蒼き山なみを越えて 第58章 平成18年 快速「みすず」・特急バス松本-金沢線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和30年代から50年代にかけて、帰省バスが全国を走り回っていた時期があった。

お盆や年末年始などの多客期に、殺人的な混雑を呈していた鉄道を補完して、地方から大都市に出て来ていた人々の里帰りの足を支えたのである。

 

 

大阪の中央交通が、昭和36年に日本で初めての帰省バスの運行を開始したと自称しており、福岡の西鉄バスも昭和37年に福岡-大阪間で帰省バスの運行を開始、横浜に本社を置く相模鉄道も、昭和38年の帰省バスの記録が残されている。

 

僕は、帰省バスを利用した経験がない。

故郷の信州から東京に出て来た昭和60年代は、品川区に住んでいたので、京浜急行線の駅で、同社の帰省バスのチラシを、羨望や郷愁とともに手にしただけである。

 

 

雨後の筍のような長距離高速バスの開業ラッシュが、全国各地で始まっていた時代で、お盆や年末年始は、それらの新しい路線で旅に出る方に関心が向いていたからであろう。

新幹線が各方面に伸び、航空機の旅が大衆化して、全国に高速バス網が張り巡らされる中で、帰省バスは通年運行に定期化されたり、或いは姿を消しつつあり、今になってみれば、乗っておけば良かったと臍を噛む思いがする。

 

 

気になる帰省バスは、信州方面の他にも、幾つか存在した。

 

後の話で恐縮であるが、その最たるものは、大宮を起終点にして、池袋・横浜を経て四国松山・伊予・大洲・宇和島に至る夜行路線である。

西武バスと宇和島自動車が運行し、営業距離が998kmにものぼる長距離路線で、所要時間は15時間にも及んだ。

下り便の運行ダイヤは、

 

大宮営業所18時10分-大宮駅西口18時25分-池袋駅東口19時10分-横浜駅東口YCAT20時10分-松山営業所7時24分-エミフル松前7時34分-伊予市7時40分-大洲営業所8時14分-卯之町営業所8時42分-吉田営業所9時00分-宇和島バスセンター9時16分

 

上り便は、

 

宇和島バスセンター18時00分-吉田営業所18時16分-卯之町営業所18時34分-大洲営業所19時02分-伊予市19時36分-エミフル松前19時42分-松山営業所19時52分-横浜駅東口YCAT7時07分-池袋駅東口8時05分-大宮駅西口8時46分-大宮営業所8時57分

 

となっていて、途中、足柄SAと石鎚山SAでの休憩が案内されている。

平成20年8月に開業し、3月と4月、5月、7月と8月、12月と1月といった多客期を中心とした季節運行であった。

 

 

帰省バスとして日本最長の運行距離を誇り、所要時間では、定期運行路線を含めても、東京と萩を結ぶ「萩エクスプレス」号や大宮と福岡を結んでいた「LIONS EXPRSS」号に次ぐ史上3位であったが、平成27年1月の運行を最後に、姿を現さなくなった。

 

季節運行のバスは、運行期間が限定されている上に、日程を調整しているうちに廃止されてしまうことがあって、なかなか扱いにくい。

運行期間が終了しても、また来年に乗ればいいさ、と高をくくっていると、定期高速バスのような予告がないまま、

 

「おや?今年は運行されないのか」

 

と、不意を衝かれてしまう羽目に陥るから、実に始末が悪い。

 

 

愛媛県の西部地域は何度か訪れたことがあり、大阪と宇和島を結ぶ高速バスに乗車したこともあり、東京から宇和島まで1本のバスで行けるようになったことは大変に喜ばしく、そのうちに定期化されればいいのに、と楽しみにしていたので、まさか廃止されるとは思ってもみなかった。

 

数日の日程を捻出できなかった自分の見込みの甘さと優柔不断さに腹が立つばかりで、人生においても似たような体験が少なくないことに思いが及べば、あまりの情けなさに気が滅入ってしまう。

 

 

もう1つ、気になる路線があった。

新宿と高知県の西南部に位置する宿毛を結ぶ夜行高速バス「しまんとエクスプレス」号で、平成19年7月以来、小田急バスと高知西南交通が運行している。

運行距離911kmは、現存する帰省バスの中で最長と思われる。

 

宇和島よりも奥まった宿毛の方が僻遠の地であるかのように思っていたのだが、大宮-宇和島線より運行距離が短いのは、首都圏側で大宮や横浜を経由していないためかもしれない。

