信濃路を十文字に貫く高速バスの旅(3)~池袋-大津間高速バス昼行便とやまと号で古都めぐり~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

新宿西口高速バスターミナルを23時ちょうどに発車した夜行高速バス「やまと」号の道のりは、古の都奈良に向けて、運行距離498.7km、所要7時間50分である。


ここは、富士五湖、甲府、信州方面へ向かう「中央高速バス」で何度も利用した馴染みのターミナルであるけれど、「中央高速バス」に加わっていない事業者も使えるとはちょっぴり意外だった。

「やまと」号を走らせているのは関東バスと奈良交通である。
その乗り場は、出札窓口や待合室が設けられている安田生命第2ビルから少し離れたロータリーの歩道に設けられた26番停留所で、「中央高速バス」の出発便が立て込んで続行便などがビルの正面に入り切らない場合の乗車場や、到着便の降車場として使われることが多い。
それまで新宿西口高速バスターミナルを出入りするのは昼行便だけで、夜行高速バスが乗り入れたのは、昭和63年8月に開業した「やまと」号が初めてだったと記憶しているから、馴染みと言っても夜更けに出発するのはなかなか新鮮だった。

あと1時間で日付が変わる頃合いともなれば、ターミナルの向かいにある家電量販店もシャッターを閉じ、通りを行き交う人々も幾分少なくなっていたが、巨大なロータリーに面した駅を取り囲むビルのネオンは依然として眩く、ペデストリアンデッキを備えた駅前から靖国通りの大アーケードにかけての人混みは、深夜とは思えない賑わいが続いている。

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眠らない街、という言葉が、ふと思い浮かぶ。
僕が今回の旅に出た平成元年9月の週末は、まだ日本が、後にバブルと呼ばれる好景気を謳歌していて、新宿もどこか浮かれた華やかさを保っていた。
大沢在昌の小説を原作とした真田広之主演の映画「眠らない街~新宿鮫~」が公開されたのは平成5年のことで、映画は未見だけれども、その題名は、当時の風潮とともに心に強く残っている。

その頃に新宿西口高速バスターミナルを発着する高速バスは、甲州街道から首都高速4号線に乗って中央自動車道に向かっていたが、「やまと」号は甲州街道と山手通りの交差点を左に折れ、国道246号線の池尻ランプで首都高速3号線の高架に駆け上がり、東名高速道路を目指す。
この経路をとっていた新宿発着路線は、当時、小田急の「箱根高速バス」だけで、後に京王バスが名古屋、大阪、高松、松山へ続々と西行き夜行高速路線を開設することになっても、いずれも中央道を経由していたから、バスターミナルを共用させて貰いながらも、乗り場といい経路といい、「やまと」号はどこか外様の扱いに感じられた。
その後にターミナル正面の乗り場で客扱いをしている「やまと」号を見掛けたから、それは僕の邪推に過ぎなかったのだけれど。


何処をどのように通ろうが、要は予定時刻に目的地へ到着してくれれば良い話で、左側に1列、右側が2列の横3列シートを備えた「やまと」号の乗り心地は申し分ない。
このタイプの座席配置のバスは、数年前に品川と弘前を結ぶ「ノクターン」号で経験したことがあり、通路が1本少ない分、シートの幅が広々としているから、ゆったりとくつろいだ。
贅沢を言わせていただくならば、1人旅だから1人掛け席の方に坐りたかったのだが、僕は、この座席配置のバスで必ずと言って良いほど2人掛け席をあてがわれてしまう。
「ノクターン」号では隣りに客が来なかったけれど、この夜の「やまと」号は2台編成がほぼ満員となる盛況ぶりで、隣席にも誰かが座ったはずである。

どのような人物であったか記憶がとんと抜けていると言うことは、一夜を共に過ごして何ら差し障りがない、大人しい相客だったのだろう。


夜行高速バスに乗った時には、周囲の眠りを妨げないよう、空気のような存在でありたいと心掛けて、咳1つするのも憚られてしまう。
夜行高速バスの車内の空気はどうしても乾燥しがちであるため、喉を湿らすPETボトル飲料とのど飴は僕にとって必需品なのだが、現在世の中を席巻している500mlサイズのPETボトルが出回るようになったのはまだまだ先のことである。

