10年目の「3.11」に思うこと~「Fukushima50」「太陽の蓋」映画で振り返る原発事故~ | ごんたのつれづれ旅日記

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あの日から、10年──

 

長いようで短い歳月、いや、短いようで長かった歳月、どちらなのでしょうか。

人それぞれですよね。

日本中の人々が、様々な思いを抱いて、「3.11」を迎えたのだろうと思います。

 

改めて、震災で亡くなられた人々に哀悼の意を表します。

そして、今もなお、被災地で復興に取り組んでおられる人々に、心からの敬意を表します。

 

 

先日、DVDで発売された映画「Fukushima50」を観ました。

圧倒されました。

あの時、このようなことが起きていたのか、と目を見開かされました。

文献などで事故の経過を知っているつもりであっても、実際に視覚で目の当たりにすると、泣きたくなるくらいの凄まじい迫力で伝わってくるものなのですね。

 

何ということが起きてしまったのか。

出来ることならば、時を巻き戻して、歴史を変えられないものか。

 

やるせない思いが込み上げてきます。

 

同時に、僕の胸中に湧き上がって来たのが、10年、という歳月のことでした。

10年とは、我が国を見舞った未曾有の危機──大変な数の犠牲者を出し、被災者の生活を大きく狂わせ、未だに復興の途上にある東日本大震災と福島第一原子力発電所事故──を、曲がりなりにも映画化し、振り返ることが出来るような余裕を生むものなのか、という驚きにも似た心境でした。

 

 

「Fukushima 50」は、門田隆将の「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」を原作として、「今一度、震災の記憶と向き合い、復興への思いを新たにする作品を世に問う、それこそが映画人の使命である」との意図で、令和2年3月に公開されました。

折しも新型コロナウィルス流行の真っ只中で、劇場に足を運ぶ観客は少なく、新作映画としては異例のWEB配信がされたとも聞いています。

 

福島第一原発の当時の職員に入念な取材を行い、撮影は実際の現場を忠実に再現した巨大セットを用いて行われました。

邦画では初めてとなる在日米軍の協力を得て、「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」の作戦会議やヘリコプターの発進場面を横田基地で撮影、また総理大臣が福島第一原発を緊急訪問した場面での要人移動用ヘリコプターや、空から原子炉建屋へ放水を行う場面での大型ヘリコプターなども、陸上自衛隊の全面的な協力の下、実物を用いているそうです。

監督は若松節朗、そして佐藤浩市、渡辺謙、吉岡秀隆、緒形直人、火野正平、平田満、萩原聖人、堀部圭亮、小倉久寛、富田靖子、佐野史郎、安田成美、金田明夫、小市慢太郎、矢島健一、田口トモロヲ、ダンカン、泉谷しげる、津嘉山正種、段田安則などといった錚々たる演技陣が、実在の人物を演じています。

 

 

「Fukushima 50」とは、危機に瀕した原発に留まって対応した約50名の作業員たちを指しています。

 

映画の評価は真っ二つに分かれたと耳にしています。

 

「約2時間ぼくは泣きっぱなしだった」とTwitterに書いたコピーライターもいました。

当事者であった元首相は、「周囲の人は、描き方が戯画的だとか色々言ってくれるんですが、そんなに、ひどいとは感じていません。劇映画ですしね」と、事実と微妙に違う点は幾つかあるものの、非常に事故のリアリティがよく出ている映画だと好意的に評価しているそうです。

 

一方で、映画評論家は、「戦後日本への道をなぞり、迷いなく美化するような展開に呆然とした」「この作品は検証や哀悼や連帯ではなく、動揺や怒りや対立を呼びおこす」「自然を甘く見ていたというだけの結論。何を隠蔽したいのか。若松監督、承知の上の職人仕事か」と、概ね厳しいコメントをつけています。

 

評論家の中には、作中で殆どの登場人物が実名であるのに対し、混乱の元凶のように描かれている首相をはじめとする政治家、東電本社の人間だけは実名ではなく、万一抗議されても言い逃れできるようになっていることと、首相側の視点が欠落し、あたかも首相が現地へ行くことになったことでベントが遅れ、被害が拡大したという描き方になっているが、東電にも不備があった事実が抜け落ちていることを指摘しています。

 

ある科学ジャーナリストは、各種報告書でも推察できるように、実際は想定外の大津波ではなく、日本原電や東北電力と同じ程度に津波対応を進めていれば避けられた事故だったにも関わらず、まるで人間の想定を超えた事態だったと作中では描かれており、東電の責任から目を背け、事故の本当の姿を現場の美談で隠してしまったと批判しています。

同じく津波に襲われた女川原発や福島第二原発、東海原発は無事だったのに、という疑問や無念は、誰もが抱いていることでしょう。

 

別の映画評論家は、パニック映画として見るとスリリングな展開で、オールスター・キャストで華やかに映画映えしているが、作業員らの決死の行動がまるで戦時中の特攻隊を彷彿させることは疑問であり、事故の原因に大自然の猛威以上の重大要素があるのではないか、という問いにも答えていないため、見る側の意識を啓蒙させてくれる真のエンタテインメントに成り得る資格を持ちながら、自ら放棄してしまっているのが残念だ、と評価しています。

 

 

福島第一原発にある6基が、地震による停電と、津波による自己発電装置の損傷のためにステーション・ブラックアウト(SBO)という最悪の事態に陥り、原子炉のコントロールが失われ、あろうことか3基が次々と水素爆発を起こして炉や建屋が破壊されたばかりか、膨大な放射性物質と高レベル放射能を周辺地域に巻き散らすという事態を惹き起こしたのです。

