平成16年の2月の週末、僕は深夜の鳥取駅前にいた。
新幹線で神戸入りし、三宮を17時に発つ倉敷行き高速バス「ハーバーライナー」号で日没の山陽自動車道を駆け抜けて、岡山駅を20時ちょうどに発車する鳥取行き高速バス「鳥取エクスプレス」号に乗り継いだのである。
故郷の信州よりは余程暖かいではないか、と強がっても、冷気は容赦なく服の中に忍び込んで来る。
大阪から先の記憶が曖昧で、長いこと、僕は「山陰特急バス」夜行便を早暁の弁天町で降りてから、どのように東京へ帰り着いたのかを思い出せなかったのだが、最近、写真を整理していて、続きの行動が判明した。
寝不足と酔いの残りでふらふらと足元が覚束なかったが、僕は、そのままJR大阪環状線で天王寺駅に向かっている。
あべの筋を挟んで向かい側にある近鉄あべの橋駅前の高速バスターミナルに歩を運び、新宿、八王子、甲府、大宮、水戸、福島、山形、仙台、宇都宮など、各地から続々と到着する夜行高速バスの写真を撮影して、悦に入っていたらしい。
夜行高速バスの発車や到着を見るのは楽しい。
各地のバス事業者の様々な塗装や、行先標に掲げられた土地の名前を目にするだけで、旅情が湧いて来る。
近鉄百貨店の前の歩道に、巨大なバスが乗り入れてくる面白い構造のターミナルであるが、流石に時間が早いので、歩道にいるのは高速バスを降りた人々ばかりである。
どうして阿部野橋まで足を伸ばしたのか、と言えば、8時ちょうどにこのターミナルを発車する飛騨高山行きの高速バスの予約をしていたからである。
大阪から高山に向かったバス旅のことは明確に覚えているのだが、大阪までの行程が忘却の彼方だった。
大阪で乗り換えたことは何回もあるので、詳細を覚えていない場合が少なくない。
「山陰特急バス」夜行便の後だったとは盲点で、そうだったのか、と、写真の整理によって長年の疑問が氷解した。
鉄道では、昭和33年に名古屋と高山を結ぶ準急列車として登場し、昭和43年に特急に昇格した「ひだ」が、平成7年から大阪発着の列車も運転していることから、関西と飛騨の往来は予想以上に多いのかもしれない。
2月の閑散期でありながら、日曜日ということもあって、この日の「ウエストライナー」号は濃飛乗合自動車の2台運行で、冬の飛騨高山がそれほど人気があるのか、と感心した。
それにしても、「ウエストライナー」とは漠然とした愛称である。
西へ向かう高速バス、という意味を込めているならば、高山に本社を置く濃飛乗合自動車の命名であろうが、同社は平成10年に開業した新宿-高山線を「シュトライナー」号と名付けており、端的な愛称を好む事業者なのであろう。
定刻にあべの橋駅前を後にした「ウエストライナー」号は、まだ車が少ない大阪市内を暫く走ってから、難波の大阪シティエアターミナルのバスターミナルに立ち寄った。
現在の高速バスブームの黎明期であった平成の初頭に、近鉄の高速バスは九州と首都圏を中心に路線網を広げ、当時はあべの橋と上本町だけに停車して目的地に向かっていた。
少しでも利用者数を増やしたいのであろうか、今では上本町の停車をやめて難波のOCATに変更し、その後、大阪駅前でも乗車扱いをするようになった。
大阪駅前と言っても「東梅田」と注釈を必要とするほど、JR大阪駅とは離れた路上である。
それにも関わらず、「ウエストライナー」号に乗り込んで来た客数は、阿部野橋や難波に比して最も多く、ほぼ満席の盛況となったので、キタの集客力は凄いものだ、と感心する。
車内で聞こえる乗客同士の会話は関西弁が多く、高山観光に出掛ける人ばかりのようである。
