真夏の北海道バス旅 積丹・ニセコ編~高速いわない号と高速ニセコ号と真夏のタンポポの花~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

12時ちょうどに北海道中央バス札幌ターミナルを発った「高速いわない」号は、真夏の日差しが眩しい札幌の街を走り出した。



何本もの長距離バスを乗り継ぎながら厳冬期の北海道を歩き回った長旅で、すっかり北海道の長距離バスに魅入られた僕は、およそ8ヶ月が過ぎた平成4年の8月に、再び北の大地に舞い戻って来たのである。

現在は、札幌発着の高速バスのほとんどが札幌駅前バスターミナルを起終点としているが、平成の初頭は、北海道中央バスの路線は駅から離れた中央バス札幌ターミナルが始発だったから、僕は少しばかり歩かなければならない。
前回の旅程の要となったのは道都札幌で、バスだけでなく、道内の交通網が同市を中心に広がっている訳だから当たり前だけれども、何度、この道を行き来したことだろう、と懐かしく思い出す。

今度の北海道の旅は、季節がガラリと変わって夏休みの真っ最中で、別の街に来ているのではないかと思うほどに、街並みの様相は異なっていた。
うだるような暑さの東京に比べれば、気温は高くても、札幌の街を吹き渡る風は爽やかだった。



なぜ、このように混雑する多客期に北海道にいるのかと言えば、盆の多客期に限定して運行された相模鉄道の横浜-札幌間直通バスを利用して渡道したからである。(「海を渡る高速バス~平成4年 相模鉄道 横浜発札幌行き直通バスが走った夏~」

前日の午前10時に横浜を発ち、夜行フェリーを挟んでおよそ24時間にも及ぶバス旅を終えた時には、さすがに寝不足気味であることは否めなかった。
けれども、こうして未体験の高速バスに乗り込むと、きちんと目が冴えてくるから不思議である。

前回は函館、稚内、釧路、網走を発着する道内有数のロングラン路線ばかりを利用したから、札幌市内の停留所は数ヶ所に限られていたが、「高速いわない」号は、時計台前、北一条西4丁目、北一条西7丁目、北一条西12丁目、円山第一鳥居、西区役所前、西町北20丁目と、小まめに停留所に寄っていく。

札幌の地名は○条○丁目などという、いかにも新興の開拓地を思わせる画一的なものが多い。
自分のいる位置がわかりやすいという点では、 「京都市中京区 寺町通御池上る 上本能寺前町488番地」などと表記される京都市街に似ている。
ただし、地図を見てみると、ほぼ東西南北に道路が直交している京都とは異なり、札幌の道路は碁盤目状に整備されていても、少々西へ傾いている。



「高速いわない」号が走る北一条は、テレビ塔が建つ大通り公園の北を東西方向に貫いており、札幌駅前通りを挟んで東側が雁来通り、西側が宮の沢通りとも呼ばれているが、正確には東西ではなく、北東と南西を結ぶ形になっている。
何にもない土地に新しく街を造り上げたのだから、どうせならば、きちんと東西南北に道路を伸ばせばいいのに、などと考えてしまうのは、余所者の勝手な思い込みであろう。
もしかしたら、最初に道路を造り始めた人の磁石がズレていたのかも知れないなどと想像することは楽しい。



札樽自動車道に乗るまでに30分ほどを要し、札幌西ICからようやく高速走行が始まった。
高架のハイウェイの周りには、視界を遮る地形の起伏や大きな建物がないから見晴らしが良く、右手には、居並ぶ屋根に陽光がまばゆく反射する街並みの彼方に、日本海が望まれる。
左には、標高1023mの手稲山の山麓が広がっている。
百万都市札幌のすぐ郊外に1000m級の山がそびえているとは驚きであるが、険しさを感じさせないなだらかな山容である。

海まで迫る稜線が高速道路の正面を塞ぎ、このままではぶつかるぞ、と思わず身を乗り出す。
札樽道はぐいぐいと右へ曲線を描き、海ぎわへ追いやられていく。

この先を切り通しで抜けていくのか、トンネルを穿つのか、何だかワクワクする。
数年前にこの道をJR札樽高速線のバスで通ったことがあるが、このように愉快な視点があるとは気づかなかった。



