蒼き山なみを越えて 第7章 昭和60年 急行「ちくま」 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

その日、僕は、すっかり閑散としている深夜の長野駅を訪れた。

大学浪人の1年が過ぎようとしていた昭和60年の3月のことであり、時刻は午後11時を回っている。



この時期に、このような旅に出るはずではなかった。

その思いが頭から離れず、黒々とそびえる仏閣型の駅舎を見上げてもなお、僕は、非現実的な感覚に苛まれている。

 

私立の医科大学に幾つか合格していたものの、本命の国立大学医学部の受験に失敗し、当時、国公立大学の医学部で唯一となる二次募集をしていた鳥取大学に、長野から往復することになったのである。

共通一次試験の結果などを考慮する書類選考であるから、試験を受けに行くのではなく、出願の手続きが目的である。

地元の受験生を優先する意図であろうか、郵送による出願は受け付けていなかったので大学の本部に出向く必要があり、選考を通れば米子の医学部で試験を受ける段取りだったと記憶している。

 

 
僕が乗るべきであるのは、長野駅を23時26分に発車する大阪行き夜行急行列車「ちくま」で、7時45分着の京都駅まで一夜を過ごし、9時16分発の山陰本線の特急「あさしお」に乗り継いで、13時03分着の鳥取へ向かう予定だった。

復路は、鳥取17時01分発の山陰・福知山線経由の特急「まつかぜ」4号から、大阪21時30分発の「ちくま」に乗り継いで、長野着が5時26分という車中2連泊の強行軍であった。

 

受験の旅であるから、いくら夜行列車が好きであっても、浮かれるのは不謹慎だと思っているのだが、長野駅の7番線に入線している「ちくま」を目にすれば、旅の喜びが込み上げて来るのは、鉄道ファンとして如何ともし難い。

修学旅行や家族旅行で関西に足を踏み入れたことはあっても、山陰に向かうのは初体験であり、ましてや1人旅であるから、心を躍らせるな、と言う方が無理であろう。

 

 
乗降扉をくぐって自由席車両に入り、4人向い合わせのボックス席がずらりと並ぶ客室の一隅に腰を落ち着けると、

 

『お待たせしております。23時26分発急行「ちくま」号大阪行きです。篠ノ井、聖高原、松本、塩尻、木曽福島、名古屋、米原、大津、京都、新大阪、大阪の順に停車して参ります。発車までもうしばらくお待ち下さい』

 

と、一定の間を置いて、車掌の案内放送が繰り返されている。

荷物を座席に置いて、ホームの自販機に飲み物を買いに行ったり、ぽつり、ぽつりとホームに姿を現わす乗客をぼんやりと眺めているうちに、発車ベルが鳴り始めた。

 

『大変お待たせ致しました。23時26分発急行「ちくま」号大阪行き、間もなく発車致します。篠ノ井、聖高原、松本、塩尻、木曽福島、名古屋、米原、大津、京都、新大阪、終点大阪の順に停車して参ります。間もなく発車です』

 

車掌の口調がせわしなくなったかと思うと、列車はごとり、と動き出した。

 

 
12系座席車を5両と20系客車3両を連結し、長野と名古屋の間の篠ノ井線と中央西線はEF64型、名古屋と大阪の間の東海道本線はEF65型電気機関車が牽引する客車列車であるから、電車に比べると出足は鈍い。

がたん、がたがた、と客車が引っ張られる音が前方から順々に伝わってきて、自分が乗る車両が動き出すまでに、瞬時の間が生じているような感触は、動力が分散している電車と大いに異なっている。 

 

牽引しているEF64型直流電気機関車の出力は1875馬力と聞いたことがあるけれど、とにかく巨大な力で前方に押し出されているような心持ちがする。

 

 
内田百閒が著した「阿房列車」の冒頭、東京発大阪行きの特別急行「はと」の発車直前に、見送りの人に百閒先生が述解する場面を思い出した。 

 

『僕はいつも汽車に乗る時、そう思うのですがね、汽車が走っている時は、つまり、機みがついて走り続けているなら、それで走って行ける様な気がするのだが、こうして停まって、静まり返っているこれだけの図体の物を、発車の合図を受けたら動かし出すと云う、その最初の力は人間業ではないと思う』

 

いざ発車した後にも、 

 

『漫然と煙草を吹かしていれば、汽車はどんどん走って行く。

自分がなんにもしないのに、その自分が大変な速さで走って行くから、汽車は文明の利器である(特別阿房列車)』

 

『さて、走り出した。

汽車が走るので、乗っている私の身体にもスピイドが加わって来る。

非常な勢いで動いて行く(雷九州阿房列車)』

 

などと記している。

 

大の汽車好きでありながら、いつも苦虫を嚙み潰したようなお顔で座席に収まっていたという百閒先生が、心中では、陸蒸気を初めて目にした明治期の人間のようなことを考えていたのかと思うと、思わず頬が緩む。

電車や気動車に慣れている身にはピンと来ないその言い回しが、客車列車では、実感として頷ける。

 

 

長野駅の構内で幾つかの転轍機を越えていく間は、様子を伺うようにそろそろと動いていた「ちくま」も、国道18号線の陸橋をくぐり、裾花川橋梁を渡る鈍い轟音が車内に響いてくるあたりから、するすると速度を上げ始めた。

 