PETボトルは、1967年に米国デュポン社が炭酸飲料向けプラスチック容器の開発を始め、1973年に特許を取得したことが始まりと言われている。
我が国では、キッコーマンと吉野工業所が昭和52年に醤油の容器として開発し、昭和57年に飲料用としての使用が認められた際に日本コカ・コーラ社が1.5Lサイズの飲料の発売を開始、それまでガラス容器が主流であった1L以上の大型清涼飲料容器は殆どがPETボトルに取って代わられた。

500ml以下のサイズの登場は、自主規制の緩和による解禁であったと言われている。
軽くて丈夫で柔軟性があるペットボトルがこの上なく便利なことに異論はないけれど、その原材料はプラスチックの一種であるポリエチレンテレフタラートで、石油製品であるから、資源小国の我が国でこのように大量に流通させて良いものか、と気掛かりだったのは事実である。
同様に考えた人が存在していたらしく、食品衛生法が改正されて清涼飲料用にペットボトル使用が認められた昭和57年に、「PETボトル協議会」が設立されている。
平成2年にはペットボトル回収実験が開始され、翌年には通産省もモデルリサイクル実験を実施、平成5年に再商品化施設とPETボトルリサイクル推進協議会が設立されて、PETボトルは再資源化法第二種指定製品に指定されたのである。
平成7年には分別収集PETボトル受け入れガイドラインが作成されて容器包装リサイクル法が成立したところで、平成8年の全国清涼飲料工業会による500mL以下の小型PETボトル販売の自主規制廃止という運びになったのである。

リサイクル方法が確立したからと言えども無限に石油製品を消費して良いという理屈にはならないだろうが、それでも、先を見越して先手を打ったPETボトルのリサイクル化は、我が国のエコロジー政策の見本と言っても良いのではないだろうか。

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PETボトルでは内容物の酸化が起こることから、多くの飲料で酸化防止剤としてビタミンCが添加されている。
PETボトル飲料に一様にビタミンCが入っているのはなぜなのか、美容のためのサービスだろうか、などと首を捻ったものだったが、理由を知って、なるほど、と了解した次第である。

500mLのPETボトルが普及する前に、僕がどのような容器で夜行バスに飲み物を持ち込んでいたのか、既に忘却の彼方に消え去っている。
ただ、当時の夜行高速バスにはトイレに付属したサービスコーナーに冷水と温水の蛇口が設けられていて、夜中に備えつけの紙コップで冷たい水を自席まで持ち帰り、喉を潤した覚えはある。
「やまと」号は、運転手の交替以外に、乗客が降りられる開放休憩が設けられていない。
それだけ、大抵の用足しが可能な車内設備に自信があるのだろうが、寝静まった車内で僕が水を口に含んでいる間も、バスは大変な勢いで走り続けている。

僅かな照明だけが灯された暗闇の車内で、ホッとひと息つきながらバスが走る気配に心を研ぎ澄まし、旅の途上にあることを噛み締めるのは、紛れもなく至福のひとときだった。


東名高速、名古屋高速、東名阪自動車道と歩を進めた「やまと」号は、名阪国道上の大和高原山添、大和高原都祁バスストップに停車してから奈良盆地に降り立ち、天理駅に6時30分に到着する。
大和高原とは、北は醍醐山地と信楽高原、南は竜門山地、宇陀山地、室生山地へと続く笠置山地のことで、標高は200~500m前後と比較的なだらかである。
早朝6時前に通過したバスストップでは、うっすらと空が白みかけていたものの、切り通しのような谷間の停留所から周囲を広く見渡せる訳ではなかったから、山添や都祁とはどのような場所なのだろう、と思う。

名阪国道と山を挟んだ南側を、並行して近鉄大阪線が走っている。
僕は、高校の修学旅行で名古屋から近鉄に乗り、室生口大野駅に降りた時のことが忘れられない。
森閑とした山あいの駅や室生寺の佇まいに心を打たれた思い出が、鮮やかに蘇る。

この夜の「やまと」号の航海は極めて順調で、JR奈良駅を経由して終点の近鉄奈良駅に到着したのは、定刻6時40分よりかなり早めだった。


東京から鉄道を利用して、乗り換えをしないと行けない県庁所在地はどこか、というナゾナゾを、子供の頃によく聞かされた。
青函トンネルや瀬戸大橋がない時代であるから、北海道や四国各県は別として、昭和60年代までは、新幹線が通じていなくても、東北、北陸、山陰、九州の各県は東京からの夜行列車1本で洩らさず結ばれていた時代のことである。
正解は時代と共に変遷していくのだが、僕が小学生だった昭和50年代では、奈良市と和歌山市であった。