銭函ICを過ぎる頃には、広々とした石狩平野も先細りになってくる。
北海道にはアイヌ語由来の地名が多く、銭函はどんなアイヌ語から派生したのかと思ってしまうのだが、この地が鮭漁やニシン漁で栄えた昔、各家庭に銭箱が置かれていたという伝説から付けられた和名だと聞いた。

銭函には、子供の頃からの思い入れがある。
僕が通った小学校で使用した国語教科書には、表紙に「石森延男編纂」と書かれていた。
戦前から昭和50年代にかけて活躍した国語教育学者・児童文学者・教科書編集者である。
僕の実家には学習研究社の「石森延男文学全集」が揃っていたから、僕は貪るように読み込んだものだったが、中でも、銭函を舞台にした短編が忘れがたい。



札幌出身である石森延男氏の小学校時代の思い出を綴った話で、石森氏と仲が良かった3人の友達の1人が、

「遠足、やるべ」

と言い出したことが、物語の始まりである。

「銭函の海さ、行くべ」
「いつ、行くんだや」
「夏休みのしょっぱなの日よ」

しかし、藤岡君だけが浮かない様子である。

「親父に聞かねば、わかんね」

藤岡君の家は鍛治屋で、夏休みともなれば父親の仕事の手伝いをしなければならない。
翌日、藤岡君は石森氏に、父親から遠足の許可が出たことを嬉しそうに伝える。

「友達と行くんなら、いいってよ。子供の時の友達を手放すなって言ってた」

こうして、仲良し4人組は、夏休み初日の早朝5時、時計台のカーン、カーンという鐘の音を5つ聞きながら出発した。
銭函まで片道20km近い距離がある。
しかも、出発してから、

「銭函にいく道、知ってんか」

などと言い合う始末である。
何とも無鉄砲な4人組であるが、すったもんだの挙げ句、線路に沿って歩くことを思いついて、なんとか無事に銭函海岸へ着く。
時を忘れて遊び、帰路につく頃合いには、4人とも、歩く元気など残っていなかった。
みんなで懸命にポケットを探り、合計すると、3人分の汽車賃の金額しかない。

「いい、お前ら汽車に乗ってけ。俺は歩く」

と、藤岡君が残りの3人に背を向けて、線路の上を歩き出す。
石森氏たちは、そうは行かねえべ、と藤岡君の後をしょんぼりと追う。
すると、藤岡君の肩が小刻みに震え始めるのが見える。
泣いているのかと3人が慌てて駆け寄ると、藤岡君は顔をくしゃくしゃにして振り返り、ポケットから1人分の汽車賃を上回る小銭を取り出して見せたのだ。
父親が、前の夜に持たせてくれたのである。



「石森延男文学全集」の中で、唯一、数十年の時を超えて心に残っている話である。
「タンポポの花」という題名らしい。
仲良し4人組が目出度く帰りの列車に乗り込むと、たちまち皆はウトウトし始め、石森氏も、枕木のタンポポの花を見ながら眠りに落ちていった、というラストらしいのだが、僕の記憶は、4人分の汽車賃が捻出できたところで途切れている。

この物語で描かれた風景や銭函と言う地名があまりに強烈で、初めて北海道を訪れた際に、僕は、札幌から札樽高速線のバスで小樽に向かってから、下道を行く札樽線の一般路線バスで折り返したのである。



国鉄時代の面影を残す青と白のツートンカラーの2扉路線車両から降り立った銭函の集落は、山と海に挟まれた細長い地形に古びた家々が並ぶだけの、閑散とした漁村だった。
人家の庭先のような路地を通り抜けて海岸に出ると、小石とゴミだらけの浜辺が、緩やかな弧を描いて彼方まで連なっている。
海水浴シーズンが終わった初秋の夕刻で、人影はなかった。

銭函とはこんな所だったのかと拍子抜けする思いに駆られながらも、北の海の寒々とした光景には、どことなく去りがたい魅力があった。
僕は、引き上げられた漁船の影に腰を下ろし、石森氏の短編を思い浮かべながら、寄せては引いていく白い波頭と、黒々と波打つ海面を、長いこと眺め続けた。

轟音を立てて、背後の函館本線を、真っ赤な交流電車711系が走り過ぎていく。
銭函から札幌までは、汽車賃を見つけた仲良し4人組の歓喜を偲びながら、列車に乗るつもりであった。