裾花川の暗い上流に目を遣ると、人家の灯が乏しくなった川沿いの彼方に、他よりも多くの明かりを並べた長野県庁が見える。

その近くの実家にいる母のことを思い浮かべながら、何度、この橋を渡ったことだろう。

 

1年前に現役の大学受験に失敗し、故郷を離れて東京の寮に住みながら予備校に通い、帰省するたびに、裾花川で同じ景色を眺めてきた。

その年の5月に父が急死し、大学浪人中の僕と、まだ高校生の弟を抱えた母の困惑は、如何ばかりであったことだろうか。

今度こそ、大学受験をきちんと決めなければならなかったのに、未だに僕は進路が決まらないままである。

漆黒の闇に塗り潰された窓に映る自分の顔を眺めながら、情けなさが込み上げてくる。

 

 
『御乗車の皆様、大変お待たせ致しました。23時26分発急行「ちくま」号大阪行きです。担当車掌は大阪車掌区〇〇と××、終点大阪まで担当して参ります。どうかよろしくお願い致します。車の御案内を致します。車は全部で8両ございまして、1番前の車1号車、1番後ろの車10号車です。1号車から3号車まで、前寄り3両寝台車です。4号車と5号車は普通車の指定席です。自由席は8号車から10号車、後寄りの3両です。本日、6号車と7号車は連結しておりません。1番前の車1号車と、1番後ろの車10号車は禁煙車です。お煙草は御遠慮下さい。車内販売はございませんので、御了承下さい。停まります駅と到着時刻につきましては、次の篠ノ井を発車してから御案内致します。次は篠ノ井です』

 

この夜の車掌は枯れた声でぼそぼそ喋るので、ぐいぐいと滑るような勢いで速度を上げていく列車の走行音に、案内が掻き消されがちだった。

 

「ちくま」は、善光寺平の西に連なる山沿いをしばらく進み、斜面に開かれた住宅団地の明かりが疎らに見える。

右手を並走する国道19号線を行き交う車のヘッドライトが、光陰を描いて家々の間を流れている。

やがて線路は左へ緩やかな曲線を描いて山ぎわから離れ、犀川鉄橋を渡って川中島に足を踏み入れていく。

 

 
23時37分発の篠ノ井駅は、信越本線と篠ノ井線が分岐する要所で、暗いホームに数人の客が列車を待っていた。

この夜の「ちくま」はがらがらに空いていて、僕が乗る自由席車両に乗っているのは10人にも満たなかった。

ボックス席を独り占めして足を投げ出している1人客ばかりで、車内は話し声もなく、ひっそりと静まり返っている。

 

『篠ノ井から御乗車のお客様、お待たせしました。御乗車ありがとうございます。急行「ちくま」号大阪行きです。繰り返し車の御案内を致します。車は全部で8両ございます。前から1号車、2号車、3号車の順で、1番後ろが10号車です。1号車から3号車まで、前寄り3両寝台車です。4号車と5号車は普通車の指定席です。自由席は8号車から10号車、後寄りの2両です。6号車と7号車は連結しておりません。1番前の車1号車と、1番後ろの車10号車は禁煙車両です。お煙草は御遠慮下さい。停まります駅、到着時刻を御案内致します。次は聖高原、0時08分の到着です。松本到着0時48分、塩尻1時16分、木曽福島2時15分、名古屋5時05分、米原6時33分、大津7時33分、京都7時45分、新大阪8時20分、終点大阪到着8時27分、終点大阪8時27分です。夜行列車でございまして、車内販売はございません。御了承下さい。次は聖高原です』

 

本来ならば、車掌の停車駅案内で一層旅情が募るところであろうが、僕は、今度ばかりは決して旅に浮かれてはならない、と自戒している。

内田百閒がむっとした表情で汽車に乗っていたのは、内心の嬉しさを包み隠していたのかもしれないけれども、僕は心の中でも喜んではならない、と思い込んでいた。

窮屈極まりないけれども、旅の趣旨を考えればやむを得ない。

 

それでも、停車駅の名を耳にすれば、遠くに行くのだな、と気持ちが改まる。

 

 
長野から大阪まで篠ノ井線・中央西線・東海道本線経由で直通する列車は、昭和34年に登場する準急「ちくま」が最初であり、当初は長野行きが夜行、大阪行きが昼行で運転されていた。

昭和36年に「ちくま」は急行になり、昭和41年に夜行・昼行各1往復ずつに、昭和43年には季節運転も含めて夜昼行3往復に増便されている。

 

昭和46年に定期の昼行1往復が特急「しなの」に統合され、残された昼夜1往復ずつの「ちくま」は、昭和47年に気動車に置き換えられた。

昭和53年に寝台車の20系客車が投入されると同時に、「ちくま」の定期運転は夜行1往復だけになり、昼行1往復は季節運転の電車になっていた。

 

 

僕は、家族旅行で京都や奈良に出掛けた際に、夜行急行「ちくま」を2度ほど体験している。

 

1回目の「ちくま」は、キハ58系急行用気動車の編成で、長野と大阪の間に非電化区間など残っていなかったので、不思議でならなかった。

ディーゼルカーに乗ったのは、その時が初めてではなかったか。

電車よりも重々しく響いてくるエンジン音に、このような車両を夜行に投入するとは何たることか、と子供心に仰天した。

当時の国鉄は急行用電車が不足し、電化区間に気動車急行を走らせる場合が少なくなかったようで、今となれば貴重な経験だった。

 

