信濃路を十文字に貫く高速バスの旅 番外編 ~北陸新幹線で金沢から東京へ 前編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東京と金沢の間の陸上交通は、長いこと不便を強いられてきた。
 
直線距離ならば300km程度である両都市の間を、平成27年に開業した北陸新幹線は454.1kmの走行距離で結んでいる。
直線距離がほぼ400kmの東京と大阪の間を東海道新幹線は路線長515.4kmで結び、東京と青森の間の直線距離が約580km、東北新幹線の走行距離が674.9kmなどという数値を見れば、地形や途中駅の位置関係から100kmくらいは直線距離よりも新幹線の距離が水増しされてしまうのはやむを得ないことのようであるけれど、北陸新幹線の直線距離と運行距離の差は、他に比して飛び抜けて多いように思える。
 
ちなみに、羽田と富山の間の航空機の飛行距離は176マイル(282km)、羽田を発着する国内線の中で大島線と三宅島線に次いで3番目に短い。
羽田-小松線の飛行距離も211マイル(337km)で、本来ならば東京と北陸はそれほど遠くないのである。
 
 
北陸新幹線の路線図を見れば、長野以北で、いったん富山や金沢に背を向けて東側へ大きく膨らむ線形になっている。
この迂回路の内側にすっぽりと飛騨山脈が嵌まり込んでいることから、首都圏と北陸地方の間では、峻険な中部山岳地帯に陸上交通機関が阻まれていることが理解できる。
 
昭和60年代まで、東京から金沢へ向かうためには、上越新幹線で長岡に出て信越本線・北陸本線の特急列車に乗り継ぐ距離520.9km・最速列車での所要4時間03分という東回りの経路と、東海道新幹線の米原から北陸本線の特急列車に乗り継ぐ距離520.3km・最速4時間23分という西回りの経路が、ほぼ拮抗していた。
当時、新幹線に接続する北陸本線の最速の特急列車の愛称が、東回りは「かがやき」、西回りは「きらめき」であったことから、それぞれ「かがやきルート」「きらめきルート」と呼ばれていたらしい。
平成7年に東頸城山地を短絡する北越急行線が開通し、上越新幹線の越後湯沢から北陸に向けて特急列車が走り始めると、距離460.6km・最速3時間51分へと短縮された東回りが主流になったが、それでも大回りであることに変わりはなかった。
 
 
昭和40年に当時の総理大臣も出席した公聴会において、東京を起点として松本を経由し、立山連峰を貫通して富山、金沢、大阪に至る新幹線の建設が提案されたことが、公式な北陸新幹線計画の始まりとされている。
運輸省と国鉄がルートを選定するに当たって、飛騨山脈の直下をトンネルで貫通する経路も検討されたものの、火山性地域に特有の高熱の岩盤の存在や、地表からトンネルまでの土被りが最大2000mに達することで生じる大量の湧水、山はねと呼ばれる岩盤破壊などを克服して、全長70kmにも及ぶ長大トンネルを建設することは困難と判断され、信越本線と北陸本線に沿う現ルートでの建設が決定された。
飛騨山脈のおかげで、長野市は新幹線の恩恵を享受することが出来た訳である。
 
 
北陸新幹線の初期構想にあった飛騨山脈横断ルートの周辺で行われたトンネル工事の記録がある。
昭和11年に着工して同15年に完成した黒部川第三発電所建設における水路・資材運搬用の軌道トンネルの工事を描いた、吉村昭の「高熱隧道」には、この地にトンネルを穿つことの苛烈さが活写されている。
工事現場の下に横たわる高熱断層により岩盤温度は最高で166度を記録し、触れただけで火傷するほどになる。
水をかけて冷却しながらも、高熱の岩盤によってダイナマイトが自然発火して暴発、雪崩で宿舎が根こそぎ吹き飛ばされるといった事故が多発し、あまりにも犠牲者が多いことを危惧した富山県警が再三に渡って工事中止命令を出すという異常事態にも関わらず、国策として工事は遂行され、史上類を見ないほどの過酷な工事として記憶されることになった。
 
三船敏郎と石原裕次郎の主演で、昭和30年代における黒部ダムの建設を描いた映画「黒部の太陽」では、主として異常出水との闘いが中心に描かれていたが、登場人物の人夫頭が過去に携わった工事の回想として「高熱隧道」を彷彿とさせる場面が挿入されている。
 
