蒼き山なみを越えて 第55章 平成18年 リムジンバス長野-中部国際空港線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

年末に「中央道特急バス」名古屋-長野線で帰省した僕は、平成18年の正月が明けると、13時05分に長野駅を発車する中部国際空港行きのリムジンバスに乗り込んだ。

 

ちらちらと粉雪が舞う長野駅前乗り場では、新宿行きの高速バスが最も賑わっていて、ほぼ満席の乗客を乗せて発車して行くのと入れ替わりに、飯田からの「みすずハイウェイバス」が到着し、続いて松本行きの高速バスが横づけされる。

正月のUターンラッシュが始まっているのだろう、通りの向かいの駅舎に吸い込まれていく人の姿も多く、高速バス乗り場も負けず劣らず忙しい。

 

 

ところが、飛翔する航空機の写真を纏い、「長野駅⇆中部国際空港 4時間45分 4,000円」と大書されたバスに乗り込んだのは、僅かに数人であった。

 

思い思いに散らばって席を占めた乗客をそれとなく観察しながら、この中で飛行機に乗らないのは僕だけだろうな、と少しばかり肩身が狭い。

乗車する際にも、他の客は大きなトランクなどを運転手に預けていたが、身軽な僕だけは、改札を受けてそのまま車内に入った。

こいつ、飛行機に乗らないつもりか、と運転手が怪訝な表情を浮かべたような気がしないでもない。

 

 

小牧にある名古屋空港が市街地に近く、空港容量が限界に達しているにも関わらず拡張が困難であり、騒音対策として離着陸可能時間が制約されていることから、成田空港、関西空港に続く国際拠点空港として、平成17年2月に中部国際空港が開港したばかりであった。

常滑市の1.5km沖の伊勢湾の一部を埋め立てて人工島を造成し、24時間運用可能な長さ3500mの滑走路を有している。

 

国際線・国内線双方が乗り入れる空港として、経済的な発展が著しい中京圏各地からのアクセスが整えられ、名鉄空港線を経由して名鉄名古屋駅、犬山駅、名鉄岐阜駅などへ直通運転が行われているが、僕が瞠目したのは空港リムジンバスの運行範囲であった。

愛知県内各地や近隣の岐阜、三重、静岡ばかりでなく、京都や福井、そして長野県内各地からのリムジンバスが一斉に開業したのである。

 

特に、長野県は、駒ケ根・伊那、諏訪・岡谷、松本、長野と、ほぼ全域から中部国際空港に直通する路線が、開港と同時に走り始めている。

 

 
南信に住む人々は、これまでも、羽田空港や成田空港よりも近くの名古屋空港を利用することが少なくなかった。

平成6年に発生した名古屋空港での中華航空140便A300型旅客機の墜落事故は、我が国で日本航空123便墜落事故に次ぐ乗員乗客264人が死亡し、うち153人が日本人で、パッケージツアーを利用した飯田市の団体客25人をはじめとする信州人が少なくなかったと聞く。

事故の直後に飯田の父の実家を訪れると、誰それが中華航空機事故の犠牲になった、などという話が交わされていたことを思い出す。

 

ただし、南信地区は、箕輪を起終点として、伊那、駒ケ根を経由して中部国際空港を行き来する1日1往復のリムジンバスが運行しているものの、飯田を結ぶリムジンバスが開設されなかったのは、どうしたことであろうか。

 

 

定刻に長野駅前を発車したリムジンバスは、雲が低く垂れ込めて、昼下がりと言うのに、黄昏時のような空の下を走り始めた。

長野に帰ってきた数日前に比べて、歩道に積まれた雪の嵩は低くなっていたものの、寒さが一層厳しくなっていたことを思い出した。

空調が効いた車内の温もりがありがたい。

 

長野ICから上信越自動車道、更埴JCTで長野自動車道へと歩を進め、姨捨SA付近で見下ろした善光寺平の景観も、いつにも増して陰鬱である。

故郷は雪国なのだな、と改めて思う。

 

 

途中の停留所がないので、車内の席を占める乗客は、長野駅で乗車した数人だけで、これでは運転手も張り合いがないだろう。

長野市の人間が中部国際空港を使うものだろうか、という疑問が、このリムジンバスの開業を耳にした時から頭を離れなかったのは確かで、松本、諏訪についても同様だった。

 