 
次の家族旅行で、寝台車と座席車を併結した客車列車の「ちくま」に乗り、僕は生まれて初めての列車寝台を経験した。

 

20系客車のB寝台は、進行方向に対して直角にベッドが並ぶ3段式で、僕ら家族は1段目に母と小さかった弟が添い寝し、2段目が父、そして僕は最上段をあてがわれた。

最上段は客車の屋根の丸みがそのまま内部にも反映した形をしていて、まさに屋根裏そのものであった。

天井は高く、通路の天井裏の空間を利用した荷物棚がついて、3段のうちでは最も広々とした空間に感じられた。

20系客車の3段式B寝台は、上・中・下段とも長さ190cm・幅52cmで統一されていたものの、高さは上段が84cm、中段が74cm、下段が76cmと差が生じている。

最上段の窓は、開閉ができる金属製の蓋がついた小さな覗き穴だけである。

 

初体験の列車寝台に有頂天になった僕は、覗き窓から外を眺めたり、仰向けになって丸く弧を描く天井を見上げながら、とても幸せな気分だった。

ろくに外は見えなくても、仰向けになって丸く曲線を描く天井を見上げながら、暗闇の中で、鉄輪が線路の繋ぎ目を噛むリズミカルな音色に心を研ぎ澄ませれば、夜行列車の情緒は満点である。

通路を行き来する人の足音や、床下から響いてくるブレーキ音などを嫌って、敢えて上段を選ぶ客も少なくなかったと聞く。

 

京都駅で列車を降りると、揺れがひどくて眠れなかった、と疲れた顔で呟いていた父の姿が思い出される。

幼かった僕は元気一杯で、父が身体が弱かったことなど思いも寄らず、そんなに揺れたっけ、と首を傾げたものだった。

 

 
その父を亡くし、経済的に切迫している浪人生であるから、今回の旅は、座席車で安上がりに済ませなければならない。
なまじ寝台車の思い出があるだけに、落魄した惨めさが募る。

 

「ちくま」は、姨捨付近で左手に広がる善光寺平の灯を見渡しながら、安曇野との間にそびえる筑摩山地を登り詰め、早くも冠着トンネルを過ぎた。

12系座席車の固いボックス席で身を縮めていると、出発前の浮かれ気分はするすると萎み、これから僕はどうなるのだろう、という先行きの不安を繰り返し胸に問いかけるだけの、長く心細い夜になった。

 
松本駅での14分間の停車中に、車外へ出て身体を伸ばし、冷え冷えとした空気の中で深呼吸をしながら、この駅のホームは長野駅よりも幅が狭いのだな、などと詰まらない感想を抱いたのは、かすかに記憶に残っている。

塩尻駅でも14分、木曽福島駅で31分も停車したのに、全く忘却の彼方であるのは、幾らか眠ったのだろう。

揺れが気になったり、硬い座席で寝苦しかった覚えもないので、当時の僕は若かったということである。

 

朦朧と木曽谷を走り抜けて、早暁5時05分に到着した名古屋駅は、まだ暗闇の底に沈んでいたものの、何本も並んでいるホームに煌々と照らされている明かりが眩しく目を射った。

このような時間に、不夜城のように照明をつける理由が何処にあるのだろう、と首を傾げた。

ホームを歩く降車客が意外と多く、長野と名古屋の間を「ちくま」で移動する人は少なくないように見受けられた。

 

 
昭和22年に、中央西線で最初の優等列車として名古屋-松本間で運転を開始した夜行準急「きそ」が、急行に昇格して長野まで延伸し、最盛期には昼夜行含めて1日8往復が運転されたが、同じ区間を走る特急「しなの」の増発に押されて減便を重ね、昭和60年に廃止されている。

夜行の「きそ」は、荷物車を繋げた座席車だけの客車列車で、長野駅を23時20分に発車し、篠ノ井、松本、塩尻、木曽福島、中津川、多治見に停車して名古屋に5時27分に到着する上りと、名古屋を23時45分発、長野5時00分着の下りが運転されていた。

 

「きそ」が健在だった頃の「ちくま」は、上り列車が長野を22時10分に発車して大阪に6時42分着、下り列車は大阪22時20分発、長野6時53分着と、上りは1時間ほど早く、下りは1時間ほど繰り下がったダイヤで、機関車を付け替える運転停車はするのだろうが、名古屋は通過扱いとなっていた。

僕が乗車した昭和59年の「ちくま」は、廃止された「きそ」に運転時刻を近づけて、長野-名古屋間の夜行需要を取り込んだのであろう。

 

当時、信州で優等列車が廃止されるのは珍しかった。

「きそ」が時刻表から消えた時に、2本の夜行列車が1本にまとまるほど、長野と名古屋、大阪の間の需要が減ったのだな、と夜行列車の凋落に初めて触れたような気がする。

 

ぼんやりと物思いに浸っていると、ズン、と客車が前後に揺れたので、それまでのEF64型電気機関車からEF65型に付け替えたのだろう、と推察したが、見物に出掛けるような心境ではなかった。

 

 
東海道本線を西へ進むにつれて、空が白々と明けていく沿線風景を、重い瞼をこじ開けるように眺めた記憶もあるものの、僕は、名古屋から京都までの大半を眠って過ごした。

どれほど気が滅入っていても、余計なことをくよくよ考えずに済む睡眠とは、ありがたいものである。

 

