チェルノブイリ原発事故後の甲状腺癌検診の経験と、福島原発事故の被災者に対する今後の対応 | ごんたのつれづれ旅日記

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昨日、各地から医師・看護師・検査技師等が集まっての講習会が開かれました。

『チェルノブイリ原発事故後の甲状腺癌検診の経験と福島原発事故の被災者に対する今後の対応』──。

講師は、日本医科大学内分泌外科教授 清水一雄先生。
世界で初めて内視鏡による甲状腺癌治療に成功した先生です。
チェルノブイリ原発事故後も、1989年から本年まで、毎年、チェルノブイリ原発事故被災者の検診を現地で実施しておられます。

一般論として、原発事故で放出される放射線はI(ヨード)131とCs(セシウム)137の2種類が問題になります。
ヨード131の半減期は8日、セシウム137の半減期は30年です。
甲状腺は食べ物から吸収されたヨードを取り込んで甲状腺ホルモンを作る臓器ですが、被爆では、取り込まれるヨードが汚染されているわけです。
セシウムは頑張れば除染できますが、ヨードは非常に除染しにくいとも言われています。

1984年4月26日に起きたチェルノブイリ事故では、520万テラベクレルの放射線が放出されたと言われています。
ベクレルは、物質が発する放射線の強さを表す単位です。
これは広島型原爆の500個分に相当します。

ちなみに、福島原発で放出された放射線は37万~63万ベクレルとされています。

チェルノブイリ事故発生から10日後の5/6までに、半径30km圏内の13万5000人が強制退去をさせられました。
また急性放射線障害で30人以上が亡くなったと言われています。
主として消火に当たった消防士や軍人だったそうです。

チェルノブイリ原発はソビエト連邦(当時)ウクライナ共和国の北の隅っこに位置しています。
風が南側から吹いていたため、北隣りのベラルーシ共和国が特に汚染されたと観測されています。
その汚染は、風向き・地形の影響で、円形ではなくまだらに分散しているのです。

1975年から1985年までの、ベラルーシ共和国での15歳以下の小児甲状腺癌は7例でした。
しかし、1986年から1996年までの小児甲状腺癌の発生は508例に増加しています。
同時に16歳以上の大人の甲状腺癌の発生率も3倍に跳ね上がったそうです。
特に事故後4年の1990年から急激に増加したのです。
被曝した子供たちが大人になっても甲状腺癌になる比率が高い状態が続いているため、20年後の2004年になっても甲状腺癌の発生は増え続けています。

(*別の資料に記載された、国際連合人道問題調整事務所の「The United Nations and Chernobyl」によると、ウクライナでは350万人以上が事故の影響を受け、うち150万人が子供でした。癌の症例数は19.5倍に増加し、甲状腺癌で54倍、甲状腺腫は44倍、甲状腺機能低下症は5.7倍、結節は55倍となったそうです。
ベラルーシでは放射性降下物の70%が国土の四分の一に降り、50万人の子供を含む220万人が放射性降下物の影響を受けたと言います。
ベラルーシ政府は15歳未満の子供の甲状腺癌の発生率が、1990年の2000例から2001年には8,000-10,000例に上昇したと推定しています。
ロシアでは270万人が事故の影響を受け、1985年から2000年に汚染地域のカルーガで行われた検診では癌の症例が著しく増加、内訳は乳癌が121%、肺癌が58%、食道癌が112%、子宮癌が88%、リンパ腺・造血組織で59%の増加を示したとされています。
ベラルーシとウクライナの汚染地域でも乳癌の増加は報告されています)

1996年4月、IAEA(国際原子力機関)/EC(欧州委員会)/WHO(世界保健機関)の国際共同会議では、「チェルノ ブイリ周辺では1990年から激増している小児甲状腺癌のみが、唯一事故による放射線被ばくの影響である」と発表したそうです。

その分析の是非は別としまして──

小児甲状腺癌は、病理学的に乳頭癌と呼ばれるタイプが90%以上を占めています。
予後を左右する因子として、癌の大きさ・周囲への浸潤、分化度、転移の有無、発症年齢などがあり、例えば1cm以下の微小癌の予後は良好と言われています。
発症年齢から見ても、小児甲状腺癌は予後がいい、とされているのです。
清水先生が経験された症例では、甲状腺周辺のリンパ節への浸潤や肺転移まで来していた子供がいたそうですが、それでも完治したそうです。
逆に言えば、高齢者の甲状腺癌は予後が悪い、ということになるのですけど。

