関越高速バスで土合駅地下ホームを訪問~加えて越後湯沢-野沢温泉急行バス湯の花号で信州へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

池袋に行くのは、他の繁華街とは異質の楽しさがあった。

 

昭和60年から品川区大井町に住んでいた僕にとって、遊びに行く繁華街と言えば渋谷がせいぜいで、山手線の対角線上に当たる池袋まで出掛けるのは、異世界への大旅行のように感じられたものだった。

現在のように大井町から埼京線に直通するりんかい線が出来ていれば、池袋へ行く頻度は増えたかもしれないが、その全線開業は平成14年12月のことである。

 

 

池袋の街は、新宿や渋谷といった山手線西側の副都心に比して、何処か垢抜けていない印象を抱いていた。

1日の乗降客数が262万人にも及ぶ池袋駅が、新宿駅に次ぐ東京第2のターミナルであると頭で理解していても、出入りするJR埼京線や東武東上線、西武池袋線が運んでくる、土の匂いが混ざったような素朴な雰囲気に、強い郷愁を感じていたのである。

 

それでも、時々、意を決して池袋まで足を伸ばしたのは、東口の西武百貨店本店にある西武ブックセンターが目当てであった。

昭和60年に開店したので、ちょうど僕の上京と期を一にしていた訳で、当時はテナントの書店として日本一の床面積を誇っていた。

平成10年頃であったか、西武百貨店本店を久しぶりに訪れ、ブックセンターを探し求めて広大な店舗を彷徨い、別棟に移転しているのを知った時には、閉店した訳ではないにも関わらず、青春のひとコマを過ごした場所が消えてしまったことを寂しく感じたものだった。

実際の閉店は、三省堂書店と入れ替わった平成15年である。

 

 

池袋を訪れる理由は、もう1つあった。

池袋駅東口を起点として、新潟、高田、富山、高岡・氷見、金沢、軽井沢、小諸・上田、長野、津・伊勢、紀伊勝浦、大津、大阪へと路線網を伸ばした高速バスに乗るためである。

 

西武ブックセンターと同じく昭和60年に登場した「関越高速バス」池袋-新潟線を初体験した時は、新しい高速バスに出会える喜びで有頂天だった。

気軽に飛び乗れる高速バス路線がまだ少なかった時代だったので、同線は幾度か利用している。

 

初乗りから数年後、僕は9時05分に池袋駅東口を発車する新潟行きのバスに乗るべく、池袋駅東口の横断歩道でロータリーを横断し、商店街の歩道に設けられた高速バス乗り場に足を運んだ。

軒を並べる店舗は忙しく開店の準備に追われていたが、広い歩道を行き交う人々の姿は疎らである。

バス乗り場に面したハンバーガー屋だけが、カウンターに列が出来ていた。

 

日帰りの小旅行であり、出掛けた日時の記憶は定かではない。

まだ西武百貨店の開店時間前だから、ブックセンターに立ち寄ることは出来ないな、と考えた記憶が残っているので、平成の初頭だったのだろう。

ふと空を見上げれば、抜けるような青空が眩しい初夏のことだった。

 

 
サンシャインプリンスホテルが始発の「関越高速バス」池袋-新潟線は、白地に緑のラインが入った新潟交通の3軸スーパーハイデッカーだった。

 

二十数人の乗客を乗せたバスは、定刻に池袋駅を後にすると、明治通りでビル街を抜け出し、緩やかな左カーブを描きながら神田川が刻む谷底に駆け降りて、新目白通りに右折する。

ここから関越自動車道練馬ICまでおよそ11km、バスは下落合駅と練馬区役所で乗車扱いをしながら、延々と下道を走る。

 

新目白通りは中央分離帯を備えた片側2車線の立派な幹線道路であるが、如何せん交通量が多いので、いつ走っても、ひしめく車の流れは滞り気味である。

雑居ビルや店舗が軒を連ねているだけの平凡な車窓が続くので、もどかしい旅の導入部である。

関越道は、東京から放射状に伸びている高速道路の中で、唯一、首都高速道路と繋がっていない。

 

 

計画はあるらしい。

その証が、首都高速5号池袋線の早稲田ランプの構造である、と耳にしたことがある。

 

首都高速5号池袋線の開通は昭和44年であるが、早稲田ランプの着工は昭和49年、完成が昭和62年と、後付けの出口だった。

後に、大井町から引っ越した自宅が早稲田ランプに近かったので、何度か利用したことがあるのだが、首都高速5号線の本線から左に分岐して、右に左にうねりながら延々と住宅街を高架で跨ぎ越し、目白通りの交差点に降り立つまでの距離が異様に長かった。

首都高速と繋げられるような目ぼしい大通りが近くにない、という理由ではなさそうである。

地図を見ると、早稲田の流出路が本線から分岐するのは、目白通りと江戸川橋通りが交差する江戸川橋交差点の近くで、そのままどちらかに繋げてしまっても一向に構わない気がするのだが、流出路は、神田川に沿って台地の南端を西に数百メートルも進む。

 

早稲田ランプが関越道に繋がる首都高速練馬線の分岐点として設計されたために、このように西へ伸ばしたのだ、と言われていることを知ったのは、かなり後のことだった。

平成18年に国土交通省が作成した首都圏整備計画には、「首都高速道路(中央環状品川線、中央環状新宿線、晴海線)、高速1号線、同練馬線、同都心新宿線、同2号線、同内環状線、第二東京湾岸道路等について事業中の区間の整備を推進するとともに、その他区間の調査を推進する」と書かれている。