バスは、梅田の街をぐるりとひと回りして大阪駅の北に出ると、福島ランプから阪神高速11号池田線に駆け上がり、淀川を渡って豊中JCTで名神高速道路に入って行く。
真っ青な冬晴れの青空を背景にして、左右に広がる大阪の街並みは、ビルのガラスに反射する陽光が踊っているかのようである。
梶原トンネルと天王山トンネルをくぐって京都盆地に入り、更に蝉丸、大津の2つのトンネルをくぐって琵琶湖の南岸に出る頃には、あべの橋から早くも2時間が経過し、バスは黒丸PAに滑り込んだ。
ここで休憩するのは初めてで、他の高速バスは大津、多賀SAを利用する場合が多く、珍しい場所を使うのだな、と思いながらバスを降りた。
このあたりは布引山系から連なるなだらかな丘陵地帯で、長谷野と呼ばれていたが、我が国で初めての高速道路である名神高速を建設する際に、道路公団は、付近の谷の名をとって黒丸台地と呼び、パーキングエリアも黒丸と名付けたのである。
帝国陸軍の八日市飛行場の跡地を利用しただけあって広々とした造りであるが、吹き曝しなので、案外に風が強い。
黒丸PAを出てしばらくすると、いつの間にか居眠りをしている客が増えた。
お喋りに夢中な女性の2人連れもいるけれど、朝早く出発すバスに乗るため、早起きして出てきた人も少なくないのだろう。
僕も夜行明けだから、眠くないこともない。
「山陰特急バス」の車中では、酔った勢いで熟睡したように感じていたけれども、当時の写真を見直すと、途中の休憩でバスを降り、同じく羽根を休めている出雲・松江発大阪行き「くにびき」号や、萩発大阪行き「カルスト」号といった夜行高速バスを撮影しているから、寝が足りないのかも知れない。
窓から差し込む陽射しと暖房で、客室はぽかぽかと暖かいし、名神高速は何度も通ったことのある馴染みの道であるから、真新しい景観に目を見張るということもなく、僕も心地よい眠りに引きずり込まれた。
身体が遠心力に引っ張られるような感覚で目を開けると、「ウエストライナー」号は、一宮JCTで東海北陸自動車道への流入路をぐいぐい曲がっているところであった。
ここからは初めての道路なので、起きていなければなるまい。
東海北陸道は、昭和61年に岐阜各務原ICと美濃ICが開通したのが始まりで、平成4年に福光IC-北陸自動車道小矢部砺波JCT、平成6年に美濃-IC美並IC、平成8年に美並IC-郡上八幡IC、平成9年に一宮木曽川IC-岐阜各務原ICと郡上八幡IC-白鳥IC、平成10年に尾西IC - 一宮木曽川ICと名神高速一宮JCT-尾西IC、平成11年に白鳥IC-荘川IC、平成12年に五箇山IC-福光ICと荘川IC - 飛驒清見IC、平成14年に白川郷IC-五箇山ICと、小刻みに部分的な開通が繰り返されてきたが、今回の旅行の時点では、飛騨清見ICと白川郷ICの間が未完成だった。
11年の歳月を掛けて、我が国では3番目に長い1万712mの飛騨トンネルが貫通し、東海北陸道が全線開通するのは、4年後の平成20年まで待たなければならない。
奥美濃や五箇山といった峻険な中部山岳地帯を南北に貫くので、東海北陸道の建設は難工事であった。
総延長約185 kmのうち、トンネル部分の合計が約70km、橋梁の数も上下線合わせて386本を数え、総額が1兆円を超える膨大な建設費のために、小刻みに造っていくしかなかったのだろう。
僕がこの高速道路に注目したのは、中央道の山梨と長野の県境付近にあった、標高1015mの我が国の高速道路における最高地点の座を、荘川ICと飛驒清見IC間にある1085mの松ノ木峠が抜いたことだった。
それまで「日本高速道路最高地点」と大書されていた中央道の標識が、「中央道最高地点」に書き換えられたのを目にするたびに、幾許かの悔しさとともに、東海北陸道を思い浮かべたものだった。
