蒼き山なみを越えて 第52章 平成17年 名古屋-上田・草津温泉スパライナー草津号 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

僕の故郷信州と、志賀高原や白根火山を隔てた草津温泉は、首都圏から様々な高速バスで結ばれている。

 

信州にも温泉は数あれど、高速バスで他県と直結しているのは、「中央道特急バス」名古屋-飯田線が立ち寄る昼神温泉くらいしか思い浮かばない。

かつて、夜行高速バス「ドリーム志賀」号の終点は湯田中だったし、一時、新宿から上山田温泉を経由して屋代に向かう高速バスもあったが、いずれも廃止されてしまった。

 

以前に目にしたことがある我が国の温泉番付で、西の横綱である道後温泉と並ぶ東の横綱に推されていただけあって、多くの湯浴み客が訪れるのだろうが、鉄道で直通することが出来ないために、直接温泉街に乗り入れる高速バスが活躍する余地があるのだろう。

 


 

筆頭は、JRバス関東が運行する「上州温泉めぐり」号である。

 

「温泉めぐり」と書いて「ゆめぐり」と読ませるこの路線は、平成11年10月の開業当初、新宿駅南口高速バスターミナルを起終点としていた。

山手通りから目白通りに折れて関越自動車道に入り、渋川伊香保ICを降りて渋川、中之条、原町などの温泉街道・国道292号線に沿う街々を結びながら、川原湯温泉、伊香保温泉、長野原草津口駅に寄る。

終点の草津温泉までの所要は4時間7分、運賃は片道3200円だった。

 
$†ごんたのつれづれ旅日記†
 
元ツアーバスとして全国に路線を展開した「キラキラ」号も、今は廃止されてしまったが、東京から軽井沢を経由して草津温泉に向かう系統を運行していた。

こちらは全席横4列シートだが、運行会社の宣伝文句は、前後のシートピッチが広いゆったり座席を謳い文句にしていた。

さぞかし、軽井沢から草津へ向かう浅間と高原の車窓が楽めたことだろう。

ただし、日によっては軽井沢止まりの日もあり、運賃が時期によって変動して2500円から3000円前後であったのは、如何にもツアーバスを運行していた事業者らしい運用である。

 

所要時間は、軽井沢を経由するので大回りのように見えながら、3時間55分と案外に短かった。

「上州温泉めぐり」号は、関越道を降りてから草津までの下道が思いのほか長いので、上信越道が近くまで達している軽井沢を経由する方が速いのかもしれない。

ただし、碓氷軽井沢ICのアクセス道路では、軽井沢のアウトレットから国道18号の旧道に出るあたりまで、渋滞が多発する区間であったから、巻き込まれたら大幅に遅延しかねない。

 

 

「キラキラ」号と同じ経路で、平成29年に開業した新路線もある。

上田交通のバス部門を分離した上田バスと、東急トランセ、京王バス、西武高原バスが運行する渋谷マークシティ発着の路線で、改めて、軽井沢と草津温泉をセットにする周遊コースは人気があるのだと感心した。

「キラキラ」号東京-軽井沢・草津温泉線も、渋谷-軽井沢・草津温泉線も、長野県内に停車するので、故郷の高速バスと認識している。

 

開業直後に、いそいそと後者に乗りに行ったが、その体験は、いつか取り上げることもあるだろう。

 
$†ごんたのつれづれ旅日記†

 

草津温泉専用の直行バスも運転されている。
名付けて「スパリゾートライナー」。
現地の宿泊施設が、このバスと組み合わせたパックを販売していたが、今では限られた宿の送迎だけになっていると聞く。

 

バスだけに乗るならば片道2000円、ただし、所要時間は最ものんびりしていて、4時間40分を要する。
チャーターされているのは、普通の観光バス車両のようである。
トイレがあるのかどうか不明であるが、トイレ休憩が所要時間を長くしているのかもしれない。

 

 
僕が初めて草津温泉に足跡を記したのは、上記のような直通バスがなかった時代だった。

 

昭和60年頃、長野電鉄湯田中駅から、国道292号線で志賀高原を横断し、白根火山と草津温泉を経て長野原駅に直行する国鉄バス「草津志賀高原線」に乗った。

志賀高原を横断し、渋峠で我が国の国道における最高地点を通ったり、白根山の火山ガス噴出地帯を抜けたり、見所が多い路線だったが、乗客数は少なく、運転手とお喋りして過ごした記憶がある。

草津温泉は経由地に過ぎず、そのまま吾妻線の特急「草津」で東京に向かったので、せっかく訪れたのに、温泉は浸かっていない。

 

 

2度目は平成17年5月の週末だった。
前年の平成16年7月に、名古屋から草津温泉まで、毎日1往復する高速バス「スパライナー草津」号が誕生したのである。

JRバス関東の単独運行であったが、いくら天下の名湯といっても、名古屋の人々がそれほど草津温泉に行くものなのであろうか、と首を傾げた。

 