 

馴染みの早稲田ランプが、関越道に繋がるはずだった首都高速練馬線の遺構であると知った時には、関越道も故郷信州への帰省で通い慣れているだけに、心を揺さぶられた。

半世紀近くも進捗が見られていないだけに、首都高速練馬線が実現することはないだろう、と諦めているけれども、鉄道でも道路でも、未成線という代物には、人を惹き付ける不思議な魅力があるらしい。

 

 

新目白通りは、西落合一丁目交差点で目白通りに合流する。

次々と交わる山手通り、環状7号線、環状8号線、そして笹目通りとは全て立体交差になっているが、いずれも交差する道路の方が陸橋で跨いだり地下道に潜っているので、目白通りには側道との信号が設けられている。

それだけ車の流れが滞るという理屈である。

 

大泉街道との交差点で、初めて西行き車線だけが陸橋になるという不思議な構造が見られる。

東京の地理にあまり詳しくなかった頃は、大泉街道を跨ぐみのわ陸橋と、その先の練馬ICとの区別がつかず、陸橋を登り始めると、いよいよ関越道か、と早合点したものだった。

みのわ陸橋を降りてすぐの練馬ICも、目白通りがそのまま登り勾配になるだけの至って簡素な造りである。

眼を凝らせば「関越道 原付等進入禁止」という小さな標識もあるのだが、陸橋にしては何時までも下り坂にならないな、と思っているうちに、バスはぐんぐん速度を上げ、やがて大泉ICからの流入路が左から寄り添って片側3車線に広がるあたりで、とっくに関越道に入っていることに気づくという案配である。

 

 

関越道の始まりは、堀割や背の高い防音壁が多く、左右の眺望はそれほど望めない。

所沢ICを過ぎた頃に、漸く沿道が見通せるようになると、すっかり郊外になっていて、緑の田畑や雑木林が増えている。

 

ここから高崎ICのあたりまでは、広大かつ坦々とした関東平野をひた走るだけで、車窓の変化に乏しいことは承知している。

早くも居眠りを始める客が目立つのも、この区間である。

長野への帰省で頻繁に利用した特急「あさま」でも、平行する上越新幹線でも、ひたすら退屈に耐えなければならない区間である。

 

それでも、高速バスに乗っていると、鉄道よりも飽きが来ないのは、どうしたことなのか。

高崎線沿線は、ほぼ途切れることなく家々や倉庫、工場などが続く一方で、関越道は緑豊かな田園の中を貫いているためだろうか。

僕が無類のバス好き、という解釈も成り立つのかもしれない。

 

 

広々とした大地と青空の境に、赤城連峰や秩父連山、榛名山系が姿を現し、ゆっくりと近づいて来る。

赤城、榛名、妙義から成る上毛三山は、いずれも火山として形成されたためなのか、稜線がごつごつした奇怪な山容である。

上州に来たのだな、と思う。

 

高崎ICを過ぎると、関越道は緩やかな登り勾配を描いて、上越国境越えに挑んでいく。

エンジン音が車内にも勇ましく轟いて来るけれども、関東平野を疾走していた時のような勢いはない。

道幅も片側2車線に狭まり、きつい曲線が増える。

 

凹凸の激しい山襞がのしかかるように両側から迫り、バスはぐんぐん高度を上げながら、目が眩みそうな高い橋梁で、利根川とその支流が深々と刻んだ谷間を渡っていく。

渋川伊香保ICと沼田ICの間にある片品川橋は、橋長1033.8m、桁下高69mという関越道随一の大規模橋梁で、赤城山の北嶺と武尊山の南嶺を繋いでいる。

左へ緩やかなカーブを描く長いトラス橋を渡りながら、遥か下方に遠ざかった地表を覗き込めば、背筋がぞくっとする。

 

 

深まる山並みを縫って進むうちに、「関越トンネル 10km先」という標識が現れた。

このように遥か手前から予告されているトンネルが、他にあるだろうか。

これからの山越えが只事ではないことが、嫌でも思い知らされて、気分が引き締まる。

 

国道17号線に接する月夜野ICでは、「危険物積載車両はここで出よ」との標識が見える。

月夜野とは美しい響きであるが、平安時代に源順が三峰山より昇る月を見て「おお、よき月よのかな」と感銘したという言い伝えが由来である。

 

地元の旅館のHPを開くと、源順の言葉は「よき月よのう」に変わっていて、それでは駄洒落ではないか、と笑いが込み上げてくる。

加えて、時代劇によく出て来る「越後屋、そちも悪よのう」という台詞を連想してしまうのは、僕だけだろうか。

越後屋は、江戸時代から続く老舗三井家の分家であり、三越百貨店の前身である。

そのような台詞を吐く悪代官が登場しそうな時代劇の代表格は、「水戸黄門」だと思うのだが、黄門様も「越後の縮緬問屋の隠居」を名乗っていたのだから、時代劇と新潟県は何かと縁が深い。

 

 

関越トンネルの直前にある谷川岳PAでは、冬季にタイヤチェーンを外すための広大なスペースが用意されている。

事故や火災などの緊急時に備えた本線上の信号機が、否応なく緊張感を高める。

 

