文明と人間の心 | 神即〈いのち〉、〈いのち〉即感謝 

神即〈いのち〉、〈いのち〉即感謝 

神とは〈いのち〉であり、それへの感謝が信仰だ。あらゆる違いがあっても、それは闘争の理由とはならない。我々は等しく〈いのち〉を生きているからだ。その理解こそが、新しい文明の思想軸となる。

  文明崩壊の危機ということは、各方面の識者たちが早くから警告してきたことだが、その原因となるのが、核戦争、地球温暖化、パンデミック、破滅的大恐慌などではないかと予想されている。恐ろしいことだが、いずれの予想もかなりの確率で現実化しそうな気配がある。その分野の専門的知識を得、客観的に状況を判断すれば、誰だって悲観的にならざるを得ない。

 しかし少し考えてみれば分かることだが、いずれのシナリオも人間が引き起こすものであり、単なる自然災害ではない。そして、いずれのシナリオも、他ならぬ人間の病める心が引き金となる。

 つまり、文明崩壊の危機とは、領土拡大、権力掌握、経済的支配を求めて狂奔する人間の飽くなき欲望のことなのだ。一例を上げれば、すでに広大な国土をもつ中国やロシアといった国が、さらなる領土拡大のために、他国を脅かすなんてことは、よほど心が病んでいなければあり得ないことだ。

 そして、そういう軍事的大国を率いる指導者は桁外れな権力欲に駆られているに違いないが、本人たちにその自覚はない。ヴァミク・ヴォルカンの『誇りと憎悪:民族紛争の心理学』を読めば、民衆を扇動する政治家が、どれほど病んだ精神の持主であるか納得できる。幼少期から深刻なコンプレックスや発達障害を抱えた人間が権力を握ってしまうと、内面の虚無感を穴埋めするために、大規模な暴力行為に集団を巻き込んでしまうのである。

 太平洋戦争に日本国民を引きずり込んだエリート軍人たちも、冷静な精神分析をすれば、相当に幼稚な精神の持ち主だったことが判明するに違いない。個人の心の闇が国家の闇となる危険性は、つねにあることを忘れてはならない。