NHKの大河ドラマが『西郷どん』となって、中央公論社は中公文庫に収録されている『城下の人−−石光真清の手記』の新編を売り出していたのを、さっき知った。

 

『西郷どん』はみる気がしないし、まだ観ていないけれど、『城下の人』の新装再発は、まあ、嬉しい便乗商法である。ちなみに去年の11月には書店に並んでいたそうだ。

 

 

Amazonの「Book」データベースでは次のように紹介されている。

明治元年に生まれ、日清・日露戦争に従軍し、満洲やシベリアで諜報活動に従事した陸軍将校の手記四部作。第一部は、故郷熊本で西南戦争に遭遇した後、陸軍士官学校に入り、日清戦争に従軍するまでを綴る。未公開だった手記『思い出の記(抄)』及び小説『木苺の花』を併せて収録する。

そうか、”新編”というのは、未公開の手記を加えたことだったか。買わなくちゃ、とこの本を読んで感銘を受けた読者は思うだろう。

 

西郷隆盛との接点は、西南の役の断片である。

 

『城下の人』は、”名作”との誉れ高いが、フィクションではない。手記や日記、昔語りをまとめた、ドキュメンタリーである。

 

「光輝ある年に生まれた」という慶応4年、つまり明治元年に生まれた一人の明治人の半生で、読めば万感こみあげて筆舌に尽くしがたく、その点も「名作」という賛辞は異なるものに思えるのである。人の生涯とそれを取り巻く歴史にたいしての賞賛として、なにやらふさわしからぬ。数奇なこと非凡にして痛烈な生涯を記した名著であることには間違いはない。

 

手記の主(あるじ)である石光真清(いしみつまきよ、1868-1942)は、司馬遼太郎の”名作”『坂の上の雲』の主人公、秋山兄弟の弟、秋山真之(1868-1918)と同い年である。共に下級武士の出であること(石光は熊本藩、秋山は松山藩)、そして陸海の別はあるけれども共に士官学校を出た将校である。

 

だから『坂の上の雲』の時代の、石光真清の眼を通した実像が見える読み物なのである。そして石光は、ロシア留学を志して武人から諜報員、つまりスパイとなって大陸に渡る。しかもあるときから、諜報活動を全うするため自ら軍籍を離脱し、今でいうボランティアとして私費で、国に奉じるための諜報活動を続ける。

 

幼い日々に間近で見る、明治政府に対する士族の反乱、「神風連の乱」と、西郷隆盛の「西南の役」。少年時代の真清は散髪佩刀に悲憤慷慨していた。

 

自分のざんぎりの丸腰姿が、まるで刀を奪われた捕虜のように惨めに思われた。 考えてみれば、西洋文化のために、意気地なく捕まった捕虜に違いないのである。 私は往来に出るのが恥しく邸内にとじこもっていた

 

そして、西南の役、熊本城陥落を試みる薩軍の陣地を探検した際には、

 

 「私たちはお城の陥落するのを見たいのです。お城を攻めるには祇園山を一番先に占領して、大砲を打込めば、お城は難儀すると、加屋先生が申されました」

 「加屋先生とは誰か」

 「神風連の先生です。 去年の秋、党人と一緒にお城に斬り込んで戦死されました」

 「ああ、加屋霽堅先生か。 そんなことを申されたか」

 「小父さんも、薩摩の将校でしょう」

 その人は私のぶしつけな質問に、私の顔を見詰めた。

 「わしは村田新八じゃ。 お前たちは中々の元気者だな。 きょうはこれでお帰り」

と大砲陣地の方へ去って行った。 『村田新八、村田新八』私は口の中に何回も繰り返しながら後姿を見送った。 この日もとうとうお城は落ちなかった。 

(《城下の人 戦場の少年たち》P.102~103)

 

熊本県の桜山神社 加屋霽堅(1836-1876、かや はるかた)ほか神風連の烈士が祀られている。

 

西郷をして「村田新八は、智仁勇の三徳を兼備したる士なり。諸君宜しく斯人を模範と為すべし」と言わしめ、勝麟太郎(海舟)には、「彼は大久保利通に亜(つ)ぐの傑物なり。惜哉(惜しきかな)、雄志を齎(もたら)して非命に斃(たお)れたることを」と評された男との、刹那の対話が描かれる。村田は西郷の死を見届けたのちさらに進撃し、官軍に追い詰められ自刃して果てる。真清が12歳くらいの頃である。

 

