白石・大河原・岩沼での乗降が、翌22年2月に上野・浅草・北千住・新越谷での客扱いが廃止された。
点から点へ、ひたすら先を急ぐ昨今の風潮に見合わない路線のあり方だった、ということなのだろう。
何となく、一抹の寂しさを感じるのも確かである。

 

この頃から、時間が掛かっても運賃が安い昼行高速バスを選ぶ利用者が増え始めたような気がする。
平成10年代を迎えると、東京と仙台・山形を結ぶ高速バス路線は、複数の事業者が入り乱れて百花繚乱になった。
半世紀以上を、大きな事故もなく走り続けた老舗の安心感を買って、「東北急行バス」は、今でも根強いファンが少なくないと聞く。

 

 

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