大好きなコミックがある。

 

『河よりも長くゆるやかに』(1983年、小学館)。

 

作者は吉田秋生氏(東京都渋谷区出身、1956- ※同姓同名のTVドラマ演出家がいるがこの作者は女性で、演出家は男性だ)。学園ミステリーの『吉祥天女』や、N.Y.のストリート・キッズを描いたハードボイルドな『BANANA FISH』が代表作。

 

『プチフラワー』、『別冊少女コミック』に連載されていた少女漫画。少女漫画と言いつつ、中身は、米軍基地のある街を生きる男子高校生を中心とした群像劇。発表の年に小学館漫画賞も受賞している。

 

 

    

 

作品は短く、コミックス2巻ぶんにまとまる分量で、ストーリーとしては未完であるとも完結したとも言えない。

 

主人公は、中学生時代、品行方正なスポーツマンで、バスケットボールで全国大会に出た経験を持つ「トシちゃん」こと、能代季邦(のしろ としくに)。米軍基地の街で姉の幾世と2人暮らしの彼は、高校生になるまでのあいだに、父親が外に女を作って家を捨てて離婚し、2人を引き取った母を亡くしていた。父への当てつけで姉は街のクラブのホステスとして働き、季邦も進学校の高校生でありながら、夜はゲイバーで働きながら、米兵に女性を斡旋するバイトもこなす、強烈に屈折した昭和ならではの痛い設定になっている。

 

物語のはじめは、絵の調子も劇画色の強いダーク・トーンだったが、進むにつれて上のコミックの表紙の画像のようなシンプルでコミカルな調子に移ってゆく。ストーリーも、重い話を重く描くのではなく、なかば投げ捨てるような調子で、シリアスな内容にコミカルなシーンでカタルシスを与えながら進んでゆく。

 

群像劇なのでいくつかのエピソードが交錯する。例えば、バイトの女衒の真似がバレて地廻りのヤクザに袋叩きにあっていた季邦を、米空有軍整備兵のジェイムズ・ダン(通称”ポパイ”)が救う。そのポパイに姉の幾世が想いを寄せる。米兵との恋は成就しないという基地の街の現実を知る季邦の心配をよそに。2人は親密になってゆく。

 

学校で季邦は、バスケットボール部の試合に助っ人として請われて、見事なプレイを見せる。だが部のキャプテンで金持ちの息子、久保田深雪(男子)が季邦を、ウデがありながら協力しないため、軽蔑と共に敵視する。ところが季邦の働くゲイバーで深雪の父が持病の心臓発作で倒れ、世間体を考えて深雪を迎えに呼ぶことになる。そこで、季邦はバイトがバレるのを防ぐためオカマたちと共謀して、深雪に女装させニューハーフのタレントとしてバーのステージに立たせる。意外なことに深雪は女装が気に入って、季邦と打ち解けてゆく。深雪の父はサラ金で成功したが、その背後に何人もの自殺者がいることを気に病んでいたことを打ち明ける。

 

そんな季邦には、なぜか普通の女子校の、どちらかといえばお嬢様的なガール・フレンドと深い仲にある。季邦からのユーミンの新譜のプレゼントに喜ぶ彼女なのに、ヤりたい盛りの季邦は、いざというときにスティーリー・ダンのドナルド・フェイゲンのソロ作"The Nightfly"を選ぶ。このユーミンとスティーリー・ダンがぞれぞれ暗示する世界観のアイロニカルなアシンメトリーは堪らない。

 

 

こんなエピソードが交錯しながら季邦の周囲の時間が流れてゆく。話の中で説教めいた寓意もないし、善悪がはっきりするわけでも、問題が解決するわけでもない。

 

エピソードの全てを書くのはご法度だけれど、道路脇の空き地に大麻草が生えていて摘んできたり、突如サカったあげくスーパーでレジ袋抱えたままナンパに走ったり、懐かしい「あんバタ」(食パンにあんことバターと称したマーガリンが厚塗りされてサンドになっている)が仲間内のプチ拷問に使われたり…

 

漫画なのに随所で音楽とリンクしていて、聴いたことがあればさらに物語の深みが増す。例えば、季邦がむしゃくしゃしながら自転車に乗って『上海帰りのリル』(1951年、津村謙、作詞:東条寿三郎、作曲:渡久地政信)や、『ざんげの値打ちもない』(1970年、北原ミレイ、作詞:阿久悠、作曲:村井邦彦)を口ずさむシーンがある。初回のエピソードは、この曲の歌詞の一節、「愛というのじゃないけれど」から取っている。高校生の歌じゃあないけれど、季邦の屈折をよく表現している。『NAI・NAI 16』(シブがき隊、作詞:森雪之丞、作曲・編曲:井上大輔)、哀愁デート』(1980年、田原俊彦、A.J. DiTaranto、G. Hemric/日本版詞:小林和子)も出てきたっけ。ユーミンの『悲しいほどお天気』(1979年、松任谷由実、作詞作曲)は、アホ男子を並べて「悲しいほど能天気」なんて大書されていた。むろん(”くま”の大好きな)ドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』(1982年)が出てくるのは上述の通り。(このパラグラフのリンクはすべてYoutubeです)

 

そう。ユーミンとスティーリー・ダンのアシンメトリーによるフックが物語の随所にあって、屈折と純真、硬派な正義感と頽廃、焦燥感と無聊、プラトニック・ラブとセックス、アホ男子とオトナな女子、'80年代からみた'70年代、アメリカへの憧れと憎しみ、悲劇と喜劇、ハードボイルドとファンタジー…。こうした対比が、物語の世界をとてもビター・スイートなものにしている。

 

東京都内および近郊で、家庭に問題を抱え、鬱屈し、爛れながらもおかしな正義感に燃えつつ、異性を求め、「成長」そのものに憧れて昭和の高校時代を過ごした当時の若者たちへのオマージュとして、最高傑作なのじゃないかと今でも思っている。ただ残念なのは、昭和の、「あの感じ」が、きっと1980年以降に生まれた人たちとシェアするのは難しい。

 

同時期のアニメで、アムロ・レイの家庭の崩壊は行き場のないものだった(『機動戦士ガンダム』1979年)。彼はニュー・タイプとして昇華して行った。『河よりも』の登場人物たちは、なんだかんだ言って、昭和の、あるいは普遍的な人々の不条理を消化しきれないまま、平成の大人になっていったのだろう。ちょっといわくのある渋い大人になっただろうな。後半のあるシーンで季邦は言う、

 

(河は…)

「でも、海に近くなると汚れはするけどさ、深くて広くなってゆったりと流れるじゃないか」

 

"能代季邦" by 吉田秋生 

 


内田るんさんのTwitterからお借りしました。ここをネットに晒すとは。内田さんも最高傑作と…

 

 

 

Van Morrison, "Every Time I See A River"(2016)

 

美空ひばりの「川の流れのように」かジミー・クリフの”Many Rivers to Cross”にしようかと思ったけど、この渋さの方がいいかな。御大ヴァン・モリソンの最新作。

 

 

Good Luckクローバー