信州から羽田空港や成田空港へ直行するリムジンバスが運行されていないので、中部国際空港へ乗り換えなしという利便性は勝るものの、長野、松本、諏訪ともに東京への交通機関が極めて便利であり、羽田も成田も、東京駅や新宿駅を発着するリムジンバスや「成田エクスプレス」を使えば、1回の乗り継ぎで行ける。

国内線にしても国際線にしても、中部国際空港を発着する航空路線が幾ら多いと言えども、羽田や成田に敵うべくもない。

 

長野市と中部国際空港を結ぶリムジンバスの使い方としては、話題性が豊富な新空港を発着する航空路線を1回は利用してみようか、という一過性の需要や、空港の見学くらいしか思い浮かばないし、もしくは名鉄空港線に乗り換えて名古屋周辺へ安く行けると言う利点くらいであろうか。

現実に、長野-中部国際空港線は、平成20年11月に廃止されたのである。

それどころか、長野県内各地を発着する中部国際空港リムジンバスは、時期のずれこそあれ、全てが姿を消してしまった。

 

信州から中部国際空港に行けなくなった訳ではなく、名古屋駅から名鉄の空港連絡特急電車もリムジンバスもあるのだが、信州で初となる国際空港へのリムジンバスであっただけに、残念だった。

 

 

バスが岡谷JCTで長野道から中央自動車道に入り、伊那谷を縦断して恵那山トンネルをくぐっても、暗い冬空に変わりはなかった。

 

中部国際空港行きリムジンバスの見せ場は、ここからだった。

土岐JCTで減速し、おや、と首を傾げる暇もなく、あれよあれよと言う間に、バスは東海環状自動車道に針路を変えたのである。

 

この道路は、名古屋市の中心部から30~40km圏を結ぶ環状道路で、豊田から瀬戸、土岐、可児、美濃加茂、関、岐阜、大垣、四日市などの都市を連絡し、東名高速、新東名高速、中央道、東海北陸自動車道、名神高速、新名神高速道路を連絡するために計画された。

最初に竣工した区間として、伊勢湾岸道路の豊田東JCTと、東海北陸道の美濃関JCTの間が開通したのは、中部国際空港が完成した1ヶ月後の平成17年3月である。

信州各地からのリムジンバスは、東海環状道が完成する前の1ヶ月間を、中央道から小牧JCTで乗り換える東名高速を使っていたのだろうか。

 

東海環状道の土岐市域は山の中だが、隣りの瀬戸市に入れば、濃尾平野が開けるのだろう、と思っていた。

瀬戸、とは海に関連した地名である場合が多いが、瀬の開ける場所、すなわち川が平野部に出て来る場所を意味しているという。

ところが、尾張丘陵に開けた瀬戸市街に背を向けるように、東海環状道は山中ばかりを選びながら東へ膨らみ、豊田東JCTで伊勢湾岸自動車道へ歩を進める。

 

 
今でこそ、豊田東JCTから東に進む新東名高速道路が通じているが、当時は全くの未完成だった。
豊田東JCT-浜松いなさJCT間が開通し、平成24年から開通していた浜松いなさJCT-御殿場JCT間と繋がったのは、この旅から10年後の平成28年である。

そのため、長野-中部国際空港線の車窓から豊田東の標識を目にしても、僕はジャンクションとは気づかなかった。

濃尾平野に飛び出した先にある豊田JCTは、東名高速と交差するので、一目でそれと分かる。

 

伊勢湾岸道は、これまでの山がちな地形と打って変わって、広大な平野部をのんびりと貫いている。

見渡す限りの田園に、集落が点在するばかりであるから、バスの速度まで落ちたように感じてしまう。

これまで陰々と暗かった冬空ですら、ここでは明るく感じられる。

濃尾平野とは豊かな土地なのだな、と羨ましくなった。

 

遠くに建物が密集する市街地も見えるが、決して近づいてくることはなく、高速道路が注意深く人口密集地を避けて造られていることが明らかである。

 

 

平成10年に名古屋南IC-名港中央IC間が開通して以来、細切れに部分開通を繰り返してきた伊勢湾岸道が、豊田東JCT-豊田東IC間を最後に全線開通したのが平成17年3月であった。

