「地には平和を」──終戦記念日に思うこと | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和20年10月末──信州志賀高原の山中で、15歳の少年は、学徒で編成された本土防衛特別隊の少年兵として、米軍の本土上陸作戦に抵抗する戦いの中にいました。
本隊からはぐれてしまい、1人山中をさまよいながらの絶望的な戦いです。

皇室や政府は、長野県の松代の地下防空壕に避難しています。
少年の母は喉をついて死にました。

少年がかくまわれた農家の娘は米軍兵に身を売り、その父親は少年のことを米軍に密告するのです。
少年は食糧を得るために米軍の弾薬集積地を襲いますが、撃たれて瀕死の重傷を負ってしまいます。
最期を悟り、少年は手榴弾で自決しようとするのです。

そして、第3の原爆を積んだ爆撃機が、信州上空を目指してサイパンを離陸し──。
 


平成23年に亡くなったSF作家小松左京氏の「地には平和を」のあらすじです。
8月15日の終戦を決めた御前会議でクーデターが発生、主戦派が政権を奪取することで本土決戦が起こる「もう一つの歴史」を描いています。

圧巻なのは、「昭和20年8月15日に終戦しなかった日本」の情景です。

終戦の前日に、終戦を覆そうとしたクーデターは実際にあったことでした。
大宅壮一氏の著書「日本の一番長い日」に詳しく書かれています。
映画にもなりました。
一部の陸軍将校が近衛師団長を殺害し、皇居を占拠して、終戦の詔勅を録音したレコードの奪取を試みたのです。
幸いにして、レコードは見つからず、反乱も鎮圧されましたが──。

信州の松代(現長野市)に、皇室や政府機関を疎開させて、本土決戦をするための延長十数㎞に及ぶ地下防空壕も、朝鮮人労働者を徴集して、実際に建設されていました。
その歴史を掘り起こした和田登氏の「哀しみの砦」を子供の頃に読んだときに、自分の故郷に秘められた、触れてはいけない歴史の暗部を垣間見てしまったような気持ちになったことを憶えています。

 

 


アメリカをはじめとする連合軍も、実際に日本本土へ上陸する作戦を立案していました。
まずは九州に上陸する「オリンピック作戦」。
その後、九十九里浜または湘南に上陸する「コロネット作戦」。

もし、昭和20年8月15日に終戦していなかったら──。

そう思うとゾッとします。

 

 

 

 


実際の終戦の日の様子を描いた文は多いのですが、僕が印象的なのは、宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」に描かれた場面です。

山形県の今泉駅で、父親と終戦の詔勅を聞いた幼い宮脇氏。

「今泉駅前の広場は真夏の太陽が照り返してまぶしかった。
中央には机が置かれ、その上にはラジオがのっていて、長いコードが駅舎から伸びていた。
正午が近づくと、人びとが黙々と集まってきて、ラジオを半円形に囲んだ。
父がまた、

『いいか、どんな放送であっても黙っているのだぞ』

と耳もとでささやき、私の腕をぐっと握った。
この日も朝から艦載機が来襲していた。
ラジオからは絶えず軍管区情報が流れた。
11時55分を過ぎても『敵機は鹿島灘上空にあり』といった放送がつづくので、はたして本当に正午から天皇の放送があるのだろうかと私は思った。けれども、正午直前になると、『しばらく軍管区情報を中断します』との放送があり、つづいて時報が鳴った。
私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。
固唾を呑んでいると、雑音のなかから『君が代』が流れてきた。
こののんびりした曲が一段と間延びして聞え、まだるこしかった。
天皇の放送がはじまった。
雑音がひどいうえにレコードの針の音がザアザアしていて、聞きとりにくかった。
生の放送かと思っていた私は意外の感を受けた。
しかも、ふつうの話し言葉ではなく、宣戦の詔勅とおなじ文語文を独特の抑揚で読み出したのも意外だった。
聞きとりにくく、難解であった。
けれども『敵は残虐なる爆弾を使用して』とか『忍び難きを忍び』という生きた言葉は生ま生ましく伝わってきた。
『万世の為に太平を拓かんと欲す』という言葉も、よくわからないながら滲透してくるものがあった。
放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。
ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。
目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった」