どのような道路なのか、と目を凝らしていると、木曽川を渡り、長良川に沿って遡りながら、濃尾平野を出ないうちに長良川SAに立ち寄って、2度目の休憩をとった。
バスを降りれば、心なしか頬に当たる風が肌を切るように冷たく感じられた。
本線に復帰したバスは、美濃ICを吹き飛ばすような勢いで通過すると、いよいよ山中に足を踏み入れた。
上下線がはっきりと分離されていた4車線区間が終わり、美濃ICから先は、境界に点々と樹脂製の低いポールが敷かれているだけという2車線の対面通行である。
バスのような大型車両に乗って対面通行の高速道路を走ると、乗用車で走っていてもハンドルを握る手に力が入るのに、一瞬の油断で対向車線にはみ出してしまうのだろうな、と運転手の緊張に思いを馳せる。
熟練した運転手なのだろう、「ウエストライナー」の走りは微塵も揺るがない。
一宮JCTから美濃ICまでの濃尾平野の区間でも、北の山ぎわを走るために、権現山トンネルや各務原トンネル、向山トンネルが掘削されていたが、美濃ICから先は本格的な山岳ハイウェイとなり、幾重もの山裾に深々と渓谷を削る長良川の流れに沿って、うねうねと身をくねらせながら北へ進む。
前方からのし掛かってくるような山塊が次々と現れ、美濃トンネル、古城山トンネル、立花トンネルと、トンネルが短い間隔で断続する。
美濃ICから飛騨清見ICまで36本ものトンネルが穿たれており、信州を走る上信越自動車道や中央自動車道、長野自動車道とは比較にならない数の多さである。
大半のトンネルが1000m以下と比較的短いので、明るくなったり暗くなったり、なかなか忙しい車窓だった。
名神高速での快晴が嘘のように、暗い雲が垂れ込めていた。
山肌を覆う裸の木々と合わせて、車内にいても襟元を掻き合わせたくなるような、寒々とした光景である。
雪が木々の根本を白く染め始め、やがて、山々全体が鮮やかな雪景色に変わった。
東海北陸道は、JR高山本線と似たような区間を結んでいるとは言え、岐阜市から木曽川の支流である飛騨川を国道41号線とともに遡り、美濃加茂、下呂を経由する鉄道とは異なった経路である。
山を隔てて西を流れている長良川に沿い、国道158号線と絡み合いながら、美濃、郡上、白鳥、荘川と北上する。
国道158号線と言えば、「名金急行線」を思い出す。
金沢駅前のバス乗り場で、「名金線」という看板を目にしたことがあり、西日本JRバスの一般路線バスが「森本」「福光」などといった行き先を掲げて出入りしているだけで、それが何故「名金線」なのかと混乱してしまう。
「名金線」とは、歩んできた数奇な歴史から生まれた名称である。
金沢と福光を結ぶ路線がバス開業したのは昭和10年のことで、当初は金沢と福光の文字を取って「金福線」と命名されていた。
終戦直後の昭和23年に「金福線」は岐阜県白川村まで延伸され、昭和8年に美濃白鳥-牧戸間で開業して以来、順次路線を伸ばしていた国鉄バス「白城線」と、五箇山付近の境川橋詰停留所で連絡したことで、金沢と美濃白鳥を結ぶ「金白線」を名乗る。
昭和42年12月1日に美濃白鳥から名古屋まで延長されて、名古屋鉄道バスと共同運行で、太平洋岸から日本海岸までを走り抜く日本一長い路線バス「名金急行線」が誕生したのである。
当時の停留所は、名古屋駅-尾張一宮駅-岐阜駅前-小屋名-美濃市役所前-郡上八幡駅前-美濃弥富駅前-美濃白鳥-正ヶ洞-蛭ヶ野高原-牧戸-飛騨中野-平瀬-鳩ヶ谷-西赤尾-下梨-福光-金沢駅の18駅で、全区間を乗り通した運賃は1200円であった。
