自分の目で見よ、他人の目で見るな、という。自分の言葉で語れ、他人の言葉で語るなという。

 

そして自分で考えよ、となが年学校で教えるから、生徒も親もまにうけて、それが可能で、げんに自分の目で見て、自分で語っているつもりでいるが、そんなこと、できない相談である。

 

その証拠に吉田茂氏の評価が、短時日に一変したことをあげたい。何度かあげたので気がさすが、本誌には初めてだから許していただく。

 

彼ほど在任中悪くいわれた首相はない。いわく、自分を臣・茂と称した。大学教授を曲学阿世の徒と評した。労組の幹部を、不逞のやからと罵った。

 

以下略すが、毎日悪口雑言をあびせられ、それが何年も続いたから、ついには本ものの犬畜生と思われるまでになった。

 

当時、彼を弁護するのは危険だった。袋だたきにされた。それが一変して、歴代総理中の第一人者になった。チャーチルに比肩する宰相、機知と諧謔にみちた座談の名手になった。死んだらマスコミは泣けといって、テレビは泣いている市民をうつした。

 

あの泣いた人は、以前罵った人である。全く同一の人物である。してみれば、まじめ人間は、笑えといわれれば笑い、泣けと命じられれば泣くものとみえる。

 

これを「善良な市民」という。善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば殺すものだ。

 

それでいて、今の哀悼がうそであること、以前の冷笑がうそであるがごとしというと、食ってかかる。

 

今の涙も以前の笑いも、ともに本気だといのか。そもそも本気とは何か考えて(自分で)みたことがあるのか。

 

泣け、または笑えと、新聞またテレビは繰り返す。読んで、また見て人は喜んで支配される。選択を許さぬというより、善男善女は選択する能力がない。また選択することを欲しない。それを新聞は承知している。

 

敗戦直後まで、アメリカ人は鬼畜だった。直後は正義と人道のモデルだった。共産党でさえマ司令部の前で万歳を三唱した。今はベトナムを、ソンミを、沖縄を見よ −−−− 再び鬼畜である。その評価は情報の多寡できまる。まだきまらなければ繰り返せばきまる。

 

人は他人の目で見て、他人の言葉をおうむ返しに言う動物である。自分の考えと自分の言葉をもつものは希である。

 

そしてこの世は、他人の言動に従う無数と、従わぬ少数とから成っている。無数は進んで従ったのだから、強いられた自覚がない。

 

それにもかかわらず大衆は、自分が凡夫凡婦であることをひそかに承知して、ほとんど絶望している。だからある日突然、天才が出現してくれるのを待っている。ヒトラーもスターリンも、今は犬畜生だが、以前は神人か天才だった。天才なら仰いで一言もなくついて行けば、どこかへつれていってくれる。そこはいいところに決まっている。

 

自分の考えもなく、言葉もなく、晴れてみんなで追従できるのだもの、こんなうれしいことはない。万一しくじっても、それは天才のせいで、凡夫のせいではない。

 

昔なら英雄豪傑、今なら革命家の出現を、いつも、彼ら(また、おお我ら)は待っている。待っていれば、いつかは必ずあらわれる。私はそれをとがめているのではない。とがめて甲斐のないことだから、ただ無念に思っているのである。

 

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山本夏彦(1915-2002)

「大衆は大衆に絶望する」---『毒言独語』収録(中公文庫、1980年初版 -- 昭和46年(1971年)代に「週刊朝日」で連載されていたコラム集)

 

 

吉田茂(1878 - 1967)

 

 

「”臣・茂”と称した」、「曲学阿世」、「不逞の輩」と言ったと騒いだのは反体制左派たちだった。このコラムが書かれた70年代は朝日新聞、岩波書店、日教組ほかが全盛の頃である。東京都はマルクス主義者の美濃部亮吉が都知事を務めていた。まだ新聞とテレビの天下で、「戦後民主主義」による思想統制が、いまよりもずっと苛烈だった時代。「朝日ジャーナル」を小脇に街をあるく学生が裕福なインテリに見えた時代。

 

コラムは左翼だけではなく、大衆に喧嘩を売った。コラムはおおむね人の世の悪癖に絶望していて、この文章をあの頃に書くことは、さぞやの苦労と覚悟と良心が偲ばれる。いまなおこの文章を読んで、抵抗心がむくむく沸き上がる人はいるだろう。善男善女を敵に回していて図星だから。

 

ちなみに吉田が「曲学阿世の徒」と形容したのは、当時の政治学者で、東京大学総長南原繁(1989-1974)である。南原はソ連も含めた国連中心の全面講和を主張した。それに対して吉田は、「南原総長らが主張する全面講和は曲学阿世の徒の空論で、永世中立は意味がない」(1950年5月3日毎日新聞)と、米国を中心とする単独(半面)講和に舵を切った。

 

