うらにしを旅する(1)~丹後路に向かう品川-舞鶴間シルフィード号と舞鶴-京都間特急バス~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

うらにし、という言葉がある。
 
紀行文などで目にして、その響きに魅せられながらも、最初は特定の地方のことを指しているのかと思い込んでいた。
賑やかな名所・旧跡を訪ねる旅も悪くはないけれど、時には日常から懸け離れて、人の気配がなく寂しい場所に身を置いてみたいと思うことも少なくない。
地名ならば、奥、陰、裏などという文字が使われている土地には、強く心を惹かれる。
 
宮崎県の日向市から秘境・椎葉方面に向かう路線バスで山に分け入ったばかりの所に、山陰(やまげ)という地名がある。
酒と旅を愛した若山牧水の生家に近いのだが、耳川の支流である坪谷川のほとりの、猫の額ほどの僅かな平地に、切り立った山塊がのしかかるように覆い被さり、1日の半分しか陽が射さないことから名付けられたと聞いた。
伸び放題の草むらの中に何軒かの廃屋が朽ちかけていて、このような地名を付けられた土地に住む人々は、どのような心持ちなのだろうと思った。

芭蕉の「奥の細道」も、旅の舞台をみちのくに置いたからこそ、名作たり得ているのではないだろうか。


うらにしは、地名ではない。
秋から冬にかけて、丹後近海を通る風の影響で生じる特有の気候のことである。
丹後半島の経ヶ岬付近の海岸に沿って、10月から11月末にかけて生ずる湿気を含んだ南西の風は、晴天であったかと思えば、暗雲が立ち込めて雨や雪混じりの風が吹き荒れ、再び束の間の晴天をもたらす、という不安定な空模様をもたらす。
古来から、丹後地方では、「弁当忘れても傘忘れるな」と言い継がれ、季節風により空気が程良い湿気を含むために、乾燥すると糸が切れやすく扱いが難しい絹織物の製織に適し、繊細な美しさと肌触りの製品を生むことになった。
 
うらにしには、裏西、浦西という漢字が当てはめられることがあるけれど、平仮名の方が豊かなイメージを掻き立てられるように感じる。
この言葉を見ただけで、丹後に行ってみたいと思った。
 
ところが、この地方は、交通が不便である。
山陰本線が福知山、豊岡、城崎を通っているが、丹後地方の西の外れである。
豊岡から東の海岸線には、北近畿タンゴ鉄道やJR舞鶴線・小浜線が北陸本線の敦賀駅まで伸びているけれど、関西から山陰と北陸に向けてV字を成している2つの幹線の狭間にあるこの地方に、東京からの直通列車は走っていない。


平成3年7月に、東京から福知山、舞鶴に向けた夜行高速バスが走り始めた。
愛称は「シルフィード」号で、和服では国内流通の6~7割を生産する日本最大の絹織物のとされている丹後縮緬に掛けて、シルクと関連のある言葉と思いきや、水の精ウンディーネ、 山の精ノーム、火の精サラマンダーとともに四大精霊の1つである風の精シルフの女性形であるという。
言葉の響きは洒落ていて、丹後地方には明るすぎる気がしないでもないが、風の精とは、うらにしの地に相応しい名前である。
 
平成5年の夏の終わりに、僕は品川バスターミナルを22時15分に発車する「シルフィード」号に乗り込んだ。
 
昭和の終わりから平成にかけて続々と日本各地に登場した高速バスは、起終点それぞれのバス事業者が共同運行する形態が殆どで、「シルフィード」号も京浜急行と京都交通の2社が運行している。
東京に住む者としては、地方側の事業者が担当するバスに乗ると、運転手さんの案内に訛りが聞かれたりして、一気に旅立ちの雰囲気に飲み込まれる感触が好ましいのであるが、各社が交互に運行しているためにその確率は1/2である。
バスが姿を現すまで、今夜はどちらのバスなのだろうと胸をときめかせて待っていることも、夜行バス旅の醍醐味の1つなのだが、この夜の「シルフィード」号の担当は京浜急行バスだった。
 
 
同社は東日本における高速バスブームの火付け役を担ったと言っても過言ではなく、昭和61年12月に登場して瞬く間に人気路線となった品川-弘前線「ノクターン」号を筆頭に、
 
