蒼き山なみを越えて 第48章 平成14年 特急「伊那路」・特急長野-白馬線・みすずハイウェイバス | ごんたのつれづれ旅日記

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平成14年の盆を長野市の実家で過ごし、急行バス長野-野沢温泉線と長野電鉄木島線の廃止代替バスで木島まで往復した僕は、長野電鉄の特急「志賀高原」を長野駅で降り、そのまま東口で特急バス長野-白馬線に乗り込んだ。

 

 

長野冬季五輪を目前にした平成7年に、長野市と大町市を結ぶ県道31号線の南に白馬長野有料道路が開通し、県道31号線と県道33号線美麻白馬線も改修工事が施されて、「オリンピック道路」と呼ばれた。

 

平成9年の長野新幹線の開業と同時に、五輪道路を使って、長野駅と白馬を結ぶ特急バスと、大町を結ぶ急行バスが登場したのである。

それまで、東京から白馬や大町へは中央東線と大糸線を利用するのが主流であったが、新幹線と特急バスを乗り継ぐと、東京から3時間以内に短縮されたため、長野駅が松本駅と並ぶ飛騨山脈の玄関になったと聞く。

 

 

1年前に長野と大町を結ぶ急行バスに乗ったので、今回は、白馬行きの特急バスに乗りたいと思った。

 

新装なった長野駅東口のバス乗り場に颯爽と姿を現した 時 分発の白馬行き特急バスは、白地に虹色の斜線を纏い、「Highland Express」のロゴが描かれた川中島自動車のハイデッカー車両であった。

定刻に走り始めた特急バスの車内で、何となく夢見心地になった。

このように立派なバスで長野から白馬まで行けるとは、隔世の感がある。

 

 

十数人の乗客を乗せた特急バスは、たっぷりと水を湛えた犀川と絡み合いながら、国道19号線を南へ向かう。

飯田市にある父の実家や、中条村の母の実家へ、子供の頃から何度も行き来した馴染みの道行きである。

 

両郡橋、明治橋、大安寺橋といった犀川を渡る橋梁も、小田切ダムの先にある犬戻トンネルも、全て新しく造り替えられていて、昔の面影は殆んど残されていないのは、大町行きの急行バスで承知している。

悠然と流れ行く川面だけが、今も昔も変わることのない故郷の山影を映して、深い緑色に染まっていた。

 

 

県道31号線の旧道は、七二会と大安寺の集落の境にある、犀川に面した丘の上で国道19号線と袂を分かつが、白馬長野有料道路は、2kmほど先の信更町で分岐する。

 

このバイパスは、中条村の中心部を避けて、犀川の支流の土尻川の南岸を走るので、右手に、母の実家をはじめとする懐かしい家並みを眺める視点は、何度走っても楽しい。

土尻川は、母の実家のすぐ裏手に河原があり、幼い頃は、従姉妹たちと水遊びに興じたものだった。

母の実家では、僕らが訪れると夕食にすき焼きを囲むのが常となっていて、今でも中条村と言えば、炬燵の上でぐつぐつと煮立っていた土鍋が目に浮かぶようである。

 

中条村の西隣りの小川村で、白馬長野有料道路は県道31号線の旧道と合流するが、その先も道路は以前よりも整備されていた。

 

 

県道31号線は、長野と、白馬から20kmほど南にある大町を結ぶ街道であるから、長野と白馬を結ぶ直線上から、かなり南へ迂回したことになる。

 

長野と白馬を結ぶ道路は、他にも存在する。

国道406号線である。

地図の上では、長野と白馬をまっすぐ東西に短絡しているように見えるが、内実は羊腸の如く曲がりくねり、鬼無里と白馬の間で南に大きくU字を描いているので、長野駅から白馬駅まで45km、国道19号線と県道31号線・33号線経由の42kmよりも、却って距離が長くなっている。

 

 

僕が小学校低学年の頃、家族で黒部ダムへ日帰りで出掛けた時に、自家用車を運転する父は、往路に国道406号線を選んだ。

 

僕が通う信州大学附属長野小学校が国道406号線沿いにあったので、初っ端こそ勝手知った道行きであったが、せせこましい市街地を抜けると、いきなり裾花川の切り立った崖っぷちの道路に豹変して、目も眩む思いがした。

進めば進むほど道路は狭隘になり、そのうちにセンターラインもなくなって、乗用車同士のすれ違いにも苦労するようになったので、幼かった僕は怖くて泣き出してしまい、

 

「泣くな、何を泣くことがあるんだ」

 

と、父に一喝された。

ハンドルを握る父も、内心は冷や汗ものだったのではないだろうか、と今にして思う。

 

 

国道406号線は恐ろしい道路だった、と幼心に刻まれただけで、後は何にも覚えていないのだが、最近になって、自分でハンドルを握り、長野から白馬へ抜けてみた。

 

