戦国時代の我が国の銀の産出量は、世界シェアの三割程度はあったと言います。

 

その日本の銀を巡って争ったのはスペインとオランダ。

これは、カトリッックとプロテスタントの争いでもあります。

 

スペイン生まれのフランシスコ・ザビエルはポルトガル国王ジョアン三世の依頼でインドのポルトガル領ゴアを拠点に各地で布教。その遠征先の一つインドネシアのマラッカで日本人ヤジローと出会い、彼を案内に1549年来日して、以来、我が国のキリスト教の布教に努めます。

 

むろんスペインとの交易もついて回ります。いや当時世界へ版図を広げるスペイン王国は、1564年フィリピンをスペイン領にしていますから、我が国を植民地にする意欲もあったでしょう。豊臣秀吉とキリシタン大名たちは、フィリピンを中継地とするスペイン、ポルトガルとの交易で潤いますが、徐々にスペイン人たちの人身売買(と同時に彼らのぼったくり)や侵略の意図を嫌気した秀吉は次第に距離を置くことになります。

 

天下分け目の関ヶ原の戦いの3年前、1600年4月。オランダはウィリアム・アダムス(後の三浦按針)、ヤン・ヨーステンを乗せたリーフデ号の難破をきっかけに、徳川家康との関係を築きます。家康はリーフデ号の積荷である大量の武器弾薬を没収した後、豊臣秀吉に報告します。

 

これを聞きつけた我が国のスペイン、ポルトガル宣教師たちはリーフデ号を海賊船とデマを流し、「イングランド人、オランダ人を即刻処刑せよ!」と。

 

カトリックの布教活動にプロテスタントの邪魔が入り、スペイン=ポルトガル連合による日本市場の事実上の独占が崩れることを恐れたのでしょうね。

 

実際アダムスらは、カトリックとプロテスタントの対立、スペイン=ポルトガルと、イングランド=オランダの対立などをつまびらかに家康に説明したそうです。

 

これを知った家康は、むしろリーフデ号の乗組員たちを保護します😎

 

1602年、オランダに東インド会社が設立され、泰西の植民地主義は、カトリックの国々の布教+交易+軍事侵略→植民地化のビジネスモデルから、プロテスタント勢力の交易+軍事侵略→植民地化のモデルにシフトしてゆきます。カトリックは、コストとして重かったのでしょう。1517年ルターに始まる「宗教改革」のひとつの理由であるカトリックの「秘跡」(教会のみに委ねられた儀式)利権から解放されたのがプロテスタントですから。

 

そして1603年、秀吉の死後、我が国の執権を握る史上最大の合戦、「関ヶ原」を迎えます。

 

家康の調略を主とする事前の根回しにより、美濃関ヶ原に東西約二十万の軍勢が集結し我が国を二分する戦いは、一日もかからずに東軍の勝利となります。

 

その背景には、リーフデ号に積まれ徳川方が得た兵器弾薬の存在も影響を与えたと言われます。

 

関ヶ原に勝利した家康は、豊臣家と豊家恩顧の大名の処分に着手します。一方で融和策を、もう一方で戦争準備を周到に進めますが(学校では豊臣イジメしか教えませんね)、豊家恩顧の勢力も反徳川の活動を強めます。その背後にはもちろんスペインも存在します。

 

大阪の陣の折、大阪城籠城にはスペイン人宣教師やキリシタン牢人も加わっています。それは豊臣方が、徳川打倒の後には布教を認めるという約束をしたためとされます。秀吉はキリシタン排斥を強めていたため半信半疑ではあったでしょうが、まだ力を残すキリシタン大名も残り、プロテスタント国と繋がった徳川勢に対抗し、日本でカトリックとスペインの勢力を維持するためには、賭けであっても大阪城に集結するのは自然な流れでもあったでしょう。衰退の兆しを見せてはいましたが、スペイン人には当時もなお、世界最強のプライドもあったでしょうから。

 

大坂夏の陣ではそんなこともあり豊家恩顧=スペイン勢は健闘し、徳川勢は苦戦します。

 

一方、家康は、かねてからの戦争準備のなか銀山の開発に注力します。オランダやイングランドは、交易に布教の許可を要求しませんから取引相手としては、宗教勢力の伸張による国内分裂リスクはない。混乱の根を排せたのです。家康もまた武装仏教勢力には手を焼いた苦労人です。その代りと言っては何ですが、オランダは決済手段として銀を要求しました。おそらく莫大な銀の量で、今でいうぼったくり、不公正貿易に相当するのじゃないかと思いますがね。そして、かの有名な最先端の強力大砲、カルバリン砲4門、セーカー砲1門、半カノン砲12門をオランダから購入します。

 

カルバリン砲はエリザベス一世のイングランド艦隊が、スペインの無敵艦隊を破った大砲として知られます。

 

冬の陣、大阪城の城攻めにおいてこれらの大砲がどれだけ活躍したか。決定的だったという説と、そうでもなかったという説の両方があるようですが、長射程のこれらの大砲が、当時あり得ない距離から打ち込まれた大阪城内の動揺は、いかほどのものだったでしょう?淀殿は狼狽を隠せなかったそうです。

 

日本の戦国時代の終焉には、初期グローバリズム、スペインとオランダの争い、カトリックとプロテスタントの争いが影響を落としていて、徳川家康はリーフデ号の遭難を奇貨として、敵の敵を用いて我が国へのスペインによる侵攻、キリスト教の侵食を止めたという視点も、これまでの歴史理解に加えることができるでしょう。

 

この後、この取引で莫大な銀を得たオランダは、1610年、帝国主義の嚆矢たるオランダ連合東インド会社として、権益を求めてスペイン領フィリピンを攻め始めます。フィリピンにおけるスペイン後退が始まります。

 

そしてスペインは、彼らと敵対するオランダ=イングランド、プロテスタントという勢力、つまり敵の敵を日本が使うことを恐れたでしょうね。同様に独占貿易の地位を与えられたオランダさえも、日本の底力を恐れたでしょう。

 

大航海時代以来のスペインの大躍進は、現代に世界12億人と言われるカトリック信者をレガシーとして遺しています。辺境保存の法則、を思い出しますが…

 

一方、我が国は、徳川家康の戦略によって我が国独特の宗教観(そしてその背後にある國體)を現代まで、(かろうじてかもしれませんが)保存し、引き継ぐことに成功しています。

 

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リブログ先の『徳川日本は世界的な軍事強国だったから、大国スペインを排除して鎖国ができた』と合わせて、こんな話を添えると面白かろうと思い、書いてみました。

 

ことに劣勢の豊臣勢がスペインと組んで万一勝利すれば、最悪外国支配に陥った可能性もなきにしもあらずです。宣教師たちとの約束を守っても反故にしても、同じでしょう。徳川家康と、その後、厳しい制限貿易・保護主義化した江戸幕府の安全保障政策は、スペインに支配されたフィリピンや南米などのその後の歴史を見れば、誤りとはいえない、いや国防・安全保障の観点からもっと評価されて然るべきでしょう。

 

ぜひ今の政治家の姿勢と比べてみてください。時代が異なるので政策は直接比較できませんが、姿勢や気概ならば比較できるでしょう。

 

そして、いまだに江戸時代真っ暗ら史観や、現代の視点からケチをつけずにいられない人々が後を絶ちません。彼らは幕府と民衆の関係のみを言い立てて、外国の強欲と侵略を見ない。

 

そうした人々の性根は推して知るべしでしょうね。

 

 

幸魂奇魂守給幸給クローバー