上野発の夜行列車への郷愁 第4章 ~寝台特急「あけぼの」裏方に徹して東北を走り続けた半世紀~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和62年の夏から昭和63年の冬にかけて、僕は、「道南ワイド周遊券」を購入して、計4回も北海道を訪れている。

北の大地とその鉄路の魅力は勿論のこと、青函トンネルの開通を控えて終焉間近の青函連絡船が運航している間に、何度でも乗りに行きたい、という思いが昂じてのことである。



最初は1人旅、続く2回は趣味を同じくする大学の友人と一緒だったが、4回目は高校時代の同級生だったN君が道連れだった。


N君は大学進学に伴い東京へ出て来て、アパートが僕と同じ東急大井町線沿線だったので、付き合いが続いていた。

鉄道ファンではないけれども旅好きであるのは確かで、前後して四国や九州へも誘い合って出掛けている。

北海道へ行こう、と言い出したのがどちらであるのか、定かではない。

ファミレスか飲み屋で時間を潰しているうちに、僕の北海道旅行の話になり、


「俺も連絡船で北海道に渡ってみたい」


と、N君が身を乗り出したような気もする。


前3回の旅立ちは全て上野と青森を結ぶ夜行急行列車「八甲田」であったが、今回、行き方を変えたのも、どちらの提案であったのか。

彼は自分が行きたい場所を明確に主張するものの、移動方法はお前に任せた、という態度に終始するので、時刻表をめくりながら列車を選ぶのは僕の役目だった。



上野駅を18時40分に発車する東北新幹線「やまびこ」23号を第1走者に選んだのも、おそらく僕なのだろう。


宇都宮、福島、仙台だけに停車する「やまびこ」23号は、すっかり日が暮れたみちのく路を一目散に北上して、21時26分に盛岡駅へと滑り込んだ。

東北新幹線は上野駅が起点、盛岡止まりの時代である。

所要2時間46分とは、最高速度が時速320kmという現在の東北新幹線「はやぶさ」ならば東京から新青森に着いてしまうが、当時としては最速列車の部類だった。


煌びやかな新幹線の高架ホームとはがらりと様相を変え、薄暗く古びた地平の在来線ホームに下りて、既に入線していた21時36分発の特急列車「はつかり」23号に乗り継げば、みちのくの旅はここからが佳境だぞ、と思う。

一戸、北福岡、金田一、八戸、三沢、野辺地に停車しながら、終点の青森到着は日付を跨いだ0時09分で、2時間33分を要する。

定刻に走り出した583系特急用電車の速度は決して遅くはないのだろうが、新幹線に比べれば、もどかしい程のんびりしている。


「はつかり」23号は北上川に沿って南部の山あいを抜け、県境の分水嶺を越えると、馬淵川に沿って太平洋岸の八戸平野に降りていく。

闇に染まった窓を通して車内の照明が淡く照らし出すのは、線路際を白く染める雪ばかりで、人家の灯りは殆ど見えない。

時間はかかるけれども、鄙びた乗り心地に最果ての旅情がつのる。

新幹線よりも、こちらの方がすっかりくつろいでいる自分に気づく。


「なんか、いきなり寂しくなったな」


と、N君が目を見張った。



列車の走りっぷりは悠然としていても、2人で語り合いながらの車中はあっという間で、青森駅に降り立つと、肌を容赦なく突き刺してくる厳しい寒さに、思わず震え上がった。

東京から服の中に蓄えていた温もりが瞬く間に奪われる、北国の洗礼だった。


そのまま0時30分出港の青函連絡船1便に乗り継ぐために、車内で車掌から配られた乗船名簿を手にして、凍てつくホームを連絡船乗り場に向かう客は、思ったより少なかった。

連絡船が廃止されるまで残り2ヶ月を切っていた時期だから、惜別のために鉄道ファンが大勢押しかけているぞ、とN君を脅かしながら真っ先に列車を降り、早足で歩き出した身としては、拍子抜けの光景である。


「なんだよ、大したことないじゃん」


と、N君が安堵したように呟く。

深夜便であるけれども、僅か3時間50分の航海であるから、少しでも身体を休めようと、僕らはあらかじめグリーン船室の切符を手に入れていたのだ。


その夜の1便は、「八甲田丸」の担当だった。



「いらっしゃいませ。ようこそお出で下さいました」


最敬礼する事務長に慇懃に出迎えられながら、凍てついたタラップを渡り、N君を案内しながら人影が少ない船内を移動して、取り敢えず自席に荷物を置いた。

どちらからともなく誘い合って甲板に出ると、強い風が瞬く間に体温を奪い去っていく。


出港後の船内放送で、


『今夜の津軽海峡の天候は雪、西の風が18m、本船は多少の動揺が予想されます』


と案内するような生憎の天候であったが、それもまた、北海道へ渡る真冬の船旅に相応しい。

貨車を積んでいるのだろうか、船尾の方から鈍い金属音が響いてくる。


青森湾の暗い波間と、下北半島に連なる灯の少ない海岸線を眺めているうちに、銅鑼が鳴り、スピーカーから「蛍の光」のメロディが流れ、長声一発を夜空に轟かせた「八甲田丸」は、ゆっくりと桟橋を離れた。