物珍しさも手伝って、早速乗りに出かけたのが、今回の旅である。

東京駅を午前6時過ぎに発車する500系「のぞみ」に飛び乗り、8時頃に名古屋駅に到着した。

目指す「スパライナー草津」号は、名古屋駅桜通口のバスターミナルを午前10時に発車する。

 

 

平成22年に駅を挟んで反対側の太閤通口に移転したが、平成17年当時の名古屋駅バスターミナルは、駅のコンコースを横の通路へ入り込む奥まった場所にあり、市営バスと共用だった。

 

昭和39年の「名神ハイウェイバス」の開業や、同44年の「東名ハイウェイバス」の開業以来、数多くの高速バスがここを発着し、僕も何度も利用してきた。

それでも、背の高いスーパーハイデッカーやダブルデッカーのバスならば屋根をこするのではないか、とハラハラするほど天井が低く、排気ガスが籠って、陰気なターミナルである。

けれども、足を踏み入れるだけで旅心が湧いてくる、思い出の場所であるのは間違いない。

 

 

10時ちょうどの発車時刻の間際に、掃き溜めに舞い降りた鶴のように颯爽と姿を現したのは、白地にブルーのラインが入った見上げるようなスーパーハイデッカーである。
曲線を多用した重厚なデザインは、戦前に流行った流線型、例えばC55型蒸気機関車やEF55型電気機関車などを彷彿とさせる古めかしさも感じさせて、何となく日本離れしていた。
車両後部が2階建て構造になっているので、お尻が重そうだった。
 

これが「ボルボ・アステローペ」と呼ばれるバスである。
エンジンが前輪と後輪の間にあるボルボ社のシャシーを富士重工が使用して、後部が2階構造になっている車体を換装したのである。

当時としては珍しい5速オートマチック・ミッションを採用し、排気量10Lの直列6気筒ターボ付きエンジンは、重そうな外見とは裏腹に燃費が良かったようで、一時期、幾つかの長距離高速バス路線で使用された。

後部の階下部分をサロンにしている路線もあれば、座席にしている路線もあった。
排ガス規制に適合できず、平成13年に輸入が打ち切られ、徐々にその姿を減らした。
 

おそらく、「スパライナー草津」号に使用された車両も、別の長距離夜行路線のお下がりだったのではないだろうか。
横3列独立シートで、昼行高速バスとしては破格の豪華車両であるから、嬉しくてしょうがない。
 


 

JRバス関東がせっかく奮発したバスが勿体ないくらいに、その日の乗客は少なく、僅か数人を乗せただけで名古屋駅を発車した「スパライナー草津」号は、ビルの谷間を走り、栄のバスターミナルでも客扱いをする。

 

錦通りと、100m道路として知られる久屋大通りの交差点に面し、平成14年に完成した複合施設「オアシス21」の1階にあるバスターミナルを経由する路線に乗るのは初めてだった。

使い古された名古屋駅バスターミナルを出てきたばかりの身としては、ガラス張りで仕切られて、設備が全て真新しい栄バスターミナルが眩しく見える。

 

栄の地は、江戸時代の初期に尾張藩が名古屋城の城下町を整備した際に、飯田街道への出入口であったと言われているから、信州とも無縁ではない。

地名の由来は、明暦年間に、今の中村区にあたる栄村の住民が店を出して商売を始めたことである。

万治の大火の後に、碁盤割地域の南端に位置していた堀切筋を拡幅して「広小路」と呼び、人が集まるようになって、寺や売店や見世物小屋が軒を連ねるようになるようになった。

明治期には県庁や学校などの施設、銀行や百貨店、料亭といった商業施設が建ち、広小路通沿いに路面電車が開通すると、次第に繁華街が形成され、今や名古屋随一の商業地区となっている。

 

 

「スパライナー草津」号が出て来た名古屋駅周辺の中村区は、江戸時代まで、城下町から西に外れた湿地帯であり、笹島と呼ばれる鄙びた地区であった。

明治19年に名古屋駅が設置され、同22年に東海道本線が開通すると、商工業地域として発展し、有名な風俗街である中村遊廓も置かれた。

 

中村と言えば、木下藤吉郎秀吉が生まれた土地と聞いて、鄙びた田舎を想像していたので、名古屋駅周辺と知った時には驚いたものだった。

今でも、中村区には太閤、千成、日吉、豊臣、本陣など秀吉に関する地名や学校名が多いという。

 

名古屋駅の東側は、ずばり「名駅」地区と呼ばれ、高さ245.1mのオフィス棟と226.0mのホテル棟から成るJRセントラルタワーズが平成11年に完成して面目を一新し、平成18年に完成した高さ247.0mのミッドランドスクエアなどと合わせて我が国で有数の高層ビル街となって、栄地区と並ぶビジネス・商業地区に成長している。

名神高速道路の一宮ICから名古屋市街に向かうコースは、様々な高速バスで走ったことがあるが、名古屋都市高速1号線を使うと、かなり手前から名古屋駅周辺の高層ビル群が目に入ってくる。

