菅原道真公の生涯を博多人形で再現した

大阪天満宮 梅花学院の菅家廊下

(大阪市北区)

 

 

 

 

 

 大阪天満宮境内にある梅香学院の1階は菅家廊下と呼ばれ、菅原道真公の一生を博多人形で再現した菅公縁起が設けられています。

 

 

 

〇幼少の菅公(一)

 

 

 菅原道真は是善とその夫人・伴氏の3男として生まれましたが、幼少期について信頼できる史料はほとんどないそうです。

 

 なお、菅原家は、道真まで三代続けて朝廷の文章博士を務めた 学問の家でした。

 

 

 

〇幼少の菅公(二)

 

 

 道真は幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだそうです。

 

 (信頼できない資料に書かれていたんでしょうか?)

 

 

 

〇弓術の場

 

 

 菅原道真は学問ができるだけでなく、弓の名手でもありました。

 

 

 

〇渤海の朝貢使

 

 

 渤海使と日本の文人官僚との間では、漢詩を読み交わしての交流がありました。

 渤海大使・裴頲(はいてい)と菅原道真との間の漢詩は、道真の作品集『菅家文草』に残っています。

 

 

 

〇讃岐守の仁政(一)

 

 

 42歳で道真は讃岐守に任命されます。

 当時の役人は一時期地方官を務め その成果をもとに その後の官職が決まるという処遇でしたので、官僚としての通常のコースでしたが、道真にとっては不本意だったようです。

 

 任期中に次のような詩を詠んでいます。

 

どういった人に寒気は一番早く来るだろうか。
寒気が早く来るのは、走還の人…土地を捨てて逃げ出したが、どうにもならなくて再び戻ってきた人のもとに、寒気は最も早く来るのだ。

 

 

 

〇讃岐守の仁政(二)

 

 

 その後、道真は中央に復帰し、阿衡事件の解決や 遣唐使の廃止など 重要な決定に関与します。

 

 

 

〇手向山八幡宮参拝

 

 

 漢詩だけでなく、和歌も百人一首に収められています。

 

 この度は、幣もとりあえず手向山歌意
  紅葉の錦 神のまにまに
       菅家(=菅原道真)

 

歌意

「今回の旅は、急いでいたので神様に供える幣も忘れてやって参りました。
その代り、この手向山の紅葉の景色を捧げますので、神の御心のままにお受け取り下さい。」

 

 

 

〇恩賜の御衣

 

 

 清涼殿での菊の節句の宴で、道真は醍醐天皇から詩を褒められ、恩賜の御衣を賜ります。

 

 翌年、大宰権帥となった道真は、当時を懐かしむ詩を詠みます。

 

 なお、道真死後の清涼殿落雷事件などは道真の呪いとされ、道真の神格化が進みます。

 

 

 

 

〇紅梅殿

 

 

 道真は右大臣に昇進しますが、醍醐天皇の廃立後継問題への関与の疑いで、大宰府に左遷されます。

 大宰権帥は要職であり左遷でないとの説もあり、私にはよくわかりませんが、同時に道真の4人の息子も配流されていますので、少なくとも中央政界から遠ざけられたのは間違いないでしょう。

 

 道真は都を去る前に、自宅の梅の木を眺めて歌を詠みます
  東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花
  主なしとて 春をわするな

 

 

 

〇道明寺の別れ

 

 

 道明寺周辺は、菅原氏の祖先である豪族・土師氏の根拠地です。

 

 大宰府に左遷される道真が道明寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね
 鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の

  なからん里の暁もかな
 と詠み、別れを惜しんだと伝えられています。

 これは後に人形浄瑠璃や歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれます。

 

 

 

〇大将軍参拝

 

 

 さらに 大宰府に向う途中、大将軍社に道中の無事を祈願します。

 大将軍社は、現在 大阪天満宮の境内にあります。

 

 

 

〇配所の月

 

 

 右大臣としての都での生活と比べて、大宰府での生活は質素で、家も板屋根で 隙間から月の光が漏れることもあったと伝えられます。

 

 道真は 都を懐かしみつつ 失意のうちに大宰府での生活を送ります。

 

 

 

〇安楽寺

 

 

 大宰府で道真は失意のうちに亡くなります。

 

 棺を運ぶ途中、牛が路上に立ち止まり一歩も動かなくなったことから、やむをえず その場所を墓地とし、その地が安楽寺となりました。

 

 

 

 

〇都府楼全景

 

 

 

 

 

 

〇天神祭