しかし、そのためには、早期診断・早期治療が大切であることに変わりはありません。

清水先生は、事故から3年後の1989年から、現地で検診・治療活動を続けつつ、現地の医療スタッフへの啓蒙・指導もこなしてこられたのです。

日本からベラルーシ共和国へ行くためには、モスクワ経由・または北欧経由の航空便乗り継ぎでも丸3日かかります。飛行時間も長いのですが、空港でのトランジットが10時間近く、ということも少なくないそうです。
検診を行う町は、最寄りの空港から更に車で400kmもあるのです。

まずは、被爆者の検診から始まります。
入念に問診・触診を行なって、異常な甲状腺の腫瘤が触れれば、超音波(エコー)検査、そしてエコー下で針を刺しての吸引細胞診を行います。

日本からの医師は出来るだけ手を出さず、現地の医師に教えながら行ったそうです。
最初、現地の医師の採取した生検標本は、腫瘍に当たらずハズレばかり。
しかし粘り強い指導の結果、今では百発百中、5mmの微小癌もはずさずに採取できるようになっているそうです。

かつては、採取した標本を日本に持ち帰って染色し、精査・病理診断を行なっていました。
欧米諸国の医療チームも同様で、標本を母国での研究目的に使うケースが多かったため、現地政府から標本を持ち帰らず現地で診断せよとのお達しが出たそうです。
すると、欧米の医療チームは次々に撤退してしまいました。
しかし、清水先生のチームは現地での細胞診診断に切り替えて検診を継続したため、多大な信頼を勝ち得たとのことです。
他の医療チームには決して教えない情報でも、日本のチームには教えてくれるほどだそうです。

1999年、日本チームによる初めての小児甲状腺癌の手術が行なわれました。
その数は5例。うち4例が、小児期にチェルノブイリ原発事故を経験していました。

甲状腺癌の手術は、喉の甲状腺の下を横に一文字に(もしくは下に凸の緩やかな半円形に)切開して摘出します。
ベラルーシでは、喉元にそのような手術痕のある子供は『Chernobyl children』と呼ばれています。
かなりあからさまな手術痕であり、美容の観点から、子供の心に大きなトラウマを残すであろうと懸念されました。
清水先生は、何とか子供の首に大きな傷跡を残さない手術はないかと考え続けていたそうです。
世界で最初の甲状腺の内視鏡的手術は、他国で行なわれました。しかし、甲状腺部分を内視鏡カメラが入るように二酸化炭素を注入して膨らましたため、それが血中に混入して高二酸化炭素血症(血液の強い酸性化や意識混濁、呼吸不全、心不全を起こします)や重い皮下気腫(「水に放り込めば風船みたいに浮くんじゃないか」と当時の関係者が言っていたそうです)を合併して失敗したのです。
清水先生は、母校の近くの上野公園を散策中、道端に並ぶホームレスのテントを見て、ハタと思いついたそうです。

「そうだ、皮膚を釣り上げればいいんだ!」

清水先生の編み出した内視鏡的甲状腺腫瘍摘出術(VANS法)は、麻酔をかけて、皮膚を金属棒で串刺しにして持ち上げ、甲状腺付近に内視鏡が入るスペースを作ったのです。
首の横に開けた小さな穴から内視鏡を入れて見ながら、甲状腺を切除して取り出すのは鎖骨の下から挿入した器具で行います。
鎖骨下ですから、服を着れば目立ちません。また、かつての手術創に比べれば何分の一にもならない大きさなのです。

清水先生は、それをベラルーシの医師に教えようとしましたが、誰も手を出そうとしません。

「外科医ってのは、自分の手術が世界一だと思っている連中の集まりですから」

とは、清水先生御自身の言です。

清水先生は、ベラルーシの甲状腺癌の患者さんを連れてきて、日本で公開手術をすることを思いつきます。
2006年のことでした。
渡航費用、医療費は全て日本医科大学の負担。

選ばれた症例は、1986年4月26日の原発事故当時は母親の胎内にいて被爆、同年10月10日に誕生した女性でした。
当時20歳。
10.5×7.9mmの甲状腺癌と診断されていました。

当時のことは全国ニュースでも報じられたので、覚えておられる方もいるかもしれませんね。

手術は見事に成功しました。

術後のインタビューで、彼女は、

「こんなに小さな傷で手術してもらえて嬉しい。自分の国でも、同じ手術ができるといいです」

と大変喜んでおり、清水先生は彼女に、

「君の役目はただ1つ。帰国したら、みんなにその傷を見せて回ることだよ」

と言ったそうです。

それから毎年、清水先生の医療チームの検診には彼女が手伝いに来ては、医療スタッフや患者さんに自分の傷を見せている姿があったそうです。

「彼女の両親がとっても感謝してくれましてね。すぐ近くだから、ぜひ家に来てくれ、と言われたので行ってみたら、その距離が300km!──大変御馳走になりまして、次の年も呼ばれたんですが、なにせ、向こうの人の『すぐ近く』は東京と名古屋の距離ですから、やめました。彼女は一昨年にフィアンセを連れて来まして、めでたいと思っていたら、昨年、別れちゃったそうです(笑)」