 

名古屋も変わったものだ、と感慨深いが、僕は、「東名ハイウェイバス」や「ドリーム」号で訪れた昭和60年代に、駅舎の正面に「大名古屋ビルヂング」の看板を掲げた古めかしいビルが建っていた頃が懐かしかったりする。

「大名古屋ビルヂング」も平成15年に建て替えられたが、名駅地区を除けば、中村区の大半は戦前からの住宅街であり、現在でも下町情緒が溢れる街並みが残されているらしい。

 

 

都市高速道路1号線から東名高速道路に入り、小牧JCTで中央自動車道に分岐した「スパライナー草津」号は、切通しに設けられた桃花台バスストップに停車したが、利用者はなく、週末にも関わらず十数人だけで草津温泉に向かうこととなった。

この日の乗客は、2人連れか数人ずつのグループばかりで、リゾート直行便らしく、エンジン音に混ざって終始賑やかな話し声が尽きなかった。
 

濃尾平野を抜ければ、連なる丘陵の合間を縫うようにカーブが繰り返される。
岐阜県に入ると、左右から山稜が寄り添ってきて、中央道の曲線もきつくなり、ぐいぐいと高度が上がっていくのが感じられる。
中津川ICでもバスストップに停まったが、乗ってくる客はいなかった。
 


 

中津川を過ぎると、峻険な山々が視界を遮った。

長野との県境を長大な恵那山トンネルで越え、天竜川の支流が形づくる渓谷に沿って、連続する急カーブを右に左に揺られれば、伊那谷である。

 

駒ケ岳SAで、1回目の休憩が設けられていた。

名古屋を出る時から、今にも泣き出しそうな空模様が続いていて、背後の木曽山脈も、伊那谷を挟んだ赤石山脈の嶺々も、分厚い雲に隠れている。

バスを降りて思いっきり吸い込んだ空気は、少しばかり湿り気が強かったが、爽快だった。

東京も名古屋も汗ばむくらいの陽気だったので、涼しさがありがたいくらいである。

 


 

栄から乗ってきて車内の中央部に陣取り、時折り大きな笑い声を車内に響かせていた数人のおじさんのグループが、
 

「ほう!ここまで来りゃあ、案外、涼しくなるもんだなあ」

「標高が高いからやろ」

「これから、もっと寒くなるかのう」

「温泉で暖まるんやから、ちょうどええやろ」
 

などと話している。
 

蛇行する天竜川を見下ろしつつ、伊那谷の西の山ぎわを北上し、岡谷JCTで長野自動車道に左折すれば、諏訪湖を右手に眺めながら、岡谷市街を長大な橋梁で一気に跨ぎ越える。

塩尻峠の断続するトンネル群をくぐり抜けると、広大な安曇野が車窓いっぱいに広がった。
車窓の変化は目まぐるしいが、左手の彼方に視線を転じれば、飛騨山脈も雲に覆われて姿を隠していた。

 

 

安曇野が尽きると、バスは長野自動車道で筑摩の険しい山越えに挑む。

急勾配が続くが、お尻が重いためであろうか、他の車に比べて減速の度合いが激しいように感じた。

 
ボルボ・アステローペのATミッションは、シフトレバーがなく、運転席の左側パネルに、昔の車載ラジオのように横並びに突き出た四角いボタンを押す仕組みである。

上り坂でスピードが落ちると、運転手は手を伸ばして「D」から「2」へボタンを押し直す。

するとエンジンの回転音が上がって、バスのスピードも増していくのだが、高速道路を2速で走るとは燃費が悪そうだな、と思う。

「2」の文字がかすれていたので、最も使用頻度が高いミッションなのだろう。
 

姨捨SAで2度目の休憩になった。

駐車場の奥にある展望台に歩を運ぶと、善光寺平が一望のもとに開けた。

目を下に転じれば、篠ノ井線の線路が斜面の段々畑の間に見え隠れしている。

日本三大車窓と呼ばれる姨捨駅付近の眺望よりも、一段と高い眺望を目にしている訳である。

千曲川の流れが鈍く銀色に輝いている。


残念だったのは、曇り空の影響であるのか、遠くが霞んでしまい、遠くまで見通せないことだった。

あたかも、長野盆地の向こうに海があるかのような景観になっていた。

 

 

急坂を勢い良く駆け下り、更埴JCTで上信越自動車道の上り線に舵を切った。

善光寺平をほんの少しかすめるだけで、今度は右下方に戸倉や坂城の街並みを見下ろしながら、千曲川が刻む河岸段丘の北側の斜面を、「スパライナー草津」号は快調に走り続ける。

惜しむらくは、長野道更埴、上信越道屋代、千曲川坂城と、長野県内でも乗降可能な停留所が設けられているのだが、案内が流れても降りようとする客がいなかったことだろう。
 

伊那谷、安曇野、善光寺平、そして佐久平──
 

「スパライナー草津」号の道行きは、県歌「信濃の国」に「松本伊那佐久善光寺 4つの平は肥沃の地」と歌われた代表的な盆地を、全て駆け抜けていた。

信州の豊かな自然をこれだけじっくりと味わえる乗り物を、僕は他に知らない。

 