青函航路の起源は、江戸時代末期の1861年に、青森の商人が5日に1回運航する帆船の定期航路を開設したことに始まり、明治6年に開拓使が月に3往復する汽船・弘明丸を就航させ、同じ年に長州出身の商人が汽船・青開丸を青函航路に投入、明治12年に三菱郵船が引き継いで後に日本郵船の航路になる。

鉄道連絡船としては、明治41年に、帝国鉄道庁が我が国初の蒸気タービン船である1480tの比羅夫丸を就航させたのが最初である。


この旅の当時、青函連絡船の歴史はちょうど80周年を迎えていた。

その長い歴史に幕が降ろされようとしている時期に、繰り返し乗船できたのだから、かろうじて間に合ったのだ、という思いを強くする。

すっかり馴染みになった船内を振り返りながら、今回が、青函連絡船に乗る最後かもしれない、と思う。



青森の街の灯が、船尾から伸びる航跡の彼方に遠ざかっても、しばらく揺れなかったのは、下北と津軽の2つの半島に抱かれた陸奥湾を航行するためである。


津軽海峡で最も陸地の距離が近いのは、東側の下北半島大間崎と亀田半島汐首岬に挟まれた18.7kmで、西側の津軽半島竜飛崎と松前半島白神岬との間は19.5kmとやや離れているけれども、水深が比較的浅いことから、青函トンネルが建設されたのは後者であった。

青函連絡船の運航距離は113kmで、3分の2は陸奥湾と函館湾の内海である。


陸奥湾の闇は恐ろしいほどに深かった。

甲板から目を凝らしても、左右に陸地は見えず、かすかな灯が幾つか明滅しているだけである。

陸地の家々や街灯なのか、それとも、漁船でも出ているのだろうか。


初体験のN君に配慮するならば、明るいうちに青函連絡船に乗るべきだったかとも思うが、深夜便独特の情緒も決して悪くない。

いつまでも舷側に佇んで海峡の闇と対峙していてもしょうがないので、船内に踵を返して、指定された席に身を任せて目を瞑った。


全長132.0m、幅17.9m、比羅夫丸の3倍になる5382.6tの排水量を誇る「津軽丸型」連絡船「八甲田丸」の安定感は比類なく、船内では外が極寒の海であることを忘れそうになる。

それでも、平舘海峡を抜け、海峡の中央部に差し掛かると波が荒くなり、かなりの揺れに見舞われた。



『おはようございます。長らくの御乗船お疲れ様でした。本船は間もなく函館港に到着致します』


との船内放送で起こされるまで、一瞬だったような気がするほど熟睡したものの、寝不足の感は否めない。

時計の針は午前4時を回っている。


「おい、函館だぞ」


とN君に声を掛けたが、ううん、と顔をしかめてそっぽを向いたので、1人で甲板に出た。

数人の乗船客が手すりにもたれて、暗闇の底に沈んでいる函館の街を眺めている。

昼間ならば函館山が見え、函館ドックのクレーンが姿を現すところであるが、いくら夜明けの早い北海道でも、冬の日が明けるにはまだ間があるようだった。


「やっと着いたか。遠かったなあ」


と声がしたので振り返ると、N君がいつの間にか横に佇んでいる。

東京を出て10時間が経っていた。


「少しは眠れたのか?」

「うむ、あんまり。出来れば、このまま青森までもう1往復して眠りたい」


真面目な表情のN君の答えに、僕は思わず吹き出した。


鉄道ばかりに揺られていた前3回と異なり、N君を連れての今回の旅程には、彼が希望した場所を全て組み込んである。

N君が挙げたのは、松前、五稜郭、室蘭に近い地球岬、小樽、札幌農学校跡のある北海道大学、石狩川河口などと、誠に渋い場所ばかりだった。

僕も訪れたことがないから異論はないけれど、初めての北海道旅行にしては、洞爺湖も阿寒湖も宗谷岬も候補に挙がらないあたりは、歴史派であるN君の面目躍如である。



午前4時20分に接岸した「八甲田丸」を降りた僕らは、7時05分発の江差線の始発列車721Dの待ち時間に、ホームで熱々の立ち食い蕎麦を啜り、ようやく身体が暖まった。


向かいのホームには、4時42分発の札幌行き特急「北斗」1号が発車を待っている。

当時は青函連絡船の深夜便に接続して午前4時台に発車する列車が函館にも青森にも残っていて、「北斗」1号に乗れば札幌着が8時29分、上野からの所要13時間49分は、1日を通じて最速の乗り継ぎになる。

「道南ワイド周遊券」は、特急の自由席から普通列車まで乗り放題であるから、あまりに眠そうなN君の様子に、


「これに乗って、車内で居眠りして、どこか途中で函館に引き返しても、金はかからないよ」


と提案してみたが、


「やめとく。絶対に起きられない自信があるし、気づいたら札幌ってことになる予感がする」


との返事に、まさにその通りだな、と自重した。



旅に予想外の出来事はつきものだが、立ち食い蕎麦屋のおじさんに、これから乗ろうとしていた江差線から分岐する松前線が、2月1日限りで廃止されたことを聞かされた時ほど、驚愕したことはなかった。