昭和63年5月:品川-鳥取・米子線「キャメル」号
平成元年3月:横浜-名古屋線「ラメール」号
同年7月:品川-宮古線「ビーム1」号
同年7月:東京-青森線「ラ・フォーレ」号
同年7月:品川-新居浜・今治線「パイレーツ」号
同年7月:品川-徳島線「エディ」号
平成元年9月:品川・横浜-伊賀上野・名張線「いが」号
平成2年3月:品川-津山・岡山・倉敷線「ルブラン」号
同年5月:川崎・横浜-神戸線「アンカー」号
同年12月:横浜-伊那・飯田線「ベイブリッジ」号
平成3年7月:品川-福知山・舞鶴線「シルフィード」号
平成4年6月:品川・横浜-大津線「マリーン」号
平成5年4月:品川-防府・萩線「萩エクスプレス」号
同年11月:品川-岩国・徳山線「アルバ」号
平成15年7月:品川-梅田線「シャトー」号
平成17年9月:横浜・品川-仙台線「ドリーム横浜・仙台」号
 
と、本州と四国の全域に及ぶ夜行高速バス路線網を急速に拡充した。
特に平成元年から2年にかけての開業の勢いには畏れ入るより他になく、またまた京急の新路線で遠くの街に出かけられるようになった、という高揚感を演出してくれた会社なのである。
バスファンにとっては、誠に贅沢な時代であったと思う。

 

同社の夜行高速バスは、路線ごとに塗装を塗り分けて、乗る者の目を楽しませてくれたものだったが、「シルフィード」号を開業した頃から、塗装が統一されるようになった。
折しも、CIという言葉が巷で囁かれ、社名やロゴマーク、商品の外見に統一されたイメージやデザインなどを使って社会に発信することにより企業価値を高めていく戦略が持て囃されるようになった時代だった。
長年用いていた伝統の社名を変更して、カタカナ表示にする会社が増えたのも、同じ時期だったような気がする。

京浜急行バスが高速路線車両に採用したデザインは、吹き渡る風が想起される簡潔にして秀逸なものだと思っているが、それでも、当時品川区に住んでいた僕としては、地元で見慣れた外見のバスが現れれば、旅先まで日常を引っ張っているような気分にさせられないでもない。
高速バスの塗装にはそれなりの費用が掛かるのであろうから、路線ごとにデザインを変更する経費を節約し始めたか、という邪推すら浮かんでくる。


乗り込んでしまえばバスの塗装などは無関係で、横3列独立シートの座り心地も寝心地も申し分ない。
品川と浜松町の2つのバスターミナルでほぼ満席となった「シルフィード」号は、風の妖精の名に相応しく、夜の東名・名神高速道路と中国自動車道を、神戸三田ICの手前にある吉川JCTまで一目散に走り抜け、舞鶴自動車道に針路を変えて綾部・福知山に達する。
今では名神高速京都南ICから京都縦貫道路を通る経路に変更されているが、この頃は、京都縦貫道が部分的な開通にとどまっていた一方で、舞鶴若狭自動車道が、平成3年に福知山ICから舞鶴西ICまで開通していた。

早暁6時35分着の福知山と、6時55分着の綾部の街並みは、まだ闇の中に沈んでいて、道端の建物が黒々とおぼろに見えるだけであった。
はっきりと目を覚ましたのは、間もなく西舞鶴駅前に到着するというアナウンスの時である。
眠りから覚めた何人かの乗客が、もぞもぞと身を起こして窓のカーテンを開け放つ。
この地域に来たのは初めてのことで、僕も倒していた背もたれを戻して車窓に見入った。


西舞鶴の街並みは、国道27号線から中央分離帯のある駅前通りまで、軒を並べる個人商店や民家の合間にぽつりぽつりとホテルやビルが建っているくらいで、背の高い建物は殆ど見受けられず、高曇りの空が広く感じられる。
西舞鶴駅の背後にそびえている標高300.8mの五老岳が市街地を東西に分け、田辺藩の城下町として、現在でも国や府の行政機関が集中する西舞鶴と、日本海軍の軍港から発展し工場が多い東舞鶴から構成されている。

