福岡市
唐人町物語
はじめに
僕の母方に冨田愼二郎という叔父がいる。
一代で功成り名を遂げた人物であり、その業界では知らぬ者がいない程の有名人でもある。
僕は少年期よりこの叔父の影響を強く受けて育ってきた。精神的な結び付きを思うと両親よりも
むしろ愼二郎叔父貴の方がよほど深いとさえ
感じている。
長崎の田舎町で生まれ育った僕にとって大都会福岡で会社を経営する身内の活躍はまさに心躍るもの
であり、彼は僕のヒーローであったのだ。
その叔父の横には彼を支える洋子叔母がいつも寄り添ってらして、子ども心にも理想の夫婦に見えたものだ。いつも明るい笑顔を浮かべて優しい声が印象的な洋子叔母を僕や妹たちは(大袈裟な言い方になるけれど本心で)聖母のように慕っていた。
頭が切れる叔父からは常に緊張感が漂っていたけど、その怖さを和らげていたのが洋子叔母だった。
数年前、
叔父の母親つまり僕の母方のおばあちゃんの三十回忌が博多で執り行われた際、久しぶりにお会いした彼は八十を目前にしてなお矍鑠たる貫禄で会食の場を仕切っていた。同じテーブルに座った僕はこの時とばかりずっと頭の中で募らせていた思いを
叔父にぶつけた。
叔父さん
僕たち森本家は長いこと叔父さんに心配かけっぱなしで、何かある度に叔父さんに助けてもらってきたじゃないですか。お金のことはもちろん、それだけでは済まないほどホントに
たくさんの恩義が叔父さんにはあるんです。
でも、正直言って僕が生きている内に叔父さんからいただいた恩をお返しすることは出来そうもないんですよ。自分でも情けないと思うんですが、僕の力ではとてもじゃないけど無理なんです。
本当に申し訳ありません。
叔父は笑いながらいつもの博多弁で
そげんこともうよかばい
それに京子姉ちゃんにも一喜兄さんにも
ようしてもろたけん
と
大黒様のように福々とした顔を光らせていた。
ただ、叔父さん
一つだけ、僕にできる恩返しがあるとしたら、
そして、僕にしか出来ない形でのご恩返しがあるとしたら、それはこれだけだと思っています。
今日はその了解を叔父さんと叔母さんから
いただきたくてここにまいりました。
なんねなんね?
あらたまって
そんなこと急に言われたらビックリするくさ
叔父は笑いながらも真面目な顔つきになった
よかばい
君が思うことば言うてごらん
なんば考えとうと?
はい、実は、、
僕は姿勢を正して叔父の目を真っ直ぐに見た。
愼二郎叔父貴と洋子叔母さんの物語を
僕に
書かせてください。
第1話
中学校の校門を出たとき、京子は見知らぬ老婆に声をかけられた。
「あなた、はやく帰りんしゃい」
一言だけだったが、その老人は真剣な眼差しで京子を見つめていた。
空襲で焼け野原になった博多の街にあって、京子の通っていた中学校は奇跡的にB29の空襲から免れ、終戦直後の混乱の中でも意外にはやく授業が再開されていた。
それでもまだ授業は午前中だけだったり、戦時中に野戦病院として使用され荒れ果てた校舎の後片付けに追われるような日々であった。
変わり果てた博多の街を呆然と眺めながら、役所前の広場で聞いた玉音放送を京子は今もハッキリと覚えている。
ジリジリと真夏の太陽が照り付ける中、ラジオから流れてきた陛下のお言葉はよく聞き取れなかったし、聞いてもたぶん意味は分からなかっただろう。それでも、戦争が終わったこと、日本が負けたことだけは京子にも理解できた。
これでもう空襲はないんだ、、
と
ただそれだけを思い、ホッとした
今日も授業は午前中で終わり、京子は校庭に出た。疲れているのかやたらと喉が乾いていた。お腹も空いている。早く帰って何か食べたい。
そう思って校門を出たところで老婆が声をかけてきたのだ。
「早く帰りんしゃい」
京子は何か不吉なものを感じて返事もせずに駆け出していた。
老人が気味悪いのではなく、老婆の真剣みを帯びた緊張感が彼女を恐れさせたのだ。
着物姿の老婦人、、そういえば、このご時世にしてはあの人は不思議なほどきちんとした身なりをしていた。真っ白な美しい白髪を丁寧に結った姿は、どう見ても焼け野原の風景に馴染んでいなかった。
思い返せば思い返すほど、京子の胸は焦りのような気持ち悪さで苦しくなっていく。
とにかく急いで帰ろう!
黒門川の向こう側に当仁小学校が見えてきた。
もうすぐだ。
京子は黒門橋を渡ってまた走りだした。
つづく
(人物名は全て仮名です)