ニューヨーク点描 第6章 ~NY-DC直行便で空路ホワイトハウスへ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昔、なぜかワシントンはニューヨークの北側にあると思いこんでいた時期があった。
東京と大阪の位置関係でも連想して、首都は商都より北にあるものと決めつけていたのだろうか?

今でも、この2つの都市を思い浮かべるときに、一瞬、迷うことがある。


アメリカン航空4418便、まるで高速バスみたいな客室のエンブラエルRJ140小型ジェット機がJFK国際空港を離陸し、北米大陸の東海岸を右手に見ながら大西洋上で南に航路を定めてからも、何となく逆に飛んでるんじゃないかという違和感がついてまわった。

改札で何にも言われなかったからチケット通りのロナルド・レーガン・ワシントン空港行きの飛行機に乗ったのだろうと思うのだが、よく考えてみれば、この飛行機の行き先が本当にレーガン空港だというアナウンスがあったのかどうか。
機長が何やらアナウンスしていたけれども、聞き取れなかった。
羽田発の便のような日本語のアナウンスなど、あるはずもない。

ふと、アメリカン航空134便のハチャメチャ日本語のアナウンスが懐かしく思い出された。


不安ではあるけれど、窓から見下ろす眺望は素晴らしかった。

青々とした大西洋の岸辺に打ち寄せる白波が陽の光に輝き、空も、雲1つなく晴れ渡っている。

ゆっくりと過ぎ去っていく海沿いの地形はなだらかで、日本のような細やかな起伏はなく、街と街の間隔も広く開いていて、心が大らかになるような雄大さで遥か彼方の地平線の奥深くまで大地が続いている。
銀色に輝くすじのような川が、海に流れ出る河口の幅も広い。

全ての造りがひどく大柄な、大陸の眺めだ。
僕にとっては初めて眺める、何もかも日本とはスケールが違う異国の風景だった。

最初の移動を、飛行機にして良かったと思う。

妻も座席から身を乗り出して、視線を窓に釘づけにしている。

歴史の古い東海岸の州は、西に比べて入り組んでいる。
ニューヨークを過ぎれば、海沿いにはニュージャージー州が広がっている。
その奥にはペンシルベニア州があるはず。
更に南下して、深く切れ込んだ入り江を過ぎればデラウェア州に入る。
このあたりから飛行機は機首をやや西にむけて内陸に入っていく。
西隣りにはメリーランド州がある。
デラウェア州とメリーランド州は大きな半島を形成しており、その西岸となる、更に深々と内陸に刻まれた入江のような湾を飛び越えれば、間もなく、ワシントンD.Cである。

この路線の飛行距離は213 マイル(342キロメートル)であるとTime Tableに書かれているが、その地図には、JFK空港とReagan空港が陸上で直線で結ばれている航路が書かれており、東へ大きく海上にはみ出したアメリカン航空4418便の飛行距離は、もう少し長かったかもしれない。




ワシントンまでの1時間20分ほどのフライトの間、サービスは何もなかった。

大柄だが可愛い顔の黒人客室乗務員も、控え室に閉じこもったままである。

乗客同士の話し声も全く聞こえず、ひたすら轟々と一定のエンジン音だけが響くビジネス特急便、といった客室の雰囲気は、小型機であっても、東京と大阪を結ぶ航空路線と似通っていた。

再びベルト着用のサインが点灯し、客室乗務員がキャビンをひと回りすると、飛行機は高度を下げ始めた。



それまでは赤茶けた土壌が剥き出しの大地がほとんどだったが、いつの間にかこんもりとした緑の森林が眼下を覆い、その合間に、ビルが林立する街並みが点々と散在している。

目に優しい心和む景観が、少しずつ近づいて、その輪郭を露わにしつつあった。

地形の起伏は全くなく、ひたすら、だだっ広い平地が見渡す限り広がっている。
日本で言えば、永田町や霞ヶ関に集中している国家機関が、山手線の範囲内いっぱいに広がっている、といった感じなのであろうか。
道幅も広い。
とにかく、余裕のある街づくりに見える。
街を極度に密集させなくてはいけないという法則はないのであるが。