真新しい道路に相応しく、舗装も極めて良好で、バスが全く揺れなくなったことも、速度が鈍ったように錯覚した一因であろう。

 

東海環状道に入ってから、僕は、自分が走っている場所が把握できなくなっていて、大府西JCTで知多半島道路に分岐するあたりから、ますます混乱した。

瀬戸、豊田、刈谷、大府、半田と、標識に書かれている地名は鉄道駅にも使われているから馴染みなのだが、広大な濃尾平野のどのあたりであるのかが、全く頭に入っていないのである。

 

後日、地図で追ってみると、東海環状道、伊勢湾岸道、知多半島道路をたどる道筋は、案外ジグザグになっており、少なくとも最短経路ではない。

中央道を小牧JCTまで走り通し、名古屋高速11号線、1号線、3号線と都心を縦断して知多半島道路に入っても良かったのではないかと思う程である。

 

それでも、この区間でバスから眺めた濃尾平野の広さと豊かさは、充分に実感できた。

信州から中部国際空港へのリムジンバスが全廃された現在では、二度とこの経路を走ることはないだろうと思えば、このバス旅が、無性に懐かしく感じられる。

 

 

半田中央JCTで知多横断道路に舵を切って、りんくうICで伊勢湾に突き当たると、前方に長さ1414mのセントレア大橋が目に入った。

沖合に横長に続く陸地が中部国際空港か、と身を乗り出した。

 

セントレアとは、中部地方を意味するcentralと、空港を意味するairportを組み合わせた和製の造語である。

人工島に渡り、管制塔をはじめとする空港施設が間近に見えれば、まもなく空港ターミナルだった。

せっかく新しい空港に来たのだから、見学したり、買い物をしたいものだ、などと思わないでもなかったが、僕は空港ビルを足早に移動して、名鉄の2000系特急電車「ミュースカイ」で名古屋に向かった。

 

 

「ミュースカイ」はなかなか混み合っていて、皆が空の旅をしてきたのかと思えば、羨ましいような、そのような経験をしないで済むのがありがたく感じるような、複雑な気分になった。

空港連絡特急なのだから航空機利用者ばかりなのは当たり前のことで、逆に、空港まで来て飛行機を利用していない僕がヘンなのである。

 

飛行機に乗るのは嫌いではないけれども、離陸前の念入りな非常設備の案内をはじめ、飛行機のシステムは、墜落に備えるという思想が全てを支配しているような気がする。

他の交通機関には見られない、考えてみれば、異常な旅と言えないこともない。

航空機に乗る時に、多少なりとも死を意識するのは僕だけなのだろうかと思うことがある。

他の交通機関に比べて、事故率が圧倒的に低いということは、充分、理解している。

ただし、どれだけ低い確率であろうとも、事故が起きれば人生を寸断される可能性が少なくない。

死を考えることは、イコール人生を考えることである。

昭和60年の日本航空123便の事故で、家族に宛ててメモを遺した人々のことが忘れられない。

 

『本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している』

 

このような言葉を躊躇なく書ける人生を、僕は送っているだろうか。

 

 

名鉄空港線の中部国際空港鉄道連絡橋は、道路橋と並行しているものの別の橋梁で、我が国で海を渡る鉄橋は、ここと備讃瀬戸大橋、関西空港連絡橋の3本だけである。

常滑駅から神宮前駅までの名鉄常滑線も含めて初乗りであったが、中部国際空港から名鉄名古屋駅まで28分しか掛からず、あっという間だった。

 

年末の帰省の途上、僕は、計画よりも1本早い長野行き「中央道特急バス」の始発便に乗りたくなって、JR名古屋駅の新幹線ホームから、名鉄名古屋駅の上にある名鉄バスセンターまで駆け足をしている。

結局は間に合わず、車掌が乗務する列車に乗り遅れることを意味する「尾灯オーライ」という言葉を思い浮かべて、悔しさを紛らわしたものだった。

 

 

長野からの帰路で、再び名古屋に足跡を記したのも余計な道草であるが、あろうことか、僕は更に東京に背を向けて、近鉄「名阪特急」で名古屋-難波間178.8kmを乗り通そうと決めていた。