懐かしい銭函の海を遠目に眺めながら、「高速いわない」号は張碓トンネルをくぐる。
張碓とは、アイヌ語で食料の多い所を意味する「ハル・ウシ」に由来するという。

札樽道と山を挟んで数百メートルしか離れていない波打ち際を行く函館本線には、秘境駅として話題になった張碓駅があった。
最寄りの集落とは切り立った崖で隔てられ、海水浴場の駅として賑わった時代もあったというのだが、平成10年に海水浴場が閉鎖されてからは停車する列車もなく、平成18年3月に廃止されたのである。
文献には、

「明治38年に開業した北海道炭礦鉄道(幌内鉄道)が、駅に通じる道もないこの地に駅を設けた理由は定かではない」

などと書かれているが、北海道有数の都市に挟まれて、近郊電車が頻繁に行き交う土地に、このような廃駅が存在するとは、北の大地の奥深さを実感する。



「高速いわない」号の車窓は一転して山がちになり、地形の起伏の間を縫う急カーブが続く。
朝里、若竹と400~500m程度のトンネルを続け様にくぐると、前方に、海を懐に抱いた小樽の街並みが見えてくる。
小樽ICは、高架の札樽道本線がそのまま一般道の真ん中へ直線的に下っていく珍しい構造になっている。
バスは、着陸していく飛行機のように、小樽の街なかへ舞い降りていく。



幾何学的な街並みだった札幌に比べて、小樽の街路は狭く入り組んでいる。
古くは慶長年間に松前藩の商場が置かれたことに始まり、明治以降も道都の海の玄関口として、北海道初の鉄道が札幌との間に敷設され、小樽港は道内各地への開拓民の上陸や物資を陸揚げする港となった。
昭和初期には金融機関や船舶会社、商社などが進出して北海道経済の中心都市として発展したという歴史を積み重ねてきた風格が感じられる。

潮見台、奥沢口、住吉神社前、市役所通りと、バスが停車していく市内停留所も和名であるが、小樽の市名は、砂浜の中の川を意味するアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」に由来しているという。





13時過ぎに到着した小樽駅前ターミナルで、乗客の半数近くが降りてしまい、車内は抜け殻のように静まってしまった。

札幌と小樽を結ぶバス路線の歴史は古く、後の国鉄バスに当たる省営自動車が、昭和8年に運行を開始している。
既に敷かれていた鉄道に沿ってバス路線を開業した理由は、台頭してきた民間バス事業者を牽制して競合路線を開設させないためだったと言われ、所要は2時間20分、運賃は鉄道の3等運賃の倍以上かかったとのことである。
程なく戦時体制が厳しくなってガソリンが配給制となり、大半のバスを薪・木炭・コークスなどを用いた代燃車としたものの、元々乗客が少ない不要不急路線であることから、昭和19年4月に運休を余儀なくされている。
昭和22年に運行が再開され、昭和25年には北海道中央バスも札樽間に路線を創設する。
昭和46年には、後に北海道初の高速道路となる札樽バイパスを使う特急便が新設されて、国鉄の札樽高速線(後の「うしおライナー」)や北海道中央バスの「高速おたる」号に発展していくのである。



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加えて、北海道中央バスは、小樽を経由して更に西側の後志地方へ足を伸ばす高速バスを次々と開業した。

昭和59年12月:岩内行き「高速いわない」号
昭和61年10月:倶知安行き「高速くっちゃん」号
昭和62年8月:美国行き「高速しゃこたん」号
昭和63年6月:倶知安経由ニセコリゾート行き「高速ニセコ」号
平成7年12月:余市行き「高速よいち」号

などと、路線網が拡充していく。
どの路線も小樽市内で乗降が可能であり、札樽間の輸送を補完している。



小樽駅前を発車した「高速いわない」号は、国道5号線・羊蹄国道を西へ向かう。
日本海に突き出たラクダの瘤のような赤岩山の南麓を過ぎると、忍路湾と余市湾を右手に垣間見る海岸ドライブが続く。
人影が少ない余市の町を通り抜けると、国道5号線は余市川の手前で左に折れ、積丹半島の根元の横断が始まる。
しばらくは余市川が開いた平地が続くが、やがて、左右から山並みが押し迫る山道に変わっていく。



木漏れ日が燦々と降り注いで、木々の緑が鮮やかに目にしみる。
本州以南と比べて、北海道の自然の緑は少しばかり色褪せているかのような先入観を抱いていたのだが、この辺りでは、豊かな陽光と混じり合って、感光したフィルムのように真っ白に思える程の眩しさである。