奥野健男氏による巻末の解説で、三島由紀夫氏が「私の季節はあの夏の日に止まってしまった」と書いていることが対比のように取り上げられていますが、しかし、宮脇氏の描写は続くのです。

「時は止まっていたが汽車は走っていた。
こんな時でも汽車が走るのか、私は信じられない思いがした。
けれども、坂町行き109列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。
機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。
機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
昭和20年8月15日という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。
汽車が平然と走っていることで、私の中で止まっていた時間が、ふたたび動きはじめた。

(中略)

山々と樹々の優しさはどうだろう。
重なり合い茂り合って、懸命に走る汽車を包んでいる。
日本の国土があり、山があり、樹が茂り、川は流れ、そして父と私が乗った汽車は、まちがいなく走っていた」

まさに国破れて山河あり──。

国を挙げての戦争が突然終わっても、変わらぬ優しい表情の国土と、社会を維持するための日常を懸命に守り抜いていた人々の姿が浮き彫りにされて、涙と感動なくしては読めない箇所です。

 

 

 

 


様々な見方はあるのでしょうが、終戦の日を境に、日本という国家が、そして日本人1人1人の人生が大きく変わったのは確かです。

僕の父は、最初は文系の大学に進学しましたが、学徒動員で召集され、兵役中に結核を患って手術し、片肺になりました。
学徒動員だから、軍隊では、かなりいじめられたみたいです。
戦争から帰ってきて、結核で何年も療養し、こんな身体では農業はできないからと、一念発起して医者になったそうです。

父が学徒動員で出征する際に、恩師に宛てて書き残した遺書を、僕は大切に持っています。
天皇陛下のためにお役に立てることを嬉しく思い、鬼畜米英を倒すため、この命をお国のために捧げます、という決意が記された、まるで戦争ドラマに出てくるような、原稿用紙5枚ほどの遺書でした。

「海行かば 水漬く屍と知りながら いざ馳せゆかん 大君のため」

という自作の歌で締めくくられていました。

でも、父は、生前に自分の戦争体験を一言も家族に話しませんでした。
僕も母も、父が亡くなってから、出征した経験があることを知ったのです。
驚きました。
日本という国家も、天皇陛下も、自衛隊も政治家も大嫌いな父でしたから。

これだけ純粋な遺書を残して日本のために命を捧げようとした父が、国家や政府を信用しなくなったこと。
家族にすら、出征の過去を話さなかったこと。
いったい、父に何があったのでしょうか。
戦時中から終戦後にかけての父の経験と、心境の変化に、少なくとも戦争が父の心に刻みこんだ傷跡が生々しくのぞいているような気がして、暗然とした心持ちになるのです。

母親は、幸いに戦争で被災することはありませんでしたが、通っていた女子校が兵隊さんの服を造る工場になって、そこで働かされたり、竹槍を持って軍事教練をさせられたりしたと聞きました。
国鉄工場を中心に爆撃された長野空襲の話も聞かされたものです。

どうあろうと、昭和20年8月15日で戦争は終わり、そのような生活は幕を閉じたのです。
父や母は、8月15日を、どんな思いで迎えたのでしょうか。

「地には平和を」で、傷つきながらも徹底抗戦する少年は、謎の男に助けられます。
その男は、

「いいか、君、この世界は間違っているんだぜ……」

「これはそうあってはならない世界なんだ」
「8月15日の無条件降伏が唯一の正しい歴史だという事が、わからんのか?」
「これはいけない事だ。歴史は1つでなければいけない。だからこの本来の軌道からそれた歴史は、基元世界に収斂されなければならないんだ」