 

名古屋と大阪を結ぶ近畿日本鉄道の規模の大きさに、僕は、鉄道ファンになった子供の頃から瞠目していた。

私鉄とは国鉄線に付随するように地方都市を結ぶものと思い込んでいた僕にとって、日本の民鉄で最長の501.1kmに及ぶ路線網を、近畿地方と中部地方の2府3県に跨がって展開し、時刻表巻末の会社線欄を何ページも占拠している近鉄は、常に驚きの対象であった。

 

 

昭和34年12月に、名古屋駅と鶴橋駅の間でノンストップの「名阪特急」が直通運転を開始した時、その所要時間は2時間10分だった。

151系特急電車「こだま」を投入して、名古屋と大阪の間を2時間30分前後で結んでいた国鉄を、価格、速度、居住性で凌駕していたことから、名阪間のシェアは、近鉄が69.4%を占める圧倒的な競争力を誇示したのである。

 

ところが、昭和39年に東海道新幹線が開通し、名阪間が1時間余りで結ばれると、さすがの近鉄「名阪特急」も勝負にならず、シェアは昭和40年に33%、翌年には19%まで下落する。

「名阪特急」も、ノンストップの「甲特急」より、途中停車駅を設けた「乙特急」の区間利用者数が多くなったという。

 

 

近鉄特急と言えば、2階建て車両を連結した「ビスタカー」が代名詞であるけれど、乗降に時間が掛かるため、伊勢・志摩など観光地向けに運用されるようになって、「名阪特急」には、平床の車両を2両で基本編成とした12000系「スナックカー」や、3両が基本編成の14000系「サニーカー」が主体となる。

4両から8両程度の利用客が見られた「名阪乙特急」に比べると、「名阪甲特急」は2両でも空席が目立つ有様だった、と言われているどん底の時代もあったと聞く。

 

昭和50~60年代における国鉄の相次ぐ値上げによって、「名阪甲特急」の低迷が底を打った頃に、僕は、たびたび「名阪特急」を利用するようになったが、いつも「スナックカー」や「サニーカー」ばかりで、俊足であったものの、何となく物足りなかった。

 

 

21000系「アーバンライナー」が「名阪甲特急」に投入されたのは、昭和63年のことである。

それまでの近鉄特急とは一線を画した流麗な外観に心を惹かれたが、なかなか乗る機会に恵まれなかった。

登場から20年近くも経っているけれども、今回の旅は、「アーバンライナー」に乗る1つの機会であった。

 

名鉄名古屋駅に隣接する近鉄名古屋駅に歩を運べば、18時30分発の「名阪乙特急」にも間に合う時間であったが、僕は、悠然と19時00分発の「アーバンライナー」の座席指定券を購入した。

地下ホームで「アーバンライナー」を目にした時は、胸の高鳴りを抑えるのが難しかった。

 

ブザーが鳴って、定刻にするすると走り出した「アーバンライナー」は、案外に軽やかな出足だな、という印象だった。

2~3両編成で運転されてばかりだった「スナックカー」や「サニーカー」時代の「名阪特急」は、まるで通勤電車のような身軽さで、名古屋から大阪まで走り抜く看板特急の威風を感じ取るのは難しかった。

「アーバンライナー」は6両編成でありながら、全車両に電動機が備えられているため、近鉄の従来の特急用車両に比して4割増しの出力となっている。

最高速度は時速130km、青山峠における30‰の勾配でも時速110kmで走れるそうである。

 

 

一抹の寂しさを拭い切れないのは、2階建て車両が組み込まれなかったことであろうか。

登場の際にがっかりした記憶があるし、僕が長いこと「アーバンライナー」に乗らなかったのは、ひとえに2階建て車両がなかったから、とも言える。

 

ただし、一般の乗客の反応は僕のような鉄道ファンとは違ったようで、近鉄が新型特急の開発を前に市場調査を行った結果、「名阪特急」は1人で利用するビジネス客が多数を占め、グループ利用が多い観光列車と全く異なる性質であり、限られた車両限界で無理矢理詰め込まれる2階席よりも、居住空間が広くなる平床車両の座席に座りたい、という要望が多数を占めていることが判明したと言う。

 