「しまんとエクスプレス」号は新宿を出れば、右顧左眄せず、真っ直ぐ四国を目指す。

 

無性にこの路線に乗りたくなったのは平成28年のことで、その年の運行日程は、8月5日~8月18日と12月26日~1月6日と発表されていた。

大宮-宇和島線よりも絞られた期間であり、それだけ帰省バスの名に相応しいとも言えるのだが、大宮-宇和島線の前年限りの運休に焦っていた僕は、とんでもないウルトラCの行程を捻り出した。

信州への帰省の往路を利用しようというのである。

 

 

内田百閒が著した「阿房列車」に、 以下のような印象深い一節がある。

 

『その当時、陸軍教授を拝命し、陸軍士官学校の教官であった。

季節はよく覚えていないが、多分早春であったかと思う。

つまり年度末だったのだろう。

出張を命ぜられる事になって、行く先も多少はこちらの希望が叶えられたので、私は京都へ行きたいと思った。

京都には同志社大学の先生に友人がいたからである。

ところが発令になって見ると、私の出張先は仙台である。

甚だ気に入らないが、そうと決まった以上、後から文句を言っても仕様がない。

しかし、どうせ何日かのお暇を貰って東京を離れるなら京都へ行きたい。

京都へ行きたいが、仙台へ行きたくないと云うのではない。

仙台へ行ってもいい。

まだ若かったから、知らない所へ行って見る興味はあった。

そこで私は考えて、こう云う事に決めた。

命に従い、仙台へ出張する。

その出張の途次、京都へ立ち寄って来よう。

京都へ立ち寄るのは出張の途中でなければいけない。

仙台からいったん東京へ帰って、更めて京都へ行くのでは、出張の途次と云う意味が成り立たない。

仙台から京都へ廻って、東京へ帰る。

東京へ帰るのは1ぺんだけにする事が必要である。

それで鉄道地図を按じて、道順を研究した。

仙台から常磐線で平へ出る。

平から磐越東線で郡山に出て、磐越西線を通って、新潟へ行く。

新潟から北陸本線へ廻って、富山、金沢、敦賀を通り、米原に出て京都へ行く。

大変な廻り道の様だが、仙台から東京に帰り、東海道線で京都へ行くよりは、この道順の方が当時の里程の計算で20哩程近い事を知った。

だから、その方から考えても、仙台に出張した途中、京都へ寄って来るという考え方が成立する。

 

(中略)

 

右の道順で京都へ行くとしても、もっと倹約することは出来た。

常磐線の平なぞへ行かないで、東北本線の郡山から磐越西線に乗る事にすればいい。

仙台から平へ出て郡山へ行くのは三角形の2辺であり、すぐに郡山へ行けば、その1辺ですむ。

従って距離もそれだけ縮まり、さっき挙げた20哩という数字がもっと多くなる。

それを知っていながら平へ出たのは、1日の内に、太平洋岸の平から、日本海岸の新潟へ出て見たかったのと、もう1つには、その少し前に開通した磐越東線という新線路を通りたかったからである。

阿房列車の病根は、何十年も前から兆していた事を自認する。(雪中新潟阿房列車)』 

 

要は行きたい地域や乗ってみたい線路があれば何でもありということか、と苦笑してしまう。

僕も帰省で別の地域に寄り道したことはあったものの、せいぜい関東甲信越や関西、山陰程度にとどまり、「しまんとエクスプレス」号に乗りたいばかりに、わざわざ1000kmも離れた四国の西岸まで帰省の経路に含めるならば、百閒先生を笑う資格はない。

 

 

時刻表をめくって調べてみると、「しまんとエクスプレス」号を宿毛駅で降り、同駅を9時05分発の特急列車「南風」12号で折り返せば、瀬戸大橋を渡って岡山に13時40分着、13時49分発「のぞみ」28号で名古屋15時30分着、16時ちょうどに発車する特急「しなの」19号に乗り換えて、長野に18時58分に到着することが確認できた。

 

さっそく実行に移したのだが、往路は小まめなトイレ休憩で断眠になったものの、久しぶりに遠くまでバス旅をしている実感が楽しかった。

ただ、バスは掛け値なしに満席で、中村や宿毛に何の関係もない人間が、帰省バスの貴重な1席を占拠したことが、若干、後ろめたかった。

 

復路は距離にして935.7km、10時間近くを費やすので、車中では大いに退屈して身を持て余しながらも、大歩危・小歩危、瀬戸大橋、木曽谷と寝覚ノ床、日本三大車窓に数えられる姨捨からの善光寺平の眺望など、多くの景勝地を通る行程が嬉しくないはずがない。