『お疲れさまでした。あと10分ほどで京都に到着です。4番線の到着で、お出口は左側です。お忘れ物、落とし物などありませんようお支度下さい。乗り換えの御案内を致します。東海道線下り高槻方面は、向かいのホーム5番線から各駅停車姫路行き6時26分、奈良線宇治、奈良方面は8番線から各駅停車奈良行き6時50分、山陰線亀岡、福知山方面各駅停車福知山行きは0番線から6時42分、倉敷行きの特急「あさしお」1号は同じく0番線から9時16分です。御乗車ありがとうございました。京都に到着です』

 

という案内が流れる頃、すっかり明るくなった窓外の様子に、多少は気分が軽くなっていた。

 

 
2度に及ぶ家族旅行で、親に手を引かれて「ちくま」から降り立ったのは、どちらも京都駅だった。

旅の目的が何であれ、曾遊の地にはるばる1人で来たことが、少しばかり誇らしかった。

 

いったん烏丸口の改札を出て、構内の食堂で朝食をしたためてから、僕は山陰本線の乗り場に向かった。

京都駅烏丸口に面するホームは、全長558mと日本で最も長いホームとして知られ、鉄道書籍でもよく取り上げられていたが、その実は323mの1番線と、西端を切り欠いて設けられている235mの0番線として使い分けられ、0番線が山陰本線の乗り場であった。

人混みに揉まれながら狭い通路を歩かされて、この先にきちんとホームがあるのか、と不安に駆られた記憶が残っている。

 

 

定刻9時16分に京都駅を後にした特急「あさしお」1号は、僕が初体験となる気動車特急だった。

左右にぎっしりとひしめく瓦屋根の街並みを見渡しながら、しばらく単線の高架を進み、地平に降りると嵯峨野の鬱蒼たる竹藪が車窓を覆う。

 

山陰本線と言えば、作家の水上勉と宮脇俊三の対談が心に浮かぶ。

 

『水上 そういえば京都の嵯峨の竹藪の中を細々とした1本の線路が横切っていて、山陰本線ってこんなに貧弱なのかと思ったことがありますわ。

宮脇 だいたいあんな調子ですね。ほとんど単線で電化もされていませんし。

水上 ずうっと単線ですか。

宮脇 ええ、米子と松江のあたりだけが、ほんの少し複線化されているだけです。

水上 出雲の先の石見のあたりもですか。

宮脇 あっちへ行けば、ますます単線です(笑)。レールもローカル線並みに細くなりまして……。

水上 なるほど、だから、あのあたりはいいんだな。

宮脇 やはり勘所はつかんでおられる』

 

 

この一節には思い入れがある。

家族旅行で「ちくま」を京都で降り、見物のために乗り込んだタクシーで、

 

「お客はん、まだこんな時間やから何処も開いてませんわ」

 

とボヤくタクシーの運転手が、僕らを最初に連れていったのは、嵐山に近い天龍寺だった。

 

開門までの時間潰しで、築地が並ぶ嵯峨野の小径を歩いている最中に、緑一色に染まった竹林の向こうにディーゼルカーが通過していくのを目にした僕は、思わず写真に撮ったのである。

僕が鉄道ファンになったかならないかの時期で、列車を撮影したかったのか、竹藪の美しさに惹かれてカメラを向けた方向にたまたま列車が通りかかったのかは定かでなく、おそらく後者であろうが、とにかく、僕が生まれて初めて撮影した鉄道写真になった。

 

何処のローカル線だろう、と思っただけで、気にも留めなかったのだが、後に写真を見直せば、あれが山陰本線だったのか、と言い知れぬ感動が湧き上がってきた。

 

 

嵯峨野を抜けて木津川が刻む渓谷の崖っぷちに出た「あさしお」の走りは、やたらに吹かすエンジン音が腹に響いてくるばかりで、もどかしいほどに遅々としていた。

大したことはないように見えても、木津川が刻む丹波の山々を貫く線路の勾配がきついのであろう。

 

エンジンの高鳴りと速度が比例しないのがディーゼル特急の乗り心地か、と新鮮さを感じるとともに、妙な既視感を覚えたのだが、そうだ、10年前にディーゼル急行の時代に乗車した「ちくま」が、このような感触ではなかったか、と思い当たった。

同時に、京都府とはこれほど山深かったのかと、夜の不安もどこへやら、初めての車窓に目を奪われっ放しだった。

 

城崎温泉駅を過ぎると、右手の車窓いっぱいに広がった紺碧の日本海に目を見張った。

12時14分に停車した香住駅で、僕は、ふと居住まいを正した。

隣りにある鎧駅と、次の餘部駅の間に、有名な余部鉄橋が待ち構えているはずだった。

 

 

このあたりは、丹後の山々が海に迫る峻険な地形で、技術的に難しい長大トンネルの掘削を避けて海沿いに線路を敷設するルートと、保守作業の困難が予想される長大鉄橋を回避する内陸迂回ルートを検討した上で、全長310.6m、高さ41.5mの余部鉄橋を建設する案が採用されたのである。

 