長野県を通過する高速バスは少なくないが、上信越道は佐久平と善光寺平、中央道は松本平と伊那谷を通るだけである。

平成17年に開業した名古屋から新潟まで直通する高速バスで、中央道、長野道、上信越道と長野県を初めて縦断したことがあるが、そちらは東信が抜けている。

「スパライナー草津」号は、長野県人にとって、極めて面白い経路を走る高速バスだった。

 

 

上田菅平ICで、「スパライナー草津」号は高速道路を降りた。

 

インターに設けられた上田菅平バスストップで、最後部の席にひっそりと座っていた1人旅の若い女性が席を立った。

長野県人だったのか、と親近感が湧いたが、上田市街までどうやって行くのだろう、と心配になった。

それとも、この近所に住んでいるのか。

1人で乗車していたのはその女性と僕だけだったので、何となく気になっていたのだけれど、話しかける機会はなかった。

 

「スパライナー草津」号は、名古屋と東信地方を結ぶ唯一の交通機関でもあった。

鉄道でも、この区間を直通する列車はなく、乗り換えを強いられていた。

都市間の流動を取り込むために、「スパライナー草津」号も、せめて上田市内へ乗り入れれば利用者が増えたのではないかと思うが、もともと草津町の強い希望で開設された路線であるから、所要時間をいたずらに伸ばすような寄り道は出来ないのだろう。

 

 

「スパライナー草津」号は上田市街に背を向けて、急傾斜の斜面を這い登るように、国道144号線を北へ向かった。

正面に菅平の山並みが連なり、ほぼ真っ直ぐに高度を稼いでいくので、なかなか傾斜がきつい道路である。

運転手が手を伸ばしてシフトボタンをセカンドにする頻度が増えた。

 

上田市域を出ると、真田町である。

リンゴや野菜畑の合間に古びた農家が点在する、何の変哲もない山村であるが、講談の真田十勇士の物語や、テレビドラマになった池上正太郎原作の「真田太平記」などで知られる、真田氏発祥の里である。 

 

 

「真田太平記」は、昭和60年から同61年までNHKで放映された大型時代劇であるが、日曜午後8時の定番である大河ドラマ枠は、「山河燃ゆ」「春の波涛」「いのち」といった「近代大河3部作」が放送されている時期で、「真田太平記」は水曜日の午後8時台という奇妙な時間帯に放映されていた。

真田昌之を丹波哲郎、真田信之を渡瀬恒彦、真田幸村を草刈正雄が演じ、今でも戦国時代に名を轟かせた親子を思い浮かべると、この配役で脳内再生されてしまう。

 

故郷を舞台としているにも関わらず、大学の寮で生活していた僕は、自分の自由になるテレビがなく、断片的に観ただけだった。

総集編を観ればいいや、と日曜日の大河ドラマと同じに考えていたのだが、あろうことか、水曜日の大型時代劇で総集編は製作されず、この題材を日曜日に放送しなかったNHKを恨めしく思ったものだった。

 

 

昭和47年まで、国道144号線に沿って上田交通真田傍陽線の電車が走っていたのだが、これほどの急坂を電車が登れたのだろうか、と首を傾げたくなるほどの勾配が続く。

 

真田傍陽線は、途中の本原駅で二股に分かれ、傍陽線は西寄りの県道33号線に沿って傍陽川を遡り、真田線は洗馬川と国道144号線に並走していた。

傍陽駅から、善光寺平との境にある地蔵峠を越えて、長野電鉄河東線の松代駅まで延伸する計画があったと聞くが、折りからの昭和恐慌で建設費が捻出できず、建設技術も及ばなかったと聞く。

実現していれば、真田氏発祥の地と、江戸時代に封じられた土地を結ぶ鉄道になったのである。

一方の終着駅である真田駅からも、菅平高原や鹿沢温泉まで延長する構想があったらしいが、具体化しなかった。

 
僕が小学1年生の年に廃止された鉄道であるから、もちろん乗車した経験はないし、鉄道書籍で目にするだけであったが、こうして現地に来てみると、上田交通の白と紺に塗られた丸窓電車が、長閑な田園の中をのんびりと走っている情景が目に浮かぶようである。

傍陽という地名の由来は判然としないが、菅平に連なる南向きの斜面に広がり、太陽の光が燦々と照らし出している土地、というイメージが湧いてくる。

 

 

「スパライナー草津」号の窓から形の良い三角の山を目にして、僕はハッと居住まいを正した。

上田交通を取り上げた鉄道書籍で、そっくりな構図の写真を見た記憶が蘇ったのである。

 