冷却できなくなった原発が爆発、火災を繰り返すことで、現場が阿鼻叫喚とも言える地獄図を呈している様子が手に取るように伝わってくる映像表現力は、かなりの完成度だったと思います。

 

その凄絶な現場に留まり、身の危険を顧みず、献身的に事故処理に当たった約50名の作業員の勇気ある行為を讃えて、「Fukushima50」と名付けたのは、NYタイムズが最初と言われています。

同紙は、3月16日付の1面で、「とどまった無名の作業員50人」「原発の最後の砦を守る人々」と大きく報じたのです。

NYタイムズは更に電子版でも「顔の見えない無名の作業員が50人残っている」と報じた上で、「日本人の我慢強さや協調性」を評価し、「今後数週間の日本の対応を見れば、我々が学ぶことが多いはずだ」などと報道しています。

 同時にCNNやヨーロッパのメディアも、原発にとどまっている社員を案ずる家族の表情や声を報じ、身を呈して原発を守ろうとしている人々の勇気を讃えました。

 

当時のオバマ大統領も、3月17日の声明で、「日本の作業員らの英雄的な努力」と讃えています。 

 

 

しかし、「Fukushima 50」を観て、現場の人々の英雄的行為に感動しながらも、僕は別の感慨を覚えずにはいられませんでした。

 

NHKの特集だったと思うのですが、福島第一原発事故をドラマ仕立てで放送したテレビ番組をYoutubeで観たことがあります。

その番組でも、映画「Fukushima 50」でも、僕が強く感じたのは、暴走する原発を前にして、人間にいったい何が出来たのか、という無力感でした。

NHKの番組は、原発の職員が次々と発生する異常事態に右往左往するだけでどうしようもない事態に陥ってしまったような印象がありました。

もう少し丁寧に経過を追っている「Fukushima 50」では、格納容器の爆発的な破壊という破滅的事態を防ぐための、注水やベントを命がけで試み、放射能被曝を恐れず現場に留まり続けた作業員の姿が描かれています。

頭を垂れる思いです。

しかし、その英雄的な行為にも関わらず、結果として、1号機も2号機も3号機も、水素爆発を起こして建屋が吹き飛んでしまったのです。

20km圏内の人々が避難を余儀なくされ、遠く数百キロ離れた地域にホットスポットを作ってしまうような、広域に及ぶ深刻な放射能汚染は、防げなかったのです。

 

 

「Fukushima 50」は、福島第一原発を戦場として、職員たちを兵士として描いた一種の戦争映画だ、とする評論を読んだ覚えがあります。

 

昭和30年代から60年代に至るまで、太平洋戦争を描いた様々な邦画が製作されました。

どの映画も、個々の人間は、政治家も庶民も含めて崇高な使命に燃え、国を守るために懸命に闘う姿が描かれていました。

それでも、英米との圧倒的な物量の差は如何ともし難く、戦局を覆すことは叶わなかったのだな、という無常観を感じたものでした。

 

「Fukushima 50」にも、似たような諦観を感じたのは、僕だけでしょうか。

どんなに決死の作業を繰り返しても、原子炉が暴走し、水素爆発が起き、一時は被害状況さえ把握できなくなるような混乱を呈しているうちに、次の爆発が起きてしまう。

現場の作業員は成すべきことがなくなり、現場に留まるかどうかの議論や、家族の写真やメールを見つめて死を覚悟するより術がなくなるのです。

まさに太平洋戦争の特攻隊を描いた映画と同じ構成に思えたのです。

 

 

東京の場面では、怒り狂っているだけの首相と、「早くベントをしてくれよ」と懇願するだけの東電本店の役員たちが出てきます。

映画ですから、作劇の上で、英雄たちに対する悪役が必要だったのでしょう。

「Fukushima 50」における悪役は、自分は安全なところにいながら無茶ばかり要求してくる東電の役員たちであり、分かりもしないのに口を出してくる首相官邸なのです。

本来ならば、倒すべき相手は人間ではなく、暴走している原発のはずです。

ところが、職員にとって、原発そのものは敵ではなく、むしろ、職員たちは原発を愛しており、傷ついて苦しんでいる子供のような原発をどうにかしてやりたい、という感情を抱いていることを指摘した評論家がいました。

 

特に、ヒステリックに怒鳴り散らし、浮いた存在として描かれていた、佐野史郎演じる当時の首相の人物像は、まさに戯画そのものであり、原発事故の拡大させた元凶のように描写されています。

ただし、佐野史郎は、一見エキセントリックな演技の中にも、人間味を出そうと腐心していることが窺える、とした映画評を読んだ記憶があります。

原発所長の口から「決死隊」という言葉が出た時の驚愕の表情や、事態の悪化に直面して苦悩する姿は僕にとっても印象的で、かなり勇み足ではあるものの、国難に真摯に対峙しようとしていた人間の1人であることが理解できるのです。

 

 

渡辺謙が演じる所長もまた、何かといえば怒鳴っていました。

SBOという最悪の事態を知った所長は、

 

「とにかく電源だ、本店に電源車要請しろ。それと…消防車だな」

 

と指示します。作業員が、

 

「消防車何に使うんですか?」

「馬鹿野郎!原子炉を冷やすんだよ!電源がなけりゃポンプも動かんだろ!」

 

と怒鳴りつけたのが皮切りだった気がします。

苦悩し、焦燥感に駆られ、部下を思いやる人間味に溢れたシーンも多いので、それほど目立ちませんけれど、事態が悪化するとつい大声になってしまうのは、首相とどっこいどっこいでした。