青函トンネル開通を目前にしたお祭り騒ぎの陰で、地元のローカル線がひっそりと消えたのである。


気を取り直して、予定通り函館7時07分発の721Dに乗って木古内に8時13分着、松前線転換バスで松前を往復し、函館に戻って五稜郭を見物してから、函館17時12分発の「北斗」13号に駆け込み、札幌には宵の口の21時11分に到着した。


中日は、朝1番の路線バスで石狩川河口に向かった。

札幌市内から河口を目指す行程は、見渡す限り一面の田園の中を走るだけの退屈な道路で、つい眠気に誘われた。

市街地を抜けると、車内に残っている乗客もほんのひと握りとなり、最前列席に座っている友人はこっくりこっくりと頭を垂れている。

前々日は東北新幹線から最終の特急列車に乗り継ぎ、青函連絡船の深夜便で渡道、前日も松前を往復した後に函館を見物し、札幌に着いたのが午後9時を過ぎていたから、寝不足は無理もない。


お前がどうしても行きたいと言うから来たんだぞ、と苦笑してしまうが、ふと気づけば、初老の運転手さんまで俯いて船を漕いでいるではないか。

対向車もなく、地平線に向かって真っ直ぐ伸びているだけの道路だから、多少居眠りしても全く害はなさそうだけれど、僕は大きく咳払いをした。

運転手さんはハッと顔を上げ、バツが悪そうにチラリとこちらを振り向いたようである。

視線を逸らせて、たまたま咳が出ただけですよ、といった風を装ったが、僕の方はすっかり目が冴えてしまった。



終点の「石狩」停留所が石狩町のどこに位置していたのか、記憶からはとんと抜けている。

役場付近であれば、かなり歩いたことになるけれど、雪に埋もれた枯れ草を踏み締めながら行き着いた河口に立ち、どんよりと濁った水が泡立ちながら海に押し出していく様を眺めたことは、今でもはっきりと覚えている。

なんとうら寂しい光景なのだろうと、胸が詰まった。


その後は札幌農学校跡など札幌市内を見物し、午後に函館本線で小樽まで往復、最後に地球岬へ行くべく特急「ライラック」で室蘭を往復した。

あちこち見て回ったとは言え、移動時間が占める割合は決して少なくなく、道南だけでも北海道の広さを嫌でというほど実感した。

一方、これまでで最も「道南ワイド周遊券」を活用した気がする。



北海道鉄道旅行の最終日は、東京への移動に専念することになるのが常である。


「東京へ帰るだけなのに、こんなに早い列車に乗る必要があるのか」


と、前日に続く早起きをさせられて不機嫌なN君を急かしながら、札幌9時35分発の「北斗」6号に乗って函館到着が13時41分。

青函連絡船20便で函館を15時00分に出港すると、津軽海峡の途中で日が暮れて、青森港には18時55分に到着した。



N君が更に仰け反ったのは、東北新幹線が盛岡止まりのこの時代、早起きしてもこの時間帯では、東京にその日のうちに帰り着くことが出来ないことではなかったろうか。


無論、僕には織り込み済みの話で、青森を20時15分に発車する奥羽本線経由の寝台特急「あけぼの」6号のB寝台を入手している。

弘前、秋田、新庄、山形を経由して上野到着は9時14分、どうして所要時間が長く北海道の滞在時間が短くなる「あけぼの」を選んだのかと言えば、旅程を任されているのを良いことに、これまで乗ったことのある寝台特急「はくつる」や「ゆうづる」、夜行急行「八甲田」ではなく、未体験の列車を利用して、これまた通ったことのない奥羽本線を一気に乗り潰してしまいたい、という鉄道ファンとしての我儘に他ならない。


青森から上野まで東北本線を真っ直ぐ遡れば735.6km、奥羽本線を使うと756.6kmだから、その程度の差なのか、とも思うけれども、「道南ワイド周遊券」は行き帰りの本州部分は東北本線でも奥羽本線でも構わない旨が規定されている。

加えて、寝台特急列車の特急券3000円とB寝台券6000円は距離によって値段が変わらないので、出費を重ねずに遠回りをするチャンスであった。



僕は敢えて、復路が往路に比して長距離・長時間になっていることを、N君にはっきりと伝えなかった。


青函連絡船22便には、青森19時17分発の「ゆうづる」4号が接続していて、上野には「あけぼの」6号より3時間以上も早い6時08分に着く。

もしくは、「あけぼの」6号とほぼ同時刻の9時17分に上野に着く「はくつる」4号に間に合うためには、札幌を、僕らの行程より6時間も遅い15時22分に出る特急「おおとり」に乗れば良い。

このような事実を、鉄道ファンでもないN君に暴露する訳にはいかないではないか。



時刻表の「連絡早見表」には、東京-北海道連絡列車として「あけぼの」は記載されていない。

「あけぼの」は、あくまでも東北の人々の列車なのだ。


「はくつる」や「ゆうづる」のように、青函連絡船との連絡に汲々として日付が変わる5分前に始発駅を発車したり、早暁5時台に終着駅に滑り込むような忙しい列車は、「あけぼの」には存在せず、泰然と自分の行き足を崩そうとしない。