と、少年に告げます。
しかし、

「この歴史のどこがまちがっているんだ?鬼畜米英と闘って、1億玉砕する。陛下もともに……日本帝国の臣民は、すべて悠久の大義に生きるんだ。どこがまちがっている?」

と、少年は反撥するのです。

この話は、歴史を改変しようとした時間犯罪者と、阻止しようとする時間パトロールの物語でもあるのですが、小松氏はこの作品において、時間犯罪者に、

「悲惨でない歴史があるか?問題はその悲惨さを通じて、人類が何をかち得るかという事だ。第2次世界戦争では、千数百万人の人間が死に、それとほぼ同数のユダヤ人が虐殺された。地球全人口の1割に達するこの殺戮を通じてもたらされた戦後の世界が一体どんなものだったか、君たちは知っているか?そしてその時の中途半端さが、実に千年後の現在にまで、人間の心の根を蝕む日和見主義になっていることを、君たちは考えた事があるか?」
「犠牲をはらったなら、それだけのものをつかみとらねばならん。それでなければ、歴史は無意味なものになる。20世紀が後代の歴史に及ぼした最も大きな影響は、その中途半端さだった。世界史的規模における日和見主義だった。だからはっきりいって、第2次大戦の犠牲は無駄になったのだ。全人類が、自己のうち出した悲惨さの前に、恐れをなして中途で眼をつぶってしまったのだ。もう耐えられないと思って、中途で妥協したのだ」

と語らせています。

「日本の場合、終戦の詔勅1本で、突然お手上げした。その結果、戦後彼らが手に入れたものは何だったか?20年を待たずして空文化してしまった平和憲法だ!そんなことなら、日本はもっと大きな犠牲を払っても、歴史の固い底から、もっと確実なものをつかみ上げるべきだった。どうせそれまでさんざん悲惨さを味わって来たのだ。焦土作戦の犠牲を払うくらい、五十歩百歩だったじゃないか。日本という国は、完全に滅んでもよかった。国家が滅びたら、その向こうから、全地上的連帯性をになうべき、新しい“人間”が生まれて来ただろう」

とも──。

でも、僕らの国は、曲がりなりにも、何でも好きなことが出来て、モノに不自由もせず、何でも言える自由な国として、60年以上、戦争をしないですむ国になりました。
どのような国のあり方だろうと、これは誇りに思い、また幸せとしてかみしめていいと思います。

 

 

 


日本赤十字社で世界の紛争地域に出かけて医療活動に従事した医師の講演を聞いたことがあります。

シリア、アフガニスタン、イラク──

たった1発の銃弾が腕を貫通しただけで中の骨がぐちゃぐちゃになり、切断するより治療法がなかった兵士。
落ちていた小さな対人地雷を好奇心からつまみ上げただけで、傍にいた弟は即死、腕を失い、失明し、手術の甲斐もなく死んでいった少女。
同じく地雷を踏み、片足を股関節から失ったがために、義足が安定せず、一生両手で支える松葉杖が離せなくなった少年が、雨の中を退院していく後ろ姿の写真を映しながら、先生は言いました。

「この子は、一生、傘を差すことは出来ないのです」

そのような経験を話す前に、先生がスライドで大きく示した文字は、

「人間は、どんなことでもする」

なんという結論でしょうか。
戦争に勝つためならば、どのように残虐な手段でもとってしまうのが、人間なのだと、先生は言い切ったのです。

先生は、更に、

「これは、もう、人間というものは、決して戦争をやめることはないのではないか、そう感じるんですね」

と付け加えました。

幾多の戦場の悲惨さを目の当たりにしてきた医師が抱いた、あまりに重く、あまりに悲しい諦観です。
そんじょそこらの平和論など、吹いて飛ばされてしまうような、つらい現実を僕らの心に突き刺した言葉でした。

昭和50年代から60年代にかけて僕が愛読した新谷かおるの「エリア88」に、次のようなシーンがあります。
世界各地の戦争をコントロールすることを企む武器商人の組織「プロジェクト4」と、闘うことを決意した主人公のことを、日本政界の重鎮が排除しようとするのです。

「安全と平和は意味が違う……日本以外の全ての国が血まみれになっていようが、日本が絶対にそれに巻き込まれない状態……それが安全だ」
「平和というのは、日本を含む全て……少なくとも、地球上であらゆる争いごとが起きない状態をいう。こいつは、かなり難しい」
「世界数十億の人間の平和のために、日本1億2千万の安全を無視するわけにはいかん」