故郷に着く時間も、帰省として誠に程良い頃合いで、つい先程東京を出て来たばかりです、という涼しい顔で長野駅に降り立った。

長野新幹線ではなく、「しなの」から降りてきたところを知人に見られれば、少しばかり言い訳に困ったであろうが、壮途の前には些細な事柄である。

 

何よりも、帰省バスで信州に帰った、と言えるようになった実績が、最大の収穫である。

何処に向かう帰省バスであったのかを追求されなければ、の話であるが。

遠くまで出かける日程がなかなか確保できない身としては、帰省は、得がたい旅の機会であり、東京を1日早く出ることで四国の西の端まで行って帰って来られるのだから、日本も狭くなったものだ、と感心した。

 

 

話が脱線しすぎた。

僕がファンであるSF作家小松左京ならば「閑話休題」と書き、「あだしごとはさておきつ」とルビを振るところである。

 

僕の遠回りの帰省の話でなく、時計の針を戻して、父の帰省について書かせていただきたい。

父は信州飯田に生まれ、太平洋戦争の学徒動員による出征を挟んで、金沢大学に進学した。

出征中に結核で片肺になったことが遠因となって、父が急死したのは、僕が大学浪人中のことであった。

 

直後に訪ねた飯田の実家の親戚から、

 

「あんたの親父さんはなあ、金沢の大学へ行ってからも、先生が驚くくらい、身をすり減らして勉強したみたいだで。だけどなあ、何かと暇を作って、マメに飯田へ帰ってきたもんだった。飯田から鈍行で何時間もかけて松本に出てなあ、急行『白馬』ってのが松本から金沢まで走っていたから、それに乗ったらしいで」

 

と聞かされた話が、いつまでも頭から離れなかった。

若かりし父が帰省した道程をたどってみたい、と思った。
 

 

僕は、高村光太郎の「道程」が好きである。

小学校では、教科書に載っていた「道程」を音読させられたし、長野の実家の僕の部屋には、詩文を刻んだ木彫りが架けられていた。

 

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出來る

ああ、自然よ

父よ

僕を一人立ちにさせた廣大な父よ

僕から目を離さないで守る事をせよ

常に父の氣魄を僕に充たせよ

この遠い道程のため

この遠い道程のため

 

父を亡くしてから、僕は、事あるごとに、この詩を思い浮かべるようになっていた。

 

 

父の帰省の道程をたどるのにぴったりの高速バスが、7年前に登場していた。

平成11年に開業した特急バス松本-金沢線は、冬季を除く4月から11月までの季節運行だったが、信州と金沢を行き来する唯一のバスだった。

 

年に2回発行される交通新聞社の「高速バス時刻表」には、夏・秋号だけに時刻表が掲載され、冬・春号は空欄になっているのが常だった。

帰省バスをはじめとする季節運行のバスの常であるが、毎年、今年は運行されるのか、と心配していたので、早いところ乗っておかねば、と焦燥に駆られた。

 

翌年の平成19年が最後の運行になったので、ここで思い立って良かったのである。

 

 

平成18年の秋、前日に長野市の実家の母を訪ね、快速「みすず」で飯田入りした。

 

長野を15時15分に発車し、16時29分発の松本駅まで各駅に停車、南松本と広丘、川岸だけは通過して、辰野を17時26分に発車する。

飯田線内では、17時37分発の伊那松島、17時42分発の北殿、17時50分発の伊那北、17時52分発の伊那市、18時02分発の宮田、18時10分発の駒ケ根、18時14分発の伊那福岡、18時22分発の飯島、18時31分発の七久保、18時40分発の上片桐、18時47分発の伊那大島、18時55分発の市田、18時59分発の元善光寺、と主要駅に停車して、終点の飯田には19時05分、4時間弱の長い汽車旅である。

 

伊那谷の北端の辰野駅から愛知県の豊橋駅まで、天竜川に沿って敷かれている飯田線は、2~3kmおきに細かく駅が設けられ、地形に逆らわないよう曲がりくねって建設された私鉄時代の線形が、ほぼ手つかずのまま残されている。

辰野-飯田間の36駅のうち、15駅だけに停車するのだから、快速には違いないが、1日3往復の「みすず」のうち、1本は飯田線内を全ての駅に停車するのだが、所要時間は4時間ちょっと、僕が乗った列車と殆んど変わらず、幾ら駅を通過しようが速度を上げられないことが歴然としている。