香住駅の標高は7.0m、次に「あさしお」1号が停まる浜坂駅の標高は7.3mと、ほぼ同じであるが、その間にそびえる山塊を越えるために、可能な限り高度を稼いだ上で、短くトンネルを掘削するのが、明治期の建設技術の限界であった。

付近の河川が山中から直角に日本海へ流れ出ているため、勾配が緩和される川沿いのルートを見つけるのが難しかったらしいが、餘部の西にある桃観峠の東斜面を、西川が東西に流れて餘部で海に注ぎ、西斜面の久斗川が浜坂で海に流れ出ている。

この2つの川筋を利用して峠を登り詰め、標高約80mの地点に全長1992mの桃観トンネルが建設された。

桃観峠のトンネルの長さを極力短くするために、香住寄りに流れる長谷川が刻む幅300mの谷を、40~50mの高さで越えなければならなくなった。

 

こうして、鉄鋼を櫓のように組み合わせた11基の橋脚と23連の橋桁を持つ鋼製トレッスル橋の建設が明治42年に開始され、明治45年に完成したのである。

 

 

「あさしお」1号は、開通した当時の面影を残す旧態依然とした山陰本線を、おそるおそる進んでいく。

香住駅から最大12.5‰の勾配を登って標高39.5mの鎧駅を過ぎ、断続する短いトンネル群を通り抜けて、余部鉄橋に向かう。

香住と浜坂の間17.9kmを17分で走り抜ける「あさしお」1号の平均速度は時速60km程度であり、電車よりも勾配に弱いディーゼル特急にしては健闘している。

窓外は鬱蒼と生い繁る木々に覆われ、木立ちの根元に、ところどころ雪が残っている。

 

鎧駅を過ぎ、今か今かと待ち受けていると、不意に窓外の眺望がいっぺんに開けて、「あさしお」1号は宙空に飛び出した。

余部鉄橋に柵やトラスはなく、軌道が導いてくれる鉄道だからこそ可能な芸当なのだが、列車に乗っている身としては、目も眩みそうな高さを綱渡りしているような気分になる。

 

眼下を見下ろせば、入り江に身を寄せ合う古びた家々の慎ましさに、胸が詰まる。

背景の暗い山々と合わせて、如何にも山陰の情緒が漂う寒々とした光景で、車内にいても思わず襟を掻き合わせたくなった。

 

 

頭上を列車が通過する住宅に住むのは、なかなか難儀なのではないかと思う。

実際、鉄橋の下の住民は、騒音だけでなく、ボルト、ナット、リベット、雨水、つらら、氷塊、雪庇、錆などといった落下物に、長年悩まされ続けてきたと聞く。

 

この旅の2年後の昭和61年12月28日に、回送中だったDD51型ディーゼル機関車が牽引するお座敷列車7両が、日本海から吹き込む最大風速33mという突風にあおられ、機関車を除く全車両が鉄橋の中央部より転落、真下にあった水産加工工場と民家を直撃して、工場の従業員5名と車掌1名の計6名が死亡、車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った事故が起きている。

転覆の原因が、強風によって鉄橋がフラッター現象を起こし、線路が歪んだことに起因するという説も唱えられていると聞いた。

 

「あさしお」1号の車内で、後にそのような事故が起きるとは夢にも思わなかったし、今の風速がどの程度なのかを推し量る術もないけれど、周りで強風に揺れている木々がないか、思わず下界を見回した記憶がある。

40mも下にあるのだから木立ちのざわめきが見えるはずもなく、遥か下方を覗き込んでいると背筋がゾクッとして、気持ちの良いものではない。

だが、この橋を渡らなければ山陰へは行けないのだ。

 

 

三方を山に囲まれ、一方は海岸という地形と、冬季には季節風や吹雪が吹き付けることから、余部鉄橋が完成した3年後に早くも錆防止の塗装が必要となり、5年後から腐食した部品の交換が始めらている。

このような補修が常に必要であったために、大正6年から昭和40年まで「鉄橋守」と呼ばれる工手が常駐していた。

維持作業は「繕いケレン」と呼ばれ、ケレンは、クリーンがなまったものではないか、との説がある。

 

東海道本線や山陽本線のような幹線ならばとっくに架け換えられているのだろうが、昭和32年から昭和51年まで計3回に及ぶ大規模な修繕が行われて、大半の鋼材が交換され、より防錆性の高い塗料に塗り替えられた。

鉄橋守が置かれなくなってからも、橋脚の防錆処理は4~5年に1度の周期で行われ、平成になってからの調査でも、鉄橋は健全な状態であることが確認されている。

 

 

ただし、学者の一部から「信越本線の碓氷峠におけるアプト式鉄道の採用と並んで、後世に多額の保守経費を発生させた」という否定的な見解も挙がっている。

 

群馬県と長野県の境に横たわる碓氷峠では、26本も掘られたトンネルで機関士や乗客が蒸気機関車の煤煙に巻かれる事故が続出したため、内部への風の吹き込みで煙が列車にまとわりつかないよう、列車の通過直後に入口を幕で閉める「隧道番」が配置されていた。

ここで故郷の信州が話題になるのか、と思えば、お互い難儀な土地に住んでいますな、と山陰に親近感が湧いてくる。

 

国家の大動脈である鉄道を維持するために、余部や碓氷の目立たない場所で、縁の下の力持ちとして鉄路を守り続けた人々が、かつては数多く存在したのである。

 

 