前方に、ぽっかりと楕円形に口を開けているのが、全長1万926m、8年の工期をかけて昭和60年に開通した関越トンネルである。

この旅の当時は、片側1車線だけの対面通行だった。

上りトンネルが開通して上下線が片側2車線ずつ分離されたのは、平成3年である。

巨大なバスから見下ろすと、路肩が少なく圧迫感のあるトンネル内では、高速道路でも道幅をギリギリに感じることがある。

点々と並ぶ簡素なポールで仕切られただけの反対車線を、対向車がびゅんびゅん飛ばしてくる。

高速で走るバスの巨体が左右にぶれないよう、ハンドルを握り続ける運転手さんの緊張感を、ふっと思い遣った。

 

 

トンネルの中ほどに群馬県と新潟県の県境があり、壁に太い線が引かれている。

ゴーッと大量の空気が動く音が、重々しく響いてくる。

換気のために、水上側の入口から3738m地点に谷川地下換気所が、そして湯沢へ残り2968mの地点に万太郎地下換気所が設けられている。

 

万太郎とは谷川連峰の1つである万太郎山のことであろうが、ここを通ると、僕はいつも伊豆天城山系の万二郎岳と万三郎岳を連想する。

万二郎、万三郎は伊豆の天狗の3兄弟の伝説があり、万太郎だけ越後に行ってしまったのかな、と早合点したけれども、長男の万太郎は、西伊豆の戸田の東の達磨山にいるらしい。

谷川岳の方は、その昔、万太郎という名の猟師がいたことに起源するというのは、最近知った。

 

「お茶をどうぞ」

 

交替運転手さんが、長いトンネルの無聊を慰めるかのように、プラスチック製のコップを配り、ポットのお茶を注ぎながら、にこやかに客席を回り始めた。

 

10分近く暗闇の中を走り続けて、不意に明るく視界が開けた時には、眩しさに目がくらむような感じがした。

 

 

魚野川の清流に沿って、なだらかな勾配を駆け下って行くうちに、瀟洒なリゾートマンションや、山肌の林を切り開いたスキー場が幾つも現れる。

 

我が国のスキーの発祥は、新潟県の陸軍第13師団にオーストリア=ハンガリー帝国陸軍のテオドール・エードラー・フォン・レルヒが着任し、高田にある歩兵第58連隊の営庭で技術を伝授した明治44年とされている。

国土の半分近くが雪国である我が国において、遊びとしてのスキーの普及は、積雪に耐えるだけだった冬に対する考え方が変わったと言われ、早くも戦前から越後湯沢、草津、野沢、蔵王などの温泉地を中心に、スキー場が開設されている。

昭和6年に上越線の水上-越後湯沢間が開通すると、臨時のスキー列車も運転されていたという。

 

昭和57年の上越新幹線の開業や、昭和60年の関越道の全線開通とともに、湯沢町は首都圏から最も便利なスキーリゾートとなり、新たなスキー場やリゾートマンションが多数建設された。

昭和61年には国鉄がスキー客専用の臨時列車「シュプール」号の運転を開始し、平成2年に上越新幹線の支線としてスキー場と直結したガーラ湯沢駅が開業、首都圏でも巨大な人工スキー場「ザウス」が建設されるなど、スキー人口が1800万人まで増加した当時のスキーブームの加熱ぶりは、バブル景気に浮かれていた我が国を象徴する現象だったと思う。

越後湯沢と言えば、僕にとって、六本木と似たような華やかなイメージがあった。

 

 

関越トンネルを抜けた「関越高速バス」池袋-新潟線は、新潟県内に入ると、湯沢、小出、小千谷と、高速道路上のバスストップに立ち寄って、降車扱いを始める。

数人の乗客とともに、湯沢ICの料金所に隣接するバスストップでバスを乗り捨てたのは、定刻11時52分であった。

 

高速バスを途中のバスストップで降りるのは、珍しい体験だった。

昭和61年に、新宿と信州を結ぶ「中央高速バス」が、中央道茅野バスストップを終点とする路線を開業したことがあり、その時に高速道路上の停留所で降ろされて以来かもしれない。

本来、バス事業者は新宿と諏訪・岡谷を結ぶ高速バス路線を開業したかったのだが、国鉄の反対や参入希望の事業者間の調整がつかず、先に開業していた新宿と駒ケ根・飯田を結ぶ路線免許を流用したため、高速道路上のバスストップが終点という珍しい路線が登場することになった。

 

 

茅野バスストップから茅野駅までは1kmあまり、大して歩かずに済んだのだが、湯沢バスストップは越後湯沢駅まで約2kmである。

一緒に降りた客は迎えの車で早々に姿を消し、歩くのは僕だけだったが、天気も良かったので、楽しい散策だった。

湯沢の町は、洒落た新しい建物ばかりでなく、古びた商家も少なくない昔ながらの町並みも残っていて、決してバブルで浮かれているだけの町ではないのだな、と僕は認識を大いに改めた。

 

 

上越新幹線の壮麗な高架ホームばかりが目立つ越後湯沢駅であるが、僕は、地平の薄暗い在来線ホームから水上行きの上り電車に乗り込んだ。

 

高速バスとはひと味異なる固い乗り心地で、ごとり、と越後湯沢駅を後にした電車は、陽光に煌めく木々の緑の中を走り始めた。

線路際に生えている背の高い雑草や木立ちが、櫛の歯を引くように目まぐるしく窓外を流れていく。

鋭利な山容の谷川岳が、のし掛かるように眼前に迫ってくる。

 

東京からやって来て国境の長いトンネルを抜けると、関越道の最初のインターは湯沢であり、新幹線の駅も越後湯沢であるから、あたかも湯沢の中心部が谷川岳の麓であるかのように錯覚してしまうけれども、越後湯沢駅から谷川岳までは15km近くも離れていて、途中に岩原スキー場前、越後中里、土樽の3つの駅が置かれている。