僕の心胆を寒からしめた絶壁の上の道路は、驚いたことに、崖から飛び出した橋梁で迂回し、張り出した尾根をトンネルでくぐる新道に生まれ変わっていた。

北陸自動車道が、親不知の難所を海上に架けた橋梁で迂回しているのと同様の荒技である。

橋のたもとで右に分岐して行き止まりになっている旧道に気づけば、このように貧弱な道路を走っていた昔が夢のようである。

 

 

ところが、その先は、九十九折りの坂道も、見通しが悪くて離合が困難な隘路も、往時と全く変わりがなく、時代から取り残されているかのようだった。

それでも、この程度の道に恐怖を感じたのか、と苦笑したくなったのは、僕も大人になったということだろう。

 

裾花ダムの先では、奥まっていく裾花峡の美しさに心を打たれた。

戸隠へ向かう県道を分岐し、ひっそりとした鬼無里の集落を過ぎて、白沢洞門をくぐり抜けた先で、白馬連峰を一望の下に見晴るかす峠の眺望の見事さに、言葉を失った。

 

 

白馬村の村名は、飛騨山脈の白馬岳に由来するのだが、山の名は「しろうま」、村名や駅名は「はくば」である。

紀行作家の宮脇俊三が、白馬の駅名が「しろうま」でないことが気に入らない、と書いていたことを思い出す。

そこまで拘ることだろうか、と苦笑したけれども、田植えの季節になると白馬岳の山頂近くに現れる雪渓が馬の形をしていたことから、農耕用の「代掻き馬」に見立てて「代馬岳」と称され、「白馬岳」に変化したというのが、一般に流布している通説で、「はくば」と音読されるようになった推移は明らかではない。

 

明治13年に刊行された「信濃圀地誌畧字引」では「白馬」に「ハクバ」のルビが振られており、白馬岳開山の父と呼ばれた松澤貞逸氏が明治期に建てた白馬山荘も「ハクバサンソウ」、白馬村で最も古い村立小学校の校歌は「高くそびゆるハクバサン」と歌われているという。

 

 

「残雪白駒の蒼穹を奔騰するが如し」と、明治期の登山家である志村烏嶺が記したように、

 

「昔の人は黒くて小さな雪渓より、山をもっと大きく見ていたと思うんですよね」

「地元の山関係者の間では昔から『ハクバダケ』と呼んできた歴史があり、少なくとも私たちは『シロウマ』だとは思っていません」

 

と、地元の案内人組合の人が断言している。

 

国道406号線から眺める白馬岳には、駆ける白駒の姿がくっきりと浮かび上がっていた。

父は、この車窓を僕らに見せたかったのだな、と思った。

 

 

地形図を見ると、国道406号線の鬼無里と白馬の間における南への大回りは、妙高・戸隠連峰の西に連なる標高2000m級の尾根筋を避けていることが分かる。

古来、白馬村では、姫川が刻む峡谷の西に連なる飛騨山脈を西山と呼び、対比する東の山並みを東山と呼んでいたという。

東山連山の最高峰は標高1926mの堂津岳で、東山も1849mの固有の山として存在するが、見上げれば、隣りの黒鼻山と並んで白馬連峰に劣らない立派な山嶺である。

 

東山連山には、北から奉納峠、柄山峠、柳沢峠、夫婦岩越峠が、塩の道の脇往還として東西を結び、特に柄山峠は白馬の人々にとって善光寺参りの主要街道で、十三曲がりと呼ばれる険しい峠越えであったと伝えられている。

現在は、土砂崩れや草木の繁殖によって荒れ果ててしまい、国道406号線は、夫婦岩よりも更に南を回ることになった。

 

国道を名乗りながらも、そのような悪路であるから、国道406号線が長野と白馬を結ぶ主流になるはずもなく、長野からの路線バスも、県道経由戸隠行きと鬼無里行きが使うだけで、白馬まで走り通す路線はなかった。

長野と白馬を行き来するには、大町行きのバスに乗り、美麻村の青具で白馬行きに乗り換える必要があった。

 

 

この国道406号線の道行きが、長野と白馬を結ぶメイン・ルートになったかもしれない歴史がある。

 

善光寺白馬電鉄、という会社がある。

今も長野市に本社を置く運送会社であるが、社名が示すように、かつては鉄道事業者であり、昭和11年から昭和19年まで、長野と白馬を結ぶ構想の鉄道を運営していた。

大正期に長野商工会議所が計画した鬼無里鉄道が元祖とされているが、第一次世界大戦後の不況により実現しなかった。

昭和初期に免許を申請したものの、鉄道省がなかなか認可せず、諏訪出身の鉄道大臣が赴任して、やっと認可が下りたという。

 

 

昭和初期の不況下での建設となったため、電化の計画をガソリンカーに変更し、昭和11年に南長野-善光寺温泉東口間が開業、昭和17年12月に裾花口まで延伸され、更に信濃四ツ谷駅(後の白馬駅)まで建設が予定されていたものの、資金難と、峻険な山岳地帯を控えていたことで、それ以上の工事は進まなかった。