「東北特急」が初めての彼は、青森から上野まで13時間を要するもの、と割り切っているかもしれない、と都合よく解釈することにした。


「北斗」4号に始まる今回の行程は、函館でも青森でも1時間を超える待ち時間があり、決して誉められた乗り継ぎ計画ではなかったけれども、JRが「あけぼの」を軸とした接続を考慮するはずもないから、やむを得ない。

往路があまりにも目まぐるしかったのと、2人で駅前を散策して長旅の終わりを惜しむひとときを持てたのだから、決して無駄ではなかったと思っている。



「あけぼの」は、僕が「東北特急」で初めて利用する客車寝台で、青森発車の時点ではガラガラだった。

もちろん、その先で少なからず乗車して来るのだろうが、それでも、N君と僕は2段式B寝台の向い合わせのベッドを確保できていた。


『この列車は、奥羽線回りの寝台特急「あけぼの」6号です。途中、弘前、大鰐、碇ヶ関、大舘、鷹ノ巣、二ツ井、東能代、森帒、八郎潟、秋田、大曲、横手、黒磯、宇都宮、大宮、上野の順に停車して参ります。それ以外の駅には停車致しませんので御注意下さい。列車は9両連結しております。前から1号車、2号車、3号車の順で、1番後ろが9号車です。1番前の車、1号車がA寝台、残りの車は全てB寝台です。また2号車は禁煙車となっています。終点上野までお煙草は御遠慮下さい。また、立席特急券をお持ちのお客様は、3号車と4号車を御利用ください。立席特急券の御利用は秋田までとなっています。秋田から先は立席特急券では御利用できませんので御注意下さい。なお、この列車には、終点の上野まで車内販売は乗務しておりません。お買い物はホームの売店でお済ませ下さい。この列車には車内販売はございません。奥羽線回りの「あけぼの」6号です。発車まであと10分ほどでございます。発車まで今しばらくお待ち下さい』



発車前の案内放送は、心なしか、東北本線の寝台特急よりもまったりとした口調に聞こえた。


この列車より後に出る21時19分発の「ゆうづる」6号や21時50分発の「はくつる」2号の方が上野に先に到着します、などと車掌が余計なことを言わないか、もしくは、


「弘前や秋田とか、行きとは違う駅を通るんだな」


と突っ込まれないか、身を縮める思いでN君の顔色を窺っていた。

そのようなことは夢にも思っていないのか、それとも気づいていても口にしないだけなのか、N君は、何処を通ろうが東京に着きさえすれば構わない、と全く気に掛けていない様子で、青森駅で購入した缶ビールやつまみをリュックから取り出して窓際に並べ、


「お前のおかげで北海道に行けたよ。連絡船も良かった。サンクス」


と、ビールの栓を開けた。

583系寝台特急用電車では、客室を出てデッキでお喋りするしかなかったが、寝台に腰を掛けて乾杯できるとは、夜行専用に製造された24系客車のゆとりである。


昭和58年に登場してブルートレインに広く採用された2段式B寝台は、ベッドの高さも充分で、頭上にせり出している上段に若干の圧迫は感じるものの、座っても頭がつかえない。

「東北特急」でこのようにゆったりと寛ぐのは初めてだな、と思う。


旅が終わるのは寂しいけれども、上野までの13時間、最後の夜をせいぜい楽しもうと思う。



話が尽きないままに、外で発車ベルが鳴り響き、電気機関車の甲高い汽笛が聞こえて、少し間を置いてからゴトリ、と列車が動き始めた。

雪で白く染まっている青森駅のホームが後ろへ流れ始めて、見る間に車窓が暗転する。


『本日はJR東日本を御利用くださいましてありがとうございます。この列車は、奥羽線回りの寝台特急「あけぼの」6号です。列車は定刻に発車しております。車は9両連結しています。前から1号車、2号車、3号車の順で、1番後ろが9号車です。1番前の車、1号車がA寝台、2号車から9号車は全てB寝台です。2号車は禁煙車となっています。お手元の寝台券を御確認の上、お間違いのないようにお願い致します。立席特急券をお持ちのお客様、御利用できますのは3号車と4号車です。立席特急券のお客様は3号車と4号車の御利用をお願い致します。御利用できますのは秋田までです。秋田から先は立席特急券ではお乗りになれませんので御注意下さい』