橋の袂ににある餘部駅の標高が43.9mで、「あさしお」1号は、更に15.2‰の急勾配を登り詰めて、標高80mの地点で桃観トンネルに入る。

トンネルを抜ければ、標高51.9mの久谷駅まで15.2‰の下り坂となり、その先は勾配が13‰まで緩んで、浜坂駅の手前で平坦になった。

浜坂駅を過ぎても、トンネルの合間に、険しい断崖がちらちらと顔を覗かせる車窓が続く。

崖の縁に立つ松の木が、吹き付ける風にじっと耐えている。

 

ひと眠りして目を覚ませば、いつの間にか地形がなだらかになっていて、櫛の歯を引くように窓外を流れるススキや葦、松林の向こうに、荒涼とした砂丘と暗い日本海が広がっていた。

この日の日本海は荒れているようで、波頭が白く浮かび上がる海原の向こうは、低く垂れ込めた雲との境を成しているはずの水平線がはっきりしない。

 

色彩をいっさい失って、白と黒だけの墨絵のような車窓に心を打たれた。

裏日本に来たのだな、と思う。

 

 

13時03分に到着した鳥取駅の佇まいや、鳥取大学への往復は、「あさしお」の車窓があまりに鮮やかであったためなのか、全く記憶に残っていない。

 

鳥取城址が置かれた久松山を背負う駅前の古びた街並みが、旭山を背にした長野駅前と似ているので、懐かしさが込み上げて来た。

「大阪梅田へ3時間50分 日交バス乗り場」という看板を、大阪までバスが走っているのか、と無感動に一瞥した記憶があるので、当時の僕がバスファンでなかったことだけは確かである。

 


僕は、鳥取駅を17時01分に発つ新大阪行きのディーゼル特急「まつかぜ」4号で折り返した。

この列車の始発駅は8時15分に発車する博多で、19時17分発の福知山駅で福知山線に逸れてしまうものの、鹿児島本線から山陰本線にかけて延々800km近くを13時間もかけて走り通す長距離列車であった。

 

車内に足を踏み入れれば、博多から乗り通して来た乗客がどれくらいであるのかは分からないけれども、始発駅から丸1日を費やす長時間運転を反映して、座席を占める人々は物憂げな疲労を浮かべ、空いている席にも食べ残し、飲み残しの弁当殻や空き缶が散乱して、どんよりと空気が澱んでいる。

大阪まで4時間もここで過ごすのか、と思うと気が滅入った。

 

 

余部鉄橋を渡り、18時09分発の城崎駅と、18時21分発の豊岡駅のあたりまで、かろうじて薄暮が保たれていたが、福知山駅で福知山線に入る頃に、車窓はすっかり漆黒の闇に塗り潰されていた。

 

当時の福知山線は、現在のような通勤・通学路線ではなく、1~2時間に1本程度の客車鈍行列車と、大阪と福知山、豊岡、城崎、鳥取を行き交う急行「丹後」「だいせん」が行き交うだけのローカル線だった。

「あさしお」1号では、夜行明けのために、景色の良い区間で睡魔に襲われたのが悔しかったので、景色も見えず、坦々と山中を行くだけの福知山線で眠れれば良いのに、と思うのだが、逆に目は冴えている。

長野に帰れば、前途が定まらず肩身の狭い日々が待っている。

胸に重石を乗せられたような不安に苛まれて、悶々と過ごした「まつかぜ」4号の車中だった。

 

 
21時10分に到着した大阪駅での乗り換えは、20分しかない。

 

居並ぶ何本ものホームは煌々と照明が輝き、行き交う人々の足取りも煩わしいほどの活気に溢れていたにも関わらず、買い求めた駅弁を手にして10番線に駆け上がると、僕は思わずたじろいだ。

長野行き急行「ちくま」は既に入線して、12系客車の扉も開け放たれていたのだが、コンコースから改札にかけての雑踏とはあまりに掛け離れた静けさに、ホームを間違えたか、と勘違いしたのである。

 

 

この旅の当時、大阪駅を出入りする夜行列車は、まだまだ健在だった。

この10番線や隣りの11番線、東海道本線下り列車が出入りする3番線、4番線から、

 

17時35分:函館行き寝台特急「日本海」1号

20時20分:青森行き寝台特急「日本海」3号

20時31分:西鹿児島行き寝台特急「なは」

20時44分:西鹿児島行き寝台特急「明星」(季節運転)

20時56分:都城行き寝台特急「彗星」

21時07分:長崎・佐世保行き寝台特急「あかつき」

21時30分:長野行き急行「ちくま」

22時00分:新潟行き寝台特急「つるぎ」

22時10分:東京行き急行「銀河」

22時20分:出雲市行き急行「だいせん」

23時20分:新潟行き急行「きたぐに」

23時26分:長崎・佐世保行き寝台特急「さくら」

23時52分:西鹿児島行き寝台特急「はやぶさ」

0時48分:熊本・長崎行き寝台特急「みずほ」

 

と、多数の夜行列車が発車していた。

 

 

10番線と11番線は、この後に「つるぎ」や「銀河」、「きたぐに」が控えているのだが、この寂れ方はどうしたことか。

信州に向かう夜行急行「ちくま」を利用するのは、この夜の僕のように、人生の表舞台からあぶれた人間だけのような気がしてきた。

でも、それが夜汽車の良さではないのか。

世の中、人生を航空機や新幹線で突っ走れる人間ばかりではないはずである。

 

