いろはがるたに「論より証拠」とあるが、本当だろうか。

 

前にも言ったが、昔はのがれぬ証拠というものがあった。それさえ突きつければ、お尋ね者は神妙にした。

 

今はそれを突きつけても、恐れいらない。それどころか、食ってかかる。

 

六〇年安保では、女子大生の一人が死んだ。不謹慎なことを言うようだが、その死は野次馬を喜ばせた。

 

野次馬は事あれかしと待つものである。あれだけの騒動だもの、十人や二十人怪我人が出ると期待して、やっと死人が出たから満足した。

 

満足したくせに、今度は可哀そうだと同情して、満足した自分を忘れ、同情した自分を本当の自分だと、いい子になる。これが野次馬の常である。

 

はなはだしいのは、泣く。その涙はそら涙で、浪花節だと言うと怒る。怒るから言わない。言わないからその涙は本ものとして通用する。そして、しばしば野心家に利用される。

 

けれどもフランス革命の昔、日に何人、何十人、首をきられるのを見物したのは、この野次馬だった。こわいもの見たさで、はじめ目をおおい、ついで目をみひらき、しまいには狂喜して、ことに婦人は歓声をあげたという。

 

今これが信じられぬのは、自分の内心を見ないからである。残忍の例はフランス革命以下、山ほどある。

 

安田講堂の騒ぎのとき、私はそれを思い出した。テレビを見物中の野次馬は、手にあせにぎって期待したが、たいした事故がなかったから、がっかりした。あれば可哀そがって、再びいい子になっただろう。

 

テレビは、全国の野次馬に見せるものである。何百万の見物が、野次馬でない道理がない。一人倒れれば、カメラは勇んでかけつける。見物は可哀そがる。十人、二十人、五十人になれば、次第になれっこになって、ついに歓声をあげる。

 

再び不謹慎だと、立腹する人もあろうが、立腹する前に自己の内心を見てくれと、私は頼むよりほかない。

 

女子大生が死んだとき、野党はただちに声明を発した。殺したのは警官だといった。あのどさくさのさいちゅうである。なんの証拠もありはしない。ただ「てっきり」と思っただけである。野党にとっては、警官が撲殺してくれなければ面白くない。

 

あとでふみ殺したのは同じ仲間で、警官ではないと一転したが、やがてそれはくつがえされ、いまだに落着しない。互いに証拠をあげ、互いに否定し合っている。

 

羽田事件では、学生が学生をひき殺したと、はじめ言われたが、これも、のちにくつがえった。

 

よしんば、運転してひき殺したのは学生だとしても、学生をしてここに至らしめたのは国家権力だから、殺したのは権力であるという説がある。それを信じると信じないもので、わが国は二分されている。

 

論より証拠というけれど、証拠より論である。論じてさえいれば証拠はなくなる。

 

これはすこぶる好都合である。いつ、いかなるときでも、我々は恐れいらないですむ。

 

ただし一人ではいけない。徒党してがんばらなければいけない。がんばれば大ていの証拠はうやむやになる。そのよしあしは、むしろ各人お考えいただきたい。証拠より論の時代は、当分続く。

 

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山本夏彦(1915-2002)

「論より証拠というけれど」、『毒言独語』収録(中公文庫、1980年初版 -- 昭和46年(1971年)代に「週刊朝日」で連載されていたコラム集)

 

まだ早春の道の駅「南きよさと」は鯉のぼりでいっぱい。2018年4月1日撮影。

 

「学生をしてここに至らしめたのは国家権力だから、殺したのは権力であるという説がある。それを信じると信じないもので、わが国は二分されている」…で、二分されている両側に野次馬がいるわけですな。

 

メタに言えば、大衆迎合主義的ポピュリズムと印象操作、そして野次馬たる無責任な大衆。そしてそのはしたない相互依存について、平易な言葉で批判して厳しい。”くま”も、昨日まではけしからんと思っていたものが、今日になって哀れになる。内なる野次馬ゴコロの移ろいは、笑えませんな。

 