この山はゴトメキ山、別称和熊山と呼ばれ、里山歩きの愛好家が訪れるくらいであるが、国道144号線を走れば嫌でも目を惹く山容である。

脇に「真田」と表示されている路線バスの停留所があり、まさしくそこは上田交通真田傍陽線の終点、真田駅の跡地だった。

僕が見た写真は廃線後のもので、ゴトメキ山を背景に、崩れかけた廃駅が写っていた。

今はトラックなどが無造作に駐車しているものの、土地の起伏がよく似ている。

 

地図を開けば、真田傍陽線の遺構が国道144号線沿いに幾つも残っているが、線路や駅と判別できるような箇所は見当たらなかった。

この鉄道の開通により、菅平の開発が進み、リンゴや野菜をはじめとする農産物の出荷が盛んになったと言われているが、役割をトラックやバス、自家用車に譲り、殆んどが自然に還ったのだな、と思う。

 

 

子供の頃に、10歳近く年上の従姉妹2人と、車で軽井沢へ遊びに行きがてら菅平を越え、このあたりを通ったことがある。

 

上信越道が開通していない昭和40年代の話で、当時、上田から東へ向かうには、国道144号線から分岐して国道18号線の北側を並走する県道79号線「浅間サンライン」が、地元の人々にバイパスとして愛用されていた。

僕と弟は、このような道路があったのか、と目を見張りながら車中を楽しんだのだが、軽井沢を訪れた理由が判然としない。

両親にせがんだ記憶もないし、軽井沢で何をしたかと言えば、パターゴルフを楽しんだだけだった。

なかなか穴に入ってくれないゴルフボールに少しばかりいらつきながら、どうして僕は軽井沢に来たのだろう、という違和感が最後まで付き纏っていた。

 

僕が愛読するシャーロック・ホームズの短編に、「赤毛連盟」や「3人ガリデブ」など、自宅に籠りがちの住人を外に連れ出そうと、犯人が色々と画策する話がある。

その家に住人も知らない秘密が隠されている、という結末である。

もしかすると、その日、僕と弟が自宅に居てはいけない理由があったのではないか、と今にして思う。

 

 

ふと気づけば、周囲から家々や田畑が消え、鬱蒼たる藪のような木立ちが車窓を占めていた。

大分、山奥まで来たようである。

 

菅平口交差点では、菅平方面に向かう国道406号線の方が道幅が広く、立派な道路に見える。

ところが、「スパライナー草津」号は、本当にこちらへ行くのですか、と仰け反りたくなるような狭隘な山道に針路を定めた。

こぼれんばかりの新緑が雨上がりで更に際立ち、心が洗われるように鮮やかな車窓であったが、北欧出身のボルボ・アステローペはこのような田舎道を走ることを想定されているのだろうか、と心配になるくらい、みすぼらしい道だった。

舗装がなくならないだけ、マシなのかもしれない。

 


 

身体を大きく左右に揺さぶられながら、九十九折りの急カーブで高度を詰めると、群馬県境の鳥居峠である。

この峠の名を、僕はSF作家小松左京の「妄想ニッポン紀行」で知った。

編集者と一緒に、タクシーで北軽井沢から国道144号線に出た場面である。

 

『「その前に1回、西へ向かって信州との国境、鳥居峠まで行ってみたい』

「逆戻りするんですか?」

 

と若いY君は、ちょっと不満そうな顔をする。

 

「何か面白い事でもありますか?」

「ちと知人に敬意を表したくてね」

「へえ!──小松さん、こんな所にまで知り合いがいるなんて、隅に置けないね。きっと峠のドライブインの可愛い子ちゃんなんでしょ」

「馬鹿いっちゃいかん。そんな浮いた話ではおざらん。ええ──アハン!──ちと由緒ある方でな」

「お年寄りですか?」

「お年寄りも何も、故人ですよ」

「最近なくなったんで?」

「いや、ずいと以前の事になるかな。──信州上田の城主、真田氏の事をしのんでみたい」

「真田って──あの真田の六文銭の?真田幸村の?」

「そうだ。この嬬恋街道の鳥居峠を西へ抜けると、すぐに真田氏発祥の地の信州真田、その先が戦国期の真田氏の居城の上田、そして幸村のお父っつあんの真田昌之の時に、武田信玄に属して上州沼田をおさえ、鳥居峠を挟んで信州上田城と上州沼田城に、真田の支配が続いた」

「なるほど──すると、この街道を、猿飛佐助や霧隠才蔵が行ったり来たりしたんですか?」

「立川文庫と歴史を一緒にしてもらっちゃ困るね。真田幸村ってのは、昌之の次男で冷や飯食い──まあ名将には違いないだろうが、彼の家来の“真田十勇士”ってのは、講談のフィクションだろう。もっともあの十勇士の中にいた海野六郎ってのは、ひょっとすると実在かもしれん。真田氏は、清和源氏海野氏の流れだからね」

 

当世流赤字線の吾妻線が大前で終わると、あとは両側に、鄙びた民家がまばらに続くばかりで──それで北信への脇道として、嬬恋街道国道144号線は、けっこうトラックの往還が多い。