ホームから夜空を見上げれば、低く垂れ込めた雲が街の明かりを反射していて、冷たい風が容赦なく身体に吹きつけて来る。

「あさしお」で余部鉄橋を渡った時は晴れ間も覗いていたのに、「まつかぜ」に乗る頃には空が雲に覆われていたことを思い浮かべた。

あの山陰の暗い雲が、大阪に追いついて来たのだろうか。

 

 

『お待たせを致しております。21時30分の発車になります、長野行きの急行「ちくま」号です。列車は全部で8両の運転です。1番前から10号車、9号車、8号車の順で、1番後ろが1号車です。後ろ寄りの1号車から3号車までB寝台です。4号車から6号車が普通車の指定席、自由席は前寄りの8号車から10号車の3両です。本日、6号車と7号車は連結していません。1番後ろの1号車と、1番前の10号車は禁煙車です。お煙草は御遠慮下さい。終点の長野まで車内販売はございませんので、御了承下さい。ジュース等のお買い物は、ただ今の大阪駅でお願い致します。発車まであと5分程ございます。しばらくお待ち下さい』 

 

気を取り直して、指定された車両に足を踏み入れ、歯切れの良い案内放送を聞き流しながら、ずらりと並ぶボックス席を目にすれば、長野までの8時間は遠いなあ、と思う。

ぽつり、ぽつりと階段を昇って来る利用客がいるが、国電や特急列車が出入りする他のホームにいる颯爽とした人々とは、自然と肌合いが異なっている。

 

 

うらぶれて感じられたのは、夜行列車が醸し出す哀愁であったのかもしれない。

紀行作家の宮脇俊三が、昭和55年に、同じく大阪駅11番線から急行「きたぐに」に乗車した際に述解している。

 

『夜行列車がはじめて走り出したのは明治22年7月で、既に91年もたっている。

その間、日本と日本人は欧米に追いつけ追い越せで前へ前へと突進していた。

戦争に勝てばもちろん、致命的と思われる敗戦からも不死鳥のように甦生して夜も日もなく前進した。

夜行列車はそれに大いに貢献した。

しかし、時代は変わってきた。

夜を徹して走りまくってきた高度経済成長時代の働き蜂たちは衰えを見せはじめ、それに代わるべき次の世代は夜行列車よりもマイホームやホテルの夜を優先するようになった。

夜行列車の客は航空機へ移っていった(「時刻表ひとり旅」)』

 

これからも、「きそ」が「ちくま」に統合されたように、ダイヤ改正のたびに夜行列車が削減されていくのは間違いないのだろう。

もしかしたら、「ちくま」に乗り通すのは、人生でこれが最後かもしれない。

 

発車ベルが車内に漏れ聞こえてきて、

 

『お待たせしました。21時30分発の長野行き急行「ちくま」号、間もなく発車です』

 

と放送が繰り返されると、鈍い衝撃とともに、ホームのベンチや柱、自販機などが、すうっと後方に流れ始めた。

ホームが過ぎ去って窓外が暗転すると同時に、大きく列車が左右に揺れたのは、構内の幾つもの転轍機を通過しているのであろう。

物悲しい音色の「ハイケンスのセレナーデ」のオルゴールが流れた。

 

『お待たせ致しました。急行「ちくま」号長野行きでございます。新大阪、京都、大津の順に停まって参ります。各駅の到着時間は、後程、新大阪を出ましてから御案内致します』

 

僕は、何となく胸が熱くなって、窓外に滲む街の灯に目を向けた。

帰路は、旅立ちの戒めを解いて、「ちくま」の一夜を存分に味わおう、と思った。

 

 

淀川の長い鉄橋を轟々と渡り、21時36分発の新大阪駅を発車すると、本格的な案内放送が流れた。

 

『新大阪から御乗車のお客様、お待たせ致しました。急行「ちくま」号長野行きです。1番前から10号車、9号車、8号車の順で、1番後ろが1号車です。後ろ寄りの1号車から3号車までB寝台です。4号車から6号車が普通車の指定席、自由席は前寄りの8号車から10号車の3両です。本日、6号車と7号車は連結していません。1番後ろの1号車と、1番前の10号車は禁煙車です。お煙草は御遠慮下さい。車内販売はございませんので、御了承下さい。これから先、停まります駅と到着時間を御案内致します。次は京都に停まります。京都22時05分です。大津22時16分、米原23時04分、岐阜23時58分、名古屋0時28分、名古屋を出ますと中央線に入りまして、次は木曽福島です。木曽福島に3時ちょうど、塩尻3時46分、松本4時01分、篠ノ井5時14分、終点長野には5時26分の到着になります。盗難防止のため、お休みの際には貴重品、現金類は肌身につけて下さいますよう、お願いを致します。寝台車のお客様、火災予防上大変危険でございますので、ベッド内でのお煙草は固くお断り致します。お煙草をお吸いの際には、通路側の補助席のところに灰皿受けがございます。補助席を御利用下さい。次は京都です』

 

 
往路の上り「ちくま」が停車した聖高原駅を通過し、代わりに岐阜駅に停まるのか、などと虚ろに思ったところまでは覚えている。
さすがに疲れたのだろう、車中を楽しむどころか、僕は20分後に停車した京都駅に気づかないほど、ひたすら眠りを貪った。