太平洋戦争下の企業整備による国からの休止命令を受けて、昭和19年1月に運転を取り止め、レール等の資材は蘭領インドシナのセレベス島に送られたと言われている。

 

終戦後に、長野市や白馬村など関係自治体による復活運動が行われ、民間による建設は困難として、信越本線三才駅から戸隠、鬼無里を経て白馬に向かう「信越西線」の建設を国鉄に請願したが、財政悪化を理由に採用されなかった。

一方、長野県企業局による裾花ダムの建設が決定し、裾花口駅付近の路盤やトンネルが水没することになったため、昭和44年に正式に廃線となったのである。

 

 

長野駅の南、国道18号線と19号線が交差する中御所付近に設置された南長野駅から、裾花川の東岸沿いに北上し、市街地を外れると、裾花川を西岸、東岸と渡りながら茂菅、善光寺温泉を経て、鬼無里、白馬を目指した鉄道は、僅か8年の短命でありながら、善白鉄道と呼ばれて親しまれたと聞く。

僕の実家も裾花川東岸に建つ県庁の近くにあり、善白鉄道沿線と言って良い。

 

実家の南にある山王小学校では、グラウンドと裾花川を隔てる小高い盛り土があって、これは何だろう、と子供の頃から不思議であった。

県庁の上流、中部電力里島水力発電所の近くは、小学校の頃に川遊びや釣りに出掛けた馴染みの場所で、険しい崖の上を行く国道406号線を正面に見上げる、峡谷の入口のような地形だったが、ここに、古びた橋脚がせせらぎに洗われて残されていた。

 

 

前者は山王駅跡、後者は第1裾花鉄橋の跡で、どちらも善白鉄道の遺構と知ったのは、かなり後のことである。

善白鉄道の写真を見て、近所にあった謎の構造物に線路が敷かれ、列車が走っている姿に、時を越えたような気分になった。

 

僕が生まれる遥か昔に消滅した鉄道であるけれども、善白鉄道は、とても身近な鉄路であった。

善白鉄道が健在だったら、長野冬季五輪で活躍しただろうな、と夢想したくなる。

 

運転休止から半世紀が経過し、経路は違えども、颯爽と「オリンピック道路」を快走する特急長野-白馬線のバスは、善白鉄道の申し子のように思えてならない。

 

 

県道31号線を進むと、小川村の隣りは美麻村で、バスは信号のない簡素な三叉路で県道33号線に入った。

県道33号線がそのまま真っ直ぐに伸び、大町へ向かう31号線の方が左折する構造で、長野冬季五輪の会場となった白馬への行き来が主流なのだな、と思わせる。

 

村名の由来となった麻作りでは、質の良さが全国的に知られ、美麻で作られた麻糸は講道館の柔道畳の表に経糸として使われていたという。

高原の趣がある穏やかな地形で、ここまでが土尻川の上流にあたる。

 

路線バスで通った時は、ここまで良い道ではなかったから、五輪の効果は絶大だと感心する。

これほど立派な道路を造れるのだから、どうして、善白鉄道はこちらに線路を敷かなかったのだろう、と思う。

20世紀最後の冬の祭典が終わって4年が過ぎ、強者どもが夢の跡ではないけれど、行き交う車は少ない。

 

 

美麻村で分岐した県道33号線を進むうちに、どんよりと曇っていた木島の空模様が嘘のような快晴となり、白馬連峰が流麗な姿を現した。

西日に照らされた田圃の青さが、眩しく目に染みる。

 

山々に囲まれながら気持ち良く北西に走れば、左手から少しずつ近づいて来た国道148号線・糸魚川街道に合流し、姫川の西岸に沿って更に北上した特急バスは、定刻に白馬駅前に滑り込んだ。

 

 

JR大糸線の上り電車に1時間半ほど揺られて、すっかり日が暮れた松本で1泊した僕は、翌日の9時35分に松本バスターミナルを発車する「みすずハイウェイバス」松本-飯田線に乗り込んだ。

 

昭和63年に県都長野と伊那・駒ケ根、飯田を結んで走り始めた「みすずハイウェイバス」には、松本と飯田を結ぶ系統も設けられていた。

当時の僕は、「みすずハイウェイバス」松本-飯田線が無性に羨ましかった。

長野を発着する系統は、長野自動車道が部分開通であったために、豊科ICまで国道19号線を走るしかなく、冗長な所要時間であったのに対し、松本発着系統は、松本ICから飯田ICまで高速走行が可能だったからである。

 

 

平成5年の長野道全線開通に伴って、そのような引け目はなくなったものの、「みすずハイウェイバス」松本-飯田線に乗車するのは今回が初めてだった。

開業してから14年間も乗らずに放置していたのは、別にやっかみではなく、単に松本と飯田の間を高速バスで行き来する機会に恵まれなかっただけである。

 

「特急 飯田」と行先表示を掲げて松本バスターミナルに入線してきたバスを目にすれば、初乗り路線であるから、やっぱり心が躍る。

現金なものだ、と自嘲しながらバスに乗り込めば、発車の時点での乗客数は僅かに数名で、拍子抜けがした。

 