舞鶴という優雅な地名は、西舞鶴に置かれていた田辺藩3万5000石の田辺城の雅号から採られている。
明治初頭の版籍奉還で舞鶴藩に改称し、廃藩置県に伴って舞鶴県の県庁所在地となったものの、豊岡県、京都府と行政区分が目まぐるしく変更される中で、西舞鶴は舞鶴市へと発展していく。


一方、東舞鶴は、明治34年に海軍の舞鶴鎮守府が設置されて以来、軍需都市として発展し、今も海上自衛隊の基地が置かれる軍港や、造船などを中心とする重工業地区である。
鎮守府の設置に伴い、東舞鶴では大規模な宅地開発が行われ、京都市に模して碁盤目状の市街地が設けられた。
南北の街路は一条から九条と名づけられ、東西の街路は、北から八重山、富士、大門、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠と、東舞鶴駅の北側の大門通りを除けば、全て明治期の帝国海軍の主力戦艦名が冠せられた。
 
太平洋戦争の戦局が激化すると、舞鶴鎮守府の強化が図られ、東舞鶴市だけではなく舞鶴市にも海軍の施設が多数設けられたため、海軍が「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」に要請したことを受けて、昭和18年に両市は合併する。
しかし、城下町及び商業都市として発展した旧舞鶴市と、軍需都市である旧東舞鶴市では、住民気質が全く異なるため、戦後に東西分離運動が起き、西舞鶴の住民から東西分離要請書が提出され、住民投票でも賛成多数という騒ぎになった。
しかし、京都府議会は、「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決したのである。
 
まだ眠りから覚めていない西舞鶴の市街地を抜けた「シルフィード」号は、JR舞鶴線に沿って五老岳の南麓の内陸部を進み、7時半過ぎには東舞鶴市街に入った。
「シルフィード」号の終点である東舞鶴駅も、瀟洒な高架の駅舎は西舞鶴駅とは趣を異にするものの、個人商店や携帯ショップ、集合住宅が並ぶ駅前は、西舞鶴よりも若干高めの建物が多いかなと感じる程度で、それほどの大差はない。
 
 
678.7kmもの距離を走り切る9時間半を過ごしたバスを降りた僕は、人通りがまばらな三条通りをぶらぶらと北へ歩き、突き当たりの東舞鶴港のほとりに立った。
西舞鶴駅の海側には田辺城址があったりして面白そうなのだが、「シルフィード」号の終点が東舞鶴なのだから、そちらを散策することになるのはやむを得ない。

舞鶴湾はリアス式海岸を成す若狭湾の奥まった位置にあり、西を金ヶ岬、東を博奕岬に挟まれた入り江となっている。
周囲をぐるりと山々に囲まれて、湖のようにしか見えないけれども、左手には大型の外洋型フェリーが停泊している。


倉庫の合間の狭い路地が岸壁で途切れているだけの殺風景な場所だったが、静かに水を湛えている舞鶴湾を眺めれば、どうしても1つの歌が思い浮かぶ。
 
母は来ました
今日も来た
この岸壁に今日も来た
とどかぬ願いと知りながら
もしやもしやに
もしやもしやにひかされて
 
「又引き揚げ船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない。 この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……帰れないなら大きな声で…… お願い…せめて、せめて一言……」
 
呼んで下さい
おがみます
ああおっ母さんよく来たと
海山千里と言うけれど
なんで遠かろ なんで遠かろ
母と子に
 
「あれから十年…… あの子はどうしているじゃろう。 雪と風のシベリアは寒いじゃろう…… つらかったじゃろうと命の限り抱きしめて…… この肌で温めてやりたい……。 その日が来るまで死にはせん。 いつまでも待っている……」
 
悲願十年この祈り
神様だけが知っている
流れる雲より風よりも
つらいさだめの
つらいさだめの杖ひとつ
 
「ああ風よ、心あらば伝えてよ。 愛し子待ちて今日も又、 怒濤砕くる岸壁に立つ母の姿を」

太平洋戦争が終結すると、舞鶴港は大陸の在外邦人の引き揚げ港に指定された。
昭和20年から13年間に渡って66万人余りの引き揚げ者が舞鶴に降り立ち、懐かしい母国の土を踏みしめたのである。
当時の引き揚げ桟橋は、僕が立っている場所の対岸で、博奕岬を先端に抱く大浦半島の付け根の平に設けられ、今は舞鶴引揚記念館が建っている。