高速バスでハイウェイを走るのも爽快であるが、こうして鈍行列車の硬いボックス席に揺られて、ぎしぎしと軋む古びた電車でのんびり旅をするのも悪くないな、と思う。

 

考えてみれば、新潟方面へは新幹線や夜行列車、もしくは高速バスばかりで行き来していたので、日中に上越線を使うのはこの旅が初めてだったかもしれない。

 

 

上越線は、大正9年に東小千谷-宮内間、大正10年に新前橋-渋川間の開業に始まり、大正14年に越後湯沢-東小千谷間が、昭和3年に渋川-水上間がそれぞれ延伸している。

 

標高1977mの谷川岳を筆頭とする三国山脈が立ちはだかる水上-越後湯沢間では、鉄道トンネルとしては東洋一、世界でも第9位の長さに及ぶ全長9702mの清水トンネルを掘削する必要があった。

地盤が強固であったことから異常な出水に悩まされることはなかったものの、50人近い死者を出す難工事であったことに変わりはなく、3年の歳月を掛けて清水トンネルが完成し、上越線が全通したのは昭和6年のことだった。

 

清水トンネルは単線であったので、戦後に輸送量が急増し複線化が必要になると、昭和42年に全長1万3500mの新清水トンネルを新たに完成させ、新線は下り線に、旧線は上り線として使われることになった。

新旧の清水トンネルの長さが4000m近くも差があるのは、旧清水トンネルを建設した際に、前後にループ線を設置して高度を稼ぎ、トンネルの長さを出来るだけ短くしたためである。

技術の進歩によって長大トンネルの掘削が可能になり、新清水トンネルは清水トンネルと対照的に異常出水に悩まされたものの、土合駅の遥か手前、湯檜曽駅付近から掘られているため、土合駅の下りホームは新清水トンネルの中に設置された。

 

 

トンネルの内部に駅が置かれた例として、北陸本線筒石駅や、青函トンネルの吉岡海底、竜飛海底の両駅が知られているが、僕は、紀行作家の宮脇俊三氏が著した「清水トンネル右往左往(「車窓はテレビより面白い」所収)」を今回の旅の直前に読み、無性に土合駅を訪れたくなった。

 

宮脇氏の大ファンでありながら、揃えた書籍は殆どが文庫本で、単行本で購入したのは、平成元年2月に刊行された紀行随筆集「車窓はテレビより面白い」が唯一である。

それだけ、宮脇氏の新しい文章に飢えていたのだが、その冒頭の章が「清水トンネル右往左往」だった。

 

『今日の日帰り旅行の目的は「土合駅の階段」である。

土合駅は谷川岳の登山口として知られている。

その土合駅に昭和42年9月、奇妙な階段が設けられた。

全長338メートル、462段にも及ぶ長い地下階段で、こんな階段を上り下りさせられる地元の人や登山者にとっては迷惑な存在だが、鉄道ファンの名所になっている。

私は下り列車車窓から幾度もこの階段を瞥見してきた。

小さな女の子の手をひいた母親が暗い階段をトボトボと上っていくのを見たこともあり、強く印象に残っている。

しかし、まだ歩いてみたことはない』

 

 

『複線化にあたり、当時の国鉄は直截な設計をした。

ループ線のような回りくどいものはやめてしまえ、湯檜曽の手前からまっすぐ土樽までトンネルを掘ろう、と。

(中略)

ここで問題となるのは湯檜曾と土合の両駅の扱いである。

湯檜曽の場合は、ループ線の手前に駅を引越してもらえばよい。

温泉旅館や集落から少し遠くはなるが、高い階段の上の在来駅よりは便利だ。

つぎに土合をどうするか。

これはどうしようもない。

ループ線を回りながら登って、さらにその先という高い位置に在来の土合駅はある。

複線化用の新線トンネルはその下、約80メートルを通すのが好都合だ。

土合が大きな町であり、乗降客が多ければ対応はちがっただろう。

が、既に記したような淋しい駅である。

新線の土合駅は地下の深いところに設けられた。

新清水トンネルの中の駅である。

そして、地下のホームと在来の地上の土合駅とを結ぶために長い地下階段がつくられたのであった』

 

この一文に接した僕は、実際に土合駅に身を置いてみたくて、居ても立ってもいられなくなった。

 

 
水上行きの上り電車は、ループ線を回って清水トンネルを抜け、越後湯沢から25分ほどで、林間にひっそりと建つ土合駅に停車した。

ホームに降りると、木々の葉を震わせて吹き抜けてくる風が爽やかである。

背後の尾根越しに、谷川連峰らしき峻険な峰々が顔を覗かせている。

 

僕はいったん改札を出て、木立ちの他には何にもない駅前を一瞥してから、越後湯沢まで折り返す切符を購入し、再度改札に踵を返した。

 
『土合駅の改札は下り列車に限り、発車10分前に打ち切りとなります』

 

と、時刻表の上越線のページの欄外に書かれていた注記を思い出し、気持ちが改まる。

 

「1 上越線 越後湯沢 小出 長岡 新潟」と書かれた案内板に従い、通常は駅長室に近いホームを1番線にするのに、この駅は地下ホームが1番線なのか、と首を傾げながら狭い通路を進み、湯檜曽川のせせらぎを渡ると、いきなり、楕円形のトンネルに包まれた下り階段が目の前に現れた。

 

 

 
 