投入された車両は、「急行列車の1等並み」と謳われたリクライニングシートと冷房を完備した44人乗り(補助席を含めると54人)の新車であったという。
鉄道よりも豪華な車内設備で集客を図るあたりの裏事情は、昭和30~40年代に開業した長距離バスで多く見られたことである。
豪華バスに補助席がついているのか、と思う方もおられるかもしれないが、それは時代の違いというものである。
開業初日には、金沢駅前の国鉄バス乗り場で、国鉄バスと名鉄バスの2台が揃って発車式が行われている。
北國新聞の記事によると、その日は朝から雪模様で、座席の約半分が埋まる程度の乗客数であり、名古屋までの乗車券を買い求めた客は1人だったと報じられている。
もともとは岐阜県中北部や石川県南部の鉄道空白地帯を、越美北線・南線や城端線などの最寄り駅と結ぶ路線として意義づけられていたローカル路線が、なぜ名金間を結ぶ長距離バスに発展させられたのか、その意図や経緯はわからない。
昭和40年代初頭の名金間では、東海道本線と北陸本線経由で1日1往復が運転されていた国鉄の特急列車「しらさぎ」が所要3時間半、同じく1往復の急行「こがね」が4時間半、そして1日数本が運転されていた米原乗り換えの各駅停車の所要時間が7~8時間、また高山本線経由の準急「加越」と「しろがね」が5~6時間を要していたことから、名金急行線を直通する利用客も少なくなかったのかもしれない。
昭和40年代まで、名古屋と北陸を行き来するのは大変だったのである。
「名金急行線」の全盛期には名古屋駅-金沢駅間の直通便が4往復設定され、9時間40分にも及ぶ長距離路線バスだった。
子供の頃に全国版の時刻表でこの路線の存在を知り、是非とも乗車してみたいと思った。
「名金急行線」の写真を見て、ちょっとハンドルを切り損なえば脱輪して谷底に真っ逆さまではないか、と息を飲むような、とんでもない山道を行く特急バスの姿に、仰天したことがある。
昭和40年代までの日本の道路では決して珍しい光景ではなく、整備が遅れがちな県境を越えて走っていた長距離バスは、今では信じられないような悪条件の道を使って各地を結んでいた。
この時代の運転手さんの技量と、それに生命を預ける乗客の度胸には、ただ恐れ入るのみである。
もともと過疎地域に設けられた路線の宿命と言うべきか、昭和54年に国鉄バスが鳩ヶ谷と福光の間の運行を中止して、名古屋-鳩ヶ谷間と福光-金沢間に分断され、名鉄便も夏期だけの季節運行となってしまった。
僕は、平成2年に、季節運行の観光路線となった「名金急行線」の末裔とも言うべき「五箇山」号を、名古屋から金沢まで10時間を費やして乗り通したことがある。
奥美濃と五箇山の険しい山々を縫う国道が、このように立派な高速道路に生まれ変わったのか、と思えば感慨深い。
郡上八幡ICを過ぎると、山々の隙間を縫うようだったそれまでに比べて、長良川が見せる表情が穏やかになり、山並みが後退して空が広くなった。
郡上の文字を見れば、映画化もされた江戸時代の郡上一揆を思い出す。
郡上藩がこれまでの年貢を増税したことがきっかけであるが、藩の弾圧や懐柔などで豊かな農民層の多くが脱落する中で、中農と貧農が運動の主体となり、幕府の老中への直訴を決行、長期化する情勢の中で、藩の弾圧を避けるために郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築したと聞く。
時の将軍徳川家重が、一揆に幕府中枢部が関与している疑いを抱いたことで、幕府評定所で裁判が行われ、一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下される一方で、郡上藩主は改易となり、幕府高官の老中、若年寄、大目付、勘定奉行らも免職となった。