昭和29年の流行歌である「岸壁の母」のモデルは実在した。
彼女の息子は軍人を志して昭和19年に満洲へ渡り、同年に中国牡丹江でソ連軍の攻撃を受けて行方不明になる。
終戦後、母親は東京に住みながら息子の生存を固く信じ、ソ連ナホトカ港からの引き揚げ船が初めて入港した昭和25年1月から6年間、舞鶴の岸壁に通い続けた。
引き揚げが終了した後も、母親は息子の生存を最後まで信じながら、昭和56年に81歳で死去する。

ところが、彼女の息子は生存していた。
それが明らかになったのは、母親が没した後の平成12年のことである。
ソ連軍の捕虜となってシベリアに抑留され、後に満州に移されて中国八路軍に従軍、その後は上海に居住して妻子を設けていた息子は、彼を発見した慰霊墓参団のメンバーに、
 
「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」
 
と、頑なに帰国を拒んだという。
 
この話を聞いた作詞家の藤田まさと氏は、母親の愛に感動し、戦争に対する憤りを感じながら詞を書き上げる。
歌詞を読んだ作曲家の平川浪竜氏も徹夜で作曲に取り組み、翌日、レコード会社でピアノを演奏したところ、聞き終わった重役たちや藤田氏は、涙して言葉が出なかったという。
歌手として菊池章子が選ばれ、レコーディングが始まったが、演奏が始まると彼女は何度も泣き出してしまい、放送や舞台で披露する際にも涙が止まらなかった。

「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、『もしやもしやにひかされて』という歌詞通り、生死不明の我が子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれますよ」
 
と、後に彼女は語っている。
「岸壁の母」は日本中を感動の渦に巻き込み、100万枚を超えるベストセラーになった。
菊池章子はモデルとなった母親の住所を探しあて、レコードを差し上げたいと手紙を送ったのだが、母親の返事は、

「貰っても、家にはそれをかけるプレーヤーもないので、息子が帰って来たら買うから、それまで預かって欲しい」

というものであった。
菊池章子は小型プレーヤーを購入し、母親に寄贈したという後日談が残されている。
 
戦争は、容赦なく人の生命を奪い、家族を引き裂いてしまう。
「岸壁の母」のような悲劇は、戦時下では無数に存在したのだろう。
戦後70年が経過して、そのような悲劇は過去のものとなり、戦争を軽視したり、国威の発動として煽り立てるかのような論調が目立つように感じているけれど、個々の人間として、このような哀しみを乗り越える覚悟があるのだろうかと思う。
「岸壁の母」の物語に登場する人々は、皆、戦争を身を以て経験し、2度とこのような悲劇を起こしてはならないと考えていたはずである。
僕たちは、70年前の人々の思いを、今一度謙虚に、そして真摯に見直さなければならないのではないだろうか。


舞鶴市は、昭和20年7月29日に海軍工廠が空襲を受け、翌日にも舞鶴港などが大規模な空襲に見舞われて、多数の死傷者を出している。
戦後、舞鶴市は軍需に頼らない産業の育成に力を注ぎ、海軍施設の跡地を利用した造船・繊維・板硝子・木材加工工場などを誘致する。
国の重要港湾に指定され、日本海側では初めてFAZ(輸入促進地域)の指定を受けるなど、中国や韓国、ロシアに向かう定期貨物航路を有する国際貿易港と位置づけられているのは西舞鶴港で、日本海側で最大の水揚げ量を誇る舞鶴漁港も、西舞鶴にある。
東舞鶴港には大型船が発着できるフェリーターミナルが設けられ、湾内の造船工場において、平成20年に南極観測船「しらせ」が建造されたことは記憶に新しいが、一方で、赤レンガ倉庫をはじめ至る所に海軍の遺跡が存在し、また海上自衛隊舞鶴地方総監部や第8管区海上保安本部が置かれて、国防の重要拠点としての性格が、依然として残されている。
 