行き交う車の数は少ない。
国道5号線と言えば、東京から東北地方を貫く国道4号線を受け継ぐ一級幹線国道のはずだが、道南の人の行き来や物流の主体は、長万部から洞爺、室蘭、苫小牧、千歳を経由する国道33号線や道央自動車道に移っている。
鉄道も、最初に函館と札幌を結んだのは国道5号線と平行する函館本線であったが、特急列車や長大な貨物列車が行き交う幹線として機能しているのは、南回りの室蘭本線と千歳線である。

しかし、長万部から倶知安、小樽を経由する北回りのルートには、将来に大きな夢が控えている。
平成43年に開通すると言われている札幌までの北海道新幹線が、国道5号線と函館本線に沿って計画されているのである。
300km程度の新幹線を建設するだけで大変な年月を要する時代になったのだな、と思うばかりであり、何よりも、その頃、僕は何歳になっているのだろうという虚しさが、心中にこみ上げてくる。



栄枯盛衰を目の当たりにするような鄙びた国道5号線は、そのような浮き世のことなどどうでも良いではありませんか、と言わんばかりの、無垢な自然が残された奥深い森林に囲まれていた。

山越えを終えて、共和町の国富交差点で国道5号線と別れた「高速いわない」号は、国道276号線・尻別国道に右折して岩内に向かう。
支笏湖から、洞爺湖や羊蹄山の北側の山中を東西に横断しながら、日本海沿岸に至る国道である。
堀株川が開いた扇状地には集落が散在する水田地帯が広がり、青々とした稲が風にたなびいている。



国富交差点の南西にある函館本線小沢駅は、昭和60年に廃止された国鉄岩内線の起点であった。
明治37年に函館本線が開通し、小沢駅付近のトンネルが開通した頃から作られ始めた「トンネル餅」でも知られる。

駅弁のように折り詰めに入れられた、すあまのお餅であるという。
峠越えの駅で売られている力餅はあちこちで見かけるが、トンネル餅とは珍しいのではないだろうか。
今では駅売りをやめて国道5号線の店舗で販売されているというのだが、高速バスに乗っていては買うわけにはいかないのが残念である。



『国鉄函館本線が、尻別川の上流に沿うて、東に羊蹄山の端麗な容姿を眺めながら、倶知安町に向って北上するあたりは、ところどころに火山灰地が灰色の地肌を露出している。
かなりな高原地帯である。
この倶知安を出た本線が、北に迂回して、積丹半島を縦断する地点に小沢という小駅がある。
ここから岩幌線が岐れていた。
小沢は、町というよりは、小さな淋しい集落にすぎなかった。
南方のニセコ連峰といわれる火山群の山々と、積丹山系との中間にある細長い盆地の中心をなしており、平野はここから西にむかって、山かいを流れる岩幌川に沿うて日本海へ扇面を半すぼみにしたように末広がりにぬけてゆく。
岩幌線──。
一日に三回しか汽車の通らない、まるで忘れられたようなローカル線であった。
もとより乗車客は海辺の漁師か近在の農夫以外にはなく、国鉄の帳簿でも最も赤字線の代表とされる、貨車人車同時連結の単線である。
この線の終着駅に、事件の発端となった岩幌漁港がある』



水上勉の代表作の1つである「飢餓海峡」は、僕が大変な感銘を受けた小説である。

その導入部の、小沢から岩内にかけての描写は、物語の前途の予感を漂わせて陰鬱であるが、寂れた北辺の風景を描く筆致はぐいぐいと引き込まれる。
小説で「岩幌」と呼ばれている町が、岩内である。
内田叶夢監督、三國連太郎と伴淳三郎、左幸子出演で映画化された「飢餓海峡」では、廃止直前と全く同じ佇まいの岩内駅がチラリと出てくるシーンがある。

積丹半島の西の袂に位置する岩内町に到着したのは、札幌を出てから2時間半が経過した14時28分であった。
移ろう車窓に夢中だったから、そんなに長い時間バスに揺られていたとは、時計を見るまで信じられなかった。



岩内バスターミナルは岩内駅の跡地に建てられている。
札幌の北海道中央バスターミナルをそのまま小ぶりにしたような、バスが乗降場に向けて鼻先を突っ込む構造である。

「高速いわない」号を降りた客が足早に立ち去ってしまうと、深閑とした静寂が僕を包み込む。
町並みの向こうに連なる山々から、夏雲が湧き上がっている。
時が止まったかのように、のどかな岩内ターミナルの午後であった。