施政者の圧政から身を挺して民を救う義民の話は各地にも伝わるが、首謀者は死を賜るという結末を迎えることが少なくない。
郡上一揆でも同様の結果となったが、百姓一揆の結果、領主や幕府高官らの大量処罰が行われた例は他に類を見ない。
郡上一揆をきっかけとして、年貢の増収により財政の健全化を図る方策は廃れ、商業資本への課税が推進されるようになったとも言われている。
この地域の人々が、かつては国を揺るがし、新しい時代を拓いたことを思えば、眠っているような古い町並みを車窓から見下ろすだけでも、粛然とした心持ちになる。
有名な郡上おどりは、徳島県の阿波踊り、秋田県の西馬音内の盆踊りと並ぶ日本三大盆踊りの1つに数えられて、毎年7月中旬から9月上旬まで、延べ32夜に渡って開催される。
8月13~16日の盆に夜通し踊り続ける盂蘭盆会が徹夜踊りと呼ばれ、一般参加も可能と聞いているから、いつかは行ってみたいものである。
その起源は、郡上一揆で混乱した民心を治めるためだったという。
僕が郡上八幡で思い出すのは、平成13年に公開された佐藤マコトの漫画が原作の映画「サトラレ」である。
郡上八幡ほどの町であれば、もっと芸術的な名作の舞台にもなっているのではないかと思うけれども、思い浮かぶのは、岐阜県の農家出身である神山征二郎が監督し、平成12年に公開された「郡上一揆」くらいであるが、僕は未見である。
安藤政信が演じる、心の中の言葉が周囲にいる人々にあからさまに伝わってしまう研修医が主人公で、鈴木京香、寺尾聰、八千草薫などが扮する周りの人々の葛藤が描かれた、SFチックなヒューマンドラマだった。
僕は原作を読んだことはないけれど、きちんとした人間賛歌になっているストーリーに大泣きしたものだった。
映画の舞台は岐阜県の架空の町とされていたが、ロケの殆んどが郡上八幡で行われ、郡上おどりや、越美南線が第3セクター化された長良川鉄道を含めて、郡上八幡のしっとりと落ち着いた町並みは強く心に焼きついた。
この映画を初めて観たのは、東京と下関を結んでいた寝台特急列車「あさかぜ」の個室で放映されていたオーディオサービスだった。
退屈しのぎに小さな画面のスイッチを何気なく入れた途端にたちまち惹き込まれて、2度も繰り返し観賞して夜更かししたことや、その旅から帰って直ぐに通販でDVDを手に入れた思い出も、今となっては大変懐かしい。
長良川の支流である吉田川のほとりにある桜並木は、映画で何度か背景に使われ、「サトラレ桜」の名で呼ばれるようになったという。
次の白鳥ICが置かれた白鳥町は、白山信仰の拠点として栄えた。
どんよりとした雲に隠れているものの、視界の奥には白山山系が連なり、北陸の手前まで来たのだな、と思う。
東海北陸道が遡って来た長良川は、手前の大日ヶ岳が水源である。
厳しい気候を物語るように、このあたりには、母袋温泉、しらお、鷲ヶ岳といったスキー場がある。
橋脚の高さが125mと日本一である鷲見橋を過ぎれば、瀟洒なペンションがぽつりぽつりと散在する蛭ヶ野高原に出る。
蛭、などという字を用いた地名からは、深々と藪が生い繁っている様を想起してしまうが、一面の雪に埋もれていてもなお、爽やかな解放感を感じさせる見晴らしの良い高原だった。
蛭ヶ野高原にある分水嶺公園は、北へ流れる庄川と南へ流れる長良川の境である。
バスの窓から見ることは出来ないが、公園に置かれた素朴な石碑には、左右の矢印にそれぞれ「太平洋」「日本海」と書かれているという。