幾ら馬力があっても、新幹線より遅いのは間違いないけれど、「アーバンライナー」のきびきびとした走りはなかなか爽快だった。

何よりも、前後のシートピッチが、980mmだった「スナックカー」や「サニーカー」よりも広い1050㎜である。

2階建てではなくても、やっぱり近鉄はいいぞ、と嬉しくなる。

 

 

思い起こせば、近鉄に初めて乗車したのは、小学5年生の時に、家族で奈良に旅行した時だった。

事前に旅行会社で切符を購入してきた母は、

 

「京都から奈良までは近鉄がいいって勧められたんだよ」

 

と言っていた。

長野から名古屋までの特急「しなの」と、名古屋から京都への新幹線は国鉄なのに、国鉄奈良線を使わず私鉄が第1選択肢になるとは、不思議に感じた記憶がある。

関西の交通事情に疎かった僕が、近鉄の底力に初めて触れた瞬間だったと言えるだろう。

 

鉄道ファンと言っても気軽に出掛けることなど叶わない幼少期に、大手私鉄を利用した経験は、家族旅行における近鉄「京奈特急」と、浅草と日光を結ぶ東武鉄道の特急「けごん」だけであったが、どちらも豪華な居住性に感動して、大手の私鉄特急は凄いぞ、という驚嘆の念が心に刻み込まれた。

 

同社の看板列車である、名古屋と大阪を結ぶ「名阪特急」の片鱗に触れたのは、高校の修学旅行である。

信州から名古屋に出て、室生口大野駅で下車し、室生寺を見学するという行程に、名古屋から近鉄に乗れるとは、学校も粋な経路を選択するではないか、と小躍りした。

乗車したのは特急用の「スナックカー」であったが、「名阪特急」は室生口大野駅に停車しないので、修学旅行用に仕立てた貸切列車だったのだろう。

 

 

「アーバンライナー」が地下の近鉄名古屋駅を出ると、短い冬の日はすっかり暮れていた。

 

近鉄名古屋線が走る名古屋駅の西側一帯は、笹島をはじめとする中村区の下町で、家々の灯の密度は決して高くないように見えた。

「名阪特急」の楽しみは、東海道新幹線や東海道本線、名神高速とは異なる経路の車窓であるけれども、残念ながら景色を楽しめる頃合いではなく、走行音に耳を傾け、走り方を体感するしかない車中となった。

 

「アーバンライナー」は、轟々と鉄橋を鳴らしながら木曽川、長良川、揖斐川を渡り、伊勢湾岸の輪中地帯を通り抜けると、布引山地に挑んでいく。

駅間距離が短く、煌々と浮かび上がる通過駅の照明ばかりが、光の矢のように次々と窓外を過ぎ去っていく。

 

伊勢中川駅で名古屋線から大阪線に入り、暗い車窓の向こうに黒々と山塊が迫りくるのが感じられれば、前方に標高512mの青山峠が立ち塞がる。

昭和5年に開通した全長3432mの青山トンネルの前後は、地滑りが起きやすい地盤で、近鉄大阪線で唯一の単線区間であった。

昭和46年に、青山トンネルと隣接する総谷トンネルで多数の死傷者を出す衝突事故が発生したことから、複線の別線を新たに建設し、それまで私鉄最長だった4811mの西武秩父線正丸トンネルを凌ぐ、全長5652mの新青山トンネルが完成したのである。

このあたりは人家も少なく、電車と鹿の衝突事故が絶えないと聞いたことがある。

 

 

峠を越えて名張盆地を抜けると、「アーバンライナー」は息つく暇もなく室生山地に分け入り、間もなく奈良県との県境を越える。

東は青山高原から布引山地、南は高見山地、西は宇陀山地へと、奥深い山岳地帯の片鱗を感じさせる気配が続く。

 

曾遊の地である室生口大野駅では、左へカーブを描くホームの照明に駅名標が浮かび上がり、20年前と変わってないな、と懐かしさが込み上げてきた。

このあたりまで来れば、さすがに駅の数が減り、山襞に抱かれた素朴な集落の灯が、優しさと気品に満ち溢れているように感じられる。

 

大和は国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和し 美し

 