 

松本ICから盛り土の長野道に入れば、高曇りであるけれども、安曇野の彼方に連なる飛騨山脈の山襞まではっきりと見える。

塩尻峠をトンネルでくぐり抜け、高架橋で岡谷市街の上空をひと跨ぎで越えて中央自動車道に合流し、あとは天竜川に沿って坦々と走り続ければ、瞬く間に飯田ICだった。

 

松本バスターミナルを出て、11時20分着の飯田駅まで僅かに1時間45分、2つの街はこれほど近いのか、と、この日は拍子抜けしてばかりである。

少なくとも伊那谷の人々にとって、長野県の県庁所在地は長野市より松本市の方が相応しいのかもしれない、と余計なことまで脳裏に浮かんでしまう。

 

 

飯田駅で昼食を摂り、改札を通ってホームに出れば、13時42分発の豊橋行き特急「伊那路」2号が、早くも扉を開けて待機していた。

本当に飯田線に特急列車が運転を始めたのだな、と感慨深くなる。

わざわざ信州を縦断して来た今回の旅の最大の目的は、特急「伊那路」に初乗りすることであった。

 

飯田線の優等列車の歴史は、太平洋戦争前の昭和10年)から昭和16年まで、当時の愛知電気鉄道、現在の名古屋鉄道が、神宮前駅から中部天竜駅まで、飯田線の前身となる豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道に直通した臨時の観光列車「天龍」に遡る。

太平洋戦争が始まる直前の昭和16年に、不要不急の行楽輸送が自粛されるようになったため運転を終了しているが、昭和36年から、名古屋と辰野の間で準急「伊那」が運転を開始した。

その後、一部の列車が名古屋-豊橋間を快速運転に格下げされたものの、飯田発着が2往復、辰野発着が1往復、上諏訪発着が1往復という堂々たる運転本数であった。

 

ところが、昭和50年に中央自動車道が開通し、「中央道特急バス」が名古屋-飯田間、名古屋-駒ケ根・伊那間に登場すると、急行「伊那」の利用者は減少の一途をたどり、昭和58年に廃止されたのである。

 

 

宮脇俊三の著作「最長片道きっぷの旅」には、昭和50年代の急行「伊那」の貴重な乗車記があり、豊橋15時09分発の「伊那」5号が4両編成であることなど、興味深い記述が多い。

 

『きょうはこのあたりから先のダイヤが乱れているらしく、上り電車がみんな遅れてくる。

交換待ちのため、この急行も遅れはじめた。

天竜峡で15分、通過するはずの駄科でも15分停車した。

 

「こんどから中央高速のバスにしよう」

 

という話し声も聞こえてくる。

名古屋からの客であろう。

恵那山トンネルが開通して、名古屋から飯田までバスなら2時間半で行ける。

飯田線は豊橋-飯田間だけで3時間かかる。

どうもまずいことになっている』

 

 

利用が伸び悩んでいた飯田線の活性化対策として、平成4年に、久々の優等列車である臨時急行「伊那路」が豊橋-飯田間で運転を開始した。

利用客数は順調に推移し、運転日も増えたが、投入されていた165系急行用電車の老朽化が進んだため、JR東海は平成8年に新型特急用車両373系を投入し、「伊那路」を特急に昇格させて、1日2往復の定期運転を開始したのである。

 

飯田線の特急列車計画としては、昭和の終わり頃に、長野と飯田を結ぶ急行「天竜」を昇格させる県内特急構想が囁かれたことがあったが、飯田線の線形が、前身の私鉄4社の時代から殆んど改良されず、高速運転が困難であることから見送られた推移がある。

それだけに、特急「伊那路」が登場した時には、飯田線に特急が?──と首を傾げたのも事実である。

 

それでも、飯田線で初めての特急列車であるから、乗りたくてうずうずしながらも、いつの間にか6年の歳月が流れてしまったので、今回の帰郷が1つの機会であった。

 

 

373系特急用車両は、当時、東海道本線東京-静岡間を結ぶ特急「東海」や、身延線で静岡-甲府間を結ぶ特急「富士川」、そして夜行快速「ムーンライトながら」で使用されており、僕も何回か乗車経験があった。

 

「伊那路」は3両編成で、信州を走る特急電車では最も短く、1両が普通車指定席、2両が自由席車で、グリーン車は連結されていない。

これで特急料金を徴取するのか、と言われないのかと心配になるが、普通列車で3時間半前後を要する豊橋-飯田間の129.3kmを2時間半で走破するのだから、優等列車には違いない。

表定速度の時速51.7kmは、思った以上に頑張っているじゃないか、と思うけれど、我が国の特急列車では有数の鈍足であろう。

 

 

編成が短かろうが、速度が遅かろうが、自由席で好きな席に収まり、ゆったりと寛げば、嬉しさが込み上げて来る。

幾ら高速バスが好きであっても、鉄道が醸し出す旅情には敵わない。

 