分水嶺を過ぎても奥飛騨の山々は尽きることなく、「ウエストライナー」号は、まだまだ山越えを続けなければならない。
急傾斜で谷に落ち込む山裾を濡らす庄川の、僅かな縁にへばりついているような山村が荘川村である。
このあたりは奥飛騨の屋根とも言うべき山岳地帯で、1000mを越える山々がひしめき合っている。
荘川村の六厩地区は東海地方随一の寒冷地帯とされ、昭和56年2月の-25.4℃を筆頭に、今でも毎年のように-20℃を下回る低温が観測されている。
雪に埋もれた松の木PAでの先で、「日本高速道路最高地点 1085m」の標識が後方に過ぎ去れば、間もなく飛騨清見ICである。
「ウエストライナー」号はインターを出ると、九十九折りの国道158号線で標高1000mの小鳥峠を越え、高山市内に入った。
大阪あべの橋から330kmの距離を無事走り抜け、「ウエストライナー」号が高山駅前の濃飛バスセンターに滑り込んだのは、定時の13時33分だった。
高山市内は燦々と日光が照りつけていて、駅前の路面にはあちこちに水たまりがあり、雪解けの跡かな、と思う。
大阪は快晴、奥美濃の山中は雪、飛騨高山は再び晴れ、と目まぐるしく変化する空模様の中を、バスは駆け抜けて来たのである。
名古屋行きの高速バス「ひだ高山」号名鉄便が客を乗せていて、こちらも未乗の路線であるからそそられるけれども、これに乗れば、「ウエストライナー」号で走って来た東海北陸道を折り返すだけである。
次に乗るのは、14時10分発の松本行き特急バス「アルプスライナー」号と決めていた。
10名ほどの客を乗せた「アルプスライナー」号は、「ウエストライナー」号が走って来た国道158号線の続きを、更に東へ向かう。
再び根元に雪が現れた杉林の中を走り抜け、バスは、1時間足らずで平湯温泉バスターミナルに滑り込んだ。
武田四天王の1人である山県昌景が、飛騨攻めの途上で峠越えや硫黄岳のガスのために難儀していたところ、白猿に教えられた温泉に浸かって疲労を回復したという開湯伝説が残る平湯温泉は、我が国では別府温泉、由布院温泉に次ぐ毎分4万4000Lを超える豊富な湧出量を誇る奥飛騨温泉郷の一角である。
ここで「アルプスライナー」号はしばしの休憩をとり、僕も身体を伸ばしながら一服した。
乗鞍岳や槍ヶ岳をはじめとする、針のように鋭い峰々が連なる北アルプスの山並みが、前方にそびえている。
正面にそびえる一段と尖った山が、アカンダナ山である。
これからあそこを越えて行くのか、と気分が引き締まった。
平湯温泉を出ると、陽ざしが正面の山嶺にさえぎられて、はっとするような暗がりが車窓を覆った。
センターラインに点々とポールが敷かれた対面通行の道路を進み、自転車や歩行者の進入禁止を告げる標識を過ぎると、入口が雪で覆われた真新しいトンネルが、ポッカリと口を開けていた。
全長4370mの安房トンネルである。
地質調査から33年、着工から18年の歳月を経て、平成9年12月に貫通したばかりであった。
安房トンネルは、福井から高山を経て松本を結ぶ計画の中部縦貫自動車道の一部を形成し、僕が「ウエストライナー」号で通って来た国道158号線と並行し、平成16年に完成した飛騨清見ICと高山西ICの間の高山清美道路も、中部縦貫道に組み込まれたのである。
安房トンネルは、焼岳火山群の活火山であるアカンダナ山の高温帯をくり抜くために、大変な難工事だったと聞く。
アカンダナ山は、飛驒山脈の南部にある標高2109 mの山で、南隣りの安房山の間に安房峠がある。
7万~12万前に、焼岳火山群を構成する割谷山、岩坪山などの火山活動が始まり、2万6千年前に白谷山と焼岳が形成された噴火により、白谷山を覆うように噴出した溶岩流と溶岩ドームが形成された。