車掌の案内放送が始まる前に、客車列車での案内放送用に統一されている「ハイケンスのセレナーデ」のオルゴールが流れて、「あけぼの」の道行きの叙情を盛り上げる。


「チャイムが『あさま』と違うな。『あさま』は、ほら、『汽笛一声新橋を』ってやつだろ?夜行ではみんなこれなのか」


と、放送に無頓着のようだったN君が、ふと耳を澄ます素振りをした。

「あさま」とは、僕らの故郷長野市と上野を行き来して、2人にとっても馴染みの特急列車の愛称である。


「こっちはドイツのハイケンスって人が作った曲らしいよ。機関車が引っ張る客車はみんなこの曲なんだけど、今、客車は殆ど夜行しか使われてないから、ほぼ夜行だけかな」

「そうなのか。なんか、可愛い曲だな」


僕にとっても、夜行列車と言えば真っ先に思い浮かぶメロディで、家にいる時ですら、この曲を聞くだけで夜汽車に乗っているような気分になる。

客車列車の「九州特急」や急行「八甲田」でも使われている一方で、「はくつる」や「ゆうづる」といった583系では電車に共通の「鉄道唱歌」だから、昼行特急に乗っているような心持ちになったのも確かである。

ディーゼル列車に共通して流れるチロル民謡「アルプスの牧場」も、僕は素朴な曲調が気に入っているのだが、どうして動力別で案内チャイムを分類したのだろうと思う。


N君に説明しながら、今や全国的に減少した客車鈍行列車も、「ハイケンスのセレナーデ」を使っているのかな、と思う。

この列車は機関車牽引の客車ですよ、こちらは電車ですよ、などと乗客に知らせるよりも、昼行なら昼行、夜行なら夜行、もしくは特急、急行、普通など列車種別で区別した方が良いのではないか、と首を傾げたくなるけれども、583系電車のように昼夜で運用される車両では2つのチャイムを搭載する必要性が生じるから、無駄な投資になることは理解できる。



『それでは、これから先、停まります駅と到着時刻をお知らせ致します。次の弘前には20時49分、大鰐21時ちょうど、碇ヶ関21時10分、大舘21時32分、鷹ノ巣21時49分、二ツ井22時01分、東能代22時18分、森帒22時30分、八郎潟22時47分、秋田23時20分、日付が変わりまして大曲に0時15分、横手0時37分。横手からは深夜運転となりますので、黒磯までお降りになることは出来ません。黒磯は明日の朝6時34分、宇都宮7時46分、大宮8時47分、終点上野には9時14分、上野には明日の朝、9時14分に着きます』


乗客に畳み込むような落ち着いた声が、上野まで16の停車駅を、丁寧に羅列していく。


1日3往復が運転されている寝台特急「あけぼの」の上り列車では、僕らが乗る6号の東北側における停車駅が最も多い。

秋田を起終点とする2号や、青森を18時06分という早い時間に発車する4号は、碇ヶ関や二ツ井、森帒といった駅は通過し、その代わりに湯沢、新庄、山形に停車するという役割分担である。

6号が朝一番に黒磯に停車するのは、交流電気機関車と直流電気機関車を付け替えるためで、時刻表では通過扱いと記載されていても、実際は、全ての客車列車が停車しているはずである。

黒磯での機関車交換を見たいな、と思わないでもないけれど、きっと白河夜舟だろうと端から諦めていた。


盗難に御注意下さい、ゴミは屑物入れにお願いします、寝台での喫煙は厳禁です、などと夜行列車で定番の決まり事を並べ上げた上で、


『次の停車は弘前、左側の扉が開きます。停車時間は2分です。すぐに発車となりますので、ホームへはお出でになりませんようお願いします』


と放送が締めくくられ、再び「ハイケンスのセレナーデ」が車内に響き渡ると、間もなく車掌が検札に現れた。

僕らを見ながら、やってますな、といった表情で車掌がニヤリとした気がしないでもないが、


「おや、お客さん、青森から上野なら東北線の『ゆうづる』の方が早かったのに」


などと口走らないか、僕はまたもや気が気でなかった。

「あけぼの」に青森駅から乗る客は少ないはずである。

「はくつる」や「ゆうづる」より遠回りでも割高な料金を支払っているのではないから、殊勝な客、とJRに感謝される道理はないだろうし、鉄ちゃんと見抜かれたに違いないから、そのような人種ではないN君のために弁じてあげたい気もする。


検札が終われば、僕らの「あけぼの」の一夜を邪魔するものはなにもない。

よく飲んで、よく食べて、ふと、闇に塗り潰された窓に酔眼を凝らすと、外は深々と雪に覆われているらしく、列車から漏れる明かりが照らし出すのは、こんもりと線路際に積もった白雪だけである。

時に黒いものが視界を横切ったな、と思えば、立木の幹であった。

薄暗い照明が照らし出している小駅のホームも、うず高く雪が積もっている。


奥羽本線の沿線は、東北本線よりも雪深いようであった。



寝台特急「あけぼの」が登場したのは他の寝台特急よりも比較的遅く、昭和45年10月である。

東北本線から福島で分岐する奥羽本線に直通する初めての寝台特急であり、その人気の高さを長期間維持し続けたのは、東北本線や東北新幹線といった表街道から外れた地域を結んでいたからであろうか。


上野から奥羽本線に乗り入れる列車の歴史は、明治41年に運転を開始した701・702列車まで遡る。

この列車は、上野-福島間の東北本線を一部の駅を通過する夜行で走り、福島-青森間は各駅停車になって、所要25時間を要したという。

大正11年に二等寝台車と食堂車を連結した急行に格上げされて、所要は19時間となり、他にも奥羽本線経由の上野-青森間直通列車は普通列車が2往復運転されたが、昭和19年に、急行は上野-秋田間に運転区間を短縮してしまう。