昭和25年に東海道本線と関西本線経由で東京駅と湊町駅を結ぶ夜行急行列車「大和」の運転が開始され、昭和37年からは「大和」の寝台車が王寺駅で普通列車に連結し直して、和歌山線経由で和歌山市駅まで足を伸ばすようになり、奈良も和歌山も乗り換えを要することなく東京と直結されていた。
昭和43年に、「大和」は東京と紀伊勝浦・鳥羽・王寺を結ぶ夜行急行「紀伊」に統合されて和歌山へ直通していた寝台車は外され、昭和47年には王寺・鳥羽編成が廃止されて奈良へも行かなくなり、以後、どちらの街も京都もしくは大阪で乗り換えを強いられるようになる。

昭和63年8月に新宿-奈良間に夜行高速バス「やまと」号が登場、同年10月に渋谷-和歌山間に夜行高速バス「ミルキーウェイ」号・「サザンクロス」号が開業することで、東京への直通交通機関が途絶えていた2つの県都が直接結ばれ、本州・九州の府県は全て乗り換え無しで東京との行き来が可能となったのである。


昭和50年代も後半になると、ナゾナゾの答えに福井市が加わる。
かつては夜行急行列車「越前」が上野と福井を結んで運転されていたが、昭和57年に「能登」と改称されて金沢止まりとなり、平成元年5月に東京駅と福井駅を結ぶ夜行高速バスが開設されるまでは東京に直行する交通手段がなくなっていた。

それでも、昭和63年に青函トンネルと備讃瀬戸大橋が開通して札幌と高松が東京と1本の寝台特急「北斗星」「瀬戸」で結ばれ、平成初頭には残りの四国3県への夜行高速バスが開業したことで、鉄道と高速バスを合わせれば全ての道府県が首都と直結されたのである。


ところが、東京と九州を結んでいた寝台特急「富士」と「はやぶさ」の運転区間が短縮されて、宮崎・鹿児島の両県が東京からの直通交通機関を失った平成19年のダイヤ改正を皮切りに、夜行列車の廃止が相次ぎ、平成20年代を迎えると、青森、富山、金沢、鳥取、長崎、熊本、大分、佐賀が次々とナゾナゾの解答に含まれてしまう。
新幹線が東北、秋田、山形、上越、北陸、九州まで建設されても、九州新幹線は東京からの直通列車がなく、山陰や四国、九州方面への鉄道による往来は新幹線と在来線特急の乗り継ぎが当たり前という時代を迎えた。

夜行列車に比べれば、新幹線と在来線特急との乗り継ぎが速いのは確かであるけれども、地域によっては東京への直通列車を失う結果をもたらした時代の趨勢とは、果たして進歩と呼べるのかどうか。
鉄道会社も大多数の乗客も望んだ結果なのであろうが、幼少時の頃に親しんだナゾナゾに当てはまる地方自治体が増える時代が到来することになろうとは、想像もしなかった。
高速バスも頑張って、夜行列車が消えた街も含めて東京から全国に路線網を伸ばしたものの、さすがに福岡以遠の九州各県に届いていないのは、自動車交通の限界として如何ともし難い。

航空機があるから問題ないではないか、という声が聞こえて来そうであるけれど、逆に、大都市近郊の奈良や和歌山に空港がある訳でもなく、夜行高速バス「やまと」号の登場は、他の交通機関では代わり得ない画期的な交通手段だったのである。


「やまと」号から降り立った朝の古都の空気は清々しかった。
空にはどんよりと雲が垂れ込めて、雨上がりなのか路面が湿っているけれど、木々の匂いが爽やかである。
近鉄奈良駅から大宮通りを東に歩いて奈良公園に入り、東大寺と春日大社を巡って、猿沢の池に映る興福寺に至る散策路は、寺社巡りが好きな僕にとって贅沢この上ない道筋である。

いつまでもここにいたいな、と後ろ髪を引かれる思いだったが、僕は頃合いを見計らって踵を返し、近鉄奈良駅から京都行きの特急電車に乗り込んだ。
京都駅から市営地下鉄で烏丸駅、阪急京都線で四条大宮、そして京福電鉄嵐山線に乗り換えて太秦と渡り歩いて、僕が目指したのは広隆寺である。
京都の見所は多々あるけれども、僕にとっては、中学の修学旅行で魅入られて以来、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に勝る魅力的な目的地は考えられなかった。