人の手が加わっている部分は、視界の中で圧倒的に少なく、緻密に国土を利用せざるを得ない人口密度の高い小さな島国から来た者としては、羨ましくもあり、また、もったいないようにも感じてしまう。

アメリカン航空4418便は、ポトマック河上空を降下していく。
高度が下がって地面が近づき、レーガン空港へそろそろ着陸だな、と察せられるあたりで、航空路の右側に、見覚えのある5角形の巨大な建物が見えた。
アメリカ国防総省、いわゆるペンタゴンだ。
日本を含めて世界中に影響力を及ぼす世界一強大なアメリカ軍の頂点である。
アメリカの政治力も、この軍事力抜きには語れない。

そのように重要な中枢が、民間航空路のすぐ側に位置しているのは意外だった。

2001年9月11日、ニューヨークのワールド・トレードセンターのツインタワーばかりでなく、ペンタゴンにも飛行機が突っ込んだ出来事が、ふと頭をかすめた。


アメリカン航空4418便は、そんなことにおかまいなく、安定した姿勢でアプローチを続け、ソフトな感触で滑走路に接地した。
感心するほど滑らかで衝撃の少ないタッチダウンだった。

滑走路1本のレーガン空港は飛行機の数も少なくあっけらかんとした印象で、地方のローカル空港のようだった。
敷地を囲む緑の木々の向こうに、ギリシャ建築のような、議事堂の白亜の建物のてっぺんが遠望された。


国内線だから、飛行機を降りても何の手続きもなく、そのままターミナルビルのコンコースに出られた。
片側が滑走路や駐機場に面したガラス張り、反対側に店舗が並ぶ構造はJFK空港と似ていた。
ただ、歩いている人の数は比べものにならないほど少なく、閑散としていた。

面白いのは、2階にある到着ロビーの外に出て、1階のバスやタクシー乗り場に接したコンコースまで降り、それに面した部屋で預けた荷物を受け取る仕組みだった。
日本の空港では、荷物は到着ロビーに出る前に受け取れるのが普通なのだけど。

さあ、JFKで預けた妻と僕の大小2つのトランクはきちんと現れるのだろうか。

あんな小さな飛行機に、たくさんの荷物がつめるのかな、と疑問にも思っていたし、僕はJFK空港の国際線の出口、妻は国内線搭乗直前、という預け方の違いもあったから、ベルトコンベアの前ではドキドキして待っていた。

まずは、羽田からの荷札をつけた僕の黒い大型トランクが現れ、しばらくして最後の方で妻の小さな赤いトランクが出てきた時には、心から安堵した。


「ね、このお店寄ってもいい?」

という妻のおねだりに応えて、2階コンコースの土産物店に入ってみた。

ホワイトハウスや議事堂の様々なミニチュアや、オバマ大統領の顔が刷られたTシャツやティカップ、フィギュアなどが陳列されていた。
品揃えは月並みで陳腐だけれども、いかにも、ワシントンに来たなあ、という実感が湧いてきて、見ているだけで楽しい。
妻はホワイトハウスの置物、乗り物好きの僕は、映画でよく見かけるFBI仕様のワゴン(盗聴などでよく使われている)と迷った挙げ句、大統領専用機エアフォース・ワンと大統領専用リムジンの模型を購入した。


ワシントンD.Cまでの移動は地下鉄ブルーラインを利用することにした。

ニューヨークと違って、ワシントンの地下鉄は安全で清潔と言われている。
鉄道のユニオン駅ならば、ホワイトハウスの近くまで直行する、地下鉄より便利と言われるD.Cサーキュレーターという循環バスがあることは調べていたが、レーガン空港から市内向けの路線バスの有無は調べていなかった。