戦局の激化に伴い、夜行の普通1往復に削減されて太平洋戦争の終戦を迎えた東北・奥羽本線直通列車であったが、昭和21年に上野-秋田間に夜行準急405・406列車が運転を再開する。

ただし、石炭事情の悪化から、1往復の普通列車の上野-山形間と準急405・406列車の山形-秋田間を運休し、2種類の列車を1本として通しで走らせる苦肉の策も取られたこともあったらしい。


昭和22年に夜行準急405・406列車が急行に格上げされ、昭和23年には上野-秋田間を上越線・羽越本線経由で結ぶ夜行急行701・702列車が運転を開始する。

昭和25年に夜行急行401・402列車に「鳥海」の愛称がつけられ、昭和29年には上野-青森間を上越・羽越本線経由で結ぶ急行「津軽」が登場する。

昭和31年に夜行急行「鳥海」は青森駅まで延伸して「津軽」に改称、それまでの「津軽」は「羽黒」と改められて、上野-秋田間の運転となった。

「津軽」は、東京から秋田県を経て青森県へ向かう唯一の優等列車であり、数多くの帰省者が利用し、いつしか「出世列車」と呼ばれるようになった。


昭和35年に上野-新庄間に夜行準急「出羽」が運転を開始して翌年に急行に昇格、昭和36年には上野-酒田間に準急「庄内」が、また上野-秋田間に急行「男鹿」が運転を開始した。



昭和45年7月に上野-秋田間で登場した寝台特急「あけぼの」は、当初、臨時列車で1往復の運転だったが、夜行急行「おが」を特急に格上げする形で定期化され、運転区間も上野-青森間に延伸される。

「あけぼの」は、深夜時間帯に停車する駅での乗降扱いを行わない運転停車を、国鉄で初めて実施した列車であり、後の寝台特急のモデルケースとなった。

「あけぼの」の登場に伴い、急行「おが」は定期昼行1往復と季節運転の夜行1往復と、舞台から1歩退いた形となった。


昭和47年には、それまで上野-新潟間で運転されていた夜行急行「天の川」が寝台急行となり、上越・羽越本線経由の上野-秋田間で運転を開始する。

昭和48年には、寝台特急「あけぼの」に秋田発着列車が増発されて2往復となったが、同時に、上野発着の寝台特急における食堂車の廃止が順次進められ、「あけぼの」も食堂車をB寝台車に置き換えている。


東北・上越新幹線が開業した昭和57年には、夜行急行「津軽」2往復のうち1往復を寝台特急「あけぼの」に格上げして3往復運転になる。



同時に、急行「出羽」と急行「鳥海」を統合して上越・羽越本線経由の寝台特急「出羽」に格上げする一方で、「津軽」を除く奥羽本線の夜行急行列車が軒並み廃止された。


「津軽」は奥羽本線で自由席車両が連結される唯一の夜行列車になったために混雑が激しくなり、B寝台車2両を座席車代用に切り替えて、ついに寝台車を外す事態となった。

しかしながら不満や苦情が少なからず寄せられ、昭和59年に座席車の一部をB寝台車に置き換えたものの、多客期には寝台車を座席車に変更して運転したこともあったらしい。

東北・上越新幹線が上野に乗り入れを開始した昭和60年には、寝台急行「天の川」が廃止され、夜行急行「津軽」は、再び全車が座席車両となった。


その時期に僕らは「あけぼの」を利用したのだが、その1ヶ月後、青函トンネルが開業する昭和63年3月のダイヤ改正で、新たに上野-札幌間に運転を開始する寝台特急「北斗星」の車両を捻出するため、秋田発着の1往復が廃止されることが決定していた。


こうして「あけぼの」の歩みを振り返ってみると、常に高い人気を誇った夜行急行「津軽」の華やかさに比べて、「あけぼの」はどこか地味な印象がある。

無口でありながら着実に仕事をこなす職人、と言った風格を感じるのは、僕だけだろうか。



もともと、東北地方の内陸部や日本海沿岸は、夜行需要が根強い地域である。

そのことは、奥羽・羽越本線沿線諸都市を発着する東京直通夜行高速バスの展開からも窺うことが出来る。


昭和37年8月:浜松町-山形間「東北急行バス」

昭和61年12月:品川-弘前「ノクターン」

昭和63年2月:新宿-秋田「フローラ」

昭和63年10月:渋谷-鶴岡・酒田「日本海ハイウェイ夕陽」

平成元年3月:池袋-大館・鷹巣・能代「ジュピター」

平成元年7月:横浜・浜松町-大曲・横手・田沢湖「レイク&ポート」

平成3年12月:浜松町-天童・新庄「TOKYOサンライズ」

平成4年2月:東京-羽後本荘「ドリーム鳥海」

平成4年10月:赤羽・大宮-鶴岡・酒田「夕陽」


昭和37年開業の「東北急行バス」は現存する高速バス路線では最も老舗であり、また、昭和61年開業の「ノクターン」号は、東京と地方都市を結ぶ夜行高速バス路線が成り立つことを初めて実証し、現在に至る高速バスブームの先鞭をつけた。



