塔和子さんのこと(差別者の僕に捧げる)⑧ | 宇宙の森探索

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みなさま
いかがお過ごしでしょうか?

さて
「塔和子さんのこと」
第8回目となります今回もまた
月の光さまからいただいたコメントに
添いながら
塔和子さんが今世を生きる中で味わってきた
辛酸とも呼ぶべき体験と
僕たちの知らなかった
(知らされなかった?)
ハンセン病患者を取り巻いてきた
重い重い現実について書いてみたいと思います


まずは
月の光さまのコメントから
一部引用です
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女性が結婚しても
愛する人の子供を産むことが許されない
世界があることを知った時
言葉ではいい表すことの出来ない
悲しみに押しつぶされました。

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このコメントの意味について
前回はかなり具体的な事例をあげてみました

今回も引き続き
経済流通大学の川崎愛先生の論文からの
引用となります


龍





ハンセン病政策と優生手術

ハンセン病患者への断種
ハンセン病患者への断種は法的根拠のないまま1915年に
全生病院・院長光田健輔によって開始された。
「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」と
検証会議の検証・検討委員であった藤野豊の
『日本ファシストと優生思想』から史実を記す
1907年制定の「癩予防ニ関スル件」のもと全国五ヶ所に設置された道府県連合立療養所は1940年に国立に移管された。
全生病院は多摩全生園と改称された。
全生病院はもともと男女隔離が原則であったが、板壁一枚隔てた塀を乗り越えて通い、妊娠・出産が生じた。
生まれてきた子どもたちは院長光田が私費で農家に里子に出したり、親が乳児を東京市内に捨てに行き、拾われるまで見届けたという話もあった。

断種手術は内務省の黙認のもと実行され、光田は志願者への施術だったと述べていた。しかし、多摩全生園の入園者自治会が調査した結果は光田の発言とは大きく異なった。
1915年から1938年までに同病院で断種手術を受けたのは346人に及び、それは志願者のみに行うものではなく、強制的なものであり、独身の男性も対象にされた。手術は医師が行わず、看護長に実施させることもあったこと、手術の結果、性交不能になったり腰痛などの後遺症に苦しむ者もあったことなどが明らかにされている。

法的根拠が曖昧なまま
なぜ断種手術は強制的に実施されたのだろう?

↓↓↓

ハンセン病患者への断種が既成事実として進行した理由
は、子どもへの感染防止や母親への病勢進行阻止、他の患者への影響配慮、養育上の困難の他に、ハンセン病は(遺伝病ではなく)感染症ではあるが、罹りやすい体質が遺伝するという(誤った)認識が形成されていたことによる。
断種の導入によって光田は、それまで患者管理の障害であった性欲の管理を促進するための手段に用いた。断種を条件に性欲を馴致(じゅんち・慣れさせて、ある状態へ仕向けること)して患者管理を容易にしただけでなく、出生防止と男女共同収容が両立可能となった。
断種、結婚は隔離収容された
患者が強いられる「別の人生」に意義を与える装置
して活用された。

いま色を変えて表示した
↓↓↓
「別の人生」に意義を
与える装置
については、まだ後ほど触れてみたいと思います。


この章では川崎先生の論文からもう少し
ハンセン病患者の被害の実態について書いてまいります

安迷壬は戦後まもなく最初の夫から結婚前に強引に関係を迫られ妊娠した。夫は結婚と同時に断種され、夫婦で子どもを育てられる草津(群馬県)の自由療養地区に行くことを考えた。1941年に邑久(むらひさ)光明園に一緒に入所した父も草津に行くよう説得したが反対され、やむなく妊娠9ヶ月で中絶した。手術は婦長が行い、胎児を引っ張り出したら子どもは声をあげて泣いていた。婦長は安の目の前で子どもをうつ伏せにして押さえつけて殺した。

竹村栄一は1950年に邑久光明園で結婚した。断種手術は光明園開園当初から結婚の条件だった。手術は看護士長が行った。執刀した看護士が豚の去勢手術をしているのを目撃していたこともあり、手術台の自分と重なり辛く嫌な気持ちだった。1952年11月に優生手術を強制しないことになったと、のちに園の年報で知ったが、入所者で知るものはいなかった。
1952年以降も園は結婚の前提として断種手術を求めるし、自治会は分館への結婚届けがなければ夫婦舎への入居を許可しなかった。当時ハンセン病は遺伝病ではなく感染症であることが明らかであったのに、なぜ優生手術をしなくてはならなかったのか納得がいかない。