飯田線の線形が、如何に高速運転向きでないのかが分かろうと言うものだ。

 

父が乗った時代と、全く変わっていないのであろうし、父も忍耐の時間を過ごしたのだろうな、と思う。

 

 

父の実家に1泊した僕は、飯田バスセンターを12時20分に発車する松本行き「みすずハイウェイバス」に乗った。

少し早めて貰った昼食の膳を囲みながら、

 

「東京へ帰るんか?」

 

と、何度も聞かれた。

もっとゆっくりして遅い便にしなさいよ、と言いたげな叔父や叔母に、これから金沢にいる弟に会いに行く、と話した。

飯田線と大糸線で行くのか、いや、高速バスで名古屋に出て特急列車に乗り継ぐ方が早いか、などとあれこれ心配されて、改めて飯田と金沢の遠さを認識した。

松本から金沢までバスが走っていることを説明すると、叔母は目を丸くしていたが、役所勤めだった叔父は、

 

「ああ、安房トンネルか」

 

と察したようだった。

 

 

天竜川の河岸段丘に発達した飯田市街は、木曽山脈から流れ落ちる支流に深く刻まれて、起伏の激しい地形が特徴的である。

幼い頃に父の運転する車で何度も行き来した、見覚えのある街の佇まいを車窓から見遣りながら、込み上げる懐かしさに胸が熱くなった。

 

中央自動車道の飯田ICは、そのような傾斜地の中腹に設けられているので、一面に広がるリンゴ畑の向こうに、赤石山脈を背景にした市街地が一望できた。
 

 

中央道は、木曽山脈の山麓を北上していく。

右手にきらめく天竜川に沿って、山あいに広がる伊那谷を見下ろしながらの、快適な高速走行が続く。

 

飯田線が、飯田と松本の間で2時間半を要するため、忍耐を要するローカル線であることは、前日に快速「みすず」で体験済みである。

「みすずハイウェイバス」ならば、わずか2時間足らずで走破してしまう。

これでは、父の道程を偲ぶとは言えないかな、と苦笑せざるを得ないが、文明の発達であるからやむを得ない。

 

一方で、高速バスは、市街地から遠く離れた高速道路のバスストップだけに停車するので、家の近所から乗りたい場合は鉄道が便利である。

快速「みすず」は、各集落に小まめに駅が設けられている飯田線の特徴を生かして、途中駅からの利用者を拾い上げるべく、停車駅を増やしているのだろう。

 

 

時刻表通りの14時15分に到着した松本バスターミナルで、僕は、14時40分発の金沢行き特急バスに乗り継いだ。

 

運行区間だけを取り上げれば、松本駅から大糸線を経由して金沢駅まで、およそ5時間をかけて走っていた急行列車「白馬」を彷彿とさせる。

急行「白馬」が運転されていたのは、昭和46年から同57年にかけてのことで、父の学生時代と時期がずれているけれど、父が、金沢と飯田の往復に大糸線を使っていたのは確からしい。

 

当時の飯田は、現在のように高速道路が通じていなかったので、金沢行きの列車が出る松本に出るにも、同じく名古屋にしても、大変な苦労だったに違いない。

学生だった父は、故郷を行き来する長い車中を、どのような思いで過ごしていたのだろう。

 
 
特急バス松本-金沢線は、父の時代のように大糸線を北上するのではなく、飛騨山脈を東西に貫く中部縦貫自動車道を経由して、岐阜・富山県に抜ける。

所要時間は、「白馬」より1時間ほど短かく、4時間であった。

 

座席も往年の急行列車の固いボックス席ではなく、座り心地の良いリクライニングシートであるから、父が知れば、関係ない、と言われそうな、新しく開かれた道なのである。

 

 

金沢行きの特急バスは、松本市街を抜け、刈り入れが済んだりんご畑や水田が広がる安曇野を、国道158号線・野麦街道で西へ向かう。

道路の脇に鄙びた線路が敷かれ、2両編成の松本電鉄の電車がのんびりと行き交う。

正面に屏風のように立ちはだかる飛弾山脈に向かって、バスは、ひたすら走り込んでいく。

 

松本電鉄線の終点である新島々駅を過ぎると、そこで平地は尽きる。

陽ざしが山に遮られて、晩秋らしい暗がりが車窓を覆い始めた。

 