いわゆる一国平和主義は、自分勝手と思われるかもしれません。
しかし、人間が戦争をやめる見込みがないのならば、日本だけでも戦争の惨禍に巻き込まれないようにするという考え方は、悲しい現実主義ですが、必要なのかもしれません。

日赤の先生の講演を聞いて、そのようなことまで考えさせられたのです。

 

 

 

 

 

 


僕らの国は、様々な事情があったとは言え、追いつめられて勝ち目のない戦争に突入してしまった歴史を持っています。

昨今は、なんだか、戦争ができない国は半人前、みたいな風潮があるように感じます。
それが、太平洋戦争の悲惨な記憶が薄れていくことと比例して、勢いを増しているのでなければいいのですが。

もちろん、今の世界情勢では、いざとなれば戦争をするくらいの迫力がなければ、国際社会で生きていけないのも事実でしょう。
だから、自衛隊がきちんと抑止力を持ち、万一に備える法整備が不可欠だという意見もわかります。

しかし──だからこそ、僕らは、終戦記念日に、僕らの父や母の世代が味わった辛酸を、苦しみを、見直さなければならないと思うのです。

もし、僕らの国が、戦争をするほど追いつめられた時。
僕らが、70年前の戦争から何をつかんだのか、つかまなかったのかが問われると思います。

たとえ日本という国家の威信が傷つけられたとしても、多くの生命が失われ、幾多の家族が引き裂かれ、あのような悲惨な目に合う戦争を、本当にもう1度始める覚悟が、僕らにあるのか、と。
戦争は、いとも簡単に個人の人生をズタズタに引き裂き、未来を容赦なく奪っていくものなのだということを──。

昨年公開されたばかりの「永遠のゼロ」を思い出すと、なおさら、その思いは深くなるのです。
僕はあの映画を観ている間、涙が止まりませんでした。

ミッドウェー海戦で日本の機動部隊が全滅するところは胸が張り裂けそうになったものです。
一昨年に公開された「聯合艦隊司令長官 山本五十六」でも同じでした。

戦争の是非は別として、日本軍がやられるシーンは、とても昔の出来事や他人事とは思えず、自分の心が耐えきれないのです。

そして、もう1つ。

他の戦争映画以上に「永遠のゼロ」が特徴的だったのは、日本の特攻機がアメリカ艦隊に近づくこともできず、バタバタと撃ち落とされていく様から、決して目をそらさなかったことだと思うのです。
日本人として、あんなやりきれないシーンはありませんでした。
そして、自分は死に臨むこともなく精神論ばかりふりかざす上官や指揮官たちに、同じ日本人と思いたくなくなるようなやりきれなさと、怒りが湧いてきたものです。
そんな状況下で心が壊れていく主人公。

どこかの映画監督が、この映画を特攻隊賛美として批判していたようですが、どう観ても、「永遠のゼロ」が描いているのは戦争下手の日本人と、その組織のことです。
他の戦争映画のように、「日本は負けたけれども、よくやった」というような要素は皆無だった気がするのです。

司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いた日露戦争では、僕らの国はあくまでも身の程を知り、謙虚で、血のにじむような思いをしながらも、うまく闘ったというのに。
半世紀の差は、驕り高ぶりなのでしょうか。

 

 


あの戦争から70年が過ぎようとしている今、僕らの国は、敗北や惨禍から謙虚に学び、国家の一大事に臨機応変に責任をもって対応する組織を作り上げる能力を得たのでしょうか?