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竹村さんのこのごく当然と思える疑問さえ
当時の国や担当役所、そして患者と現場で向き合う医師でさえ明確に答えられなかったのです

結婚の絶対条件としての断種について長島愛生園の実態
宇佐美治は次のように説明した。
療養所内での結婚は、仲人と保証人を立てて自治会の人事係に届けを出す。人事係は園の医局と分館に届けを出すことによって、園から夫婦として認知された。
園から認知されると夫婦舎が与えられるが、それは断種と引き換えだった。子どもができても堕胎させられる。産まれたとしても親子は切り離されることから、子どもを作れないようにしたほうが妻を傷つけずに済む、と断種に応じる男性もいた。1958年までに全国の療養所で3000件もの断種手術が行われた。
愛生園に入所している妻の、外で暮らす夫に妻との面会と引き換えに断種を迫り手術した例を3件知っている。
また、が入所している子どもが社会へ出て行くときにも断種手術をした例があり、宇佐美の知る限りでは1970年まで行われていた。



「らい予防法」(1953年)制定前の光田健輔長島愛生園園長らによる「三園長証言」は強制隔離政策の継続を後押しした。1951年11月参議院厚生委員会で光田は強制収容の強化と
「癩家族の優生手術を勧めてやらすべき」と発言した。
宇佐美は全らい患協ニュースで光田証言を知ったあと、自治会で「光田園長参議院証言説明会」が開催されたので出席した。高齢の女性と結婚した男性が断種されたことを聞くと
光田は「規則、きまりだ。妊娠するかどうかは関係ない」といい、「患者家族への断種とは何事だ」と聞くと「信念だ」と言うので「遺伝病だと思っているのか」と追及すると黙った。同じ証言をした他のニ園の園長は、ニ園の入所者の追及の前に、発言の取り消し撤回の意思を表明したが、光田は撤回を拒否した。ただ後に「諸君に迷惑をかけてすまなかった。諸君らの要求はよく厚生省に取り次ぎたい」と言わざるを得なかった。





ここで光田健輔なる人物について簡単に
ご紹介しておきたいと思います
ハンセン病とハンセン病を取り巻く近代日本の
歴史を語る上で
どうしても外すことのできない重要人物なのです


光田健輔(みつだけんすけ)
1876年(明治9年)ー1964年(昭和39年)
日本の病理学者、皮膚科医

生涯をハンセン病の撲滅に捧げ、国立長島愛生園初代園長等を歴任した。
生前は「救癩の父」と崇められ、
文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けた。
その一方で、患者の絶対隔離政策を推進する「癩予防法」改正、無癩県運動や「らい予防法」制定の
中心人物であり、日本の対ハンセン病政策の明と暗を象徴する人物でもある。
贈正三位勲瑞宝章


彼の仕事の功罪についてはまた別な章で
触れたいと存じます

(前述した竹村栄一さん証言)
竹村栄一は2000年10月30日の邑久光明園での証拠保全の現場検証に立ち合い、解剖室の付属の部屋である臓器室で胎児標本を初めて目にし、無性に腹が立った。

胎児標本の存在は長島愛生園の宇佐美も明らかにしている。愛生園では1970年に出産して子どもが施設に行ったという一部を除いて、それまで全て妊娠した人は堕胎された。臨月になって堕胎された子どもは泣き声をあげていても試験室に連れて行かれて殺された。試験室兼解剖室で宇佐美は瓶詰めにされたえい児を10体以上見た。

「ハンセン病問題に関する検証会議」の調査の結果、全国のハンセン病療養所で計114体(半数の57体は母親の記録なし)の強制的に堕胎されたとみられる胎児・新生児のホルマリン漬け標本が保管されていることが分かった。標本が作られたのは57体が1924年から1956年までで、残りの半数は不明である。





遠くからの声

母から母へ
母から母へ
はるかにはるかに流れてきた私が
人の繁みの中へ
ほうり出されている
繁みの中の個として
もうどこにもつながっていないのに
どこか遠い遠いところから声がする
私は今日
次の世代へ渡すべくあらされている母性

あなたよ
あなたの父性よ
その父のその父の
はるかなはるかな始祖から
あなたへ流れて来た血を受けとめてあるのか
私たちらい夫婦は子を産まず
遠くからの声を
うさぎのように耳を立てて
聞いているだけ
流れをせきとめて立つことの
重さが
透明にしみる一瞬を



塔 和子







風ノ意匠
サスケ



遠き山に日は落ちて