折しも浅間、茨木両山の火山灰スロープを利用した高原キャベツの出荷期で、道路脇にボール箱が山と積まれてある。

このあたりから南は南は鍋蓋山、北は万座山、志賀山と、冬季はスキーの名所、夏は牧場でホルスタインがのんびり鼻面を舐めている。

草津よいとこ白根の麓、ア、ドッコイショの草津温泉も、北に近い』

 

 

小松左京は、昭和30年代に「エリアを行く」と題した紀行文の連載を開始し、訪れた土地の歴史や文化、習俗から、様々な考察をまとめている。

「地図の思想」「探検の思想」の2冊の単行本になり、文庫化では「妄想ニッポン紀行」として1冊にまとめられた紀行で訪れたのは、高千穂から瀬戸内、滋賀と若狭、紀伊半島、伊勢、出雲と西日本が多く、そこにSFテイストが添えられていたのが面白かった。

モデルはいるのかもしれないが、未来人や、小松を道端に置き去りにする思想家、神がかりな女性、ジープを駆る大学教授など、様々な同行者が小松と土地の歴史や思想を論じ、挙げ句の果てには、独自の文化を築き上げてきた瀬戸内地方を東京の中央集権から切り離すため、西日本を別次元に飛ばしてしまう。

平成14年に連載が開始されたかわぐちかいじの漫画「太陽の黙示録」の冒頭で、日本列島が東西に裂けてしまう場面を見た時に、「妄想ニッポン紀行」を思い浮かべた。

 

小松左京が伊豆諸島、北関東、東北を訪ねた東日本紀行は、「日本イメージ紀行」と題されて、「第四次全国総合開発計画」による未来の日本の変貌に思いを馳せた「日本タイムトラベル」とともに「続・妄想ニッポン紀行」として文庫本に収められている。

こちらは、当時「C調」と表現された極めて軽い性格の編集者の同行で、小松左京との掛け合い漫才のような道中になっていた。

「妄想ニッポン紀行」で和田誠が担当していた挿し絵が、「続・妄想ニッポン紀行」では「Oh!ジャリーズ」の秋竜山に変わっていることでも、ノリの違いが分かろうと言うものである。

 

現在では正・続編とも入手困難になっているのが惜しまれるが、僕が高校の頃は一般書店に並んでいて、それこそボロボロになるまで読み込んだものだった。

 

 

鳥居峠は、峠と言う事も気づかないくらいの緩やかな勾配で、傾斜よりも鋭角のカーブの方が印象的だったが、運転手は巧みにボルボアステローペの巨体を操って行く。

周囲は鬱蒼と木々や繁みに囲まれ、遂に、雨が窓ガラスを濡らし始めた。
 

峠を越えれば下り坂に変わり、生き返ったようにバスもスピードを上げた。
嬬恋村は、漂う靄の中に薄緑色の野菜畑が広がり、墨絵のようだった。
「スパライナー草津」号は、JR吾妻線の終点である大前駅を過ぎ、万座・鹿沢口駅前の停留所で数人が下車した。

 

国道292号線で、青葉を満載した木々が覆う山肌を巻くように高度を稼ぎ、標高1000メートルの高みを越えて、「スパライナー草津」号は草津町に入っていく。
あちこちに湯気が上がる温泉街の路地をすり抜けて、激しく雨が降りしきる草津温泉バスターミナルに到着したのは、名古屋を出て6時間後の午後3時半であった。

長野原行きのバスを待っている利用客が、驚いた顔をしてこちらを見ている。

目立つバスであるのは確かであろう。
夜行仕様の豪華な独立3列シートでくつろぎながら、楽しくも珍しい道筋と、初夏の車窓を堪能できたバス旅だった。
 

 

「スパライナー草津」号は、この旅の年である平成17年に、愛知万博「愛・地球博」の開催に伴って2往復に増便された。

更埴、屋代、坂城に停車するようになったのも増便と同時であったが、「愛・地球博」の閉幕と同時に1往復に戻され、平成19年に廃止された。

東信と名古屋の行き来は根づかなかったか、と残念だったが、そもそも、そのような交通機関として認識されず、名古屋と草津温泉を行き来する高速バスとして捉えられていただけだったのかもしれない。

 

 

「愛・地球博」には、この年の初秋に母を連れて出掛けた。

様々な国のパビリオンも面白かったが、僕は、我が国初の磁気浮上式リニアモーターカーである「リニモ」や、無人バス「IMTS」の方が興味を惹かれた。

名古屋のホテルが満室で、岐阜市内に宿泊するしかなかったのだが、おかげで長良川の鵜飼いを楽しむことも出来た。

思えば、母と2人の遠出は、それが最後だったかもしれない。

 

 