漆黒の闇に包まれた車窓であるけれども、倭建命の和歌に思いが至れば、緑豊かな山河が鮮やかに目に浮かぶ。

 

室生口大野駅の次は、約7kmも駅間があいている榛原駅で、このあたりから早くも大阪のベッドタウンに足を踏み入れることになる。

もう大阪都市圏なのか、と少しばかり興醒めであるが、列車は初瀬川の谷間を縫う長い下り坂で奈良盆地に降り立ち、国鉄との乗換駅である桜井を通過する。

日中であれば、三輪山や耳成山、天香具山が次々と顔を覗かせるのだが、夜の車窓を彩ったのは、近鉄橿原線と交差する大和八木駅の眩い照明であった。

 

 

住宅地が点在する田園を軽快に走り抜けた「アーバンライナー」は、大阪に出るために、金剛山地を越えなければならない。

大して険しさを感じさせることもなく、「アーバンライナー」は全長715mの新玉手山トンネルを駆け抜けて、難なく大阪平野に飛び出していく。

 

いきなり建物の密度が増え、名古屋駅近辺と似たような下町風の住宅街の夜景が広がるが、紛れもなく大阪の近郊である。

電車を待つ利用客がホームに鈴なりになっている八尾駅と布施駅を通過し、長瀬駅からは街を見下ろす高架に駆け上がる。

 

右手から寄り添ってきた近鉄奈良線との複々線区間に入ると、間もなく大阪環状線と交差する鶴橋駅で、名古屋から1時間59分に及ぶノンストップ走行が終わる。

以前に乗った「スナックカー」や「サニーカー」の「名阪甲特急」よりも5~6分速くなっており、名古屋-鶴橋間が2時間を切ったのか、と感心した。

 

乗客の大半が腰を上げ、いっぺんに車内が閑散とした「アーバンライナー」は、地下へ潜り込んで上本町駅で更に客を降ろし、21時06分着の定時運転で終点近鉄難波駅のホームに滑り込んだ。

 

 

幼少時からの様々な思い出が詰まった「名阪特急」を、新型車両で楽しんだ余韻に浸る暇もなく、僕は、脱兎の如く駅を飛び出した。

幾ら道草が好きでも、もう観念して、東京に戻らなければならない。

 

旅の最終走者として、僕は夜行高速バスの座席を押さえていた。

東京都内と大阪府内を結ぶ夜行高速バスの選択肢は、非常に豊富である。

いわゆる「ツアー高速バス」を除いた「高速乗合バス」だけでも以下の通りである。

 

東京駅-大阪駅「ドリーム大阪」

新宿駅南口-大阪駅「ニュードリーム大阪」

東京駅-なんば高速バスターミナル「ドリームなんば」

東京駅-堺東駅「ドリーム堺」

新宿駅西口高速バスターミナル-あべの橋駅・上本町駅「ツィンクル」

新宿駅西口高速バスターミナル-阪急梅田駅

池袋駅-阪急梅田駅

品川駅-阪急梅田駅

新宿駅西口高速バスターミナル-京都・枚方市駅「きょうと」

新宿駅西口高速バスターミナル-宇治・枚方市駅「宇治」

 

 

加えて、大阪を発着する首都圏衛星都市への路線の展開も著しく、

 

横浜駅東口-大阪駅「ハーバーライト大阪」

横浜駅西口-阿部野橋駅「ブルーライト」

戸塚駅・大船駅・鎌倉駅・藤沢駅-なんば高速バスターミナル

立川駅-京都・なんば高速バスターミナル

八王子駅-あべの橋駅「トレンディ」

大宮駅-あべの橋駅「サテライト」

大宮・所沢-京都・大阪・神戸駅「京阪神ドリームさいたま」

川越・熊谷-あべの橋駅「ウィングライナー」

千葉・TDL-阪急梅田駅

銚子・佐原・成田空港-なんば高速バスターミナル

宇都宮-あべの橋駅「とちの木」

水戸-あべの橋駅「よかっぺ」

前橋・高崎-難波OCAT「シルクライナー」

 

などと、きめ細かに目的地を細分化した夜行路線が、続々と登場していた。

 

 

枚挙に暇がない路線群から僕が選んだのは、寄りによって、大阪シティエアターミナルを始発とし、南海難波駅にあるなんば高速バスターミナルと京都駅を経由して、成田空港、佐原、銚子に向かう夜行高速バスであった。