『この列車は飯田駅13時42分発の上り特急「伊那路」2号豊橋行きです。飯田を出ますと、天竜峡、平岡、水窪、中部天竜、湯谷温泉、本長篠、新城、豊川、終点豊橋の順に停まります。この列車は特急列車です。乗車券の他に特急券が必要です。列車は前から3号車、2号車、1番後ろの車両が1号車の順です。指定席は、1番後ろの車両1号車と、2号車、3号車にございます。大きなテーブルのついた席、セミコンパートメントは指定席となっております。指定席を御利用のお客様は、座席番号をお確かめの上、御利用下さい。自由席は2号車と3号車です。2号車と3号車は一部指定席です。お乗り間違えのないよう、御注意下さい。この列車は全席禁煙車です』

 

車掌による発車前の案内も、程よく旅心を盛り上げてくれる序曲である。

この車掌ならば、道中を安心して任せられるな、と安心できる落ち着いた口調だった。

続いて、女性の声で甲高く乾いた録音が流れ始めたので、おや、と顔を上げた。

 

『御案内します。この列車は特急「伊那路」2号豊橋行きです。停車駅は天竜峡、平岡、水窪、中部天竜、湯谷温泉、本長篠、新城、豊川、豊橋です。前から3号車、2号車の順で、1番後ろが1号車です。指定席は1号車、自由席は2号車と3号車です。なお、2号車と3号車は、一部指定席です。お乗り間違えのないよう、御注意下さい。この列車は全車禁煙車です』

 

『Ladies and gentlemen, welcome to the “Inaji”. This is the limited express “Inaji”number 2 bound for Toyohashi. We'll stop at Tenryukyo, Hiraoka, Mizukubo, Chubu-Tenryu, Yuya-Onnsenn, Hon-Nagashino, Shinshiro, Toyokawa, and Toyohashi.Cars 2 and 3 are for passengers without seat reservation. Car 1 and part of cars 2 and 3 are for passengers with seat reservation. This train is non smoking. Thank you』

 

似たような内容の放送を日英2つの言語で3度も繰り返すとは、至れり尽くせりのもてなしぶりで、乗客を株主になったかのような気分にさせてくれるが、若干、くどくもある。

同じ内容のように見えて、英語版は事実を坦々と伝えるのみで、「お乗り間違えのないよう、御注意下さい」とは言っていない。

我が国の鉄道における懇切丁寧な車内放送は定評があり、海外の列車では、案内などいっさい耳にしないと聞いたことがある。

 

レールウェイライター種村直樹氏が、欧州の列車に乗車し、途中区間で代替バスに乗り換える経験談を読んだことがある。

案内放送がないままに暫く停車していた駅で、客室にひょいっと顔を出した車掌が、

 

「Change here!」

 

と、いきなり叫んだので、大いに慌てさせられた、という描写が忘れられない。

 

「伊那路」2号の車内を見回しても、座席を占めているのは日本人と思しき乗客ばかりで、飯田線に英語の放送が必要なのかな、と誠に失礼な疑問が心に浮かぶ。

東京と長野を結ぶ在来線特急「あさま」の時代に英語のアナウンスなど聞いた覚えがなく、英語放送が加わったのは、長野新幹線になってからである。

 

アナウンスだけ耳にすれば、あたかも東海道新幹線に乗っているかのような気分にさせられるのは、JR東海の列車だからであろうか。

 

 

飯田線は、明治33年に豊橋-長篠間を開通させた豊川鉄道、大正12年に長篠-三河川合間を開業した鳳来寺鉄道、三河川合-天竜峡間を昭和12年に開業した三信鉄道、そして昭和2年に天竜峡-辰野間を全通させた伊那電気鉄道の4つの私鉄が敷設し、昭和18年の戦時統合で国有化されたが、昭和62年の国鉄分割民営化に伴い、長野県内で唯一、飯田線のみがJR東海の管轄になった。

 

『お待たせ致しました。間もなく発車致します。ドアを閉めます。御注意下さい』

 

しばらく待っていると、車掌の落ち着いた肉声が発車を告げた。

373系電車は、デッキとの仕切り扉がなく、するすると扉が閉まるのが、座りながら眺められる。

冬になれば客室が直接風にさらされる構造で、寒いのではないか、と心配になる。

 

 

特急「伊那路」2号は、転轍機をがたがた鳴らしながら飯田駅の構内を抜けると、天竜川の支流の松川が築いた河岸段丘を下り始める。

飯田駅そのものが、天竜川右岸の丘の上に広がる飯田市街に、西へ凸の形をした迂回をしているのである。

 

平地に降りると、ぎっしりと家々がひしめく集落の合間に、青々と稲が生え揃う水田や竹藪が次々と現れる。

飯田にある父の実家の周囲にも竹林が多く、伊那谷だな、と懐かしくなる。

 

 

