こういう「おバカ」が好きで、なかなか新しいのが出てこないのがつまらんなぁ、と思うわけです。
いや、かの『モンティ・パイソン』(制作:英国BBC)のスケッチの一つ、『Internationale Philosophie German vs. Greece』なのですがね。
チーム・ドイツは、最初にヘーゲルが出てきたとたん、「チーム内の仲の悪さがマスコミ注目の的です!」とアナウンスが入るところで、分かっちゃいるけど、今の私は口元が歪みお腹が捩れはじめます。
若かりし頃、初めてこのスケッチを見たときには、「なんかこれ、哲学者?、イミフ?」って感じでした。アルキメデスの「ユーレカ!」と、マルクスだけはなんとなく分かっていたので(マルクスについては、すでにネガティブ情報が刷り込まれていましたが)、最後のところは「あー、そういうギャグなのね」と微笑くらいは顔に出たと思います。
周囲のヒネクレ者のお兄さんお姉さん達に勧められたモンティ・パイソンの、他のもっとナンセンスなスケッチには大好きなのがあって、たくさん見てきました。いまでも好きです。その中で、このサッカーのスケッチはむしろ年を経て、後から好きになったものの一つです。まあ、当たり前ですが、年を経てここに登場する哲学者たちの個性がよくわかるようになって、さらに許せる「ばか」の範囲が広がったって感じですかね。
ドイツ・チームのイレブンを紹介すると、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、シェリング、ベッケンバウアー、ヤスパース、シュレゲル、ヴィトゲンシュタイン、ニーチェ、ハイデッガーと、ベッケンバウアーだけプロのサッカー選手で、他は全員哲学者で、それぞれ肖像画や有名な写真などの衣装をつけています。
一方のギリシャ・チームは、プラトン、エピクテトス、アリストテレス、ソポクレース、エンペドクレス、プロティノス、エピキュロス、ヘラクレイトス、デモクリトス、ソクラテス、アルキメデス。こちらは古代ギリシャの装束の下にサッカー・ウェアを着ていて、アルキメデスがちょっとしたリフティングを披露している。ちなみに審判は、主審に孔子、副審にアウグスティヌス、トマス・アクィヌス。
こうしたリベラル・アーツ(教養)の水準の高さと、シニシズムの深さから生まれるユーモアは<とてもおっさんの説教臭いけど>、それまで興味がなかったり、知らなかった人たちの好奇心に着火する役割があります。大学の頃なんかはパンキョーで哲学と社会思想史で、カントとかヘーゲル、ついでのマルクスくらいしか習わなかったのに、捨てられなかった読書癖と共に、社会人になってオルテガからニーチェに遡り、その先達のショーペンハウアーへをつまみ食いしたのは、こうしたユーモアのおかげかも知れません(それと平行に東洋思想も)。
これを作っていた頃のMonty Pythonのメンバー達は30代そこそこの(インテリ)コメディアンたちですが、教養の深さと幅広さにはやはり驚くわけです。これだけの人々が何を語って、あるいはして、歴史に名を残したかをすべて知っている人はなかなかいません(今ではネットでたちどころにアタリはつけられますが)。審判の孔子からニーチェがイエロー・カードをもらう理由とかね。英国国営放送(BBC)の人気番組でした。
権威も宗教も病気も、セレブも市井の人たちも、すべてブラックな笑いに変える彼らのような存在が、いまはどんどん失われてきているように見えて仕方がありません。今や、PC(ポリティカル・コレクトネス)に縛られ、特定の芸能プロダクションや芸人派遣会社に独占された日本のTV業界には期待すべくもなく、残念なことです。アレでしたが、まだ青島幸男が頑張っていた時代の方がユーモアがあった。
例えば、こんな歌は、いま世界のどこでも歌えないでしょうね。
Terry Jones(Monty Python), "Never Be Rude To An Arab"
「アラブ人に失礼があってはなりません、イスラエルにも、サウジにも、ユダヤにも」、「アイルランド人に失礼があってはなりません、どんなときでも」、「Nigger(黒人全般の別称)をおちょくっちゃいけません、Spic(スペイン人の蔑称)も、Wop(やくざ者の”guappo”が転じて、イタリア人の蔑称)も、Krauts(キャベツ喰い=ドイツ人の蔑称)もおちょくっては…」
まあギリギリの線ですなw
こうしたユーモアが失われてゆくのは、グローバル化が進みすぎて”ローカル”や"エスニシズム"を失っているからか、特定の民族を否定したい覇権国の野望を背負うカクシン系の運動家の扇動によるものか、あるいは経済的に抑圧され余裕を失ったポピュリズムなのか…
ともあれまた当ブログにはモンティ・パイソンが登場すると思いますw
Good Luck