もちろん照明が灯されているけれども、階段の先にあるはずの下りホームまではとても見通せず、果てのない奈落の底に降りていくような心持ちがする。

上越新幹線の開通後に上越の県境を行き交うのは、貨物列車と1日10本にも満たない普通列車だけに成り果てているから、僕が折り返そうとしている下り列車の前後は2時間も間隔があいていて、ホームから昇ってくる利用客がいるはずもない。

 

下りであるから、しんどくはないけれども、先が見えない階段が暗闇の彼方に続いている様は、下から見上げるより遥かに迫力があるのではないだろうか。

80mの深さと言えば、20階建てのビルに相当する訳だから、足を滑らせて転がり始めたら止まらないかも、と想像するだけで背筋が寒くなる。

 

 

傾斜や段差は決してきつくはないものの、5段降りては短い踊り場、という単調な動作の繰り返しは、だんだん飽きてくる。

長さ1mほどの踊り場の存在は、足を運ぶリズムを乱しているようにしか感じられない。

いっそのこと、踊り場などない方がトントンと調子よく下っていけると思うのだが、この階段を、下る側の理屈で考えてはいけないだろう。

 

「清水トンネル右往左往」で、さすが宮脇氏だな、と感心するのは、

 

『登りでなくて下るようにスケジュールを組んでもよかったのだが、この階段は登ってこそ意義があるのだぞと、勝手にそう考えて登っている』

 

との意気込みである。

ところが、そのうちに、

 

『長い階段というものは、登りつめれば神社や寺があって、御利益を授かるのが常だ。

だが、この階段の上には民営・分割に慄く国鉄の小駅の改札口があるだけだ』

 

と、見解が微妙に変わっていく。

無理もないと思うが、挙句の果てに、

 

『登り道は人間の思考を刺激するらしい。

「草枕」の冒頭で漱石は「山道を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ……」と書いている』

 

と夏目漱石を引用したり、上越新幹線の開業で在来線の通行量が減少し、単線時代の輸送量を下回っているのだから、水上-越後湯沢間だけでも上り線の単線運転に戻したらどうか、などと考えておられる。

 

『これは名案だ、国鉄の当事者に進言しようと考えたら元気が出てきた』

 

と宮脇氏は自画自賛しているが、線区の栄枯盛衰は世の常であるとは言え、苦労して新清水トンネルの工事に携わった人々には酷な論評だと思う。

 

 

僕は、階段を昇らずに下る旅程を選んだ軟弱者であるから、登りは文学に昇華する余地を残しているが、下りは何も生まないのだろうな、などと苦笑しながら歩いている。

それでも、こうして無機質なコンクリートに囲まれた長い地下階段を降り続ければ、様々なことが脳裏に浮かぶのも確かである。

 

僕が思いを馳せたのは、上越国境の歴史であった。

清水トンネルと新清水トンネルが掘削されたのは、正確には谷川岳の直下ではなく、少し北側に離れた清水峠寄りである。

清水越えは、古くは「直越(すぐごえ)」と呼ばれ、標高が1448mに及ぶものの、上野国と越後国とを結ぶ最短路であった。

江戸時代には、遠回りでも標高が1244mと低い三国峠が優先され、江戸幕府は清水峠の通行を禁じたのである。

 

明治7年に、当時の群馬県令が、民間からの寄付金を募って清水峠に古道を改良した新道を開き、明治10年に清水往還が県道一等に指定される。

明治11年に、大久保利通が提唱した土木7大計画に、唯一の陸路建設として清水往還が取り上げられ、日本海側の国際貿易港である新潟港へ、馬車の通行が可能な道路に改修する方針が決定する。

明治14年に工事が開始され、明治18年に完成、国道8号に指定されたのだが、開通した年の秋に長雨により各所で土砂崩れが発生し、修復する間もなく降雪期を迎えると雪崩が多発、春には馬車の通れる道ではなくなっていたという。

全面開通を目指した修復が試みられたものの、数年後、ついに清水越えは放棄された。

大正9年に県道に降格され、昭和45年に国道291号に指定されたものの、まるで廃道のような有様は変わらず、清水峠の前後約27kmは自動車通行不能区間に指定されている。

 

 

現在、国道291号線の群馬県側は、複数箇所で崩落が見られるものの、徒歩ならば清水峠まで到達でき、道路としての機能はかろうじて維持されている。

新潟県側は、森林化や崩壊のために道路の形状すら判然とせず、トンネルや橋梁も全て埋没、流失していると聞く。

「廃道をゆく」の著者である平沼義之氏が、ロッククライミングの経験者と調査した結果、13時間を費やしても廃道区間の12kmを踏破できず、遂に進行不能な地形に遭遇して、撤退したという。

 

僕は、関越道水上ICから国道291号線を谷川岳ロープウェイ駅まで車で走り、更に谷川岳北麓の一ノ倉沢まで歩いたことがある。

森林浴をしながら4kmほどの道行きは楽しく、眼前に勇壮な一ノ倉沢が現れる演出には思わず息を呑んだものだったが、谷川岳ロープウェイ駅から先は自動車通行止めになっていて、どうしてこの道路を国道に指定したのだろう、という疑問を禁じ得なかった。

 

 

近世に主役となった三国峠は、谷川岳の西に位置し、上越国境を車で越えられる唯一の一般道、国道17号線も三国峠を経由している。

 