 

 

3月11日の14時46分に地震が発生し、福島第一原発では1~3号機が緊急停止します。

16時36分に津波で非常用冷却装置の機能が喪失、いわゆるSBOの状態に陥ります。

電源が復旧しなければ、いずれ原子炉の水が干上がり、空焚きになって燃料が溶け出し、格納容器を破壊して、外に流出するメルトダウンが起き、膨大な放射能が巻き散らされます。

原子炉を冷却するための注水作業も、停電のために人力で行わなければならなくなりました。

 

同日の19時03分、原子力緊急事態宣言が発令されます。

当時の官房長官が、

 

「本日16時36分、東電福島第一原子力発電所において、原子力災害特別措置法第15条1項・2項に該当する事象が発生し、原子力緊急事態宣言が発せられました」

 

と記者会見を行います。

 

この時、1号機格納容器の圧力計は、通常の1.5倍に当たる600キロパスカルでした。

 

「いつ格納容器が壊れてもおかしくない、ベントしかねえのか」

 

と佐藤浩市扮する当直長が呟き、所長も、

 

「1号、圧下げよう、ベントの準備」

 

と決断します。

 

ベントとは、格納容器内部の圧力を抜くための作業で、放射性物質を含んだ蒸気を水に通して除去した後に大気中に放出することです。

同時に、周辺地域を放射能で汚染することになるのです。

世界中の原子力発電所で、ベントを行ったのは、福島第一原発が初めてでした。

人力でベントを行うことは、かなりの被曝の危険を覚悟しなければなりません。

ベントの準備として、半径10km圏内の住民に避難指示が出ます。

ベントはそれを待たなければなりません。

 

 

じりじりするような時間が過ぎていく中で、

 

「総理がそちらに視察に行きます」

 

と東電本店から連絡が入るのです。

 

「総理が?これからですか?──本店さん、それ、ちょっと勘弁してくんないかな。現場にそんな余裕ありませんよ」

「すみません、決定事項ですから。何とかお願いします」

「わかりました、その代わりマスクは用意してくださいよ」

「それは現場でお願いします」

「現場は取っかえ引っかえしながら何とかやりくりしてるんです!とてもそんな余裕ありませんよ!」

「こちらはそんな余裕ありません」

「ふざけんな!俺たちに死ねってのか!本店にないなら工夫して下さいよ。こっちはそれどころじゃねえんだよ!」

「所長、少しは言うことを聞きなさい」

「取り敢えず、ベントは総理の視察が終わるまで待てばいいんですね」

 

 

3月12日未明に、首相は自衛隊のヘリで現地へ視察に向かっています。

この現地視察は、最高責任者が最前線に行くなどもってのほか、と当時から批判されていました。

「Fukushima 50」でも、1号機のベントで放射能が漏れて首相を被曝させるような真似は出来ないと、首相の訪問がベントが遅らせ、被害が拡大したという解釈で描かれています。

映画では、首相の到着を待ってじりじりしているように見える場面が挿入されています。

現場の人間にとって、特に所長にとって、首相の振る舞いはそう見えたのかもしれません。

 

 

ここで想起されるのは、平成28年に公開された映画「太陽の蓋」です。

 

福島第一原発事故の真相を追う、北村有起哉演じる新聞記者と、当時の首相官邸の動きを主軸に据えながら、東京と福島の市井のドラマと合わせて展開していきます。

「Fukushima 50」における官邸側の設定は、内閣総理大臣、官房長官といった役職のみが明記され、名前は一切出されていないのと対照的に、「太陽の蓋」では、当時の首相をはじめとする政権中枢の人々が実名で登場し、首相を三田村邦彦、官房長官を菅原大吉が演じ、他にも袴田吉彦、郭智博、神尾佑、大西信満、中村ゆり、伊吹剛といった俳優が結集しています。

東電本店と現場の描写も皆無ではないのですが、併せて10分もあるかどうかでしょう。

 

福島第一原発の描写が中心の「Fukushima 50」よりも、「太陽の蓋」の方が東京の場面が多く、そうそう、「3.11」の時の街の雰囲気はこうだったよなあ、と胸が締め付けられるように思い出されたものでした。

官邸の視点で描かれているにも関わらず、不確かな情報に振り回されるばかりの焦燥ぶりが当時の僕ら一般人と変わらないところが、無視できない問題だと思うのですが。

 

 

当時の首相のインタビューを読むと、「Fukushima 50」との食い違いが見受けられます。

 

『東電本店は、私から見て、情報が届かない、伝わるのが遅い、内容が正確でない、という状況でした。

はやりの言葉で言えば、どうもあの会社は、政治家に対して「忖度」する体質なんですね。

こういうことは言っていいのかどうかとか勝手に判断して、伝えなかったり、曖昧に伝えたりしている、そんなふうに感じます。

そのおかげで最初の5日ほどは、非常に苦労しました。

こちらが知りたいのは、客観的な事実なんです。

3月12日早朝に福島までヘリで飛んだのも、見学でも表敬訪問でもなく、状況を知るためでした』

 

ここで、インタビュアーは、東電本店の緊急対策本部と現場はモニターによってリアルタイムで音声と画像が繋がっていたはずで、福島まで行かなくても本店へ行けば、現場と話せたのではないか、と問いかけます。

 