 
松本から飛騨山脈を貫いて高山方面に抜ける交通路としては、平成10年に完成した中部縦貫自動車道の安房トンネルがあり、一時、松本と金沢を結ぶ長距離バスが運行されていた。
安房トンネルは焼岳火山群の活火山であるアカンダナ山の高温帯をくり抜くために、「高熱隧道」の時代よりも技術が格段に進歩しているにも関わらず、大変な難工事だったと聞く。
平成7年には、トンネルの長野県側の取り付け口が設けられた中ノ湯温泉付近で火山性ガスを含む水蒸気爆発が起き、大規模な土砂崩れと雪崩が発生して建設中だった陸橋も破壊されて、トンネル口が位置の変更を余儀なくされるという事故も発生し、犠牲者も出ている。
北陸新幹線が飛騨山脈を避けたのは懸命であった。
 
 
北陸新幹線の開通は、金沢市に生まれて3歳まで過ごし、以後は長野市で育った僕にとって、飛び上がりたいくらいに嬉しい出来事だった(「祝!北陸新幹線 長野-金沢開業」)。
早く乗りに行ってみたい、と気が急くものの、なかなか金沢に行く機会に恵まれなかった。
 
父が金沢の大学を出たことから、幼少時には、上野と金沢を長野経由で結ぶ特急列車「白山」か、もしくは父の運転する車で、年に1~2回は長野と金沢を往復した(『特急「白山」食堂車のコーヒー』)。
 
 
高校を卒業して間もなく父が病死する。
東京で大学生活を送るようになってからは、首都圏と金沢を結ぶ高速バス路線が次々と開業する時期と重なっていたこともあり、僕は新路線が開業すればいそいそと乗りに出掛けたものだった(『「関越高速バス」池袋-金沢線・横浜-金沢線「ラピュータ号」・「松本-金沢間特急バス」など』)。
弟が父の母校に入学し、金沢で1人暮らしを始めていたが、金沢に旅しても滅多に会うことはなかった。
男兄弟が顔を付き合わせるのは、何だか照れ臭いものである。
 
 
 
社会人になると金沢を訪れる頻度がめっきりと減ってしまったが、長野で1人暮らしをしていた母が病を得て、弟が勤める病院に入院すると、月に何度も東京と金沢を往復することになった。
 
 
 
これらのブログを読み返してみれば、まさに、北陸新幹線が開業する前の交通地図の縮図を、僕は目の当たりにしたのだと思う。
 
父が故郷の長野にも増して愛し、僕と弟が生を受け、母が最期を迎えた街として、金沢は、僕ら一家にとって切っても切れない縁で結ばれている。
昭和43年に金沢から長野へ引っ越す途中で、父が写したと覚しき、当時は急行だった「白山」車中の白黒写真が、実家に残っている。
4人向かい合わせの固いボックス席にいる僕と弟、そして母の姿を見て、思わず胸が熱くなった。
父が1人で金沢と長野を行き来する際には、長野0時55分発・金沢5時59分着、そして金沢21時44分発・長野2時37分着という夜行急行列車「越前」を愛用していた。
交通が不便な時代から信州と金沢を繰り返し行き来しながら、父と母は、どのような思いを胸に抱いていたのだろうと思った。
 
いつの日か北陸新幹線を乗り通して、父と母を偲んでみたいと願い続けていたのだが、その機会が訪れたのは、開業から数ヶ月が経った平成27年の夏である。
福岡での所用を終えた僕は、福岡空港を7時40分に離陸する小松行きIBEXエアラインズ84便に搭乗した。
 
 
福岡から東京への帰路として金沢を経由するルートを選ぶとは、突拍子もない案のように思われるだろうが、北陸新幹線の開業は、思いも寄らない副産物を生んでいた。
福岡から長野へ行く方法をネットの交通案内で検索すると、
 
福岡空港-(航空機)-松本空港-(路線バス)-松本駅-(JR特急列車)-長野駅:所要4時間25分
博多駅-(山陽・東海道新幹線)-名古屋駅-(JR特急列車)-長野駅:所要6時間43分
博多駅-(山陽・東海道新幹線)-東京駅-(北陸新幹線)-長野駅:所要6時間46分
福岡空港-(航空機)-羽田空港-(東京モノレール)-浜松町-(山手線・京浜東北線)-東京駅-(北陸新幹線)-長野駅:所要4時間27分
 
といった選択肢が提示される。
松本空港を使う経路や、新幹線から中央西線の特急列車「しなの」に名古屋で乗り換える方法ならば、誰もが思い浮かべるのであろうが、前者は航空機の便数が少なく、後者は7時間近くの長時間を要して、新幹線で東京まで足を伸ばして300km近く遠回りしても、費やす時間が大して変わらないという驚くべき結果になる。
振り子式台車を使用してカーブの多い山岳区間の速度向上を図っている特急「しなの」も健闘しているけれど、新幹線の威力が桁違いなのである。
 