平成16年から17年にかけて、世界は米国のイラク戦争の余波で騒然とし、自衛隊も後方支援や復興に駆り出されていたが、国内で目立ったのは、平成16年4月1日に日本航空と日本エアシステムが経営統合したり、特殊法人だった帝都高速度交通営団が民営化され、東京地下鉄、いわゆる「東京メトロ」に民営化されるなど、交通業界の再編が進み、12月1日には羽田空港の第2旅客ターミナルビルが開業していることであろうか。

 

平成16年は自然災害の多い年で、9月1日に、浅間山が、中規模以上の噴火としては昭和58年以来となる爆発的噴火を起こし、噴煙は最大5500mに及んだが、人的被害がなかったのは幸いだった。

9月5日にM7.1の紀伊半島南東沖地震が発生し、2度に渡る震度5弱の地震が発生、死者は出なかったものの、各地で港の漁船が壊れるなどといった津波の被害が出ている。

 

 

10月23日に、M6.8の新潟県中越地震が発生し、阪神大震災以来の震度7を1回、震度6強と震度6弱を2回ずつという強い揺れに見舞われて、死者67名、全半壊した建物が1万6000棟を超える被害を出した。

震央に近い上越新幹線の浦佐-長岡間を、時速200kmで走行中だった200系10両編成の東京発新潟行き「とき」325号が、地震の直撃を受けて8両が脱線した

 

我が国の新幹線では、地震対策として、約20km間隔で設置された地震計を用いた検知システムが設置されている。

当初は、初期微動のP波を用いる警報が実用化されていなかったために、本震を起こすS波を基準としていたものの、地震計が基準以上の揺れを感知すると変電所からの送電が停止されて列車の非常ブレーキが作動するシステムであった。

P波から地震の規模や位置を推定する早期検知アルゴリズムの研究が進み、世界初のP波警報システムである「ユレダス(Urgent Earthquake Detection and Alarm System)」が平成4年に東海道新幹線で実用化し、上越新幹線に導入されたのは平成10年であった。

 

僕は、東北新幹線と北陸新幹線で、地震による急停車を経験したことがある。

非常ブレーキと言っても、前のめりになるような激しい制動ではなかったものの、明らかに、これは異常なブレーキだな、と直感した。

「ユレダス」のことは知っていたから、列車の安全性に不安を覚えるようなことはなく、何処で地震が起きたのだろう、ということが気になったものだった。

 

新潟県中越地震では、この早期地震検知警報システムが生きたのである。

 最高速に近い速度で走っていた「とき」325号は、脱線こそ免れなかったものの、「ユレダス」による非常ブレーキが作動し、脱線地点から1.6kmの地点で停車した。

上下線の間にある排雪溝に嵌まり込む形で滑走し、先頭車両の台車の部品と車輪がレールを挟み込んだため、列車は軌道を大きく逸脱せず、横転や転覆、高架橋からの転落を免れたのである。

200系車両の重さが幸いした、という見方もある。

 

震源に近い川口町では、高架橋の支柱が大きく損傷した区間もあったが、脱線現場付近の高架橋は阪神・淡路大震災を踏まえた強化工事が進められていたため、地震による崩壊を免れたことも、大惨事を避けられた一因であった。

我が国の報道では、新幹線の営業運転中における初めての脱線であったことから「安全神話の崩壊」などと報じられたが、フランスをはじめとする高速鉄道を運営する他国では、「高架橋が崩壊しなかったことが新幹線の安全性を裏付けるもの」と賞賛する報道だったことを覚えている。

直下型地震であるため、初期微動の時間が短かった中越地震では、S波の到達前に列車を停車させることは出来なかったが、送電停止による一斉停車で対向列車が停止し、反対の線路側に脱線していた列車への正面衝突を来すことなく事故の拡大を防止したことは、特筆されて良いと思う。

この事故を受けて、新幹線車両が脱線した場合でもレールから大きく逸脱することを防止するL型ガイドが開発され、平成20年までに全ての新幹線に設置を完了している。

 

上越新幹線が、全線で運転の再開が可能になったのは翌年の3月までずれこんだが、初期に大惨事を惹き起こさなかったのは、我が国の鉄道技術の勝利であろう。

関越道と北陸自動車道をはじめとする各地の道路も不通となったが、高速道路は地震発生の19時間後に緊急車両の通行が可能となり、新潟県内各地と首都圏を結ぶ高速バスが緊急車両に指定されて、10月30日から新幹線の代替輸送を開始している。

被災地が山岳地帯であったことと、この年は台風の上陸回数が多く、降雨量が増加したために地盤が緩んでいたことから、各地で土砂災害が多発し、山古志村のように全ての道が閉ざされて孤立した地域もあった。

 

平成17年4月25日に起きたJR福知山線の脱線事故は、地震とは別の意味で衝撃だった。

宝塚駅発同志社前駅行き上り快速5418M電車が、塚口-尼崎間にある半径304mの曲線区間に、制限速度の時速70kmを大幅に超える時速116kmで進入し、先頭車両から5両が脱線、先頭車と2両目が線路沿いのマンションに衝突して大破したのである。

 

