茶懐石やプリフィクスしか食べないし、行きつけの寿司屋や小料理屋はおまかせですし、気に入ったものは、お願いしてコースでもお代わりします。家の食事も正餐のときの順番通り。質問の意味がわからんよ。
…と言ってみたいですねぇ。でも、料理が一度に出されても、食べるのには理に適った順序があって、それをイメージして自分で組み立てた順序で食べるのが美味しい。特に酒飲みには(中村元のブッダの言葉を読んでから、このところずっと控えているけれど)。
しかしそんなことよりも…
ほんとうに生きんがために今この食をいただきます。与えられた天地の恵みを感謝いたします。
いただきます。
…と唱えて食べればなんでも美味しいしありがたい(心の中でも可)のですよ。
浄土宗の食作法(じきさほう)ですが、良い言葉に宗派は関係ありませんな。「いただきます」は神道や日本古来アニミズムから生まれた作法とも伝えられます。なおさらです。
「環境問題というけれど、じつは人間自身、自分の問題である。環境とは「自分を取り巻くもの」と定義される。ホラ、環境といった途端に「自分は別だ」と、どこかで思ってしまうでしょ。だから私は、最近は環境という言葉を使わない。田んぼからとれた米を食べれば、それは自分の体になる。それならば田んぼは自分。魚を食べれば、海は自分。自分のこととして考えたら、他人の虫採りなんかを規制する前に、「環境」に対して、いくらでも寄与することがあろう。(77,78頁、養老孟司、「半分生きて、半分死んでいる」)
そう、じつは自分を食べているんですよ。田んぼの米も、海の魚も、牛や豚、鶏も自分で、すべては循環しているんですよ。自他不二(じたふに)です。日常の排泄だけではなく、やがて自分の身体も土や大気となってゆく。そして、野生の生き物は飽食することはありません。
…中国産、韓国産、遺伝子組み換えは避けたいので買わないし、出しそうなお店には自分からは近寄らないけれど、出されたら食べます。いや、中国にも韓国にも出張にゆきますし。その食材のもともとの命に罪はありませんから。しかし、外国の「残す」文化には慣れませんね。残飯を乞食に与えたと言いますが、それは貧困疎外で、本質は飽食だと思いますよ。
Ceoltóirí, "Mná na h-Éireann(a.k.a Women In Ireland)"
時々、このメロディが頭について離れなくなることがあります。そうした曲がいくつかあるのですけれどね。このひとつまえのブログに貼ったのの別バージョンです。
Good Luck
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写真の美しい、良い本です。
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