活発な火山活動と山体崩壊により生じた平坦地形を「棚」と通称し、白谷山の北西に「大棚」が、そしてアカンダナ山も「赤棚」と呼ばれて、山名の由来となっている。
平成7年2月11日に、トンネルの取り付け口が設けられた中ノ湯温泉付近で火山性ガスを含む水蒸気爆発が起き、作業員4人が犠牲となった。
同時に大規模な土砂崩れと雪崩が発生し、梓川になだれ込んだ土砂は6000立方メートルにも及び、建設中だった陸橋も破壊されて、長野県側の孔口は位置の変更を余儀なくされている。
安房トンネルの開通と同時に、新宿と高山を結ぶ高速バス「シュトライナー」号が走り始め、僕も乗車したことがある。
東京から飛騨へ、信州を横断して行く方法が最短経路になるとは思いも寄らなかった。
同時に、松本と高山を結ぶ特急バスも運行を開始し、後に松本と金沢の間にも高速バスが誕生した。
明治期に、長野県の中信、南信と飛騨地方が筑摩県になっていた時代があることを顧みれば、昔から高山と松本の往来は盛んだったのかもしれない。
当時の時刻表で、平成9年に開通した東京湾横断道路を使って東京・神奈川と房総半島を結ぶ高速バスや、平成10年に開通した明石海峡大橋を渡って関西と四国を直結した高速バスと並び、安房トンネルを使う新路線は、鉄道がなし得なかった、バスならではの新しいルートを開拓したものと持て囃されていた。
難工事の歴史を顧みる暇もなく、バスは、わずか5分で安房トンネルを走り抜けて、信州に歩を進めていく。
トンネルを抜けると、崖のような急傾斜の山肌を九十九折りで下り、梓川を渡った先の三差路で、バスは大きく右に舵を切った。
左手に伸びる道路の先に、視界を遮る山裾に穿たれたトンネルが現れ、「釜トンネル」と書かれた銘板が目に入った。
河童橋まで6km程度という上高地の入口まで来た訳で、上高地へ向かう路線バスがすれ違うようになった。
井上靖の「氷壁」や北杜夫の「神々の消えた土地」、そして何よりも僕が愛読してやまない新田次郎の「孤高の人」「栄光の岸壁」をはじめとする山岳小説シリーズに、上高地へ至る道筋と釜トンネルの描写が何度も登場している。
白砂の河原の中を流れる梓川の清流を右手に眺めながら進めば、上高地へ向かう観光客用の駐車場が並ぶ沢渡である。
上高地への自家用車の乗り入れは規制されているので、観光や登山客は、ここで路線バスに乗り換えなければならない。
バスは、梓川が削る深い峡谷に沿って、切り立った山々の狭間を行く崖っぷちの道路に差し掛かった。
ダムが川を堰き止めた人造湖のほとりを刻んで造られた国道は、安房トンネルの前後とは大違いの、すれ違いにも苦労する狭隘なトンネルや洞門になり、このような悪路を高速バスが走るのか、と度肝を抜かれた。
交通量は案外に多く、こちらの図体も大きいから、乗用車とのすれ違いでは優越感にひたれるものの、バスやトラックが窓すれすれに離合する時などは、思わず手に汗を握る。
国道158号線の長野県内区間は、中部縦貫道のような高規格のバイパス道路が、未だ手つかずだった。
平成3年に安曇村で土砂が崩落し、仮設道路による応急措置の後、平成5年に三本松トンネルが開通することで復旧し、平成5年にも沢渡で道路が崩落し、平成10年に現場を迂回する290mのうすゆき橋の建設が必要になるなど、自然災害の歴史が積み重なっている。
高規格道路どころか、よくぞ、このように峻険な土地に道路を造ったものだ、と感嘆すべき区間なのだと言えるだろう。
信州でも、飛騨でも、我が国に暮らす人々は、何処へ行くにも、立ちはだかる山々を、歯を食いしばりながら越えなければならなかった。