『そのモニターのことも含めて、情報がなかったんです。

事故直後から、東電からはフェローが官邸に詰めていました。

この人はずっと原発関連の部署にいて元副社長でした。

ところが、何を聞いても、「本店に確認します」となって、しばらくして「分かりません」という返事なわけです。

ベントの問題で言えば、12日午前1時頃に、東電からベントをさせてくれと要望がありました。

実は原発事故においては、プラントのオペレーションは事業者、この場合は東電に責任があり、権限もあります。原子力災害対策本部長である総理には、住民の避難の責任があり、ベントをしろとかするなと言う権限はないわけです。

民間会社の施設ですから。

ただ、ベントをすれば放射性物質が外部に出るので住民に避難してもらわなければならない。

そこで東電は、了解を求めてきて、私は専門家である原子力安全委員会の委員長らとも協議し、それを了解しました。

その時点で、「2時間後にはできる」という話でした。

決めたのが1時頃でしたので、午前3時にはできるんだなと、考えました。

夜中でしたが、住民には避難してもらうことにしました。

その避難の範囲も、半径何キロ以内の人に避難してもらうかなどは、専門家と協議してもらいました。

ところが、予定の3時になっても、ベントが始まらない。

フェローに理由を聞いても、「分かりません」ばかりなんです。

遅れているのか、不可能となったのか、それも分からない。

遅れているなら、その理由を説明してくれればいいのですが、理由も分からない。

そこで、私は現場の責任者に直接会って話すしかないと判断したわけです。

本店のテレビ会議のシステムのことは、15日朝に東電本店へ行ったとき、初めて知りました。

なんだ、こうなっていたのか、と思いましたよ。

そうと知っていたら現地へ行かなかったかどうかは、何とも言えませんが、本店が現地とテレビ会議でリアルタイムでつながっているというのは、行くか行かないかの判断材料のひとつにはなったと思います。

しかし、私が「現地へ行こうと思う」と言ったとき、東電からは「大手町へ来てくれればテレビ会議のシステムがあります」という説明は何もありませんでした。

私としては、現場で何が起きているのか、なぜ午前3時に予定していたはずのベントが5時になってもできないのか、それを知るためには行くしかない、と判断したわけです』

 

官房長官が「総理が官邸を留守にするのは政治的に批判される」と、反対し、また、ベントが遅れている状態で、現地に着いた時に爆発したら、自身も被爆する危険性については考えなかったのか、というインタビュアーの質問に対しては、

 

『当時は、そういう危険は認識していませんでした。

今では11日の20時前後にはメルトダウンが始まっていたことが分かっていますが、当時は水位計が壊れていたので、水がなくなっていることが分からなかった。

東電の報告からは、メルトダウンしていないという認識でした。

現地へ着くと、東電の副社長が出迎えました。

初対面でしたので、名前も顔も知りません。

責任者のようなので、「ベントはどうなってますか」と訊くと、何も答えられない。

東電の人は、みんな何も具体的なことを答えられないんですよ。

現場では所長が指揮をとっていたわけです。

では、本店では誰が事故対応の責任者だったのか。

これもいまだに、よく分からない。

有名な話ですが、社長と会長というトップ2人が旅行中で、事故発生から24時間のあいだ、東京にいませんでした。

つまり指揮官なしで、事故対応していたわけです。

実際には、常務のひとりが指揮をとっていたようですが、はっきりしません。

というのも、東電は事故が起きてから最初の24時間のテレビ会議の記録を、いまだに公表していないんです。

かなりの混乱があり、とても、表には出せないということなのでしょう。

こういう秘密主義の体質の組織なんです。

「分からないから言わないこと」もあれば、「分かっていても伝えないこと」もある。

そう感じます』

 

『所長と話したのは30分もなかったかもしれません。

ようやく、ちゃんと話せる人と会えた、と思いました。

所長は、遅れている理由をちゃんと説明してくれました。

映画でも詳しく描かれているように、電源が喪失しているため、ベントも電動ではできず、手動でやらなければならない。

その場所の放射線量が高く、ひとりがいられる時間が短い。そのために遅れている――そんな説明でした。

それでも、「決死隊を作ってでもやります」ということだったので、私としては、それ以上、何も言うことはありません。

責任者である所長と直接会って話せたのは、その後のさまざまな判断にも役立ち、無駄ではなかったと思っています』

 

首相の視察によりベントが遅れ、被害が拡大したという説が広まっている、と言うインタビュアーの質問に対しては、

 

『私の感覚では、「行ったから遅れた」のではなく、「遅れているから行った」わけです。

遅れた理由は、作業そのものが困難だったこと、住民の避難が終わっていなかったことなど、いくつも重なっていたと思います。

私が帰るまで待っていたので遅れたという認識は、私にはありません。

実際、所長は「総理が来ようが、やる時はやる」と言っていたわけですから』

 

首相の視察とベントの遅れとの因果関係は、事故調査委員会の報告書で否定されていると聞いています。

ベントが遅れたのは、手動でやらなければならないために準備に時間がかかり、周辺住民の避難がなかなか進まなかったからで、「Fukushima50」でも詳しく描かれている通りです。

映画では、準備が整い決行しようと思ったところに、東電本店から「総理がそっちへ行くので、それまでベントを待て」と言われたことになっていますが、現場の感覚としては、その通りだったのかもしれません。

しかし、首相としては「午前3時にベントをする」と伝えられていたのに、それを過ぎてもベントをしたという報告も、遅れている理由も知らされない状態だったので、行くしかないと考えた、と主張しています。

 

 