『今日も特急「伊那路」号を御利用いただきましてありがとうございます。この列車は、特急「伊那路」2号、豊橋行きです。停車駅は、天竜峡、平岡、水窪、中部天竜、湯谷温泉、本長篠、新城、豊川、豊橋です。続いて車内の御案内を致します。前から3号車、2号車の順で、1番後ろが1号車です。指定席は1号車、自由席は2号車と3号車です。なお、2号車とと3号車は、一部指定席です。お乗り間違えのないよう、御注意下さい。この列車は、全席禁煙車です。化粧室は1号車。屑物入れは各デッキにあります。次は天竜峡です』

 

発車後の最初の案内は女声の録音だったが、車掌の渋い肉声が続く。

 

『御乗車ありがとうございます。この列車は、飯田線上り特急「伊那路」2号、豊橋行きです。この列車は特急列車です。乗車券の他に特急券が必要です。列車は3両での運転で、前から3号車、2号車、1番後ろの車両が1号車の順です。指定席は、1番後ろの車両1号車と、2号車、3号車にございます。大きなテーブルのついた席、セミコンパートメントは指定席となっております。指定席を御利用のお客様は、座席番号をお確かめの上、御利用下さい。自由席は2号車と3号車です。お手洗いは、1番後ろの車両、1号車にございます。屑物入れは各車両のデッキにございます。どうぞ御利用下さい。なお、この特急列車は車内販売などはございません。あらかじめ御了承下さい。最後に、停車駅と到着時刻を御案内致します。次の天竜峡は13時57分、平岡14時24分、水窪14時47分、中部天竜15時、湯谷温泉15時29分、本長篠15時36分、新城15時49分、豊川16時01分、終点豊橋には16時11分に到着の予定です。担当します乗務員は、運転士〇〇、車掌△△です。途中、中部天竜まで御案内致します。次は天竜峡です。降り口、左側です』

 

放送の半ば頃から、こんもりとした山塊が左右から迫ってきたので、次の停車駅までに懇切丁寧な案内が終わるのか、とハラハラしたが、

 

『間もなく天竜峡です。天竜峡を出ますと、次は平岡に停まります』

 

『Ladies and gentlemen, we will soon make a brief stop at Tenryukyo. After leaving Tenryukyo, we will stop at Hiraoka.Thank you』

 

『御乗車ありがとうございました。間もなく天竜峡、天竜峡です。降り口左側です。ドアは自動で開きます。ドアから手を離してお待ち下さい。天竜峡を出ますと、次は平岡に停まります。御乗車ありがとうございました。間もなく天竜峡です』

 

と、日本語録音、英語録音、肉声の3種類の放送が入る余地を残して、「伊那路」2号は天竜峡駅に滑り込んだ。

ドアから手を離してお待ち下さい、という案内が珍しく、飯田線の電車は手動の扉が多いのかな、と思う。

 

 

駅舎に遮られて見えないけれども、ホームの先の踏切で交差する県道に視線を転じれば、その先の天竜川に架けられた姑射橋が、ありありと眼に浮かぶようである。

 

天竜峡は、父の実家に行けば、必ず連れて行かれたものだった。

父にとっても、故郷の自慢の名所だったのだろう。

古びた土産物店があるくらいで、子供には決して面白い場所ではなかったが、大人になって再訪した際に、その風景には大いに魅入られた。

姑射橋の北を見下ろせば、白砂の河原が広がり、天竜舟下りの船着き場がある。

橋の上で南に向き直れば、切り立った峡谷になっている対称の妙が面白い。

秋になれば、緑の川面に映る山肌の紅葉が美しかった。

 

 

天竜峡を過ぎると、それまで長閑な平地を坦々と走って来た「伊那路」の車窓は一変し、天竜川が深々と谷を削る山峡に足を踏み入れて行く。

「ワイドビュー」との愛称がつけられているだけあって、373系車両は、左右ばかりでなくデッキから前方の景色が眺められるので楽しい。

信州と遠州の国境を流れる天竜川は暴れ川で知られる急流だったが、今では幾つものダムが築かれて激流は影を潜め、代わりに、たっぷりと水を湛えた川面が線路の真下に迫っている。

 

崖の中腹に張りついたようなホームがあるだけの小駅を、「伊那路」はゆっくりと通過していく。

何処に人が住んでいるのか、と首を捻りたくなるような孤立した駅ばかりであるが、所々に現れる橋の対岸に集落が見える駅もある。

 

長野県の最南端で静岡県と愛知県に接し、老年人口比率が60.2%と群馬県南牧村に次いで我が国で2番目に高いという天龍村の平岡駅だけが、やや広めの平地に散在する家並みが見受けられるものの、駅前の路地に人影はない。

谷の向こう側の山腹に見え隠れする国道151号線だけが、生き生きと車が行き交っている。

 

 

長野県で最後の駅になる中井侍を過ぎると、次の小和田駅との間にある県境を過ぎたあたりから、山肌を覆う木々が没している光景が目立ち始めた。

水中に目を凝らすと、木々の梢が沈んでいる。

ダム湖だな、と思う。

 