様々な思いが胸中に湧き上がって名残は尽きないけれども、僕は、わずか1時間の滞在で、東舞鶴駅前を8時30分に発車する京都行き特急バスに乗り、この街を後にした。

運行する京都交通は、昭和19年に設立された亀岡に本社を置く老舗のバス会社で、京都の祇園から中山・谷田口・亀岡駅前・八木・園部大橋・丹波町役場前・綾部大橋・西舞鶴駅前を経て東舞鶴や天橋立を結ぶ国道9号線経由の「国道本線特急バス」をはじめとする、多数のバス路線を展開していた。
これから僕が乗車する高速バスも、「国道本線特急バス」の1系統として、京都縦貫道が部分開通の時代から運行されていたものである。
しかし、山陰本線の京都-城崎間の電化や運転本数の増加、そしてモータリゼーションの波に押されて業績が悪化し、「国道本線特急バス」は平成16年に廃止され、平成17年には全てのバス路線を別の事業者に譲渡した上で、倒産してしまう。

それでも、舞鶴-京都間高速バスは途切れることなく運行を続け、平成17年7月に京都縦貫自動車道が全通すると経路を乗せ換えて、所要時間を短縮している。
平成24年には西日本JRバスが参入し、小浜まで延伸された上で「若狭舞鶴エクスプレス京都」号という愛称が付けられ、後に小浜までの系統はなくなったものの、「〜海の京都〜舞鶴赤れんがエクスプレス号」と改称されて、現在に至っている。


僕が乗ったのは京都交通が健在だった時代で、当時の雑誌には、舞鶴と京都を結ぶ同社のバスとして一般路線車と変わらない2扉車の写真が掲載され、また京都府北部の道路網についての知識が全くなかったために、国道27号線から国道9号線を経由する昔ながらのバスに乗れるものと楽しみにしていた。

東舞鶴駅前に現れた京都行きのバスが、先発する大阪行き高速バスと同じハイデッカー車両だったので、おや、と思った。
大阪行き高速バスが発車していった後に、続けて東舞鶴駅前を出発した京都行きのバスは、「スーパー特急」の名を掲げた快速便で、その種別と容姿にたがわず、西舞鶴駅前に寄った後に、あれよあれよと思う間もなく舞鶴西ICから舞鶴若狭道に駆け上がり、綾部JCTで京都縦貫道に針路を変えた。
国道バイパスから昇格した暫定2車線の道路とは言え、このような丹後の山奥にまで高速道路が建設されていたのかと、驚いたものだった。
 
バスは綾部安国寺ICでいったん国道27号線に降り、綾部大橋停留所に停車した後に、由良川の上流を遡り、丹波町役場に近い蒲生の交差点で国道9号線に合流して間もなく、丹波ICから再び京都縦貫道に戻る。
そこからは、京都市街の西のはずれにある沓掛ICまで、高速走行が絶えることはなかった。
たっぷりと水を湛えた由良川のほとりに設けられた綾瀬大橋に立ち寄ることが出来たので、伝統の「国道本線特急バス」の名残を味わえたことになる。
僕は並走するJR山陰本線の保津峡付近の景観が好きだったから、そこをバスで走ることが出来ればいいな、と思っていたのだが、国道9号線も京都縦貫道も険しい地形を避けるように大きく南に逸れているため、一般道経由の「国道本線特急バス」であったとしても、叶わぬ願いだったのである。


バスで京都へ行く場合には、名神高速京都南ICから京都駅まで真っ直ぐ北上する高速バスが大部分で、例外は、京都と金沢を結んでいた「北陸道特急バス」の一部が、三条京阪から蹴上を経て、当時は路面電車の面影を残していた京阪京津線と並走しながら山科に抜け、京都東ICから名神高速道路を出入りするくらいであった。

沓掛ICから嵐山の南麓をすり抜けて桂川を渡り、西京極の繁華街や祇園の古風な街並みを横目に見ながら、京都市街を横断する舞鶴-京都間高速バスの道筋はとても新鮮で、車窓を移りゆく街並みから醸し出される古都の情緒は、夜行明けの眠気を吹き飛ばした。
西京極は、中学校の修学旅行で京都を訪れた際に、夜の自由行動の場所となった懐かしい場所で、田舎の中学生によくも殷賑な繁華街を自由に歩かせたものと思うが、京人形や西陣織の小物入れなどのお土産をたくさん買い込んだ記憶は今でも鮮明である。
 