寝台特急「あけぼの」は、競合する夜行高速バスの影響ばかりでなく、鉄道の進化によっても少なからず影響を受けている。


平成2年9月には、山形新幹線工事の影響により奥羽本線の福島-山形間が使えなくなり、東北本線から陸羽東線・奥羽本線経由の「あけぼの」と、上越・羽越本線経由の「鳥海」の2系統に分離された。

平成9年3月の秋田新幹線開業では、陸羽東線経由の「あけぼの」が廃止、代わりに「鳥海」が「あけぼの」に改称されるなど、時代に翻弄される半世紀を送ってきた観を拭い去ることが出来ない。

1ヶ月後に颯爽と登場する寝台特急「北斗星」に車両を譲るために、減便を余儀なくされたところなど、その最たる例と言えよう。


寝台特急列車全般が凋落傾向にある我が国の趨勢にあって、「東北特急」でも、全国の寝台特急の中でも、最も遅い平成26年まで残されたのは、「あけぼの」に対する根強い支持を物語っているのだから、もって冥すべきと思う。



N君との一献を切り上げて、ふわふわしながらベッドに潜り込んでからの「あけぼの」6号の道中は、全て忘却の彼方である。

車中1泊を含めて3泊4日、僕だけの1人旅とは様相が変わり、乗り物ばかりでなくあちこちを見物して真冬の道南を歩き回ったから、それだけ疲れが溜まったのだろうか。

それとも酩酊したのか。

せっかくの2段式B寝台も、せっかくの奥羽本線も、この夜、これと言った感慨を僕の心に刻むことはなかった。


それでも、これまで東北・北海道の行き来で利用した寝台特急「はくつる」「ゆうづる」や夜行急行「八甲田」では、座席車での一夜が寝苦しかったり、寝台が狭かったり、また朝の到着が早過ぎたり、何かと苦い体験が少なくなかったが、「あけぼの」の寝心地や乗車時間、そして朝の到着時刻など、全てが僕にとって申し分なかった。

それが逆に印象が薄まった一因であるとするならば、贅沢な話である。



僕が眼を覚ましたのは、大宮の手前で鳴らされた「ハイケンスのセレナーデ」であった。


『長らくの御乗車、大変お疲れさまでした。あと10分少々で大宮に着きます。8時47分、定時の到着です。9番線の到着、お出口は右側になります。大宮でお降りの方は、どうかお忘れ物のないようお支度をお願いします。大宮での接続を御案内します。東北本線の普通列車は、8時59分発上野行きが3番線からの発車です。浦和、赤羽方面京浜東北線を御利用の方、1番線と2番線にお回り下さい。与野本町、武蔵浦和、赤羽方面埼京線を御利用の方は19番線と20番線にお回り下さい。川越線川越、高麗川方面のお客様は21番線と22番線です。高崎線を御利用の方は、9時03分発高崎行きが8番線、その後、長野行き特急「あさま」7号が7番線から9時22分です。上越新幹線を御利用のお客様、16番線にお回り下さい。新潟行き「とき」403号が16番線から8時57分です。埼玉新都市交通を御利用の方は西口、東武野田線を御利用の方は東口、どちらもいったん改札口を出てお乗り換え下さい。御利用ありがとうございました。間もなく大宮です。お出口は右側、9番線の到着です』


せわしない乗り換え案内が、世の中はとっくに起きてるんですよ、と言っているかのように聞こえる。



夜行列車恒例の「おはよう放送」も、黒磯、宇都宮の停車も知らずに眠り込んでいたのか、と唖然としながらベッドを抜け出すと、通路の壁に収納された椅子を引き出して、N君が一服していた。

長旅を終えた反動なのか、憑き物が落ちたような顔で座っている。


「おす」

「おう。よく眠れた?」

「うーん、かなり揺れたからなあ。あちこちで起こされた」


奥羽本線を走る列車の振動については、内田百閒の「阿房列車」の1編「雪解横手阿房列車」において、夜行急行「鳥海」の二等寝台の描写にも書かれている。


『この汽車は大変揺れる。

特に通過する駅の前後がひどい様である。

転轍の所為ではない。

その前後の線路だと思う。

眠くなったけれど、よく眠れない。

しかしねむたい。

寝たかと思うと目がさめる。

寝台が揺れて、物音がする。

勘違いして地震かと思ったわけではないが、びっくりする。

そうして目がさめる』


読み進めながら、豪雪地帯での線路の保守作業は大変なのだろうな、と思ったものだった。


厳冬期、旧暦の小正月での横手訪問記は、「阿房列車」の中で僕が最も好きな章の1つで、急行「鳥海」車内での一献に始まり、横手で巡り合った「かまくら」「梵天」といった行事や「岡本新内」の鑑賞、そして雪深い町並みを橇で移動する場面など、文中から雪国の情緒がありありと伝わって来る。