『晴れた日は、町の背後にひろがる段丘の向こうに羊蹄山が扇面を伏せたようにかすんでみえる。
羊蹄山から右へ、海岸に至るまでは、左からワイスホルン、イワオヌプリ、岩幌岳、目国内岳、雷電岳などの、千メートルを超える高山が波状をなして、ニセコ連峰のギザギザとなって空を圧していた。
切りたった火山壁が岩幌湾に落下するあたりは、巨大な雷電の黒壁が示しているように、風蝕した自然岩の荒々しい屹と、灰いろの波涛が噛みくだく奇岩怪石の連続であった。
風光は雄大で美しい。
積丹と雷電の岩にはさまれて抱きかかえられたような内ふところのさびれた町である』

僕がいるのは、まさしく「飢餓海峡」に描かれたままの舞台だった。
静かなテンポで始まった小説は、いきなり静から動へ、大変な悲劇の描写へと躍動する。

『昭和二十二年。
津軽海峡の海上で、あっというまに多数の人命を呑みこんだ層雲丸沈没の大事故を起した十号台風は、九月二十日の朝、函館から約百二十キロほどしかはなれていないこの岩幌の町で、ボヤですんだはずの小さな火事から、全町三分の二までが焼失するという悲惨な大火事を惹き起している。
もっとも、この新聞記事も、全国紙ではほんのわずか三面の下の隅の方に二段組で報じられたにすぎなかった。
火は、質屋を営む佐々田伝助という家の台所から出ている。
九月二十日午前八時十分のことである。
まだ道南には、その時刻は強風注意報は出ていなかった。
しかし、すでに、風は嵐の前兆をみせていて裏日本の海もかなり荒れていた。
佐々田質店から火を噴いたボヤは、付近の建てこんだ家々に延焼した』



「飢餓海峡」で活写された、洞爺丸台風の最中に起きた岩内の大火は、実際の出来事である。

昭和29年9月26日午後8時15分頃、岩内の南西部に位置する相生町で、木造アパートから出火したのである。
消防車が駆けつけ消火に当たったものの、洞爺丸台風の影響で、南からの烈風が風速24~40mに達し、ノズルから噴出する水は霧状となって火に届かず、風で消防士も吹き倒されるほどだったと言う。
隣家から風下の倉庫に引火し、大量の火の粉を撒き散らしつつ炎上、火は市街北部へと広がっていく。
南風であったため、北側まで焼け抜けて港に達すれば自然鎮火するものと思われたが、台風が接近するにつれて風向きは南西、そして西へと変わり、火は東側の大和地区へ向かう。
港湾施設にも火が進入し、漁船の燃料用として貯蔵されていた重油やガソリンのドラム缶が大爆発を起こす。
燃え上がるドラム缶が2㎞も風下に吹き飛び、墜落しては火を広げてしまう。
更に港内の漁船にも延焼、燃え上がる船は暴風に吹き流され、漂着した大浜方面にも火災が及ぶ。
午前0時頃には、逆に東の強風となり、万代地区も被災した。

火は、午後8時頃から翌日の午前6時まで時計回りに燃え進み、町内の8割が灰燼と化したのである。
焼失戸数3298戸、罹災者1万6622人、死者35人、負傷者551人、行方不明3人と言う大惨事であった。



岩内大火の原因は失火であったとされている。
昭和36年9月に、岩内の町と、その奥にある名勝雷電海岸を旅した水上勉氏は、その景観に心を打たれ、

「この奇岩・怪石が立ち並ぶ海岸を孤愁を帯びた1人の男を歩かせてみたい。
それは、岩内の町を焼いた男、恐ろしい男を、この波しぶきが荒れ狂う海岸へひきつれてきて歩かせてみよう」

と思い立つ。
名作「飢餓海峡」の連載が始まったのは、3ヶ月後の昭和37年1月であった。



待ち時間に余裕があれば雷電海岸にも足を伸ばしてみたかったが、その暇もなく、乗り場に倶知安行きの路線バスが滑り込んできた。
ひと昔前の国鉄ハイウェイバスに似た、古武士を思わせるいかめしい面構えである。
スマートな高速バスもいいけれど、このように古色蒼然としたバスも、北の大地によく似合う。

