2020年9月21日 真田信繁・大助父子を弔う心眼寺 真田丸メトロさんぽ(7)

 

 

 大阪メトロさんぽ 「玉造駅 真田丸」編のコースを辿って 早朝・観光RUNをします。

 

 

 

 コース中の ⑧真田丸顕彰碑をチェックしたあと、心眼寺にお参りします。

 

 コースも終盤です。

 

 

 

 

 心眼寺は安土桃山時代後期、豊臣秀吉のとき文禄年中に創建しましたが、冬の陣のあと取り壊され、1622年に真田家の先祖海野氏の助力により、大阪冬の陣の陣地跡(真田丸)に、真田幸村とその子大助の供養の為に再建されました。

 

 

 

 明星学園が真田丸跡地・・・・というのが有名になりすぎましたが、伝長寺から心眼寺の一帯も、もと真田丸とされています。

 現在の地形も これらの寺院から東側にかけて、下り坂になっています。

 反対側の明星学園も西側にかけて下り坂になっています。

 今回のコースを一回りすると、特に東西は地形を利用した防御ラインとなっていることがわかります。

 

 

 

 

 門前に 真田幸村出丸城跡の碑があります。

 

 後ろの仁王様と真田家の旗印と合わせて いい感じです。

 

 

 

 

 京都見廻組墓所の碑もあります。

 

 京都見廻組は、江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織です。

 主に 旗本・御家人やその子息を中心に構成され、浪士中心の新選組とは随分と違います。

 見廻組は御所や二条城など官庁街を管轄する一方、新選組は町人街・歓楽街を管轄していたそうです。

 

 石碑にある桂早之助と渡辺吉太郎は、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺(近江屋事件)の際の見廻組のメンバーとされていますが、そのわずか1か月半後に、鳥羽伏見の戦いで戦死して、心眼寺に葬られました。

 

 

 

 

 真田丸の説明の掲示もあります。

 明治18年の地形図での説明です。

 破線で囲まれているのが真田丸で、その中の右上の寺院が心眼寺などでしょう。

 等高線を見ても微高地ということがわかります。

 

 

 

 

 そして、境内には 真田信繁のお墓があります。

 

 2014年の信繁四百回忌に合わせて墓碑が建立されたそうです。

 

 

 

 

 墓碑の通り、信繁は、文禄3年(1594年)、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜されています。

 

 

 

 

 下の写真は、心眼寺の墓地です。

 上の説明文にもありますが、空堀方面との高低差がよくわかります。

 

 

 

 

 そして、東に移動して ⑨三光神社に到着します。

 

 「真田の抜け穴」で有名な神社です。

 

 

 

 

 

 次回につづく

 

 

 

 

 

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