今回の旅の20年以上も先、平成も終わりに近い頃のことであるが、僕は自分の車で三国街道を通ってみたことがある。

仕事が終わった後に出掛けたので、月夜野ICで関越道を降りた後は、対向車に全く出会わないような深夜のドライブになった。

三国峠が近づくに従って勾配が急になり、雪避けのシェルターが断続する以外、ヘッドライトが照らし出すのは、ところどころ凹んで赤錆が浮いているガードレールと、鬱蒼と山肌を覆う森林ばかりだった。

江戸時代には、米、紬、そして「越後の縮緬問屋」が扱った越後上布などといった越後の様々な名産品から、司馬遼太郎の小説「峠」の主人公となった長岡藩の河合継之助、はたまた佐渡島へ送られる流人まで、様々な人々がこの道を往来したのだな、と感慨に浸りながらの孤独なひとときだった。

 

『往時の沼田は三国峠越えの基地であった。

旅人たちはここで旅装を整え、谷川岳の西方にある三国峠を越えて越後へと向った。

けれども、豪雪地帯の三国峠は冬は通れない。

旅人たちは春を待って長逗留する。

その間に地元の娘さんと仲良くなって沼田に住みついてしまう者もある。

だから、沼田には越後人の子孫がたくさんいるという』

 

と宮脇氏は記しており、長閑な時代だな、と羨ましいけれども、全長1218mの三国トンネルが開通したのは昭和32年のことで、苗場、かぐら、田代、神立といった高名なスキー場が、国道17号線沿いに開かれたのもその直後である。 

 

 

関越道が完成する前は、この細い山道を大型トラックなども行き交っていた訳で、厳冬期の三国越えを想像するだけでも溜め息が出る。

 

フランス映画の名作を日本でリメイクした「道」で、仲代達矢と若山富三郎演ずるトラック運転手が、雪深い三国峠でスリップして転落事故を起こす場面を思い出す。

新潟県の出身で、後に首相に上り詰めた政治家が、

 

「三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。そうしますと、日本海の季節風は太平洋側に吹き抜けて、越後に雪は降らなくなる。出てきた土砂は日本海に運んでいって埋め立てに使えば、佐渡とは陸続きになるのであります」

 

と演説したことがあるらしい。

高度経済成長期らしい荒唐無稽な発想だが、豪雪と峻険な地形に悩まされる同県の人々の気持ちは伝わってくる。

 

『さて我が塩沢は江戸を去ること僅かに五十五里なり』

『凡そ日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古昔も今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も最も雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住む魚沼郡なり。次に古志郡、次に頸城郡なり。其余の四郡は雪のつもる三郡に比すれば浅し。是を以論ずれば、我住む魚沼郡は日本第一に雪の深く降る所なり』

 

江戸時代に湯沢の隣り町に住んでいた鈴木牧之は、豪雪地帯の生活や伝承を記録した「北越雪譜」で、

 

『大都会の繁花と辺鄙の雪中と光景の替はりたる事雲泥のちがひなり』

『暖地の人、花の散るに比べて美賞する風吹と其異なること、潮干に遊びて楽しむと津波に溺れて苦しむとの如し。雪国の難義、暖地の人おもひはかるべし』

と著し、宮脇氏も好んで引用している。

 

昭和6年に開通した上越線清水トンネル、昭和42年の新清水トンネル、昭和57年に完成した2万2221mの上越新幹線大清水トンネル、そして昭和60年に完成した関越道関越トンネルは、まさに三国山脈に風穴を開けたのである。

往年の清水峠や三国峠を越えた人々、もしくは越えられなかった人々のことを思えば、たかだか500段にも満たない階段で音を上げては、罰が当たると思う。

 

 

ひんやりと冷気が吹き抜けて来る新清水トンネル内のホームで下り電車を待ち、越後湯沢駅に戻った僕は、バス乗り場に足を運んだ。

せっかく来たのだから、次に乗るのは越後湯沢と野沢温泉を結ぶ急行バス「湯の花」号だと決めた。

 

「湯の花」号開業の一報は、故郷長野市の新聞で眼にした記憶がある。

上越新幹線の開業により、新潟県の温泉地に客足を奪われることを危惧した野沢温泉村が、1000万円の補助金を計上して、新幹線に接続する路線バスの運行を長野電鉄バスと越後交通に打診したのである。

高速交通網に取り残された当時の北信の人々の焦燥感を、目の当たりにするような報道だった。

 

長野新幹線が開通していない当時は、上野から特急「あさま」に乗り、長野で飯山線に乗り換えて戸狩野沢温泉駅までおよそ4時間、加えて戸狩野沢温泉駅と野沢温泉は路線バスで30分ほど離れている。

上越新幹線と「湯の花」号を使えば所要3時間半で、乗り換えも1度で済むから、野沢温泉の人々の眼のつけどころは決して悪くない。

 

 

「急行 野沢温泉」と書かれた停留所の時間表をみれば、程よく15時10分発の便があるではないか。

「湯の花」号は越後湯沢発8時20分、10時20分、12時30分、15時10分、18時10分と、野沢温泉発7時30分、10時40分、13時30分、15時45分、17時30分の5往復が運行され、所要1時間53分であった。

 

定刻に姿を現したのは長野電鉄の2扉一般路線車で、高速バスと同程度の車両を期待していた僕はがっかりしたけれど、十数人の客と一緒に越後湯沢駅を後にすれば、そのような落胆など吹き飛んでしまう。

 

 

国道17号線をしばらく北上した後に、バスは国道353号線へ左折し、いきなり標高720mの十二峠を越える山道に足を踏み入れた。

上越新幹線の高架下に設けられたスノーシェッドは、どうしてこのようなところに、と首を傾げたくなるが、高架からの落雪を防止するためであるらしい。

 