利益ばかりを優先して個人を使い捨て、リストラで切り捨てていく企業。
正確な情報を機敏に発することも出来ず、後出しの情報ばかりでお茶を濁しながら、未だに収束の目途も立てられない原発事故。

兵士の生命を軽視した軍隊と、大本営発表で情報を隠蔽しながら何の責任を取ることもせず戦争を続けた政府。
昭和の前半の戦争で露呈した、僕らの国の弱点そのままのような気がするのです。

戦争をするかどうかを最終決定するのは、政治家です。

しかし、僕らの国は、戦争を継続する、もしくは始めるという決断の時に、世論の大多数がそれを後押ししていたという歴史的事実があることも、忘れてはならないと思うのです。
日露戦争のポーツマス条約締結に反対する争乱を起こした市民たち。
昭和16年の開戦前夜に、日独伊三国同盟に賛成し、米英叩くべしと言う記事を出し続けた新聞各社。
映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」では、そのあたりがきちんと描かれていたような気がします。

僕たちは、戦争の責任を時の為政者や軍人ばかりに押しつけるのではなく、その史実を、歯を食いしばって見つめ直す必要があると思うのです。
正義や大義を振りかざそうが、政治家が決断した戦争で苦しむのは、個々の国民なのだということを。
安易に時の趨勢に乗じることが、自分の身に降りかかってくることもあるということを。

映画「連合艦隊」の1シーンが、とても印象的です。
開戦前に時の海軍大臣嶋田繁太郎(演じるは藤田進)が、三国同盟に反対する海軍首脳を前に、

「やむを得ず、誠にやむを得ず、賛成することに致しました。どうか、御勘弁の程を」

と、海軍も賛同にまわることを決断します。
山本五十六(小林桂樹)は「勘弁ですむか!」と血相を変えて怒るのです。

そして、終戦の直前、海軍軍令部総長となっていた嶋田繁太郎は、戦艦大和の沖縄特攻作戦を、「やむを得ず」と言いながら承認します。
小沢治三郎提督(丹波哲郎)は、そんな嶋田に詰め寄るのです。

「総長!この戦争は、あなたの『やむを得ず』から始まったんですぞ!──やむを得ずに始まり、やむを得ずに終わるか……」

最後のセリフは、嘆息の中にありました。
政治家は「やむを得ず」なんて言いながら戦争を始めてしまうのかもしれませんが、実際に人生を狂わされる可能性があるのは僕らなのです。

 

 

 

 


国民の生命を守ることを一義に考えて欲しい政治家として思い出すのは、麻生幾原作のシミュレーション小説「宣戦布告」です。

原発銀座である福井県の海岸に某国(名前は変えてありますが、どう見ても北朝鮮です)の潜水艇が座礁し、乗り込んでいた特殊工作員が上陸、という事態が勃発します。
武装した彼らは、民間人や警察官、そして自衛隊員を犠牲にしていきます。
しかし、法整備の不備に、充分な対応・応戦ができない自衛隊の情けない現状。
現場の隊員が次々と倒れていくのです。
そんな日本政府の対応の手ぬるさ、遅れが各国の軍事的緊張を惹起して、世界は核戦争寸前の緊張状態に──

その中で、追い詰められた首相が慨嘆して漏らす一言が印象的です。

「この国は、ロクに喧嘩もできんのか!……」

 

 

 

 


一方で、対称的に思い浮かぶのは、かわぐちかいじ氏の漫画「沈黙の艦隊」の1コマです。
日本が密かに建造した原子力潜水艦が反乱を起こす中で、日本とアメリカが対立し、国際情勢が緊迫する中で、新たな世界の枠組みを模索するポリティカル・フィクションです。
当時はかなり話題になって、国会でも取り上げられたくらいでした。

様々な名セリフも魅力的な作品でしたが、僕が忘れられないのは、日本が一即触発の状態に追いつめられた時の、総理大臣の一喝です。

「いかなる状況においても、日本はもう戦争をしてはならんのだ!」

自衛隊が、既に相手国と対峙している情勢下で発せられたこの言葉。
軟弱ととらえるか、それとも1つの見識、覚悟ととらえるのか──。

 

 

 

 


今年の8月15日も、あの日と同じく、暑い夏のさなかにやってくるのでしょうね。
僕らの上の世代が経験した70年前の夏の日のことを、決して他人事としてではなく、よくかみしめたいと思う今日この頃なのです。

 

 

 

 

 

 

 
 
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