地下鉄のレーガン空港駅は、ターミナルビルの向かいの高台の上の地上にあって、2階の到着ロビーから連絡橋が伸びている。
2人でえっちらおっちら、ゴロゴロとトランクを引っ張りながら橋を渡った。

ニューヨークJFK空港に到着後、そのままワシントンに足を伸ばす計画は様々なメリットがあったけれど、難点は、日本から持ち込んだ大きな荷物を抱えながら市内を歩き回らなければならない、ということだった。
帰りは鉄道利用を予定していたから、空港に荷物を預けるわけにはいかない。
ワシントンもニューヨークもバリアフリーが徹底し、エスカレーターやエレベーターなどが公共施設には完備していて、それほど苦労はしなかったのだが。

地下鉄は、自販機で必要な額のカードを購入して改札の機械に通す仕組みである。
料金表で運賃を調べると1人2ドル50セントだったから、5ドル分のカードを買おうと思うのだが、どうしても5ドルのカードの表示が出ず、結局1人10ドルのカードを2枚買うしかなかった。

この余計な出費は妻には内緒である。





地下鉄のホームはレーガン空港が一望できる地上の高台なので、気持ちが良かったけれども、吹きさらしなので待っている間は寒さが身にしみてガタガタした。

東京モノレールに似た下ぶくれのゴッツい面構えの電車は、サスペンションが堅いのか、乗り心地は今ひとつで座席も固かったけれど、日本の近郊電車みたいに4人向かい合わせの座席で、乗客数も少なかった。
空港を出るとすぐ地下に潜り込む。
目指すはホワイトハウスの最寄り駅のFarragut West駅。
レーガン空港から7つ目だから、駅に停車するたびに指を折り、また駅名表に目をこらした。
停車駅のアナウンスも短く駅名を連呼していたが、騒音でよく聞こえなかった。


4つめのArlington Cemetery駅は、粛然とした気持ちで意識した。
46歳の若さで暗殺された第35代大統領ジョン・F・ケネディをはじめ、建国以来の30万人の人々が眠る、アーリントン国立墓地の真下の駅なのである。
星条旗を掲げる群像で有名な海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)や、第1、2次大戦や朝鮮、ベトナム戦争で亡くなった、身元のわからない兵士を埋葬した無名戦士の墓があるという。

その後の湾岸、イラクも含めて、この国は絶えず戦争を続けてきた。
世界に君臨する超大国の宿命と言えば、それまでだけれど。

ポトマック川をくぐり抜け、間もなく滑り込んだFarragut West駅のホームは薄暗かった。
人の顔がかろうじて判別できるかどうか、といった照明であり、モノを落としたら探すのに苦労するだろうな、と思った。
煌々と灯りがまばゆい日本の地下鉄駅とは大違いだった。

昔、子供の頃に初めて洋風のホテルに泊まった時、部屋の照明がテーブルのスタンドくらいしかなくて暗い状態であるのを、大変奇異に感じたことを、ふと懐かしく思い出した。
外国には、部屋全体を照らし出すという発想がないのかな、と思ったものだった。

同じことを、ワシントンの地下鉄駅でも感じた。

エスカレーターで地上に出ると、地下駅とは対照的に、ワシントンD.Cの街並みは鮮やかな光に満ち満ちていて、目にしみるようだった。
落ち着いた色調が多いけれども、西洋の建物が個性的で一律ではなくカラフルだったのと、なによりも、街路樹の銀杏が鮮烈に色づいており、降り注ぐ日光を受け止めてさんさんと輝いていた。

地下鉄駅からホワイトハウスは数百メートルしか離れていないはずだったが、駅の地上出口で、どの方向に歩いて行けばいいのか迷った。
出口がどちら向きなのか、方角がわからなくなったのだ。
交差点の近くの出口だったけれど、地図の上で、僕らがどの交差点にいるのかも不明だった。
交差点には地名や通り名を示す標識も見当たらなかった。