南原は、旧制一高時代の校長が新渡戸稲造で影響を受けつつも、内村鑑三の弟子でキリスト者であり、教え子には丸山眞男がいる。伝わるところによれば、南原は紀元節には必ず日の丸を掲げたと言う。同時に、労働組合法の草案作成に関わり労働組合に近く、皇室典範改正に関わった際には、「天皇の自発的退位」を条項に加えることを主張していた。あまりよくわからない人なのだが…、言えるのは「新日本文化の創造」を説く革新・進歩主義者だった。少なくとも当時、「全面講和」はそのあたかも平和的美名によって支持されたが、内実は、共産主義ソヴィエトや、不法在日外国人勢力に利するものだった。だから朝日、岩波が大声で主張した。しかも全面講和まで日本を連合軍の占領のままにしておくという。単独講和は、以降明確になった冷戦と、朝鮮戦争で妥当性が証明される。

 

「不逞の輩」と言ったのは、次のようないきさつである。

 

1947年(昭和22年)1月1日、総理大臣の吉田茂は年頭の辞でこう挨拶した。勅選議員として選挙を経ずに首相となっていた第一次吉田内閣最後の年である。この後、日本社会党に政権を一度は奪われる。

政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。

 

しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。

 

出典:wikipedia 「二・一ゼネスト」

 

それは、その前年11月に行われた「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」での日本共産党の当時の書記長、徳田球一の演説に向けられていると言われる。そしてそれを取り巻く労組の幹部も加わる。戦前46万人だった労働組合員が、敗戦の貧困・飢餓のため官民合わせて260万人に膨れ上がっていた。

 

「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない」

 

出典:wikipedia 「二・一ゼネスト」

 

さらに、徳田は、翌月の12月、朝鮮人1万人が朝鮮人への物資の優先配給を求めて、首相官邸を襲撃した事件にも加わっている(「首相官邸デモ事件」…なんと本質から離れた名称だろう。これは暴動ですよ)。徳田以下の目的は、日本の早期復興ではなく、共産化だった。そして朝鮮人他日本征服を企む外国人たちと結んでいた。むろんコミンテルンの指示も。さすがにこれはGHQが暴徒を鎮圧する。その後首謀者は占領軍によって強制送還されるが、1万人のうちたった15名である。

 

しかしこの頃まで、徳田は占領軍のことを「解放軍」と呼んでいて二・一ゼネストまではGHQと仲がよかった。「共産党でさえマ司令部の前で万歳を三唱した」というのは、そういう背景もある。国体護持・復旧派は、GHQにとって対立する部分があって、共産主義者はそこを「敵の敵は味方」として利用しようとした。おそらくお互いに。


吉田の「不逞のやから」には、同じ年の1946年のメーデーに起きた「プラカード事件」も視座にあっただろう。当時の田中精機という企業の組合員で、共産党活動家が書いて掲げたものである。

 

「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)

 

出典:wikipedia「プラカード事件」

 

吐きそうになるほど穢らわしく忌まわしい言説である。さすがに不敬罪に問われた。ポツダム宣言と不敬罪の適用の関係で、この判例は法律学の教材としても使用されることがあって有名な話だが、これは占領軍GHQの意向により天皇の特殊な身分を認めるため不敬罪の適用は拒否され、名誉毀損が問われ有罪となる。しかし、その後の新憲法制定で、恩赦となる。

 

GHQは、日本を明治以来の国体護持・復興派と、革新的国体破壊派の2つにわけ、後者は火事場泥棒的日本征服を企む朝鮮人・シナ人に手伝わせて、Divide & Rule(「分割して統治せよ」)を地で行っていた。おかげさまで、70年経った今でもそれで苦しんでいる。ありがたくて涙が出る。

 

むろん陛下は美衣飽食なぞなさるわけがない。「世の中には住む家のない人もあるのに、私にはこれだけのものがあるのだから」と、防空施設でもあり堅牢だが異様に湿気多く換気の悪い「御文庫」に住まわれ、10年前の背広を着、粗食に耐えていた。吹上御所に移られたのは敗戦から16年後のことである。

 

戦前、「不逞鮮人」(ふていせんじん)という言葉があった。「排日鮮人」、「怪鮮人」もあって、朝鮮併合に抵抗する朝鮮人の過激派の総称だった。関東大震災の頃、不逞鮮人への反感はピークに達したが、次第に沈静化する。吉田の言葉はそれを意識し、また思い出させるものだったかもしれない。官邸襲撃などはテロルである。反逆罪と戒厳令モノである。こうした者たちは「不逞」どころではないように見えるけれど、吉田は「不逞の輩」で済ませた(安倍首相は「こんなひとたち」だったね)。

 

最近、三浦瑠璃さんが「スリーパー・セル」発言で叩かれていたが、この当時のスリーパー・セルが三代かけて繁殖していて、彼らに不都合だから叩かれる。あの袋叩きぶりは異様だった。だって、存在していたんだもの。

 

余談だけれど、吉田は徳田の人柄は買っていたと言う。徳田は吉田に政治献金している。人情なのかね?あるいは利用価値のある対抗勢力だったのか?-- 吉田は、戦前は、英米派で戦線拡大反対論者で不遇をかこった人でもあった。あの岩波書店創設者の岩波茂雄だって、右翼の巨魁、頭山満に心酔していた。岩波書店が赤くなったのは、茂雄の死後の雇い人たちのせいである。頭山は、アナーキスト(アナルコサンディカリズムだけどね)の大杉栄にカネを支援していたりもする。維新以降の日本の「人物」たちは一筋縄でいかない人ばかりなのである。おそらく江戸も、それ以前もそうだっただろう。