道草に事欠いて、東京へ向かう路線ですらない。

 

僕は、上記に羅列した大阪と首都圏を結ぶ夜行高速バスを何本か利用したことがあり、信州との行き来と絡めて乗車したことも少なくないのだが、平成17年3月に開業した大阪-銚子線は、未乗の路線を好むファンとして、どうしても見過ごすことが出来なかった。

そもそも、成田空港や千葉県東部と大阪を往来する需要が、毎日運行するバス1台を満たすほど存在するのだろうか、と長野-中部国際空港線と同じ疑問が湧く。

 

 

いや、余計な心配をしている場合ではない。

 

携帯電話で経路案内を検索すると、近鉄難波駅からOCATまで、千日前通りを通って300m、徒歩4分と出るのだが、銚子行き夜行高速バスの発車時刻まで、10分と残されていなかった。

次の停留所である南海なんば駅階上のなんば高速バスターミナルは、450m、徒歩6分だった。

30分早い「名阪乙特急」に乗っていれば、このように情けない状況に追い込まれることもなかったのだが、「アーバンライナー」に拘った結果であるから、自業自得としか言い様がない。

 

携帯電話向けの経路検索ソフトは、平成12年に登場した「NAVITIME」をはじめとして、僕は、不馴れな土地で時間が限られている移動で重宝していた。

ナビゲーションシステムと言えば、まずはカーナビが思い浮かぶが、その始まりは、20世紀初頭の米国で、自動車用の極めて原始的な測位装置が登場したと言うのだから、驚きである。

1970年代に民生用の小型コンピュータが普及し、1980年代初頭には、ホンダがジャイロ式の慣性航法装置とも言うべきカーナビを開発、トヨタが地磁気と車速の感知装置を利用したカーナビを販売したが、1980年代後半に、米国の軍事衛星を利用した全地球測位システム(GPS)を用いたカーナビをトヨタが最初に搭載し、以後、爆発的に広がっていく。

海外でのカーナビは、軍事用や緊急車両用が主流であり、民生用のカーナビ製品の普及は、日本が最初と言われている。


ナビゲーションシステムを歩行者にも拡大し、加えて電車やバスの時刻表や、周辺店舗の検索などを組み合わせた発想は、秀逸だと思う。

 

 

ここで「尾灯オーライ」をする羽目になれば、東京に戻ることが出来なくなるから、目的地をOCATに定めて、必死で走った。

経路は「アーバンライナー」の車内で予習しておいた。

 

何の因果でここまでしなくてはならないのか、と深刻に自問しながら、息を弾ませて乗り場に駆け込んだ僕を見て、銚子行き夜行高速バスの運転手は、さぞかし訝しく感じたのではないか。

そう思いかけたものの、落ち着いて考えてみれば、僕が遥々長野から中部国際空港を経由して「アーバンライナー」に乗って来たとは、想像も及ばないことであろうから、単に、バスの発車時刻か、OCATまでの電車の経路を間違えて、ぎりぎりに飛び込んだ間抜けな客と思っただけかもしれない。

汗を拭いながらも気分が楽になって、さも銚子と大阪を行き来する用事があるかのように、平然と、横3列独立席の一角に収まった。

 

疲れが溜まっていたのか、「尾灯オーライ」せずに済んで安心したのか、すぐに眠りに落ちたのも、人の目にはまともな乗客のように映ったことだろう。

 

 

大阪発着の夜行高速バスが成田空港を経由するのに、どのような意味があるのか、と首を傾げたものだったが、この路線のおかげで、成田を早朝に離陸し、夜に着陸する航空機を、1泊せずに利用できるようになったのだという。

 

1回の旅で、中部と成田の2つの国際空港を巡ることになったのは、偶然であるけれども、なかなか面白い旅程だと思っていた。

ところが、あまりにもよく眠ったのか、成田空港も、その他の停留所も、全く記憶がない。

発車してしばらくの後に、

 

「本日は成田空港を御利用のお客様がいらっしゃらないようですので、通過致しますが、よろしいでしょうか」

 