大嵐駅から水窪駅の間に飯田線で最長となる5063mの大原トンネルがあり、「伊那路」はしばらく天竜川から離れる。

昭和31年に完成した佐久間ダムにより飯田線の線路が水没するため、迂回して新設された区間である。

迂回した先は秋葉街道に沿っていて、16世紀に京へ上るべく大軍を率いた武田信玄も、この街道を上って遠江に出たという。

 

秋葉街道をなぞるように、伊那谷の東を諏訪から浜松に抜けている国道152号線は、フォッサマグナの影響で地盤が悪く、途中の地蔵峠と青崩峠で車が通行できない箇所がある国道として知られている。

飯田と浜松を結んで建設中の三遠南信自動車道も、青崩峠を貫いて完成した草木トンネルが、地盤の脆弱性を理由に高規格道路として不適格と判断され、別に青崩トンネルを掘り直す羽目になった。

青崩とはよく言ったもので、フォッサマグナの特徴を端的に表していると思う。

 

 

全長3619mの峰トンネルで飯田線が天竜川の川べりに戻ると、佐久間駅の対岸に、武骨な佐久間発電所が現れた。

排水口からは、毎秒300トンと言われる大量の水が、川面を轟々と泡立てている。

 

佐久間駅の次の中部天竜駅は、時刻表で飯田線の頁を開くと、大仰な字面が最も目立つ駅である。

豊橋から中部天竜までの区間運転で折り返す列車も多く、「伊那路」2号の乗務員も、敬礼を交わしながら交替する。

大層な駅名をつけたものだ、と思ってしまうけれど、「中部」は駅の対岸にある集落の名前で「なかっぺ」と読み、かつては「ちゅうぶてんりゅう」ではなく「なかっぺてんりゅう」と呼ばれていたと知れば、自然と頬が緩む。

 

席を立ってホームに顔を出してみると、雨上がりの山峡の冷気が頬に心地良く、真夏とは思えない。

 

 

中部天竜駅を発車すると、あちこちに茶畑が現れて地形が穏やかになり、車窓が明るく感じられる。

武田信玄ばかりでなく、信州の人々が険しい山越えに苦労しながら京に上った時も、この解放感を味わったのだろうか、と思う。

 

その先もまだまだ山深く、三河川合駅から池場駅、東栄駅を経て出馬駅までの区間には、101mの千歳トンネル、118mの金山第1トンネル、326mの屏風山トンネル、1114mの池場トンネル、117mの三遠トンネル、314mの城山トンネル、174mの弓ノ瀬トンネル、372mの押越トンネル、203mの狸原トンネル、148mの棚橋トンネル、156mの中ノ瀬トンネルといった、大小のトンネルを目まぐるしく出でてはくぐる。

静岡と愛知の県境となる分水嶺は、出場駅と東栄駅の間の三遠トンネルで、飯田線は天竜川水系から豊川水系に移っていく。

 

 

大海駅の先には、流紋岩の平たく砂利がない川底に、澄んだ水を張ったかのような鳳来峡の渓流が寄り添う。

 

鄙びた旅館が並ぶ湯谷温泉を過ぎると、線路が長篠城址の本丸跡を突っ切るので、このような旧跡を線路で分断してしまったのか、と驚かされる。

長篠と言えば、織田信長と徳川家康の連合軍が鉄砲の三段撃ちで武田勝頼の騎馬軍を破った合戦を思い出すし、鳥居駅の駅名標を見れば、長篠合戦の前に武田軍に包囲され、糧食が残り少なくなった長篠城から、織田・徳川本隊へ伝令に出た鳥居強右衛門が偲ばれる。

 

 

『翌15日の朝、勝商(鳥居強右衛門)は山に上りて狼煙をあげ、走りて岡崎に至り、家康に見えて援兵を求む。

家康、直ちに勝商をして織田信長に見えて長篠城の急を告げしむ。

信長、勝商の労を賞し、かつ言ふ、「我、明日援軍を率いて出発せんとす。汝も止りて我と共に行け」と。

勝商、城内の苦しみを思へば一刻も猶予すべきにあらずとて、直ちに引返す。

16日、勝商は再び山上に狼煙をあげ、次いで城内に入らんとするに、不幸にして敵兵に発見せられ、勝頼の前に引出される。

勝頼、勝商に向かひて言ふ、「明日城門に行きて、『援軍来らず、速に降るべし』と言へ。さらば我必ず重く汝を賞せん」と。

勝商これを諾す。

翌日、勝商、敵兵十余人に囲まれて城門の近くに至り、城に向かひて高らかに呼んでいはく、「うれふることなかれ。徳川・織田二公、援軍を率ゐて既に出発せらる。囲みの解けんは二三日のうちにあらん」と。

勝頼、怒りて直ちにこれを殺せり』

 

戦前の教科書にも取り上げられている逸話を僕が知ったのは、小学生で読んだ日本史の漫画で、磔にされた鳥居強右衛門が槍で突かれながら「援軍が来るぞ」と叫び続ける描写だったことを覚えている。

 

 