羊腸の如く山道を登っていく坂道に長いスノーシェッドが断続するうちに、いつしか魚沼平野を見下ろす高みに達していて、十二峠トンネルを抜けると十日町に入り、魚野川から清津川の流域に移る。

どちらも信濃川の支流であるが、魚野川は遥か下流の越後川口で信濃川と合流するのに対し、清津川は30kmほど上流で信濃川に出会うまで、まっすぐ国道353号線を導いている。

溶岩が黒く固まった柱状節理の奇岩で知られる清津峡の入口を過ぎ、しばらく奥深い山中を進むと、やがて地形が少しずつ平坦になり、人家や田畑が増えてくる。

 

 

国道117号に突き当たったバスは左に折れ、清津川を長い橋で渡ると、右手の奥に信濃川の本流がきらきらと陽の光を反射して煌めいているのが見える。

ついに来たな、と思う。

この川を遡れば、故郷信州である。

 

清津川の向こう岸は津南町で、国道353号線とは比べ物にならないほど、車の往来が多い。

信濃川とJR飯山線に沿って信越を結ぶ主要街道であるからだろう。

 

それにしても、「湯の花」号も随分と大回りをするものである。

「湯の花」号が登場した時は、湯沢町のほぼ真西にある野沢温泉村まで、直線的に行き来する道路でもあるのかと早合点していたが、北西方向へ進んで飯山線に合流するとは予想外だった。

飯山線は、今回の旅の数年前に長野から越後川口まで乗り通したことがあるから、二番煎じの車窓になってしまうのかな、と思う。

 

 
燦々と降り注ぐ陽の光と野山の緑に溢れたこの季節では想像もつかないけれど、ここから先は、我が国でも有数の豪雪地帯である。

交通路として使えるコースは限られるのだろう。

 

最近でも、平成18年1月に津南町で397cmの積雪を記録しているが、津南町と県境を隔てた長野県栄村には、つい近年まで、厳冬期には外界と行き来が出来なかったという秋山郷がある。

平家の落武者伝説で知られ、同じ栄村でも他の集落と方言が異なるほどに隔絶されていた秋山郷は、バスが走れる道路が長野県内に通じておらず、唯一の路線バスは津南町から出ている。

小学生時代に、担任の先生が、秋山郷の小学校の生徒にみんなで手紙を書いて励まそう、と言い出したことがあり、その時に初めて秋山郷のことを知った。

手紙の内容も、返事が来たのかどうかも忘却の彼方であるが、晩秋のことであり、集落の外に出られなくなるという積雪の凄まじさを幼心に想像しながら、せっかく書いた手紙が無事に届くのだろうか、と心配した記憶がある。

 

 

栄村と言えば、平成23年3月11日の東日本大震災と同じ日の夜に、震度7の長野県北部地震に見舞われ、甚大な被害を受けた記憶が生々しい。

僕らの国はどうなってしまうのだろう、と不安に駆られながら、1人で長野市に住む母に、なかなか通じない携帯電話の代わりに公衆電話で連絡をとったものだった。

 

栄村出身の医師と、1年間、品川区の病院で一緒に働いたことがある。

僕とその先生の2人だけが医師として働く小さな病院だったが、その時、既に80歳でありながらも、現役として颯爽と活躍する大先輩と働けるだけで楽しく、やりがいがあった。

色々なことを教えていただいた、かけがえのない1年間だったと思っている。

その先生は、晩年を無医村の故郷で過ごし、最後まで地域医療に身を捧げて、近年亡くなられたとの知らせを聞いた。

 

 

地図を見ると、国道117号線は信濃川の川縁を走っているように見えるが、道路脇にはこんもりと木々が生い繁り、なかなか川面を見ることが出来ない。

宮野原橋で信濃川の東岸から西岸に渡ると、ようやく川をじっくりと拝めたのだが、日本一の長さを誇る大河も、この辺りの川幅は大したことはない。

ダムの影響であろうか、更に上流の長野県内の方が、よほど広々としている。

 

宮野原橋の先は長野県栄村で、平地がぎゅっと狭まって山深くなり、千曲川と名を変えた川の両岸も切り立った崖が増える。

 

 

 

 

「湯の花」号が、いったん国道を離れて森宮野原駅に立ち寄ったのは16時18分、ここまで定時の運行だった。

森宮野原と言えば、昭和20年2月12日に785cmという想像を絶する積雪があり、JR線における積雪の最高記録となっている。

この駅が栄村の中心であるが、小ぢんまりとした店舗や住宅が散在するだけで人影も少なく、北海道の新開地にも似たあっけらかんとした町並みである。

大規模店舗や病院がなく、買い物や通院には、県境を越えて津南や十日町へ出るより方法がないらしい。

 

「湯の花」号も、新幹線に接続する観光路線として売り出したにも関わらず、乗り降りするのは軽装の地元の人ばかりだった。

 

 

森宮野原駅では僕以外の乗客が全て降りてしまい、しかも乗って来る客が皆無であったから、初老の運転手さんが最前列の席に座っている僕を振り返り、

 

「野沢温泉ですか?通しで乗るのはお兄さんだけだね」

 

と苦笑したものだった。

 

「やっぱり越後湯沢から野沢温泉へ行く人は少ないんですか?」

「うーん、俺もこの線はたまにしか乗らんけど、だいたいは越後交通さんのお手伝いしてるようなもんだったなあ。森宮野原から野沢までは、空で走ることもあったよ」

 