と、交替運転手がアナウンスしたような気もする。

無論、僕は成田空港にも何の用事もないから、それでも一向に構わない。

成田空港は、中部や関西空港と比して敷居が高いので、ホッとしたのも確かである。

 

成田空港は、激しい反対運動の歴史を経て、昭和53年にようやく開港した。

地元住民と警官隊の双方に少なからず犠牲を強いた、まさに内戦とも言うべき反対運動が、開港後も継続していたため、厳しい警戒態勢が敷かれた。

我が国の空港で唯一の検問が実施され、入場者の全員に身分証明書の提示が課せられていた。

機動隊が空港内を巡回するなど、世界的にも異例の厳重警備が敷かれ、戒厳令空港と呼ばれていたのである。

 

子供の頃は、海外旅行が現在ほど一般的ではなかったので、どこか他人事であったものの、それでも反対運動の報道、特に管制塔を過激派が占拠して開港が遅れた時には、目が釘づけになったことをよく覚えている。

 

 

僕が初めて成田空港に足を踏み入れたのは、昭和58年の夏、高校3年生の夏休みだった。

 

予備校の講習を受けるために上京していた僕は、休日に、開港5年目の成田空港に行ってみようと、京成上野駅から「スカイライナー」に乗った。

成田空港駅で電車を降りると、改札のすぐ先に、空港の手荷物検査場に似た検問所が設けられていた。

びっくりしたけれど、引き返す訳にもいかず、そのまま列に加わって順番を待っていると、初老の警備員さんに呼び止められた。

 

「身分証は?」

 

高校の学生証でいいのだろうか。

 

「パスポートはないの?飛行機に乗るんじゃないの?」

 

僕はまだ1度も飛行機に乗ったことはございません、という台詞が口先まで出かけたが、慌てて飲み込みながら、僕は首を振った。

 

「じゃあ、何しに来たの?」

「えっと……け、見学です」

「ちょっと、こっち来て」

 

周りの客からジロジロ見られながら、僕は列の外に連れ出された。

もしかして、不審者として逮捕、事情聴取されてしまうのか。

親に連絡でも行こうものなら、何と言い訳すればいいのだろう。

 

「はい、キミ、これ書いて」

 

と渡されたのは、「空港見学届け」であった。

 

 

リムジンバスも例外ではなく、大学時代に東京駅からの東京空港交通バスを利用した時も、高速道路の料金所のような幅広い検問所にバスが停車すると、

 

「どうも御苦労様です」

 

と、運転手に挨拶しながら警備員が車内に上がり込み、乗客1人1人のチェックを始めた来た。

その時も、航空機利用ではなく、成田空港を出発する別のリムジンバスに乗り継ぎたいだけだったので、溜め息が出た。

 

今回は、何しに来たの、などと言われても、銚子に行くのです、と胸を張っていれば良いのであるが、昔の苦い記憶はなかなか消えるものではなく、成田空港に立ち寄るというだけで気が重かった。

成田空港の検問が全面的に廃止されたのは、この旅の9年後、平成27年3月まで待たなければならない。

 

 

僕がはっきりと目を覚ましたのは、バスが銚子市内に差し掛かった頃だった。

バスは、阪神高速環状線・11号池田線、名神・東名高速、首都高速3号渋谷線 ・都心環状線・9号深川線・湾岸線、東関東自動車道、新空港自動車道、国道356号線と、多くの高速道路を乗り換えながら夜を徹して走り込み、起きていれば、自分が住む東京都心の横断などは面白かっただろうと思うのだが、全てが夢の中に過ぎてしまった。

 

銚子駅前に降り立つと、すっかり夜が明けていて、眩しさに目を開けているのが難しかった。

空は真っ青で、黒潮踊る太平洋岸に来たのだな、と思う。

これから東京へ戻らなければならないけれども、その前に銚子電鉄に乗って犬吠埼を訪ねてみようか、それとも、駅に程近く、東京駅や浜松町駅に向かう高速バスが停車する東芝町まで歩こうか、と迷いながら、僕はしばし佇んだ。

 

高速バスを降りた客は、さっさと停留所を離れるものだろうが、いつまで経ってもぐずぐずしている僕を、運転手が不思議そうに一瞥してから、物憂げに扉を閉め、バスを発車させた。

 

 

 

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