実際のところ、所長は首相に対してあまり良い感情を持ってなかったものと推察され、現場の取材を基にした「Fukushima 50」もそのような描き方になっています。

「太陽の蓋」では、福島第一原発を視察した首相が、どのような態度をとったのか、描かれていません。

首相は所長と面会できたことで、彼の人間性に惚れ込み、信頼することが出来たと考えたようで、「太陽の蓋」でもそのように語られていますが、政治は結果が全てと考えれば、視察で現場の人間に否定的感情を抱かせてしまった首相に、責任がないとは言えません。

 

そもそも、なぜ首相が現場に赴いたのか、それは、本店が現場の状況を何ひとつ官邸に報告しないことに対する憤りが昂じての行動であり、「太陽の蓋」にもそのように描かれている一方で、それに対する批判が噴出したことも隠していません。

1号機が水蒸気爆発したことを、首相は1時間後のテレビニュースで初めて知らされるという有様だったのです。

後に首相が本店に乗り込んだところ、本店が現場とTVモニターで直接交信していて、全ての情報を把握していたことを初めて知って、愕然とするのです。

 

 

「Fukushima 50」では、首相官邸から海水注入を中止するよう指示があった、と現場に伝える場面がありますが、実際は、原子炉が海水で使い物にならなくなり、廃炉を余儀なくされることを嫌がった東電本店の創作であったことが判明しています。

官邸は海水注入については知らされておらず、それゆえに「太陽の蓋」では、官邸にいた東電の人間の指示が官邸の意図と誤解された、という解釈になっています。

もっとも、それが本当か嘘かを見分ける術など当時の現場にはなかったわけで、そうなると現場の作業員が感じた、官邸に対する嫌悪感も当然と思うのです。

 

福島第一原発の所長と当時の首相は、同じ東京工業大学出身の同窓だったと聞きます。

後に病気で入院した所長を、事故当時の首相補佐官が見舞った際に、

 

「あの時ベントが遅れたのは、首相が行ったからでしょうか?もしそうなら、はっきりそうおっしゃってください」

 

と尋ねたところ、所長は、

 

「それは絶対にありません。住民避難も終わっていなかったのですから、絶対にありませんよ」

 

と答えたと言われています。

 

 

3月12日9時04分にベントが可能になり、作業員が決死の作業に取り組むのですが、1号機建屋内の放射線量が高く、作業の継続が困難となってしまいます。

11時26分、1号機の冷却水が減少し燃料棒が露出、原子力保安院が「炉心溶融の可能性が高い」と発表します。

同日15時36分、1号機が水素爆発。

18時30分、半径20kmの住民に避難命令が発令されました。

 

「Fukushima50」では、首相は官邸の危機管理センターにいて、1号機の水素爆発をモニターでリアルタイムに知ったかのように描かれています。

しかし、実際は異なる経過が、様々な報告書に記載されているようです。

首相は15時から与野党の党首会談に出席し、16時過ぎに執務室に戻ると、危機管理監から「福島第一原発で爆発音がした。煙も出ている。詳しいことは判らない」との報告を受けたようです。

しばらくして、白煙が上がっているらしいとの情報も入ってきます。

そこで東電のフェローを呼ぶと、「そんな話は聞いていません。本店に電話してみます」「そんな話は聞いていないということです」との報告だったのです。

首相は原子力安全委員会委員長に「どういう事態が考えられますか」と質問し、委員長が「揮発性のものがなにか燃えているのでは」と答えた、まさにその時、秘書官が飛び込んできて、「テレビを見てください」と叫びます。

テレビをつけると、第一原発の爆発を報じていたのです。

実際に爆発してから1時間が経過しており、その間、東電からは何の報告もなく、首相は、一般の国民と同時に、テレビで知ったという有様だったのです。

東電本店と福島第一原発はモニターで繋がっているため、本店はリアルタイムで知っていたのですが、それを首相に伝えなかったのです。

 

 

3月13日には3号機の状況も悪化、同日8時41分に3号機の圧力上昇が認められベントが開始、13時12分に敷地内で1557.5mSvの放射能が記録されています。

3月14日になると3号機の線量が高まり、爆発の恐れが出たため、屋外作業はすべて中止していたのですが、

 

「2号機、3号機の作業を再開しろ」

 

という本店からの指示が出されます。

 

「線量が上がってきて、いつ爆発するかわからない、こんな時に行かせられませんよ」

 

と所長は抵抗するのですが、

 

「余計なこと言わずにやれ、こっちで全部責任取るから」

 

と命ずる本店に押された所長は、作業員を出してしまうのです。

その直後の11時01分に、3号機が水素爆発を起こし、多数の負傷者が出ます。

 

3月14日の18時22分には、2号機の冷却水も大幅に減少し、燃料棒が全て露出したものと推測されたために、海水による冷却を開始しますが、海水注入ポンプの燃料切れにより空焚き状態となり、23時00分に燃料棒が再び露出するのです。

地震発生から88時間後に起きた2号機爆発の危機が、福島第一原発事故における最も緊迫した瞬間と言われています。

もし2号機が爆発し、放射能の暴走を止められなくなると、膨大な放射能に覆われて近接する福島第二原発までが制御不能となり、合わせてチェルノブイリの10倍の事故を引き起こすことになるからです。

2号機の格納容器内の圧力は730キロパスカルという、設計圧力の2倍に達していました。

 

本店の面々は、現場と繋がっているモニターに向かって投げやりな態度で、

 

「SR弁を早く開けろ!ドライウェル・ベントを早くやれ!」

 

と言うだけです。

ドライウェル・ベントとは、水を通さず圧力を逃がす方法で、通常のベントより高濃度の放射能を飛散する緊急避難的な方法です。

 