 

吉田は「臣・茂」で国体護持の姿勢を表明し、アカデミアやマスコミ、労働組合・政治運動に隠された、共産主義(唯物論)・進歩主義、その中に巣食う「不逞」外国人の存在をレトリックによって指摘した。それが精一杯だったのか、手ぬるかったのかはわからない。少なくとも、その中で生き残り膨れ上がった、共産党と「容共」(共産主義の容認)した日本社会党、弱った日本人から略奪した特亜、そして戦後の偽リベラル日本人のなれの果ての勢力の正体は、吉田が「曲学阿世」、「不逞のやから」と称した者たちと同一である。しかし、その者たちは敗戦で弱った日本人の心に付け入って、それなりの成功を収める。

 

そう読めば、在任中の「犬畜生」と、引退後の「賞賛」は、さらに苦味を増す。

 

そしてアメリカは、この一連の労働組合事件で、共産主義の危険に目覚める。アメリカの反共運動・共産主義弾圧運動は「マッカーシズム」(マッカーサーの名前に由来する)である。アメリカの「レッド・パージ」はエグかった。日本でもやればよかったのに。戦前の日本は世界の人種差別撤廃に火をつけ、戦後の日本は世界に共産主義の恐怖を気付かせた、…という感じでは、日本はずっと世界を揺さぶり続けている。おっと、脱線。

 

吉田茂と、後に作られた自民党のすべてが良いとは言わない。あきらかな失敗や懈怠と思われるものもある。農地改革や、ダレス国務長官の再軍備のオファーへの取り組みなど、素人目にももっと良い立ち回りの機会があったように思える。その後、自民党が次第に「阿世」「不逞」の勢力に侵食され、与野党が共依存関係に陥って、質的低下を招いたのはご覧の通りである。


敗戦によって、つかの間の軍国主義(あれは、軍国主義と言えるかどうか疑問で、独裁者もいない…)に失望し、大日本帝国に失望し、薩長土肥の藩閥政治にあったかねてよりの失望を深め、目の前の空腹や物不足に苦しんで、それがために共産主義や社会主義、あるいはキリスト教、あるいは欧米リベラルが、神々しく見えた者もいたのだろう。敗戦で傷ついた大衆のなかの多くは、それらを”天才”であり”英雄”といただいて、肯定することにした。

 

そこに、占領軍/GHQも独善的なリベラリズムの押し付けと共に、復興日本の利権を巡って跳梁跋扈する火事場泥棒的・戦勝略奪的商人が蠢いていた。無論、シナ・朝鮮の不法移民・火事場泥棒略奪勢力が乱暴狼藉と、ヤミ物資で揺さぶる。さらに欧州で勃興しソヴィエトで勢力を増す共産主義の影響が火に油を注ぐ。すると、次のような”大衆”が生まれる。

 

「大衆人は、寛大でもなく他人の見解を傾聴もしない。彼は直接行動によって活動する、すなわちただ単に彼の意見を押しつけ、彼の卑俗な見解に対立するすべてのものを破壊する。それはリベラルな人間に最も正反対のことである。彼はすべての他の人々に生の画一さを主張し、どんな種類の高貴な存在をも荒廃させる人間タイプ(類型)なのである」

 

オルテガ社会思想における大衆とエリート -オセース・ゴライスの見解-』、長谷川 高生、近畿医療福祉大学

 

オルテガを深く研究したオセース・ゴライスという学者は、上のように書いた。無論、こうした「大衆人」は左右両極に存在する。だが、日本の敗戦の混乱の背景を考えれば、リベラルの皮をかぶった日本侵食・簒奪勢力である左翼に肩入れする気にはならない。

 

3万には到底至らないだろうな…うそばっかりw

 

 

吉田茂とその周囲がなんとか国体護持の体裁を整え、山本夏彦が振り返ってコラムを書いた時からさらに時が進んで、いま、事態はいやらしくなったと感じている。

 

いま、長く世の中が安定して、左右も、保革も、リベラリズムもナショナリズムも、中身は空洞になった。勢力 and/or ポジション争いだけが残っている。勢力争いは、思想や正義の争いではない。利権獲得の争いであって、アタマにあるのはカネと地位と、あとは…「色」かねぇ?…ばかりにみえる。だって、モリカケから役所の不始末まで、反体制派の印象操作のツッコミどころのキーワードは「やりたい放題」(笑 自分たちだってそうだったくせに。

 

本当は、山本夏彦が指摘した「大衆に絶望する大衆」が生む、きょうびのナントカ信者とか、インフルエンサーとか、カリスマとかの話も書きたいと思ったのだけれど、背景を描いただけでそうとう長くなったので、また今度。

 

 

 

Eric Clapton, "Better Make It Through Today"(1975)

 

 

ディック・シムズのレスリー・スピーカーをうまく使ったハモンドが冴えるブルース風バラッド。

 

 

Good Luck クローバー


 

 

 

 

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