この真清を育てた父は、江戸時代の人である。下級武士の出ながら学才により出世し熊本藩の産物方頭取となった石光真民(いしみつまたみ)がその人で、洋学を学ぶ真清の兄たちが、和学を下に見るさまをみて次のように諭している。こんな教育を受けたかった。

 

「洋学をやるお前たちとは学問の種類も違っているし、時代に対する見通しも違うが、日本の伝統を守りながら漸進しようとする神風連の熱意と、洋学の知識を取入れて早く日本を世界の列強の中に安泰に置こうと心がけるお前たちと、国を思う心に少しも変りがない」

<中略>

 「いつの世にも同じことが繰返される。時代が動きはじめると、初めの頃は皆同じ思いでいるものだが、いつかは二つに分れ三つに分れて党を組んで争う。どちらに組する方が損か得かを胸算用する者さえ出て来るかと思えば、ただ徒らに感情に走って軽蔑し合う。古いものを嘲っていれば先覚者になったつもりで得々とする者もあり、新しいものといえば頭から軽佻浮薄として軽蔑する者も出て来る。こうしてお互いに対立したり軽蔑したりしているうちに、本当に時代遅れの頑固者と新しがりやの軽薄者が生れて来るものだ。これは人間というものの持って生れた弱点であろうなあ……」

 

石光真清の原点の一部をかいつまんで紹介したが、この『城下の人』は冒頭の紹介通り四部作で、1作目が幼年期の神風連、西南戦争から日清戦争従軍、そして2作目の『曠野の花』では義和団事件、満州の馬賊の美しくたくましい日本人妻との交流、『望郷の歌』では日露戦争、『誰のために』はロシア革命を描く4部作になっている。『城下の人」のラストには、こんなことが書かれている。

 

この留学地ブラゴヴェヒチェンスクが、清国市民大虐殺の惨劇地になり、これをきっかけに怒涛のようにロシア軍が全満洲に殺到して、ついに私自身もまた東亜の大戦乱に巻きこまれてしまった。 私はこの地に留学するについて、特別任務を志願したわけではなかった。 しかし歴史の流れ、時のゆきがかりは、疾風のように私を巻きこんでしまったのである。 私を馬賊の群に投げこみ、女郎衆を友として、ある時は苦力(クーリー)に、ある時は洗濯夫に、またある時はロシア軍の御用写真屋になって全満洲に辛酸の月日を送ろうとは、夢にも思わなかった。 それを考えると、歴史の起伏のうちに漂う身一つは、黒龍江に流れる枯葉一葉にも当らない思いがするのである。 

(《城下の人 夢と現実》P.329~330)

 

本の宣伝のようになってしまったけれど、大げさでなく、明治人とは、日本人とは何か、武士道とは、軍人精神とはどんなものだったのか、明治維新と日本の近代化は何をもたらしたのか、あの当時のシナはどんなところだったのか、ロシアの脅威はどんなものだったのかについての生々しい話に満ちている。そして、日本人であり武士であるという意識が自覚的にも無自覚にも心に染み付いた一人の男が、あの激動の時代にどのように翻弄されたのか。

 

この本については、先達たちの優れた書評が溢れているので、興味のある方はGoogleで検索いただきたい。またAmazonのユーザー・レビューを読むだけでもためになる。その多くに共通して、”くま”もまったく同感なのだけれども、司馬遼太郎が作った維新と明治のイメージとの対比において、本書に触れれば、確実に違う視座が生まれることは間違いない。司馬遼太郎を否定はしない、だが一人称で、公表をもくろまずに語られる歴史の断片には、いわくいいがたい迫力がある。”くま”は愛国者であるけれども、明治維新に、現代の政治にまで続く薩長土肥の一部のやりたい放題に、少々の忸怩たる感慨を持っていて、くすぶっている。そして日本人の美風について、もっと光が当てられて良い部分があるとも。

 

この石光真清の息子で編者の石光真人による『ある明治人の記録 −− 会津人柴五郎の遺書』もぜひ読んでいただきたい。会津人柴五郎は後に陸軍大将となるが、下記は戊辰戦争で祖母、母、妹を失ったことについて書かれている。『城下の人』と併せて、日本人必読の書ではないかと思う。

 

ああ、思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、如何に余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慙愧に絶えず、思いおこして苦しきこと限りなし。

 

『ある明治人の記録 −− 会津人柴五郎の遺書』(中公新書)

 

できれば『坂の上の雲』と読み比べてみてほしい。

 

森麻季、"Stand Alone"(2009)

 

 

 

Good Luckクローバー