岩内の町を後にした路線バスは、尻別国道を戻って国道5号線と合流し、小沢の集落を抜けると、エンジンを高鳴らせて、ニセコ・アンヌプリの北麓に連なる峠越えに挑む。
スキーのメッカとして知られるニセコアンヌプリは、アイヌ語で「絶壁に向かってある山」を意味すると言う。

数人の客が座る車内では、おじいさんとおばあさんが、エンジン音に負けないくらいの大声を張り上げながら、世間話に余念がない。



「倶知安町」の標識が窓外を過ぎ、下り坂に差し掛かると、正面に羊蹄山の秀麗な山容が広がった。

「おう、今日は山が良く見えるべ」

と、後席のおじいさんが一段と大きく感嘆の声を上げた。

峠を下りると、サイロが点在する牧草地帯が広がる。
それなりに建物が密集して町の形を成していた岩内に比べて、倶知安は、アメリカの西部劇の舞台になりそうな、あっけらかんとした簡素な町並みだった。
いつしか西に傾きかけた太陽の光が薄まったから、尚更そのような印象を受けたのかも知れない。



16時28分に倶知安を発車する札幌行き「高速ニセコ」号は、ニセコリゾートが始発である。
当時、1日17往復が運行されていた「高速いわない」号に比べて、倶知安と札幌を結ぶ「高速くっちゃん」号は1日4往復と本数が少なかったが、朝の札幌発下り初便と夕方の倶知安発最終上り便がニセコリゾートまで延伸して、「高速ニセコ」号と改名したのである。

数百メートル程しか離れていないのだから、函館本線倶知安駅に寄ってくれればいいのに、「高速ニセコ」号が停まる倶知安町内の停留所は「倶知安十字街」だけである。
だから、僕は、倶知安駅が終点の路線バスを、途中で降りなければならない。
駅まで行きたかったけれども、そこから「十字街」停留所を探す自信がなかったのだ。

「十字街」という名のバス停は道内では珍しくなく、小樽に新光町十字街、入船十字街、長橋十字街、稲穂十字街などが存在し、他にも深川十字街、留萌十字街、女満別十字街など数え切れない。
「高速いわない」号が経由してきた余市にも、余市十字街という停留所があった。

辞典を紐解くと、

「十字街とは北海道の都市の都心部に多くみられる地名。開拓時にその都市の中心部になる交差点の周辺に名付けられることが多い」

と書かれている。



中心部であろうとなかろうと、見知らぬ町でバスを待つことは心細いものである。
まして、ただでさえ人恋しくなる黄昏時である。
北海道の各地で感じたことであるが、街路を車が行き交うだけで、人通りが全く見当たらない町が少なくない。

国道5号線の道端に立つ「倶知安十字街」停留所のポールはきちんとしていたけれども、札幌行き高速バスの時刻が書かれているか、裏面に「この停留所は移転しました」などという掲示が貼られていないか、疑心暗鬼になりながら、舐めるようにポールの裏表を眺めたものだった。



通りの彼方から、赤と白のツートンカラーを身にまとった北海道中央バスが、「札幌」の行き先を掲げて近づいてきた時には、心から安堵した。

「高速ニセコ」号は、国道5号線を北上しながら、国富、余市、小樽と、僕が「高速いわない」号と岩内-倶知安線で来た道を逆に遡っていく。
倶知安からは、真っすぐ北上して小樽に直結する国道393号線があり、途中でキロロリゾートを通る。
「高速ニセコ」号がそちらを経由してくれることを内心期待していた僕は、少々がっかりした。
地図をよく見れば、国道393号線は、険しい山岳地帯を貫く羊腸の如き山道のようであるから、無理もないと思う。

「高速ニセコ」号の2時間半あまりの車中の記憶は、ほとんど残っていない。
前日からの長い長いバス旅の疲れから、居眠りでもしていたのだろうか。



それでも、午後8時にはネオンがきらびやかな札幌の繁華街に立ち、遠ざかっていく「高速ニセコ」号のテールランプをぼんやりと見送ったことは、よく覚えている。

ふと足元を見ると、街灯に照らされた街路樹の根元に、一輪の黄色いタンポポの花が揺れていた。
春の花というイメージが強いから、おや?と思ったのだが、北海道では、6月から9月頃まで花を咲かせることがあるという。



 

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