 

時折り、思い出したように走行音が緩やかになって、ガタン、と小さな衝撃と共に列車が停まる気配に、何度か目を覚ました。

深夜であるから、案内の放送はない。

モーターのついていない客車列車であるから、停車中の静寂は耳鳴りがするほどである。

外の喧騒が車内に流れ込んで来ることもない。

 

駅名標を探す気力も残されていなかったが、12系客車の硬いボックス席で身を丸めながらも、僕は不思議な安らぎを感じていた。

この夜汽車の旅が、いつまでも続けばいいのに、と思う。

 

 

『おはようございます。ただいまの時刻は午前5時を回ったところでございます。あと10分ほどで篠ノ井に着きます。篠ノ井の到着は5時14分です。篠ノ井を出ますと、10分で終点の長野です。列車は只今、時間通りの運転でございます。篠ノ井からの乗り換えの御案内です。信越線戸倉、坂城方面の各駅停車上田行きは6時09分、上野行きの特別急行「あさま」2号は6時27分です。間もなく篠ノ井です』

 

篠ノ井駅への到着を知らせる放送で眼を覚ますと、「ちくま」は、冠着山系の急な斜面を駆け下っているところだった。

櫛の歯を引くように線路際を過ぎ去る草木の合間に、早暁の善光寺平が広がっている。

子供の頃から何度も目にした姨捨の車窓であるけれども、これほど荘厳に見えたのは初めてだった。

この美しい土地が僕の故郷なのか、と息を呑んだ。

帰って来た、と涙が出そうになった。

 

山ぎわの雲を押し退けるように、朝日が輝いている。

雪を残した山々の優しさ、ゆったりと水を湛えた川の流れ、春を待つ田畑。

早朝の信濃路を軽快に走る「ちくま」を包む山河の美しさに、僕は、心が洗われたような清々しさを感じていた。

 

訳もなく、今日から頑張ろう、と思った。

父が死んだ時も、受験勉強に煮詰まった時も、僕を慰め、励ましてくれたのは、旅であった。

今回も、希望を見失いかけていた僕を、「ちくま」が掬い上げてくれたのだと思う。

旅に出れば、僕は自分を取り戻せる、と確信した。

4月からの生活がどのようになろうとも、僕は必ず乗り越えてみせる、という力が湧いて来た。

 

 

篠ノ井駅を出て、犀川橋梁を渡る頃に、最後の案内放送が流れ始めた。

 

『あと5分で終点の長野でございます。7番線の到着でお出口は左側です。長野駅からの乗り換えの御案内です。信越線三才、豊野、妙高高原方面各駅停車直江津行きは1番線から5時40分、新潟行き急行「とがくし」1号新潟行きは1番線から6時46分です。飯山線豊野、飯山、戸狩方面各駅停車越後川口行きは4番線から5時30分、4分の待ち合わせです。長野電鉄線にお乗り換えの方は、改札を出まして地下乗り場へお回り下さい。お手回り品など、お忘れ物ございませんか。今一度お確かめ下さい。本日は急行「ちくま」号を御利用下さいましてありがとうございました。間もなく終点の長野、お出口は左側です』

 

車掌の案内が終わると同時に、轟々と渡り始めた裾花川の鉄橋で、僕は心なしか胸を張るような心持ちで、上流に建つ長野県庁を見遣った。

 

夜が明け始めた長野駅のホームに降り立ち、大阪から442.7km、夜を徹した8時間の長旅を終えた「ちくま」を振り返ると、2晩世話になったな、と感謝の念が込み上げて来た。

跨線橋に昇ると、側線で189系特急「あさま」や381系特急「しなの」がヘッドマークを点灯させ、運転席にも明かりをつけて、上野や名古屋へ向けての発車に備えているのが見える。

終着駅は始発駅でもあるのだな、と思った。

 

 

結果として、鳥取への往復は徒労に終わった。

金銭的な負担をかけた母には申し訳なかったけれども、代わりに進学した昭和大学医学部の学生生活や、友人たち、先輩と後輩、そして多くの恩師との出会いを思えば、これで良かったのだと今は思っている。

 

東京の予備校の寮を片付けるために上京した際に、寮長から、どの大学に行くことにしたのか、と聞かれ、国公立大学が駄目だったので昭和大学に決めました、と若干の羞恥とともに返事をすると、

 

「おめでとう」

 

と、思わぬ言葉が返って来た。

いや、私立ですから、と穴があったら入りたくなっている僕を励ますように、

 

「何を言ってるの。進路が決まったのだから、立派なものです。お母さんに感謝して、4月から頑張りなさい」

 

と諭された。


寮生の生活態度に厳しく、滅多に笑顔を見せなかった寮長が、笑っていた。

5月に、父危篤という母からの電話を最初に受けたのは寮長だった。

僕の周りには、見守って下さっていた人がたくさんいたのだな、と初めて気づいた。

4月から頑張って、応えなければならない、と決意した。

 

ふと、数週間前の急行「ちくま」の旅を思い浮かべた。

あの1人旅で、自分と向き合う時間を持てたからこそ、寮長の激励を素直に受け入れられたのだ、と思う。

「ちくま」で往復した昭和59年3月の足掛け3日間は、新しい人生を切り拓くきっかけとなった珠玉のひとときであり、後の旅のかたちの原点になったのである。

 

 


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