コンクリート造りの宝物館のガラスケースの中に鎮座している陳列方法は若干興醒めではあるものの、右手を軽く頬に当てて思索する弥勒菩薩の優しく整った尊顔を拝すれば、奈良からの目まぐるしい乗り継ぎで滲んだ汗も忘れ、心がすうっと落ち着いていくのが実感されて、時が経つのを忘れてしまう。
ドイツの哲学者カール・ヤスパースが「人間実存の最高の姿」と評したことも頷けるというものである。

ふと我に返って時計を見た僕は、慌てて広隆寺を飛び出した。
弥勒菩薩の前で存分に時を過ごせるならば、大枚をはたいて新幹線で帰京したって構わない、という心持ちにならないでもなかったが、それでは旅の趣旨が変わってしまう。
京福電鉄嵐山線を折り返して西院駅で阪急京都線に乗り換え、終点河原町から京阪三条駅までは、古都の情緒に浸りつつ桂川のほとりを歩いた。


三条大橋で対岸に渡り、京阪京津線の古びた電車に乗り換えた。

平成7年に三条と御陵の間は地下鉄東西線に置き換えられたが、この旅の当時は、京阪三条駅から国道1号線に敷かれた併用軌道を交えた鉄路が、浜大津までつながっていた。
京都と大津の間の東海道は距離にしてわずか2里半、10km程度であるにもかかわらず、東山と逢坂山の2つの山を越えなければならないため、行き来が大層不便であったという。
明治14年に開通した東海道本線は、逢坂山と東山を南に大きく迂回する経路で敷かれたため、京都駅も当時の繁華街から外れてしまい、京都と大津の繁華街を旧東海道に沿って直接結ぶために、三条から蹴上、山科を経て大津までの鉄道を建設しようという気運が起こって、大正元年に京津線が開通したのである。


京津線は、京阪三条駅から国道1号線・三条通りに沿って東へ進む。
交通量の多い国道1号線とは言え、山あり史跡あり、併用軌道では道端に残る松や桜の並木に旧東海道の面影が感じられて、しっとりとした雰囲気が好ましい電車の道行きだった。
蹴上駅をはじめ、幾つかの駅は道路に低く狭いホームを設けただけの簡素な造りで、乗客は電車のステップを使って乗り降りする。
車内から眺めていると、バスに乗っているような気分になる。


南禅寺や都ホテルが建つ蹴上には、明治23年、東山を貫いて琵琶湖の湖水を京都の街へ流すための琵琶湖疏水が設けられた。
疏水の水は生活・工業用水や、日本初の電車である京都市電を走らせるために使われた水力発電などに利用され、琵琶湖から京都、伏見、宇治川を結ぶ水運にも用いられて、落差の大きい蹴上と伏見には、線路に置いた台車に船を乗せるインクラインが設けられたのである。

電車は蹴上駅から南に針路を変え、上信国境の信越本線碓氷峠に匹敵する66.7‰の急勾配で東山を越え、天智天皇の山科御陵がある御陵駅と、東海道本線と交差する山科駅に停車しながら山科盆地を横断する。
追分の交差点で、五条通りから伸びてきた国道1号線の新道と合流してから、名神高速道路の盛り土や高架と並んで逢坂山を越え、琵琶湖の南岸にある浜大津へと下っていく。


京津線最大の難所である逢坂山トンネルは全長約250m、大した長さではないけれど、急勾配のために双方の出入口の高低差が10mもあると言う。
賑やかな街並みから鬱蒼と木々が生い繁る山中へと、車窓の変化は劇的であるが、それを不思議に感じさせないところが京都の懐の深さなのであろう。
伊勢の鈴鹿の関や美濃の不破の関と並ぶ日本三関の1つである逢坂の関にも程近く、子供の頃から慣れ親しんだ百人一首の有名な歌が自然と思い浮かぶ。

これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関

高名な詠み人が揃っている百人一首にあって、この歌の作者である蝉丸とは誰なのか、子供心に首を捻ったものだったが、9世紀の宇多天皇の第8皇子である敦実親王の雑色、もしくは盲目の琵琶法師との諸説があるらしい。
出て行く人も帰ってくる人も、知っている人も知らない人も、別れては出逢う、と言う対句を3つも盛り込んだ戯歌に近い言葉の連想に過ぎないのかもしれないけれど、古びた電車でのんびりと旧街道を走りながらこの歌を噛み締めれば、どこか人生を詠み込んだかのような趣が感じられる。

