「ずるずると道・郷・話を愛でる」さんのブログにあったチャンネル桜(SakuraSo TV)の「日本強靱化会議」を眺めてみました。

 

討論の参加者は、次の通り。河添恵子(ノンフィクション作家)、小池淳司(神戸大学大学院教授/土木工学)、澤田哲生(東京工業大学先導原子力研究所助教)、高橋洋一(嘉悦大学教授・「政策工房」会長・元財務官僚・経済財政政策担当大臣竹中平蔵氏の補佐官・安倍内閣において内閣参事官)、藤井聡(京都大学大学院教授/土木・社会システム工学・内閣官房参与)、松原隆一郎(東京大学大学院総合文化研究科教授/社会学・経済学)、山下了(東京大学素粒子物理国際研究センター特任教授)、司会:水島総(日本文化チャンネル桜創設者)。

 

 

 

非常に大雑把に言ってしまうと、この討論会は、日本のインフラや、先端科学技術研究、そして優秀な人材の育成・確保など、国力を強化する方向に、カネも知恵も出さない政府や財務省はけしからんという話。白眉は、高橋洋一氏と藤井聡氏の差し合いで、ケインズ的な公共投資・国家事業の必要性を説く藤井氏に対して、高橋洋一氏は財務官僚を動かす技術論を前面に押し出す。

 

藤井氏は、1:18:50くらいから日本がいかに基礎研究分野の研究開発投資を含むインフラ投資を減らしているかを力説。このあたりは全く同意。元財務省官僚の高橋洋一氏は、内閣官房参与である藤井氏に「うまく財務省を騙してくれ」と言い放つ。何かこう、「自分はうまく騙せるが、あんたは未熟者だ」感が漂い、藤井氏ばかりではなく、観る者の血圧が上昇するようなところがある。

 

1:26:00頃から、藤井氏は、1995年から2015年の20年間の日本の成長率はマイナス2%であり、世界最低であることを指摘する。この認識を国民と共有しないといけないと。えっと、この20年間、誰が首相をやっていたんだっけ? -- 1995年は、1994年に生まれた自社さ連立の村山富市氏の改造内閣(細川内閣、羽田内閣が立て続けに短命に終わった後ですね)。翌年、橋本内閣、98年小渕内閣、2000年には森内閣、'01年小泉内閣、'06年安倍内閣、'07年福田内閣、'08年麻生内閣、'09年は自民党から民主党へ政権交代して鳩山内閣、'10年菅内閣、'11年野田内閣、そして2012年以降は、今回の選挙でも勝利した第二次安倍内閣ですね。いやまあ、これだけ首相を乱造しながら、下り坂を転げてきたわけだ。

 

「ずるずると道」さんは、高橋氏がよそのところでは「PB(財政均衡論)は世界の常識」と言っていると指摘する。財政均衡と公共投資は優先順位の問題だと認識しているし、私自身は、PBゼロよりも公共投資が優先だと言う意見には賛成だ。ただ、今そこにある危機への対応が先で、PBゼロを目指すのは2番手以降でやってくれ、くらいの認識でいるので、特に高橋氏には二枚舌感は感じてはいない。

 

ただ、この討論会では、高橋氏は、自分で国家財政のB/Sを作って日本に財政危機はないと言い、いくら投資しても構わないと言いながら、PBを信奉する財務官僚に対して、終盤「上からガツンとやりながら、下からの回し蹴りをやったらいい」と、藤井氏にけしかけている。問題に寄り添うふりをしながら、財務省の立場を守っているかのような(あるいは現実、財務相を動かすのは無理だと言っている)印象だ。まあ、高橋氏は、今はその立場にないと言いたいのだろうけれど。
 

ただ、高橋洋一氏以上に、この議論の中で、個人的に引っかかったのは、前半の河添恵子氏の発言で、「ああ、これだよね」と思うところがあった。非常に現代的なポイントだと思う。

 