国道158号線は、梓川が削る峡谷に沿って、切り立った山々の合間を行く崖っぷちを行く。

中部縦貫道路は、長野県側で全くの手付かずである。

ダムが川を堰き止めた人造湖の畔で、すれ違いにも苦労するような狭いトンネルや洞門が断続する。

意外と交通量が多く、こちらの図体も大きいので、バスやトラックがこちらの窓すれすれに離合する時は、思わず手に汗を握る。

 

 

沢渡まで登ってくれば、梓川は、白砂の河原の中を流れる優しいせせらぎだった。

色褪せた紅葉が残る木立ちと相まって、心が和む。

上高地へ向かうならば誰もが通る道で、高原の雰囲気が心地よい車窓であるが、まさか高山や北陸に通じる主要道路になるとは思いも寄らなかった。

 

釜トンネルの入口にある三差路で左に舵を切ると、見上げれば首が痛くなるほどの急傾斜の山肌を、バスはエンジンを轟かせながら登り始めた。

安房峠を越える九十九折りの坂道の途中に、突如として、近代的なトンネルが口を開けていた。

平成9年12月に開通した中部縦貫道の安房トンネルである。

 

地質調査から33年、着工から18年の歳月を経て貫通した、北アルプスを貫く全長4370mのトンネルだ。

焼岳火山群の活火山であるアカンダナ山の高温帯をくり抜くために、大変な難工事となり。

平成7年2月11日の火山性ガスを含む水蒸気爆発では、作業員4人が犠牲となった。

 

そのような悲劇の歴史を顧みる暇もなく、特急バスは、わずか5分で岐阜県に抜けてしまう。

 

 

巨大で冷酷な自然に対して、日本人は、真っ向から挑んだ。

この山国に生まれた人々は、どこへ行くにも、立ちはだかる山々を、歯を食いしばりながら越えていかなければならなかった。

戦後70年、日本人は、本当に頑張ってきたと思う。

父の人生も、戦前、戦時中、そして戦後に渡る激動の昭和を、息を詰めて走りっぱなしだったのだろう。

 

暮れなずむ杉林の間を抜ける国道471号線と国道41号線で、黄昏の砺波平野に向けて下っていきながら、僕は、父の生き様に接することが出来たように感じていた。

 

 

1人旅をするようになってから、僕は何度も飯田と金沢に出かけた。

もちろん、2つの街を発着する高速バス路線に乗りたかったと言う動機はある。

それだけでなく、父の考えや生き方を理解したい、という思いが、父の故郷と青春の地に繰り返し導いたのだろう。

 

高村光太郎の「道程」は、よく知られている9行詩より前に、102行に及ぶ詩が発表され、より詳しく父親に触れた一節がある。

ここを読むと、「道程」とは、題名から推察される人生の歩みよりも、父親の存在について重きを置いた詩のように思われる。

 

僕は心を集めて父の胸にふれた

すると

僕の足はひとりでに動き出した

不思議に僕は或る自憑の境を得た

僕はどう行かうとも思はない

どの道をとらうとも思はない

僕の前には廣漠とした岩疊な一面の風景がひろがつてゐる

その間に花が咲き水が流れてゐる

石があり絕壁がある

それがみないきいきとしてゐる

僕はただあの不思議な自憑の督促のままに步いてゆく

しかし四方は氣味の惡い程靜かだ

恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある

寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ

僕は其の時又父にいのる

父は其の風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ步いてゆく人間を僕に見せてくれる

同屬を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ

聲をあげて祝福を傳へる

そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ

 

長い詩の最後は、9行詩に似た一節で締めくくられる。

 

ああ、父よ

僕を一人立ちにさせた父よ

僕から目を離さないで守る事をせよ

常に父の氣魄を僕に充たせよ

この遠い道程のため

 

この日、飯田から金沢に向かった僕の胸中を言い表しているように思えてならなかった。

 

 

松本発金沢行き特急バスの最後の1時間は、北陸自動車道の富山ICから金沢東ICまでの、見違えるような高速走行だった。

金沢駅の到着時刻は18時40分、弟と落ち合って夕食を摂るには程よい頃合いであった。

 

バスは、滑るように、闇をついて走り続ける。

星のように散りばめられた家々の灯が、墨を塗り潰したような窓外を流れてゆく。

 

夜の車窓を眺めながら、僕は、はっきりと確信していた。

父が死んでからの22年間も、僕は、間違いなく父に支えられ、父とともに歩んで来たのだ。

そして、これからも──。

 

特急バス松本-金沢線に乗って、僕は、久しぶりに父と語り合い、人生を歩き続ける勇気を授かったのである。

 

 

 

 

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