 

死を覚悟した所長は、協力企業の人員と自衛隊員に引き上げてもらうことを決意、各控室に挨拶して回るのです。

2号機の圧力が上がり、いつ爆発が起きてもおかしくない状態に陥ると、本店では、

 

「こいつら死ぬぞ」

 

と、無責任な言葉が聞かれます。

 

首相は3月15日早朝に、東電本社に乗り込みます。

なぜ、首相が東電本社に出向いたのか、という説明が、「Fukushima 50」には描かれていません。

当時の首相は、次のように話しています。

 

『この映画には、描かれていないこともたくさんあります。

15日の午前3時頃、経産大臣から、「東電の社長から、現場が危険なので社員を撤退させたいと言ってきています」と伝えられました。

これについて、東電の清水社長は、「撤退したいとは言っていない」と発言していますが、清水社長から、経産大臣や官房長官のもとに、何度も電話で「撤退したい」と言ってきています。

その電話での会話を聞いていたわけではありませんが、2人の大臣が作り話をするはずがありません。

私としては、経産大臣と官房長官の言葉を信じるしかありません。

彼らがウソを言う理由がないですからね。

私はその場にいませんでしたが、経産大臣以下の官邸にいた政治家と原子力の専門家とが協議し、撤退もやむなしか、ということになり、15日の午前3時頃、総理である私は、最終的な決断を求められました。

その前から、こういう事態になることは、チェルノブイリの事故の例などから、十分に予想していました。

東電の社長の立場として、社員を命の危険にさらすわけにはいかないので撤退させようというのは、考え方としては、間違っているとは思いません。

理解できます。

しかし、総理である私の立場としては、それを認めるわけにはいかない。

東電が撤退したら、誰が事故に対応するのか。

自衛隊が行っても、プラントのオペレーションの知識はありませんから、何もできません。

東電にやってもらうしかないわけです。

いったん撤退したら、第一原発の6機、近くの第二原発の4機、合計10機が放置されることになり、それぞれが暴走し、放射性物質を撒き散らし、制御できなくなります。

それが「最悪のシナリオ」と呼ばれるもので、福島第一原発から半径250キロ圏内が「移転希望を認める区域」となります。

そこには東京も含まれます。

ですから、命の危険があるのは分かった上で、東電には撤退せずに対応してくれと求めなければならなかったんです。

そこで午前4時頃に、東電の清水社長を呼びました。

会ってすぐに、「撤退はありえません」と伝えると、「はい、わかりました」と、こちらが拍子抜けするように、あっさりと答えました。

「撤退させてくれ」と言われていた、経産大臣たちもびっくりしていました』

 

インタビュアーは、東電の社長は「社員を殺すわけにはいきません」とか「社員が亡くなったら政府が責任をとってくれるのですか」とか、何も言わなかったのか、と問う。

 

『何も言いませんでしたね。

話し合いも議論もなく、「わかりました」で終わりました。

この間、政府と東電の間の意思の疎通がうまくいっていないので、「東電本店のなかに、統合対策本部を作りたい」と提案し、了承してもらいました。

本部長が総理である私、副本部長に経産大臣と東電社長、それから総理大臣補佐官が事務局長として東電本店に常駐すると決めました。

1時間後に、私たちが大手町の東電本店へ行き、統合対策本部を立ち上げることになりました。

本店へ行ったのは、そのためです。

社長だけでなく、真の実力者である会長や他の役員、社員の人に対しても、理解してもらう必要があると思ったので、乗り込みました』

 

 

「Fukushima 50」では、東電本店に現れた首相がいきなり、

 

「このままでは日本国が滅亡だ!撤退などありえない!命懸けで頑張れ!撤退したら100%東電は潰れる!逃げてみたって逃げ切れないぞ!60になってる幹部連中は現場行って死んだっていいんだ。俺も行く、社長も会長も覚悟を決めてやれ!撤退などありえない!」

 

と恫喝するかのように怒鳴りまくっています。

 

この時の発言は、以下の内容であったと、首相本人が後に手記に書いています。

 

「今回のことの重大性はみなさんが一番わかっていると思う。政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。これは2号機だけの問題ではない。2号機を放棄すれば、1号機、3号機、4号機から6号機。さらには福島第二原発、これらはどうなってしまうのか。これらを放棄した場合、何か月後かには、全ての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。チェルノブイリの2倍から3倍のものが10基、20基と合わさる。日本の国が成立しなくなる。何としても、命がけで、この状況を抑え込まない限りは、撤退して黙って見過ごすことはできない。そんなことをすれば、外国が「自分たちがやる」と言い出しかねない。皆さんは当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。情報伝達は遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。目の前のことも、5時間先、10時間先、1日先、1週間先を読み行動することが大事だ。金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない。会長・社長も覚悟を決めてくれ。60歳以上が現地に行けばよい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる」

 

「太陽の蓋」での演説も、首相の手記に忠実な内容でした。

静かに、しかし凄みのある声音で東電の面々を説得する三田村邦彦、迫力でしたねえ。

 

「Fukushima 50」では、東電の社長が「撤退したい」と官邸に要請していたことを知らない所長としては、「さあ、頑張ろう」と思っていたのに、いきなり首相が「撤退はさせない」と言い出したので、「何を言ってるんだ、この人は」という気持ちになったように描かれていますが、と聞くインタビュアーに対して、当時の首相は、『所長としては、そうだったかもしれません』と短く答えるだけでした。

 

 