「湯の花」号と同じ経路で、越後交通が越後湯沢駅と森宮野原駅の間に1日2往復の路線バスを走らせている。

この旅から程なくして「湯の花」号は3往復に減便された後、平成2年に廃止されてしまう。

越後湯沢-森宮野原間の区間便だけは今でも健在だが、運行経路の大半が新潟県内であるにも関わらず、栄村は補助金の3割を拠出していると聞く。

 

平成17年に、長野県内へ行き来するより便利であるという理由から、馬籠宿で知られる長野県山口村が岐阜県中津川市に越境合併し、信州人として心を痛めたものだったが、このままでは、栄村も新潟県に離脱してしまうのではないだろうか。

 

 

右手に伸びる堤の上を行く飯山線のレールと、左手に見え隠れする千曲川に挟まれながら山あいを進み、小高い丘陵から真っ直ぐ駆け下りる構造の東大滝橋で千曲川の右岸に渡ると、少しずつ平地が開け始めて、千曲川の幅も広がって、大河の風格が窺えるようになる。

まるで下流に降りてきたような錯覚に陥ってしまうが、それだけ信越国境の地形が峻険だったのであろう。

 

数年前に、左岸に敷かれた飯山線でこの近辺を通った時は、崖っぷちばかりを走っていた印象だった。

対岸には、これほど伸びやかな眺めが広がっていたのか、と目を見張った。

二番煎じかも、などと侮ったことを恥じるとともに、信州に帰って来たなあ、と思う。

 

 

直進すれば「長野 飯山」、左折すれば「野沢温泉」という標識に従って、運転手さんが大きくハンドルを切った。

 

いよいよ終点か、と寂しくなるけれど、すれ違いにも苦労するような細道で丘を越えても、なかなか温泉地らしき町が現れない。

長野や飯山、戸狩野沢温泉駅からのアクセス道路は別にあり、やっぱり越後湯沢方面から野沢温泉に向かう車は少ないのだな、とうらぶれた気分に浸っているうちに、「湯の花」号は、忽然と新旧の旅館やホテルが密集する路地に入り込んだ。

 

ぎっしりと宿泊施設や案内所に囲まれた登り坂の途中が、越後湯沢から2時間足らずの道中の終点だった。

定刻17時03分を少しばかり過ぎているけれども、森宮野原駅から野沢温泉まで、見事に1人の乗降もなく、僕の貸切バスと化していたので、どこで遅れたのかな、と首を傾げた。

 

 

「このまま乗ってくか」

 

運賃を払ってバスを降りようとすると、運転手さんが声を掛けてきた。

 

「え?」

「飯山の方へ行くんだったら、うちら飯山営業所の人間だから、このバスが飯山行きになるんよ」

「いいんですか?助かります」

「もちろん、別料金だけどな」

「はい」

 

当時の時刻表を見れば、最寄りの戸狩野沢温泉行きの路線バスは17時ちょうどに出たばかりで、次の便は18時05分までない。

「湯の花」号が変じた木島駅・飯山駅行きの便は17時25分発なので、うってつけである。

せっかく高名な温泉地まで来たにも関わらず、僕が素通りすると察した運転手さんの慧眼に驚く他ないが、

 

「だって野沢温泉に1人で泊まりに来る人はおらんだろう」

 

と、運転手さんは人懐こさそうな笑顔を浮かべた。

 

 

奈良時代に、行基によって発見されたと伝えられている野沢温泉を訪れたのは、初めてだった。

 

「大湯」「熊の手洗い湯」など13ヶ所ある外湯めぐりや、100℃近い熱湯が湧き出している「麻釜」に惹かれない、と言えば嘘になるけれども、今回は日帰りのつもりで来たのだから、宿泊する訳にはいかない。

野沢温泉から長野電鉄木島駅まで30分、JR飯山駅まで40分という所要時間を考慮すれば、飯山駅を17時43分に発車する146D列車には間に合わず、その次は19時00分発の148D列車になる。

長野に着くのは19時53分で、その日のうちに東京へ戻れる列車は、長野20時00分発の上り最終特急「あさま」36号だけであった。

 

「関越高速バス」池袋-新潟線を降りてからは、行き当たりばったりの気儘な旅であったが、「湯の花」号の車内で時刻表をめくるうちに、午後5時を過ぎて野沢温泉から東京へ向かうと、これほど際どい行程になるのか、と驚愕した。

 

運転手さんの好意がなくても、僕に野沢温泉を観光する暇はなかった。

それどころか、長野市内の実家に立ち寄る余裕すらない。

上野に着くのは深夜の22時53分、接続の悪さが原因とは言え、東京と野沢温泉はやっぱり遠かったのである。

 

 

平成9年に長野新幹線が開業すると同時に、長野駅と野沢温泉を結ぶ急行バスが走り始め、平成27年に北陸新幹線が金沢まで延伸した際には、新幹線駅となった飯山駅と野沢温泉を行き来する直通バスが運行を開始している。

野沢温泉の人々も、さぞかし胸を撫で下ろしたことだろうが、「湯の花」号が開拓した上越新幹線接続ルートが四半世紀前に存在したことを思い浮かべた人がいただろうか。

 

夕刻ともなれば、温泉街を発車するバスに乗る湯浴み客はいない。

地元らしい装いの数人を乗せた路線バスに揺られるうちに、木島平の黄昏が深まり、飯山駅で上り列車を待つ間に、とっぷりと日が暮れた。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>