名神高速の逢坂山のトンネルの1つに蝉丸トンネルがあり、人名をつけるとは道路公団にも洒落者がいたのかな、と思ったものだった。
近くには諸芸道の祖神・蝉丸大神と街道の守護神である猿田彦命を祀る蝉丸神社があり、蝉丸が逢坂の関に庵を結んでいたことから、関の明神として祭られているとも伝えられるのだが、蝉丸大神と関の明神となった蝉丸が同一人物なのか、よく分からない。


電車が終点の浜大津駅に着いたのは、池袋行きの高速バスが発車する13時ぎりぎりだった。

池袋-大津間高速バスは平成元年6月に登場したばかりで、運行会社は西武バスと近江鉄道、西武バスと三重交通が前年に開業させた池袋-伊勢線に次ぐ中央自動車道経由の高速路線で、昼夜行1往復ずつが運行されていたことまでそっくりであった。
大津市も、現在では東京からの直通列車を失った街の1つに挙げられているものの、平成20年までは、東京と大阪を結ぶ夜行急行列車「銀河」が大津駅に停車していた。


終戦後間もない昭和22年、東京-大阪駅間に戦前から運転されていた1往復の夜行急行列車が復活し、昭和24年に「銀河」と命名されたのが、東海道夜行急行列車の始まりである。
昭和25年には「明星」と「彗星」が登場し、昭和28年に「月光」、、昭和33年に「あかつき」、昭和36年に「金星」「すばる」「いこま」「やましろ」「よど」「六甲」と、数多くの夜行急行列車がきら星の如く東海道本線を行き交った。
日中の急行列車も昭和31年に「なにわ」、昭和35年に「せっつ」が運転を開始、「いこま」「やましろ」「よど」「六甲」は昼夜行が設けられた座席専用列車であった。

これらの急行列車の殆どが大津駅に停車していたものと推察されるが、昭和39年開業の東海道新幹線では、京都駅にあまりにも近過ぎることから大津に駅を置かず、首都圏と関西を移動する旅客の殆どが新幹線に移ったために、夜行列車も「銀河」を除いて廃止されてしまう。
新幹線の登場で、夜の旅は一時期影を潜めることになったが、平成を迎えると、それこそ数え切れない本数の夜行高速バスが首都圏と関西の間を運行している現状は、戦後70年間、新幹線では網羅し切れない需要が厳然と存在していることを伺わせる。


池袋-大津間高速バスが開業した時には夜行急行「銀河」は健在だったものの、「銀河」は滋賀県内で米原と大津の2駅しか停車せず、13時28分発の草津駅前、13時56分発の八日市営業所、14時22分発の彦根駅前と、琵琶湖東岸の街に丹念に停車していく高速バスとは、自ずと性格が異なっている。

定刻に浜大津を発車した池袋行きのバスは、横4列、縦9列の座席配置を備えた日産スペースウィング3軸スーパーハイデッカーという点まで池袋-伊勢線と共通であるが、この日は1台だけの運行で、続行便を従えていた伊勢線に比べれば、バスを選ぶ旅客の比率が少ない地域なのかな、と思う。


平成4年6月には、京浜急行バスと近江鉄道が品川・横浜を起終点にして、滋賀県内の停留所が池袋線と全く同じ夜行高速バス「マリーン」号の運行を開始したが、昼行便は設定されなかった。
同時に、池袋-大津線も呆気なく昼行便を廃止してしまい、夜行1往復だけになった上で大宮まで延伸する。
平成20年4月に「マリーン」号が廃止され、運行から手を引いた近江鉄道の代わりに西日本JRバスが参入して、大宮を発着して池袋と横浜に寄る「びわこドリーム」号として生まれ変わった。

紆余曲折は激しいものの、東京と滋賀を結ぶバスは、今も連綿と走り続けているのである。


京阪京津線でたどって来た国道1号線の続きを進むことが出来るのは楽しかったが、1号線は草津市内で東へ針路を変えて鈴鹿の峠を越えていくため、バスは国道8号線に乗り換えて、湖岸を走り続ける。
街と田園が交互に現れる坦々とした車窓風景が続くが、琵琶湖は建物の隙間から時々顔を覗かせるだけである。

彦根まで来れば、不意に、甘酸っぱい懐かしさが込み上げてきた。
金沢の大学を出て、大学院時代に母と結婚した父は、長野市に移り住んでからも年に1~2回は僕らを金沢に連れて行ってくれたものだった。
特急列車で行くこともあったけれど、高速道路が完成していない時代でありながら、車で国道18号線を直江津に出て、国道8号線で親不知、砺波平野、倶利伽羅峠を越え、7~8時間を費やしながら行くこともあった。