現場の人間からの取材内容に重きを置いている映画「Fukushima 50」と、当時の首相のインタビューや「太陽の蓋」。

ここで、どちらの言い分が正しいのかと議論するつもりはさらさらありません。

結果は変わりませんし、特定の人間が責任として背負うには大きすぎる惨状が、今も僕らの国を苦しめ続けています。

 

「Fukushima 50」では、東電本店で首相が激昂している瞬間に、爆発音が起こります。

 

「2号サプチャン圧力ゼロ!」

 

2号機の格納容器が爆発したことを示唆する数字でした。

最悪の事態を観念した所長は、

 

「各班、必要最小な人員を残して退避……みんな、ありがとう」

 

と、現場に残る人員をさらに最小限に絞った上で、他の職員に退去を命じます。

残留した職員は、家族への万感の思いを胸に秘めて、死を覚悟します。

 

 

仮設トイレで、所長と当直長が一服する場面が印象的です。

 

「なんでこんなことになっちまったんだ」

 

と溜息をつく所長に、当直長は紫煙に目を細めながら、

 

「俺たちは何か間違ったのか?」

 

と問い返すのです。

それには答えず、

 

「畜生、なんで煙草がこんなに旨いんだ」

 

と所長が漏らした一言は、この映画で唯一、僕が肩から力を抜くことが出来た台詞でした。

 

結果として、東日本を居住不能にしかねなかった2号機の格納容器の爆発は、起きなかったのです。

3月15日、地震から4日後に、不意に2号機格納容器内の圧力が350キロパスカルまで低下し、そのまま安定したのです。

歓声を上げるFukushima50の面々。

僕は、その吉報を聞いた時の首相の、脱力したような、緊張が解け切れていないような、しかし確かに安堵した表情が、最も印象的でした。

 

 

Fukushima 50の活躍のおかげ、というのであれば、美談に華を添えたのかもしれません。

しかし、映画のラストで、当直長が、事故の2年後に病死した所長に向かって語り掛ける場面では、

 

「2号機の爆発がどうして起こらなかったのか、未だによく判っていないんだよ」

 

と言っているのです。

僕が、「Fukushima50」で最も無力感を感じたのは、この場面でした。

 

最悪のカタストロフィを回避できたのは、人間の叡智と勇気の賜物ではなく、偶然に過ぎなかったのか……

 

そう思ったのです。

 

「太陽の蓋」でも、2号機の推移を知った主人公の新聞記者が、同じように呆気にとられる場面があります。

 

「そんな……そんなあやふやな偶然で、日本は救われたんですか?」

 

 

当時の首相は、2号機について、更に踏み込んだ見解を示しています。

 

『爆発音がしたんです。

危機的状態だった2号機が爆発していたら、日本は終わっていたのですが、そうではなく、4号機の建屋が爆発し、ほぼ同時に2号機のどこかに穴があき、圧力が低下しました。

放射性物質は大量に出てしまいましたが、2号機の格納容器そのものが爆発していたら、手がつけられなくなっていました。

つまり、ゴム風船に空気を入れすぎて破裂した場合は、風船が粉々になります。

これが最悪の事態です。

ところが、2号機は紙風船に穴があいたようなかたちとなり、空気が抜けていったのです。

それで大爆発は免れました。

私が「神の御加護」と言うのは、具体的には、この2号機の圧力低下です。

もうひとつが4号機の使用済み核燃料プールに水が残っていたことです。

とくに2号機については、あけようと思って何かをして穴があいたわけではなく、本当に人の力を超えた何かのおかげだったのです。

しかし、そういう奇跡が、次の事故のときも起きるわけがありません。

アメリカの合衆国原子力規制委員会(NRC)の委員長だったグレゴリー・ヤツコさんは、福島の事故の後、「原発事故は、いつ、どこで起きるかは分からないが、いつか、どこかで必ず起きる」と言っています。

その通りだと思います。

ヤツコさんは、「原発を止めろ」とは言わないんです。

「原発を作っていいのは、事故が起きても住民に被害が及ばないところだけだ」という言い方をします。

つまり、半径250キロ以内に人が住んでいないところです。

アメリカやロシアにはそういう条件を満たすところがあるかもしれませんが、日本にはありません』

 

映画「Fukushima50」は原発の是非を問うものではない、と製作者は語っています。

しかし、この映画を観た者として、そして、この事故が起きた国に生まれ育ち、生活している国民の1人としては、どうしてもその問題に踏み込まざるを得ません。

 

 

福島第一原子力発電所は、僕が住む東京に電力を供給するために建設されました。

平成16年に公開された「東京原発」という映画があります。

役所広司演じる東京都知事が、東京に原発を誘致する、という構想をぶち上げるという話です。

 

原発が東京に設置されれば、国からの莫大な補助金によって財政は潤い、福島や新潟に置かれている原発から東京まで大変な長距離を送電するような無駄や経費も削減でき、原発が産み出す膨大な熱量が首都のエネルギー事情を好転させる、という論理が展開されます。

福島第一原発事故が起きた現在、その理屈を聞いていると、何と脳天気な話なのか、と苦笑せざるを得ません。

しかし、それは、事故が起きるまで原発の安全神話を盲信していた、当時の僕らの認識でもあったはずなのです。

そう考えると、苦笑い、では済まなくなってきます。

 

一方で、都庁で知事のブレーンが原発の専門家を招いて開いた会議では、原発の様々な裏事情が明らかになっていきます。

チェルノブイリと同規模の事故が起きた場合、放射能汚染による避難地域は、本州のかなりの範囲に広がるという予測。

原発は、世界一厳しい我が国の耐震基準の3倍の強度で造られている、という政府の発表は、そもそも、その耐震基準が、大正12年の関東大震災の数分の一の揺れを基に算出されているという驚愕の事実。