その交差点を路線バスが通過していったので歩いていってみると、角にバス停があり、地図が掲げられていた。

「うーん、やっぱり方向がわからないなあ。どうして、この地図には現在地が書いてないんだ?」
「ねえ、そこに公園があるでしょ?だから、こっちじゃない?」

しびれを切らしたような妻の言葉で閃いた。
地下鉄出口の通りの向かいに小ぢんまりとした公園があり、それを基準に考えれば、その向こうを斜めに走っている道路はPennsylvania Avenueのはずだと思ったのだ。

ならば──

地図とにらめっこして、ようやく、自分たちのいる位置がわかった。

ここはI Streetと17th Streetの交差点だ!

ワシントンの街路は全てStreetと呼ばれ、南北に走るStreetには番号が、東西のStreetにはアルファベットがふられている。
時に固有名詞が振られていることもあるけれど。
そして、斜めに走る街路はAvenueで、州名がつけられている。

惜しいことに妻の指した方向は逆だったけど、ヒントをくれたことに感謝である。

「こっちだよ」

と、今度は自信を持って歩き出すことができた。





ワシントンの街路は広いけれども、人通りも車も少ない。
時折、路線バスが落ち葉を巻き上げて走りすぎる。
タクシーもほとんど通らない。

この日は金曜日、ウィークデイのはず。
みんな、オフィスや役所の中に閉じこもって仕事をしているのだろうか。
これが、本当に超大国アメリカの首都なのか、と首を傾げたくなるくらいに静かだった。
首都は殷賑で雑然としているはず、というのは、東京をはじめヨーロッパやアジアの古い国々の発想なのかもしれない。

冷たい風が紅葉の街路樹を震わせて、折り重なった落葉が路面を舞うだけの閑散とした雰囲気。
清掃車が大きな唸りを上げて落ち葉を吸い上げていく。

ポツポツと木立ちが散らばっているだけの公園、Lafayette Squareの中をのんびりと歩くうちに、不意に、前方を左右に走る道路に人だかりがしているのが見えた。

歩行者天国になっているその道路に沿った、背の高い柵の向こうには……

「あ! あれがそう?」
「そうだ、あれだ、ホワイトハウスだ!」


柵の向こう側の、綺麗に刈り込まれて手入れされた緑の芝生が広がる彼方にそびえる、白亜のどっしりした建物。
テレビのニュースや新聞、様々な映画のシーンで見覚えのある、威厳と風格に満ちた合衆国大統領官邸が、僕らの目の前に実際に存在していた。

僕らは、柵ごしにじっと見つめながら、しばらく身じろぎもしなかった。

「とうとう来たのね」
「そう、ついに来たんだねぇ」

第2代アダムス大統領から先日再選されたオバマ大統領まで、歴代の指導者が住んだ、アメリカのみならず、世界を動かす政治の中心。
よその国であるにも関わらず、ここでのまつりごとが、僕らの生活にも直接影響を及ぼすことも少なくない。
世界の現代史を語る上で欠かせない巨大な存在である。

とにかく、それをじかに自分の目で見てみたかったから、十数時間をかけて地球を半周し、旅してきたのだ。

生まれて初めての海外旅行で、風習の違いや言葉の壁に四苦八苦しながらも、様々な人々の善意に支えられながら、ここまで来ることができた。
全てを代行してくれる現地ツアーに頼らないのは冒険だったけれども、2人の力を合わせて、助け合いながら。

旅慣れた人からは何を大袈裟な、と笑われそうだけれども、学生時代に初めてアルプスの高峰の山頂を極めた時の達成感にも似た、大きな満足と安堵が入り混じった、心地よい感慨が身を包んだ。
身を切るように吹きすさぶ冬の寒風も、長旅の疲れも忘れて、久しぶりに、心の底からこみ上げてくる旅の感動に浸った瞬間だった。


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