自分を見つめ、他人を見つめて経験を積むと、生きているあいだの変節は日常茶飯で、コロコロ変わって激しい人をオポチュニスト(機会主義者)なんて言ったりします。オポチュニストに徹するのも難しいし、さりとて、一生を貫く信念を得るのも、また難しい。”くま”のような凡人はそのなかで揺れ動いてきましたが、やっとこさ半世紀くらい生きて、なんとなく大切なものがわかりかけてきました。

 

ビジネスをやっていれば、目的や利益は、じつは隠すのが世の常です。だから世の中を見るときに人物を見ても、表面的な言説をみてもあまり当てにならない。とくに、世間体の立派な人ほどわかりにくい。政治家・官僚・財界人、セレブたち…、TVで見る人たち。すぐに、こらアカン、という人もいますが、そちらの方が希で、多くはなかなか尻尾は出さないし、尻尾を見つけるにはそれなりの勉強が必要です。

 

ただその尻尾の善悪・価値はわかりません。棺桶に入って、良い話、悪い話が出尽くして、さらになお、歴史的に、あるいは伝統的にどういう意味合いがあったのか、そしてさらに「理法」とか「道」とかに適っていたのか、…というのは歴史を見れば明らかな通り、わかりません。人事は棺を蓋うて定まる」というのは、いくつかの例外を除いて、ウソですね。「歴史は勝者が作る」のですから。

 

いま、野次馬には、モリカケ騒動で、昭恵夫人が吊され、柳瀬秘書官に石つぶてを投げ、安倍首相のクビが落ちるのを見たくてたまらない派と、そうでない派がいて二分されています。マスコミや一部の国会議員にも、与野党の別なく、煽る者がいます。活動家の方々、ご苦労様です。

 

退陣を要求する側が、清廉潔白、聖人君子な訳でもなく、また実務能力をもっているわけでもない。きついことを言えば、シナ・朝鮮・ロシアと結びついた敗戦から連綿と続く反体制勢力が中心です。リベラルとか社会主義とかの綺麗事をいまだにまとっていて、野次馬筋を喜ばしているようですが、中身は、私欲丸出しの日本簒奪勢力です。だから、ここには絶対に力を持たせちゃいけない。

 

ともあれ一方の体制側も、まあ、あのていたらくです。親米・グローバリズムもいい加減にしてほしい。安倍政権は、小泉政権のカヴァーです。ではありますが、企業・資本家と、今生の社会的強者がバックについているから、内部での権力争いはあるものの、しばらくは強いでしょう。一説には小泉政権のあと少し混乱して民主党になったのは、役所が自民党を嫌ったからだと言います。自民党も、保守本流の皮をかぶった、強欲自由主義者の集団が大勢を占めている。憲法改正と拉致問題はきちんとやって欲しいものです。
 

「論より証拠」ではなく、「証拠より論」ならば、安倍政権擁護派は、敵陣がどんなに証拠を提示して揺さぶろうとも、動じないこと。ブレないこと。そして野党や新聞を徹底的に叩いて敵陣を揺さぶること。また、敵方の破滅に下衆な野次馬根性を出さないこと。これに尽きます。そもそも証拠としては弱いものばかりで、攻める側の方がすねに大きな傷を持つ。役所においても、おそらく一部の勢力の尻馬に乗った者たちが、なにやら捨て身の構えで動いていますが、なに、気にすることはない。自縄自縛が待っています。おっと、「証拠より論」でいけば、自縄自縛はお互いさまで、世界中がそれですけどね。

 

こうした現状許容的な考え方と態度には、やれ独裁だ、やれ全体主義だという誹りが登場します。なに、気にすることはありません。敵方もファシズムで、全体主義の人たちですから。むしろ彼らの徒党の中での権威主義と、同調圧力の強さ、言論統制の方がひどい。全体主義を支えるのは、内なる野次馬根性と「悪の凡庸さ」(H.アレント)、そして英雄・天才待望論ですよ。

 

こういう姿勢は、ニヒリズムと言われていますが、そうでもないです。

大丈夫。日本人が、自らの歴史的価値観に立ち戻れば。

 

この150年ほど、血迷っているだけです。

 

 

 

Enigma, "Sadness"(1990)

 

 

 

 

 

Good Luckクローバー