何よりも、原発が産み出す放射性廃棄物の処理方法が未だに解決されておらず、問題を先送りして僕らの子孫に負の遺産を残す結果になっているということ。

 

都知事は、我が国のエネルギー対策予算の90%が原発に注ぎ込まれ、自然エネルギーの開発が他の先進国に比べて遥かに遅れていることを指摘し、その政策に異を唱えず、湯水の如く電力を消費しながら傍観している都民は、原発に偏っている政府のエネルギー政策を支持していることと変わらない、と喝破します。

自分たちが使う電力を供給する原発を、その危険性を口実にして地方に追いやっているのは、都民の驕りではないのか。

人口6000人の村でも、1000万人が住む首都でも、人間1人の命の重みに変わりはないはずではないのか、と。

 

最初は破天荒な映画だと思っていたのですが、この都庁での議論の場面には、圧倒されました。

そして、都知事が都心に原発を建設する構想を考えついた真意は、都民や国民に、傍観するのではなく、このような議論をして欲しいからだ、ということが判明するのです。

 

 

映画「Fukushima50」では、病死した所長が1通の手紙を当直長に遺していました。

 

『お前にはもう会えないかもしれないから手紙を書くことにした。

早いもので、あの事故から2年が経った。

お互い、大変な経験をしたな。

もう日本は終わりだと思った。

あとは神様仏様に任せるしかない、俺もここで死ぬんだなと腹をくくった。

事故が起きたら最初に死ぬのは、誰でもない、発電所の人間だ。

だけど、死んでしまったら事故の収拾がつかない。

現場の人間の命を守れずに、地元の人の命を守れるわけがない。

「俺たちは何か間違ったのか」とお前は言ったな。

今になって、ようやくその答えが見えてきたような気がするよ。

俺たちは自然の力をナメていたんだ。

10m以上の津波は来ないと、ずっと思い込んでいた。

確かな根拠もなく、1Fが出来てから40年以上も、自然を支配したつもりになっていた。

慢心だ。

あのときお前がいてくれて本当によかった。

状況が更に悪くなったら、最後は全員退避させ、お前と2人で残ろうと決めていた。

お前だけは、俺と一緒に死んでくれると思ってたんだ』

 

所長が亡くなった後の「お別れの会」で、当直長は遺影に向かって話し掛けます。

 

「約束するよ。あのとき1Fで起きたことは、必ず後世に語り継いでいく。それがあの現場にいた、俺たちの使命だ」

 

満開の桜で彩られた富岡町の街路を背景に、『海外メディアは暴走する原子炉と命懸けで戦った人々をFukushima50と名付けた』とのテロップが流れて、物語は終わるのです。

 

「太陽の蓋」における最後の台詞は、福島第一原発の若き作業員が新聞記者に洩らす、

 

「あの時、テレビにかじりついていた人たちは、今、どう思っているんでしょうねえ」

 

そして、最後に流れたテロップは、『原子力災害特別措置法は現在も継続している』でした。

 

 

「太陽の蓋」の一場面で、あの時は首相官邸に必要な情報が全く入って来なかった、と怒りをこめて強調する当時の副官房長官に、主人公の新聞記者が畳み掛けます。

 

「ちょっと待って下さい。ならば、情報が入ってきたら、あの時、どうにかなったんですか?……日本人が初めて直面した、怪物みたいなものでしょう?」

 

副官房長官は、口をつぐんだまま答えませんでした。

 

描き方が全く異なる「Fukushima 50」と「太陽の蓋」ですが、共通している点が1つだけあると思いました。

僕ら観客が、それこそ知りたいことだ、と身を乗り出すような問いが発せられても、誰も明確に答えられない場面ばかりなのです。

 

俺たちは何か間違ったのか?

 

あの時、何とかなったのか?

 

解答がないのが原発事故、なのでしょうか。

 

「東京原発」が公開された15年後に、「Fukushima50」と「太陽の蓋」を観た僕らは、原発事故の凄絶な様相を目の当たりにしました。

 

いったん暴走した原発は、どれほど人事を尽くしても制することが出来ないこと。

原発が事故を起こせば、10年という長い期間に渡って、周辺に住む何万人という人々が住み慣れた故郷から追い出され、生活の場を失うということ。

 

10年が経過してもなお収束の目途すら立たないのが、原発事故なのだ、という実情を、僕らは問い掛けられたのです。

 

事故当時の危機だけでは終わらず、福島第一原発では、未だに壊れた原子炉を冷却し続ける必要があり、汚染水は増加する一方です。

コンクリートを溶かして一緒に貯留している強い放射能を帯びたデブリは、原材料であるウランの何倍もの量に膨らみ、その除去には数十年以上を要すると言われています。

先日の地震では、1号機と3号機の冷却水の水位が低下し、僕らの心を寒からしめました。

 

「太陽の蓋」で、原子力専門のジャーナリストが言っています。

 

「もし冷却が出来なくなったら、あの日の繰り返しだ」

 

安易に「under control」などとは言えない現実を、突きつけられた気がしたものです。

 

10年という決して短くない歳月でも解決できなかったことが厳然と存在している現状、そして、映画の登場人物たちが問い掛けて得られなかった解答を、僕ら日本人は、10回目の「3.11」で、今一度、真摯に考え直す必要があると思うのです。

 

 

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