長野冬季五輪がきっかけだったとは言え、信州の交通網が、数々の高規格道路の建設によって見違えるように便利になったのも、貧しく悲惨な生活に二度と戻りたくない、と考えた先人たちの必死の思いがあったからだと思う。
高速バスに乗れば何処にでも行けるようになり、僕らは便利さを当たり前のように謳歌しているけれども、戦後70年間、日本人は、本当に頑張ってきたのだと改めて思う。
大正11年に松本から島々駅まで開通した松本電鉄線は、昭和58年の台風による土砂崩れのために赤松駅と島々駅の間1.3kmが不通となり、もともと乗客数が少なかったことと、島々駅前に上高地方面へ乗り継ぐバス乗り場を設ける用地に乏しかったことから、赤松駅を新島々駅と改称して、翌年に不通区間は廃止された。
道路の脇に単線の線路が敷かれ、2両編成の電車が、質素なホームだけの駅に停車している。
バスの歩みはのんびりとして、高速道路よりもこちらの方が落ち着くな、とくつろいだ心持ちになった。
このあたりの国道158号線は、野麦街道と呼ばれている。
野麦街道は飛騨高山から野麦峠を越えて信州松本へ通じ、能登で獲れた鰤をはじめとする日本海の海の幸を信州へ運ぶ交易路であった。
野麦峠は安房峠の南に位置し、高根、寄合渡とたどる野麦街道は、奈川渡で国道158号線に合流する。
野麦とは峠に生い繁るクマザサのことで、10年に1度、麦の穂に似た実をつけることが名前の由来とされているが、野麦峠と言えば、山本茂美が十数年に渡って飛騨・信州一円を取材し、数百人の女工や工場関係者から聞き取りを行った上で、昭和43年に執筆した「あゝ野麦峠」を忘れてはならない。
明治から大正にかけて、我が国の富国強兵政策を支える重要な輸出産業であった紡績工場が置かれた諏訪・岡谷地方へ、飛騨の貧しい農家の娘たちが出稼ぎに出た時代があった。
10代の少女たちが100人単位でまとまって峠を越えるのは、工場が休みになる1月前後であることが多く、雪は氷の刃と化して少女たちの足を切り裂き、峠の雪は赤く染まったと記されている。
足を踏み外して谷底に滑落する者や、峠に置かれた避難小屋である「お助け茶屋」に入り切らず、吹雪の中で一夜を過ごす者もいて、飛騨と信州の行き来で命を落とす女性は少なくなかった。
過酷な環境で働き続けた女工が、病気のために工場を辞めさせられ、肉親に背負われて故郷に帰る途中に、野麦峠で、
「あゝ飛騨が見える」
と言い残して死ぬ場面は、切ないと言うよりも、後ろめたさを感じたものだった。
子供の頃に「女工哀史」という言葉で両親から女工の話を聞かされるたびに、自分の故郷が、劣悪な労働条件で飛騨の人々を酷使する側であったことに、戸惑いを覚えたのである。
飛騨山脈から離れるに従って車窓は落ち着きを取り戻し、いつの間にか雪も消えていた。
実の落ちたリンゴ畑や黒々と土で覆われている田圃が広がる鄙びた風景の中を、「アルプスライナー」号は、のんびりと東へ向かっている。
穏やかな安曇野の自然に抱かれた現代の野麦街道は、明治の女性たちの悲劇の歴史を微塵も感じさせない長閑な道行きだった。
高山から松本まで約80km、飛騨山脈を越える車窓の迫力にひたすら圧倒された2時間だったが、「アルプスライナー」号はほぼ定刻で運行しているようである。
松本からは、「中央高速バス」で新宿へ向かうつもりだった。
神戸から岡山、鳥取を回り、更に大阪、高山、松本を経て東京に戻る足掛け2日間に渡るバス旅も、寂しいけれども終わりが近づいていた。
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