当時の京都交通バスの拠点は、東山に程近く四条通りに面した祇園営業所である。
雑然と建て込む市街地の中に設けられた営業所は、周りの家々に遠慮しているかのようにこぢんまりとした佇まいで、大型の長距離バスが入るとかなり手狭に思えたけれど、国道本線の区間便である京都成章高校前行きや洛西ニュータウン行きといった短距離便に加えて、西舞鶴行き、天橋立行きといった長距離便が、どれも変わり映えのしない2扉一般路線車で出入りしている光景には、路線バスが元気だった昭和30~40年代の面影が残されていて、懐かしく感じられた。


この後の行程として、僕は、八王子行き高速バス「きょうと」号を予約していた。
後ろ髪を引かれる思いで舞鶴を早々に引き揚げたのは、八王子行き「きょうと」号が、片道の営業距離が472.4kmもの長距離路線であるにも関わらず、開業後しばらくは夜行便と昼行便が1往復ずつ運転されており、昼行便の京都駅八条口の発車時刻が12時30分だったためである。

当時は東京と大阪の2大都市を発着する高速バス路線がほぼ出尽くして、京都や八王子といった周辺都市からも日本各地への路線が急激に増えた時代だった。
京都発着路線は、昭和38年から運行されている名古屋行き「名神ハイウェイバス」や昭和44年から運行されている東京行き国鉄「ドリーム」号と言った伝統路線に加えて、

昭和63年8月:京都-金沢線「北陸道特急バス」
平成元年10月:京都・枚方-長崎線「きょうと」号
同年12月:京都-広島線「もみじ」号
同年12月:京都・枚方-新宿線「きょうと」号(後に「東京ミッドナイトエクスプレス京都」号に愛称変更)
同年12月:京都・大津-西船橋・TDL・千葉線「きょうと」号
平成2年3月:京都-八王子線「きょうと」号
同年9月:京都-鳥取線「鳥取エクスプレス京都」号
同年10月:京都・枚方-熊本線「きょうと」号
同年10月:京都・枚方-北九州・福岡線「きょうと」号
平成3年10月:京都-鹿児島線「南洲」号
平成9年7月:京都-米子線「米子エクスプレス京都」号
平成11年3月:京都-徳島線「阿波エクスプレス京都」号
同年10月:京都-岡山・倉敷線「京都エクスプレス」号
同年12月:京都-尾道・福山線「みやこライナー」号
平成13年3月:京都-高松線「高松エクスプレス京都」号
平成14年10月:京都-松山線「京都エクスプレス」号
同年10月:京都-松江・出雲線「出雲阿國」号
同年11月:京都-高知線(京阪・土佐電鉄)
平成16年7月:京都-津山線「津山エクスプレス京都」号
同年3月:京都-高知線「高知エクスプレス京都」号(JR)
平成20年 3月:京都-津線・京都-四日市線
同年10月:京都-伊勢線
平成23年2月:京都-田辺・白浜線「白浜ブルースカイ」号
平成27年8月: 京都・大津-池袋・大宮線「京都びわこドリーム」号
 
といった昼夜行の高速路線が次々と登場した。
 
 
特に京阪バスは、平成初頭に京都発着路線を次々と開業させ、夜行路線の殆どを「きょうと」号という愛称で統一してイメージ戦略に努めていた。
現在「きょうと」の名を冠した夜行路線は全て姿を消し、代わりに大阪発着路線が京都を経由するようになっていることには、時代の変遷を実感する。

京都発着路線はあまり乗った経験がないのだが、気になる路線は少なからず存在した。
鹿児島行き「南洲」号は、広島行き「もみじ」号とともに京都交通が運行する数少ない夜行高速バスで、愛称になっている西郷隆盛や大久保利通をはじめ、京と薩摩を足繁く行き来した幕末の志士を偲びながら是非とも乗車してみたい路線であったが、僅か1年2ヶ月で運行を取りやめてしまった。
松江・出雲行き「出雲阿國」号は、まずはその愛称に惹かれ、別の夜行バスに乗っていた際に休憩した深夜の中国道のサービスエリアで、駐車場の片隅にひっそりと停車していた姿を目にして以来、なぜか無性に気になる路線だったのだが、平成29年に「出雲エクスプレス京都」号という平凡な愛称になった。


一方、八王子発着路線も、京王バスが平成元年12月に京王八王子高速バスターミナルを建設するという力の入れようで、同時に開業した八王子-沼津線「スキッパー」号を皮切りとして、