その先は、三河平野の平坦な道行きだった。

三遠信国境の迫力ある車窓の余韻に浸りながら、暮れなずむ町並みにぼんやり目を向けていると、終点を知らせる放送が流れ始めた。

 

『御乗車ありがとうございます。間もなく終点豊橋、終点豊橋です。4番線の到着、出口は左側です。ドアから手を離してお待ち下さい。新幹線、東海道線、名鉄線、豊橋鉄道線はお乗り換えです。乗り換えの御案内を致します。新幹線下り「こだま」号新大阪行きは16時34分、乗り場13番線。同じく新幹線上り「こだま」号東京行きは16時27分、乗り場12番線。東海道線下り、刈谷、金山、名古屋方面お急ぎの方は、新快速大垣行き、16時15分、乗り場はホーム変わりまして7番線。同じく名古屋方面、各駅に停まります普通列車の大垣行きは16時27分、乗り場、ホーム変わりまして6番線。東海道線上り、二川、新所原方面興津行きは16時22分、乗り場、ホーム変わりまして8番線です。間もなく終点豊橋です。網棚や座席の上、お足元など、車内にお手荷物、お忘れ物なさいませんようお気をつけ下さい。本日もJR東海、飯田線特急「伊那路」号を御利用いただきありがとうございました』

 

車掌の交替をさほど気にしていなかったのだが、中部天竜までの低く落ち着いた車掌の声と比べれば、流暢ではあるものの、何処か女性的な声色だった。

続く録音の女性アナウンスの滑舌に張りを感じたほどである。

 

『Ladies and gentlemen, we will arrive at Toyohashi terminal in a few minutes. Passengers going to Shinkansen, Tokaido line, Meitetsu line, and Toyohashi Tetsudo line, please change train here at Toyohashi. Thank you』

 

 

東海道新幹線とそっくりな英語のアナウンスに耳を傾けているうちに、言われた通り、上りの新幹線で素直に東京へ帰るのが惜しくなった。

16時27分発の「こだま」468号に乗れば、東京駅には18時49分に着く。

明日は出勤しなければならないけれども、まだまだ遊びたい、と子供のような誘惑に駆られたのである。

 

午後4時過ぎに豊橋にいる人間が、東京へ戻るにあたって、その日のうちに出来る寄り道など、大した選択肢があるはずもない。

豊橋駅でホームを共有している名鉄の特急電車を目にして、これだ、と思った僕は、東京を背にして新名古屋駅に向かった。

JR名古屋駅のコンコースを通り抜けてJR東海バスのターミナルに歩を運ぶと、18時00分発の「東名ハイウェイバス」静岡行き最終便の乗車券を手に入れた。

 

 

「東名ハイウェイバス」は、何度も乗車したことがあるにも関わらず、全てが東京駅発着便で、名古屋と浜松、静岡の間に区間運転されている便に乗ったことはなかった。

いつかは、と思っていたものの、万難を排して、と意気込むほどの路線でもなく、なかなか乗りに来れなかった。

 

長いこと乗り残していた「みすずハイウェイバス」松本-飯田線と同じく、今回が良い機会であった。

未乗の高速バスばかりを繋げた、落ち穂拾いのような旅になったな、と可笑しくなる。

 

 

定時に発車した静岡行き512便が、車がひしめく名古屋市内を走り抜けて、名古屋ICから東名高速道路に乗る頃、夏の長い日はすっかり暮れていた。

 

行き交う車のヘッドライトやテールライトが薄暗い車内を照らし出すだけの、侘しい道行きである。

車内は閑散として、座席に身を沈めている数人の乗客は、ひっそりと気配を感じさせない。

今日中に東京に帰らなければならないのに、静岡行きの最終便なんかに乗っていて良いのか、と心細くなったが、浜名湖SAの休憩で、湖面を渡ってくる小雨混じりの夜風に吹かれながら、落ち着いてバス旅を味わっている自分が意外でもあった。

これが現実逃避というものだろうか。

 

全てのバスストップに立ち寄っていく急行便なので、多少もどかしかったものの、東京に急がなければならない理由は何処にもない。

けたたましく走っているようでいて、その実、所要時間は普通列車と変わらず、どっち付かずのテンポが高速バスの魅力かな、と思ったりする。

 

 

静岡駅に着いたのは、名古屋を出て3時間半が経過した21時半過ぎであった。

後は、22時09分発の上り最終の「こだま」434号で東京に向かう以外に、選択肢はない。

この列車が東京駅に着くのは23時35分、素直に帰るより5時間も道草を食った訳である。

 

観念して改札に向かうと、駅前ロータリーに停車中の2階建て夜行高速バス「京阪神ドリーム静岡」号の姿を見かけて、思わず足が止まった。

空席があるのかな、などと考えている自分に驚かされた。

 

木島、白馬、松本、飯田、豊橋、名古屋、静岡と、乗り物尽くしの2日間を過ごしたと言うのに、まだ乗り足りないのか、と我ながら呆れてしまった。

 

 

 

 

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