 
もう1つ、意外な経路が登場する。
 
福岡空港-(航空機)-小松空港-(リムジンバス)-金沢駅-(北陸新幹線)-長野駅:所要4時間21分
 
福岡から長野へ、金沢を経由する方法が最短時間になる日が来ようとは、呆気に取られた。
時間帯によって所要時間に多少の差は生じるのであろうが、福岡-小松便は福岡-松本便よりも運航本数が多く、使い勝手は決して悪くない筈で、交通案内のサイトでも、この経路は上位に登場する。
まさに北陸新幹線がもたらした、意外な交通革命と言えるだろう。
 
今回の僕の旅の目的地は長野ではなく東京なのだから、迂回であることに変わりはないけれど、北陸新幹線の初乗りを兼ねて、この画期的なルートを体験してみたい、と思った。
 
 
全日空とのコードシェアであるが、IBEXの航空機に乗るのは初めてのことだった。
ヨーロッパアルプスに生息し、大きな角を生やした山羊に似ている動物の名を社名につけているこの航空会社は、平成11年に創立されて以来、
 
仙台-千歳・成田・中部・小松・伊丹・関西・広島・福岡
伊丹-千歳・秋田・庄内・福島・新潟・成田・松山・福岡・大分・宮崎
千歳-松山
中部-松山・福岡・大分・宮崎
成田-小松・広島
福岡 - 新潟・小松・福岡
 
といった地方都市相互間を結ぶローカル路線を積極的に展開していたが、このうち3分の1の路線は廃止されていて、御多分に漏れず、地方都市を結ぶ航空路線を維持することの難しさを浮き彫りにするような歩みになっている。
 
同社が採用するボンバルディアCRJ700NGは、機体の長さ32.3m、胴体の最大直径2.7mという細長い胴体にT字翼と2発の後部エンジンをつけ、地を這うような低い機体である。
天候に恵まれた1時間15分の飛行は順調で、沖合に能登半島の山影を望み、なだらかな砂浜が続く日本海を左手に見下ろしながら小松空港に着陸すれば、地上係員がタラップを手で押しながら近づいて来る姿に、地方空港に来たという実感が湧いてきて、思わず笑みがこぼれた。
 
 
殆どの乗客は、金沢や福井市内へ向かうリムジンバスに乗り込んでそそくさと姿を消したが、僕は悠然とターミナルビルの食堂の暖簾をくぐり、金沢カレーで遅めの朝食とした。
 
金沢カレーを初めて食べたのは、加賀温泉駅近くのCoCo壱番屋であるが、濃厚でもったりしたカレー・ルーは、幼い頃から慣れ親しんできた母の手作りカレーにそっくりだった。
東京に出て来てからの外食でカレーを頼んでも、スパイスが利いて苦みが強いインド風、もしくはサラサラの欧風カレーばかりで、母の手作りに似たカレーに巡り会ったことがなかっただけに、僕は、飛び上がりそうになるくらいに驚いた。
我が家独特のカレーなのかと思い込んでいたけれど、信州出身でありながら、母は金沢カレーの影響を受けていたのだろうか。
 
母を見舞いに何度か小松空港を利用した際に、たまたま入ったこの食堂のメニューに金沢カレーがあることを知り、僕は必ず立ち寄ることにしていた。
これを食べたいがために、福岡では敢えて朝食を摂らなかったのである。
ただし、小松空港の金沢カレーを食べるのも、これが最後かも知れないと思う。
 
 
昭和19年に、当時むじなが浜と呼ばれていた砂丘に日本海軍が飛行場を建設したのが、小松空港の始まりである。
敗戦で一時米軍に接収されていたが、返還後の昭和30年に日本ヘリコプター輸送が小松-大阪線を開設、昭和36年に小松-名古屋-羽田線が運航を開始する。
昭和48年にはジェット化に向けて滑走路の延長工事が行われ、全日空のボーイング737型機が小松-羽田線に就航した。
昭和61年には日本航空が、平成5年には日本エアシステムがそれぞれ小松-東京線に参入してトリプルトラックとなり、合計1日18往復が小松と羽田の間を飛び交ったのである。
 
現在では、羽田以外にも、千歳、仙台、成田、福岡、那覇への航空路線が就航し、かつては新潟、静岡、名古屋、伊丹、岡山、広島西、出雲、高松、松山、鹿児島への路線も展開された北陸の一大拠点であった。
 
 
僕が初めて小松空港を利用したのは昭和60年のことで、初めて飛行機を体験した羽田-大阪線に次ぐ2番目の空の旅として、小松-羽田線を選んだのである。
僕が搭乗した便は、羽田を離陸して大島上空に達し、静岡上空を経て名古屋に至るV17航路と、名古屋から小松に北上するV52航路を経由した。
小松空港に全日空しか発着していなかった時代で、ボーイング747型機の窓から中部山岳地帯の重畳たる山々を見下ろし、本州を横断していく航路は、とても新鮮に感じられたものだった。
飛行しているのは岐阜県の上空であるけれど、8000mを超える高度から眺めれば、右手に赤石山脈と木曽山脈に挟まれた細長い伊那谷や、その彼方の飛騨山脈や諏訪湖まで、信州を一望する景観を見通すことが出来た。
こちらも、故郷信州を横断する旅の1つであったのだと思う。
 