平成2年3月:八王子-京都線「きょうと」号
平成2年11月:八王子-大阪線「トレンディ」号
平成4年8月:八王子-金沢線
平成6年3月:八王子-仙台線「ニューエポック」号
 
と、京王バスの子会社である西東京バスによって関西や地方の中核都市向けの路線を拡充したが、こちらも東京都心部を発着する路線が八王子を経由する形に統合されて、全てが姿を消している。

 
平成初頭に高速バスブームの旬を迎えていた2つの衛星都市を結ぶ高速バスが、八王子-京都線だった。
京都を大阪の衛星都市などと表現しては、誇り高い京都の人に怒られるかもしれないけれど、高速バスの運行形態を見る限りは、そのような扱いになっているのである。

今でこそ「東海道昼特急大阪」号、「中央道昼特急京都」号などの東京と関西の間を日中に走り抜く高速バスが幾つも登場しているけれど、当時は、都内と関西の間を走破する昼行高速バスは他になかったから、関西へ出掛ける機会があれば乗ってみたいと思っていた。
ただし、平成元年6月に、京都に程近い大津と池袋を結ぶ昼夜行の高速バス路線が開業しており、僕も昼行便に乗車したことがあったので、それほど真新しい体験とは言えないのかもしれない。
夜行便だけを運行して車両も乗務員も日中は遊んでしまうような運用よりも、夜行便と昼行便を組み合わせて折り返す方が効率が良いと考えた事業者は少なくなかったようで、当時は400~500kmを超える距離を運行する昼行高速バスが幾つか存在した。
それでも、真っ昼間に長時間を費やす高速バスを利用する需要は予想以上に少数派だったようで、京都-八王子線も大津-池袋線も、後に夜行便だけに整理されてしまう。
「東海道昼特急大阪」号が登場して、その盛況ぶりから、長距離昼行高速バスによるのんびり旅に注目が集まり、各地に同様の昼行便が登場するのは、平成7年以降のことで、京都-八王子間「きょうと」号は、少しばかり登場が早過ぎたと言えるのかも知れない。



八王子行き「きょうと」号は、京都駅八条口のホテル京阪前から発車する。
地理に疎いお上りさんの身としては、舞鶴からの高速バスの終点である祇園で、しばし途方に暮れた。
「きょうと」号の発車まで、時間にそれほど余裕がある訳ではなかったので、人々や車がせわしなく行き交う街並みを眺めながら、こんな所で降ろされても、と呆然としてしまう。
携帯電話やスマホなどが普及する前の時代のことで、手軽に道案内をして貰えるツールがある訳でもない。

四条通りを西に向かえば阪急電車の河原町駅があるはず、と記憶をまさぐりながら急ぎ足で鴨川を渡り、阪急京都線に1駅だけ乗って、烏丸駅で京都市営地下鉄に乗り換えて、ようやく京都駅にたどり着いた。
京都駅烏丸口は、僕が初めて利用した夜行高速バスである「ドリーム」号で降り立って以来、使い慣れたバス乗り場であるが、そこはJRが関わる高速バスしか乗り入れていない。
「きょうと」号が発車する八条口に行くのは初めてだったから、駅前でもうろうろと迷い歩く羽目となったために、祇園から京都駅まで、せっかく古都を散策するいい機会だったというのに、気ばかりが焦る時間を過ごすことになってしまった。

まだ汗が乾ききらない僕の目の前に、颯爽と姿を現したのは、白地に赤と黒の波線が入った西東京バスであった。
夜行便と共用の横3列独立席に身を任せれば、これで7時間後には東京まで連れて帰って貰えるのだ、という安堵感が込み上げてくる。


八王子行き「きょうと」号は、京都市街を東に向かい、三条京阪を経由してから山科に抜けて京都東ICに至る、京都-金沢間「北陸道特急バス」と同じ経路を通った。
舞鶴からの高速バスと「きょうと」号で、京都市街を西から東へ横断したことになり、車窓で思わぬ京都市内見物が出来たことは僥倖だった。

名神高速道路から中央自動車道を経由するバスの車窓は、同じく中央道を経由した大津-池袋間高速バスと何ら変わりはなかったけれども、美濃や信州、甲州の山深く変化に富んだ風景は、穏やかだった丹後路とはひと味もふた味も異なる美しさと迫力があって、何度眺めても飽きが来なかった。


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