僕が小学校高学年だったある日、車で金沢を越え、福井も通り過ぎて、彦根まで足を伸ばしたのである。
未明の3時頃に長野を出て、彦根に着いたのは黄昏時に近く、12時間以上もかかったことになる。
彦根に行く、とあらかじめ聞かされてはいたのだろうけれど、そのような地名を聞いたことがなかった僕は、どこまで行くのだろうと若干の不安を覚えながら、移りゆく景色を映し出す窓にかじりついていた記憶がある。
彦根市内で「京都 60km」という標識を目にして、遠くまで来たんだ、という実感が込み上げてきた。

「どうせなら京都まで行けば良かったなあ」

と、父は後になって繰り返し言っていた。


1人でハンドルを握り通した父の体力には舌を巻くばかりであるが、なぜ、彦根だったのか。
両親が亡くなった今となっては、永遠の謎である。

彦根の地名は、天照大神の御子である活津彦根命が、琵琶湖畔の彦根山に祀られたことに由来すると言われている。
古来より交通の要所で、中世から近世にかけては多賀大社の参詣道として、江戸時代には中山道の鳥居本宿と高宮宿が置かれたことで、近江国随一の賑わいを見せた。
1192年の鎌倉幕府成立の際には佐々木定綱が近江国の守護となり、佐和山城も佐々木氏が築いた砦が始まりであった。
佐々木氏の嫡流である六角氏と傍系の京極氏の分割統治になり、応仁の乱では東西に分かれて争うことになるが、戦国時代には浅井氏が頭角を現す。
浅井長政が織田信長に敗れると、織田家家臣の丹羽長秀が佐和山城に入城、信長が本能寺の変で急死し、豊臣秀吉の天下になると、堀秀政、堀尾吉晴の治世が続いた後に、石田三成が佐和山城を拠点として関ヶ原の戦いに臨み、江戸時代には、徳川家譜代大名である井伊家が琵琶湖に面した彦根城を築城、大藩がひしめく京都周辺でも有数の城下町として発展する。

時は下って1850年に彦根藩主となった井伊直弼が1858年に江戸幕府大老に就任、安政の大獄を経て、1860年(安政7年)3月3日、江戸城桜田門外で水戸藩と薩摩藩の浪士により暗殺される桜田門外の変が起きる。


彦根の歴史を紐解いても、なぜ、両親が家族旅行の目的地を彦根に定めたのか、その動機は分からない。
ただ、父が井伊直弼について好意的に語っていた記憶は、おぼろに残っている。
舟橋聖一が昭和27~28年に毎日新聞に連載していた「花の生涯」の主人公が井伊直弼であり、僕が生まれる2年前の昭和38年にNHK大河ドラマの第1作として放映されている。
その影響で、井伊直弼ゆかりの彦根を訪ねてみたくなったのだろうか。

幼少時に訪ねた土地を、大人になって再訪するという行為は、様々な感慨がいっぺんに込み上げてきて、胸が締め付けられる。


地図を開けば、JR彦根駅と湖岸に挟まれた彦根城址は近接しているように見えるけれども、彦根駅に立ち寄った池袋行きのバスの窓から彦根城を見通すことは出来なかった。
けれども、幕末に建てられたという3層構造の天守閣の威容は、十数年の歳月を超えて、ありありと思い浮かべることが出来る。

近代になってからの復元ではなく現役時代のまま残されている天守閣は、彦根の他に、弘前、松本、犬山、姫路、丸岡、備中松山、松江、丸亀、松山、高知、宇和島にあり、現存12天守と呼ばれている。
また、彦根城は、犬山、松本、姫路、松江とともに、天守閣が国宝に指定された5城の1つでもある。


父は城が好きだったからな、と1人頷きながら物思いに耽る僕を乗せて、彦根駅を後にしたバスは、彦根ICで名神高速道路に乗り、20時55分着の池袋駅東口を目指して小気味よく速度を上げた。
進むに従って行く手の空が明るくなり、雨雲に覆われていた西日本を抜け出しつつあることが感じられる。
中央道の沿線や東京は、今日も残暑が厳しいのだろうか。
浜大津から池袋までの所要時間は名神高速と中央道を経由して7時間55分、運行距離は525.3kmにも及ぶ。

往路に利用した夜行の「やまと」号よりも長い帰りの道のりは、まだ始まったばかりであった。


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