小松空港は、航空自衛隊との供用である。
羽田行きの便に搭乗を終えて乗降扉が閉められ、タキシングする寸前に、
 
「自衛隊機の離陸がありますので、しばらくお待ち下さい」
 
と機内アナウンスが流れ、機体をびりびりと震わせる轟音と共に、スクランブルなのか、並んで発進していく2機のF4ファントム戦闘機を窓から見送ったこともある。
 
 
4時間の壁、という言葉がある。
鉄道で所要4時間以内の区間では鉄道を利用する客の比率が高く、それを超える所要時間になれば航空機に客が流れていく傾向を指している。
金沢と東京を最速2時間28分で結んでしまう北陸新幹線の登場は、小松-羽田間の航空路線にとっては少なからず打撃だったようで、瞬く間に利用客数が4割減となり、大型機ばかりが就航していた人気路線も、ボーイング767型機や787型機へと機体が小型化され、1日18往復から14往復へ減便されてしまう。
 
今後、僕が小松空港を利用する機会は、殆どなくなるような気がするのだ。
 
 
北陸新幹線の開業と小松-羽田線の衰退は、当然のことながらリムジンバスにも影響を及ぼしている。
かつては、武蔵が辻、香林坊、片町といった市内停留所経由の特急便と、金沢駅と小松空港をノンストップで結ぶスーパー特急便を合わせて、1日30往復近くが運行されていた北陸鉄道のリムジンバスも、特急便が廃止され、20往復に満たない本数に減っている。
 
金沢カレーを食べ終わっても、次の金沢行きリムジンバスの発車時刻までかなりの時間が開いていたので、僕は小松駅行きの小柄な路線バスに乗り込んだ。
 
 
小松から金沢まで普通列車に揺られ、乗り換えたのは、10時31分発の「はくたか」560号である。
 
北陸新幹線には4種類の列車が設定されている。
途中停車駅を富山・長野・大宮・上野だけに絞った「かがやき」。
金沢-長野間で基本的に各駅に停車する「はくたか」。
富山まで運行されていた名古屋・大阪からの在来線特急「しらさぎ」「サンダーバード」が金沢止まりになったことで、金沢-富山間を特急に接続して運転する「つるぎ」。
長野と東京の間を区間運転する「あさま」。
 
本来ならば速達型の「かがやき」に乗車して、北陸新幹線の威力を存分に味わいたかったのだが、「かがやき」は朝夕中心の運転で日中には都合の良い列車が見当たらず、初乗りは「はくたか」の利用と相成った。
「はくたか」560号の東京到着は13時28分で、所要2時間57分は、それでも驚異的な速さである。
 
時刻表を紐解けば、似た時刻を運行していたかつての在来線特急「白山」2号は、金沢を11時28分に発車して、津幡、石動、高岡、富山、滑川、魚津、泊、糸魚川、直江津、高田、新井、妙高高原、黒姫、長野、戸倉、上田、小諸、中軽井沢、軽井沢、横川、高崎、大宮と丹念に停車しながら、上野へ17時45分に到着するという6時間17分の行程であったことを思えば、隔世の観がある。
 
 
僕が「白山」を乗り通したのは、運転本数が1日1往復に減らされていた平成7年の1度だけで、上野を8時30分に発車し、長野直江津11時18分、直江津12時30分、そして金沢には14時36分に着く下り列車であった。
上野からはそれなりの数の乗客が見受けられたが、長野までに殆どが降りてしまい、直江津から糸魚川、魚津、富山、高岡と僅かに区間利用の客が出入りする様子を見ながら、これでは上野と長野を結ぶ特急「あさま」と変わらないではないか、と思った。
最盛期には3往復が運転され、僕ら家族が利用していた時代と比べることが気の毒なくらいの衰退ぶりで、在来線特急としてはかなり遅くまで残されていた食堂車も廃止されてラウンジと化し、長いなあ、と落剥した気分で6時間あまりを持て余したものだった(「思い出深き特急「白山」~上野から信州を経て金沢まで走り通した6時間の旅路~」)。
 
平成9年の長野新幹線開業で「白山」は廃止され、その後、金沢と東京を直通する在来線特急列車は2度と復活することがなかったから、乗っておいてよかったとは思っている。(「信濃路を十文字に貫く高速バスの旅 番外編 ~北陸新幹線で金沢から東京へ 後編~」に続きます)
 
 
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