そして、2009年、ベラルーシの現地の医師による初めての甲状腺癌内視鏡治療が行なわれたのです。

清水先生が24年間、粘り強く続けてきた被爆者への医療支援活動は、言葉では尽くせないほど素晴らしいもので、深く感銘を受けました。

最後に、清水先生は、少し真顔になりながら、以下の話を始めたのです──。

日本で1年間に受ける平均の被曝線量は3.75mSv/年。Svは、人体に与える放射線の影響を換算したものです。

そのうち2/3が、医療被爆と言われています。
例えば、胸部CTを撮影すれば7mSv。造影すれば20mSvになります。
腹部CTは20mSv。造影で40mSvにもなるのです。
ちなみに、胸部X-p写真の撮影は0.05mSv。
ちなみに、成田とニューヨークを飛行機で往復すれば0.19mSv被曝するそうです。

人体に影響が出る放射線量は、100mSv以上、と言われています。
ただし、胎児・小児は、成人の3倍も影響を受けやすいとも言われます。

震災直後、東京の金町浄水場で300Bqのヨード131が検出されたと大騒ぎになりました。

でもヨード131の300Bqを換算すると、0.0066mSv(6.6μSv)で、その水を1日1リットル飲んでも2.4mSvです。
そして、ヨード131の半減期は8日間。

だから大丈夫とは言いませんが、少なくとも、ペットボトルが店から消え失せなくてはならない事態ではなかったはずなのです。

情報不足が、以下に深刻な影響と、人々に不安を与えるか、ということですよね。

一方で、福島原発事故直後の避難態勢は、完全に手遅れでした。

ベラルーシのような高度な汚染は、福島第一原発の北西方向に多く位置しています。
SPEEDIで予測されていたにも関わらず、それを活用せず、半径30kmの同心円の外へ逃すことばかりにこだわって、逆に高度汚染地域に避難させてしまったとも聞いています。

その中に、子供はいたのでしょうか?

妊婦さんは?

また、3月15日と21日に首都圏や関東・東北全域を襲って各地にホットスポットを作った放射性プルームには、ヨード131は含まれていたのでしょうか?
一般論としては含まれているらしいのですが……。

平成23年7月、福島県は、18歳以下の県民36万人に健康手帳を配布し、甲状腺検診を受けることができるようにしました。
チェルノブイリでの甲状腺癌の最初の発症は4年後でしたが、少なくとも、小児甲状腺癌の早期発見の態勢は組まれたのです。

チェルノブイリ原発事故では、大量に大気中に放出された核種は大半が短半減期の放射性ヨード類であり、空気中や食物連鎖によるミルクなどを介して乳幼児に摂取されたと考えられています。
さらに、チェルノブイリ周辺がヨード不足の地方性甲状腺腫の多発地域であることから、普段からヨード飢餓の地帯であったと考えられています。
ヨードが豊富に含まれているのは海藻類です。
チェルノブイリ周辺は内陸ですもんね。

ヨードの摂取で、放射性ヨードによる甲状腺癌の危険性は、ある程度抑えられると言われています。
早い話が、きれいなヨードで甲状腺を満たしておけば、放射線に汚染されたヨードが入る余地が少なくなるわけです。
だから、原発事故では、8時間以内に、ヨウ化カリウムを12歳以上で100mg、3歳から12歳で50mg、生後1ヶ月から3歳で25mg、生後1ヶ月未満で12.5mgの摂取が大切と言われているのです。
40歳以上は不要と言われています。

しかし、前もって大量に長期間飲むことは、甲状腺に様々な副作用を起こす可能性がありますので、逆に有害です。

ならば──

海藻類の摂取が日常的に多く、チェルノブイリのようなヨード飢餓状態ではない日本で、小児甲状腺癌は果たして増加するのでしょうか?

それをきちんと正確に見定めるためには、熟練した触診術、エコー技術、細胞診の技術を持った医師、スタッフを増やさなければなりません。
福島の36万人だけが相手ではないのです。
おそらく、東日本を中心とした全国で、甲状腺検診の希望者が増えることでしょう。

医療関係者は、固唾を飲んで見守っているのです。

闘う態勢を整えながら。

『Fukushima children』などと呼ばれる子供たちが増えないよう、心の底から祈りながら──。

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