そのような土地を眠って通り過ぎてしまったのは、少しばかり残念だった。


「お前はよく寝てたな。黒磯って駅で5分停車するって言うから降りてみたんだけど、声を掛けても目を覚まさなかったぜ」

「へえ、黒磯で外に出たんだ」

「うん、機関車を替えてた」


牽引機関車の交換風景と言えば、鉄道ファンが必ず群がってカメラを構える貴重な場面である。

鉄道ファンの僕が見逃したのに、ファンでも何でもないN君が見に行ったと言うのだから、おかげで寝不足だ、と言いたげな彼の悄然とした様子が、無性に可笑しかった。


「でも、その後は短くてもよく寝たよ。上野に遅く着く列車をお前が選んでくれたから助かった」

「え?もっと早い列車があるの、知ってたのか」

「あるんだろ?夕べの連絡船で、頻りに「ゆうづる」とか言う列車を案内してたじゃないか。それなら6時に着いちゃうんだろ?やだよ、俺も、そんな早い時間に降ろされる列車なんて」

「すまん、ありがとう」

「何で謝るのさ。札幌からちょうど24時間、切りもいいし、北海道の帰り道に相応しいじゃないか」


お見通しだったか、と首をすくめたが、車内でのんびりしたかったと言う趣向が一致して良かったと思う。

それとも、僕に配慮しての優しさだったのか。

お互いに懐が寂しい学生の身であるから当然かもしれないが、北海道に航空機で行こうとは決して言わなかったし、夜汽車や連絡船の風情に素直に感じ入っていたようにも見受けられ、加えて所要時間の長さを気に留めないのであれば、彼は、もしかして隠れ鉄道ファンなのではないか。



大宮駅の手前では洗面台もトイレも混雑していたが、大宮を出ればひと段落して、悠々と用足しを済ませて顔を洗うことが出来た。


その行き帰りに他の寝台を覗いてみれば、僕らの乗る車両は下段がほぼ全て埋まり、上段のカーテンも半分以上が閉まっている混み具合である。

週末とは言え、閑散期と呼ばれる2月にこれだけの客が利用するのだから、「あけぼの」の面目躍如と言えるだろう。

いつの間にこれほど乗車したのか、と思ったけれども、カーテンを閉め切った暗闇のベッドで、通路をどかどかと歩く乗客の足音を幾度か夢うつつで聞いたような気もする。


「雪解横手阿房列車」は、上野駅に午前6時半に着く「鳥海」で、百閒先生が眼を覚ます場面で締めくくられる。

滅法朝に弱い百閒先生は、『止んぬる哉』と一大覚悟で「鳥海」を選んだのだが、さすがと感心するのは、決して寝過ごすことなく、『夜半を過ぎたら、もう寝てはいられない』と、逆にとんでもなく早い時間に起きて、しかも二度寝をしない点である。


『窓のカアテンを引き寄せて見たら、向こうの遠い空の下の端が、灰色になりかけている。

もう駄目だと思って、半身起き直った。

そうして煙草を吸って、本式に目を覚ました。

矢っ張り夜明けだったので、段々に灰色が褪せて、地平線から赤い大きな朝暾が昇って来た。

私に取っては、実に驚天動地の椿事である。

ああして、いろいろの事のある1日が始まるのかと、呆気に取られて、眺めた。

向う側の寝床に山系がいつ迄も寝ているのは業腹だから、起こしてやった。

日の出をおがみなさいと云ったら、曖昧な返事をして起き出した。


「どこです、どこです」


と云う。

山系側の窓のカアテンを引いたら、正面に真白い富士山が映った。

西の空にはまだ夜の尻尾の様な朦朧とした暗さが残っている。

その薄闇を裂く様に、白い富士山が聳えて、東天の旭日と向かい合った景色を、自分の窓と、山系君の窓と、代る代る見て見返って、1日の朝は、こうしたものなのかと考え直した』



「鳥海」の後継列車とも言うべき「あけぼの」で、僕が目覚めたのは午前9時前だから、いくら日が短い真冬でも、『やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる 雲のほそくたなびきたる』どころか、『日は既に三竿』という頃合いで、百閒先生と同行のヒマラヤ山系氏が日の出を拝んだ早暁には程遠い。


それにしても、眠い。

出来れば、このまま青森に引き返してベッドで横になっていたい、と2日前のN君と同じ心境になるけれども、583系のような昼夜兼用車両ではない24系客車の「あけぼの」は、尾久にある車両基地に戻るだけがオチである。

こうして色々の事のある1日が始まるのかと、百閒先生同様呆気に取られて、ホームに人が溢れている京浜東北線の駅を次々と見遣りながら、居心地の良い車内を出なければならない上野駅が近づくのを黙然と待つより術がない。


沿線のビルやマンション、そして賑やかに行き交う電車の窓が、一斉に朝日を照り返してきらきらと輝いている。

眩しい陽の光を久しぶりに見たような気がして、目がぱちぱちする。


重苦しい雲が覆い尽くしていた北国の旅の空を、懐かしく思い浮かべているうちに、終着駅上野への到着を告げる「ハイケンスのセレナーデ」の柔らかな調べが、車内に流れ始めた。



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