半年前の上越新幹線脱線事故にも驚いたが、死者を出さなかったことで、改めて新幹線の安全性を再認識したのだが、福知山線では、すし詰めの通勤列車が速度超過により脱線転覆すると言う、まさに我が国の鉄道の安全神話を揺るがす事故に愕然とした。

 

 

2004年12月26日には、インドネシア共和国スマトラ島沖でM9.0と推定される海溝型巨大地震が発生、巨大な津波がインドネシアのみならず、タイ、マレーシア、インド、スリランカ、モルディブや,更にアフリカ大陸まで到達し、インド洋沿岸諸国に未曾有の被害をもたらした。
被災者は120万人に及び、死者及び行方不明者30万人以上とされたが、全容は未だに明らかではない。

この津波は世界的な観光地であるタイのプーケットなども襲ったため、日本をはじめ海外からの観光客も多数犠牲となっている。

 

この報道を耳にして、津波の恐ろしさがピンと来なかったのは僕だけだろうか。

映画などでは、高層ビルより高い大波が街を襲う大仰なスペクタクルシーンを思い浮べてしまうし、平成5年に発生した北海道南西沖地震で奥尻島に襲来し、200名を超える犠牲者を出した最大30mとも言われる津波も、それに類するものととらえていたのだが、たかだか数メートルの波で人が死ぬものだろうか、と思ったのである。

その脅威を思い知ったのは、クリント・イーストウッドが監督した2010年公開の映画「ヒア・アフター」の冒頭における、東南アジアのリゾートを襲う津波の場面だった。

波高が決して高くなくても、町のあらゆる物を飲み込み、人々が、波の威力よりも、流されてきた車や瓦礫に押し潰されていく様に、慄然とした。

 

この映画が公開された翌年に、僕らは、東北でその惨状を目の当たりにすることになる。

 

 

草津温泉バスターミナルは国鉄時代から続くバス駅で、規模も大きく、発券所や売店も備わっていて旅心をそそられる。

 

僕は、16時発の新宿行き高速バス「上州温泉めぐり」号の座席をあらかじめ予約しておいた。
雨足が強くて外に出る気にはなれず、温泉街の短い滞在は、ターミナル内に足止めを余儀なくされた。

2度目の訪問も温泉に浸かれなかったか、と落胆したが、高速バスの乗り継ぎ旅の合間に天下の名湯を味わいたいとはおこがましく、きちんと宿泊するつもりで来い、と言うことなのであろう。
 

待ち時間の間にバスターミナルを出入りした、レトロなボンネットタイプの草津リゾート周遊バスや、軽井沢行き急行バス、志賀高原方面に向かう路線バスを見ることができたのが、せめてもの慰めである。
 

 

「上州温泉めぐり」号は、草津温泉をはじめとする群馬県の有名温泉街と吾妻地区の町を、東京と直結する人気路線として定着している。
空席が目立った「スパライナー草津」号とは異なり、発車間際の乗り場には、長い列ができていた。
係員のおじさんが、
 

あいつ、名古屋からのバスを降りてきたばかりなのに、そのまま東京行きに乗っちまうのか?──
 

と言いたげに、いぶかしそうな表情で僕を見ているように思ったのは、気のせいであろうか。
 


 

人気路線である代わりに、「上州温泉めぐり」号は普通の横4列シートで、前後のピッチも狭く、どうしても窮屈な印象は否めない。

乗客が少なければ車両の座席構造が豪華になり、多ければ質素に詰め合うという形は、まるで都市圏の通勤電車ではないか。
 

バスは、しのつく雨の飛沫が路面に撥ねる国道292号線を下り、長野原草津口駅に寄ってから東に進む。
原町、中之条、渋川といった吾妻川に沿う街をたどり、川原湯温泉、伊香保温泉など幾つもの停留所に立ち寄って乗客を乗せたので、車内は人いきれがするほどの満席になっていた。

 

 
激しい雨をつく道中で、とっぷりと日が暮れた。
ぐるぐると山を巻く国道を、暗闇に沈む風景を楽しむこともできず左に右に揺られるだけの時間は、車内の混雑ぶりと相まって、大層長く感じた。
このバスは、きちんと目的地に向かっているのだろうか、と心細い。

 

車内が強い照明に眩く輝いて、渋川伊香保ICで関越道に入った時は、正直ホッとした。
その後は、車輪が鋭く水を切る音が悲しげに響くだけの、単調な高速クルージングになった。
休憩で立ち寄った上里SAも土砂降りで、激しい雨脚の中に沈んでしまったような建物では、身体を伸ばしてくつろぐどころではなく、逃げるように車内に逃げ込んだ。
 

楽しければ楽しかったほど、終わりが近づくのは寂しさが募る。
700km近い距離を走り切る日帰り旅行だから、帰路が夜になるのはやむを得ない。
 

水滴が横に流れる真っ暗な窓ガラスに、散りばめられた関東平野の灯が浮かぶだけの、侘しいバス旅だった。
 



 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>