懐かしの阪急ブレーブス選手カード1978(その4) 稲葉光雄、三浦広之、松本正志、上田利治

 

 

 

〇 稲葉光雄投手

 

 

 

 

 

 プロ野球選手というより、フォークシンガーの観のある稲葉投手です。

 

 が、落差の大きいカーブを武器に、パリーグの猛者を手玉に取るさまは、実は投手の頭数が必ずしも多くなかった阪急投手陣のなかで頼もしく、安心して見ることができました。

 

 中日との大型トレードで、島谷金二内野手・大隅正人内野手とともに阪急に移籍してきて、活躍します。

 

 それだけに、1978年の対ヤクルト日本シリーズ前に肝炎(だったと思います)で離脱したのは痛かったです(同じことを上田監督も講演会で言っていました)。

 1978年の日本シリーズは、このほかにも、山口高志投手・佐藤義則投手を故障で欠き、手薄な阪急投手陣は全7戦中5完投を記録したものの敗退します。

 稲葉投手も第2戦の最後に投げていますが、病み上がりには酷というものでしょう。

 

 翌1979年の近鉄とのパリーグ・プレーオフ第3戦では、西宮球場で、猛打近鉄を延長10回途中まで内野ゴロ併殺の間の1点に抑える力投(この後、山田投手に託すも味方のエラーで敗退)で、敢闘賞になります。

 

 

 

〇 三浦広之投手

 

 

 

 

 

 福島商高卒で、最後の夏の甲子園は、2回戦で山森雅文のいた熊本工業に延長11回サヨナラ負けだったと思います。

 

 同学年ルーキーの松本正志投手(東洋大姫路高卒)と合わせて、MMコンビとよばれました。

 実績を残したのは、三浦投手で、高卒1年目から4勝1敗と活躍します。

 

 翌2年目にも7勝10敗で、将来の阪急のエースと期待しました。

 また、当時阪急百貨店のスーツのモデルに起用されるなど、ルックスがよく、営業面でも期待されていました。

 

 ただし、その後けがもあり低迷し、サイドスロー挑戦などの報道もありましたが、入団6年で引退しています。

 

 近鉄の山口哲治投手(智辯学園卒)とは、同学年・同時プロ入団で、在阪球団ということもあり、とサンテレビの解説なんかでは、よく比較されていました。

 三浦・山口の投げ合いを一度見たことがありますが、結果は覚えていません。

 両投手とも、20歳前後の輝きを維持できなかったところは同じで、同じパリーグ関西球団として惜しかったと思います。

 

 

 

〇 松本正志投手

 

 

 

 

 

 1977年夏の甲子園で、坂本圭一投手の東邦高校を4-1で破って優勝投手になり、阪急にドラフト1位で入団します。

 

 新人の4月ころ、西宮球場の対クラウンライター戦で、一軍の試合の後、二軍の試合があり、松本投手が先発していました。

 

 また、その年の対ヤクルトの日本シリーズでは、最終第7戦、大杉選手の疑惑のホームランのあと、先発の足立投手をリリーフしますが、マニエル選手にホームランを打たれます。

 

 この後も毎年期待されますが、実戦で力を出すことができずに(一時期、催眠術なども施されていたらしい)引退します。

 それでも、プロ野球選手の年金の支給対象になる10年間阪急に籍があったのは、球団の温情もありますが、期待の表れでもあったのでしょう。

 

 三浦選手ともども、一軍で大成できなかったのは残念です。

 

 なお、東洋大姫路高では、松本投手の控えで出番がほとんどなかった宮本賢治投手が、ヤクルトで長く活躍しています。

 また、東洋大姫路卒で、阪急・オリックスに入団した選手は多く、弓岡敬二郎(松本・宮本両投手の一学年上)、葉室太郎、豊田次郎、長谷川滋利、松葉貴大がいます。

 

 

 

〇 上田利治監督

 

 

 

 

 

 選手としての目立った実績が無いにも拘らず、プロ野球の監督で実績を残した唯一の監督です。例外です。

 

 名選手必ずしも名監督ならず・・・・・という言葉はありますが、そもそも名選手でないプロ野球の監督なんてごくわずかです。

 

 関西大学から広島に入団します。

 が、関大は、弁護士になろうとして一般入試で法学部に入ったものの、高校野球の経験を買われて野球部に入部。

 村山実投手とのバッテリーで活躍します。

 関大時代は勉強でも首席だったという説もあります。

 プロ野球に行く自信は無かったようですが、野球がダメなら東洋工業の社員に・・・・と口説かれて広島に入団します。

 広島としては、将来の指導者として、上田さんを入団させたという説もあります。

 

 西本監督から、阪急監督を引き継ぐと、智と情の采配で、阪急を3年連続日本一、当時の最強チームにします。

 

 日本シリーズ4連覇をかけたヤクルトとの日本シリーズで、2勝1敗の後の第4戦、山田投手への交代を見送った結果、続投した今井雄太郎投手が、ヒルトン選手に9回表2死から逆転2ランを打たれた判断ミス、その年の夏に体調不良で休養した責任から、監督を退任します。(世間的には、第7戦の大杉選手の疑惑のホームランを巡る1時間19分の抗議の責任を取ったとされていますが、上田監督本人は、NHKの文化講演会で、前述の2点を退任理由にしていました。)

 

 その2年後、阪急の監督に復帰後は、松永浩美や石嶺和彦、山沖之彦らを育て上げ、1984年に優勝したほか、毎年のように上位争いをします。

 

 また、1990年代には、日本ハムの監督として、ビッグバン打線を作り上げ優勝争いに加わります。 

 

 ただ、惜しむらくは、1980年以降は、西武ライオンズの黄金時代であり、優勝争いに加わっても、勝ちきれなかった印象です。

 

 前期の通り、阪急監督退任後(NHK解説者になっていた)NHK文化講演会の語り口は上手でした。

 また、インタビューへの受け応えも歯切れよく、プロ野球に入団せず、普通に就職していても、経営者として相当の手腕を発揮していたと思います。

 

 

 

〇阪急ブレーブス野球カード1978

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