そのポイントに至る直前、00:41:50くらいから藤井氏は「インフラに限らず、科学技術政策なんかもそうなんですが、安倍内閣になってこの数年ですけど、この国は中国と戦う気がなくなっているんじゃないかと思う」。「中国は一帯一路で上海からローマまで繋ごうとしている。AIIBで外国にもカネぶっ込んで。日本(の役人)は大阪と敦賀をつなぐ道をどうしようか、カネないしー、と言っている。このままじゃ東京大学なんて中国行きますよ。研究所立建てられないから」(ここは私も激しく同意。何らかの形で、ユーラシア大陸全土のインフラをカネで縛ろうとする中共覇権に楔を打ち込み、アンチ中共の勢力を支援する必要があるとも考えています。ただそれは米国次第なのですが、あそこの政府も奥の院もレッドとブルーに割れている)。

 

そこに松原氏が、大学の研究室がさまざまな研究を行う中で、「ある学会なり、ある専門家なり、うちはこんな良いことやっているんですよ」と言い出すと、他が潰れそうになるから「他(の学会や研究者も対抗上)もあることないこと言い出す」。そう、日本中の実務者や専門家が自分のやっていることを「盛り」始める。競争原理が効いていると言えば、そうですがね。それをまたメディアがバイアスをかけて面白おかしく取り上げる。そこで、「日本は、どれが有望なのか、と言う話をしないといけないのだけれども、それをしない」で、「日本はどこか相対主義になっていて<中略>今の大学の中では優劣つけない、お互いを忖度して共生の理屈で動いている」(ですよね〜)。

 

そして、00:43:45頃からの河添氏の言葉。トランスクライブしてみます。

河添恵子氏(ノンフィクション作家):

企業なんかもいい例でね、私の世代なんかもね、やっぱり東工大の大学院行って半導体行った友人がいるんですよ。だけど、まぁ東芝に入って、やはり、いいとこまで行くんだけど、悪平等に対して優秀な人はみんな絶望するんですよ。それで外資に変わって、10倍くらいのいいお金で雇われたりするわけで、そうすると愛国心なんてますます無くなっていくんですよ。だから理系の、力のある人は、国のためにいろいろ力を使えるのに、その人たちが日本を見限っていくんですよ。それはすごい悪循環だと思うんですよ。

 

藤井聡氏(京都大学大学院教授・内閣官房参与):

その悪平等というのは結構認識されていて、そこに小役人とかいちいちでてきて「選択と集中」なんてことを言う。「おまえがきめるな、おまえがきめるんやない」。日本には大学の自治というものがあって、うまく行ってたこともあるんです…

え?そこ?…と、まあ、ここでほとんど吐きそうになるのですが。

 

河添氏の指摘する「愛国心」のありようが、今の日本の病状の一つだろうなと思う。大きなところでは、裏を返せば「悪平等」の解消と「金」で愛国心は養える。企業や国がもっと悪平等を断ち切ってストレートに評価して、待遇を良くしないから、優秀な人材が国を捨て流出する、という認識の枠組みがポロリと出てくる。この河添さんの意見にストレートに反論される方は、いらっしゃらなかった。

 

違うよねぇ。愛国心や郷土愛は自然発生的なもので、待遇や環境の良し悪しの損得勘定の埒外にある。愛国心と天秤に掛ける相手方は、待遇や環境の良し悪しなわけがないんです。遊就館へ行け。ブータンへ行け、キューバへ行け、ウルグアイへ行け、チベット亡命政府を見てみろ、アメリカだって、ロシアだって、そういう話でしょ。ただ、愛国心というのは、国を離れて、あるいは国との紐帯を失ってからじゃないと気付かない人々もいる。本人は気付かず死んで、理解したのは三代後なんて話もよくある。そして、愛国心は、観念や様式で定義できるものでもない。愛国心のありようは、一様ではない。確かなのは、愛国心に見合うのはゼニカネの多寡の話じゃないってことですよ。「恩」はありますがね。

 

ただ、「日本、死ね」って呪詛が国会で取り上げられて騒ぎになる時代です。多くの人たちが目前の利益めがけて、ボールを追うだけの幼稚園サッカーにいそしんでいるのを(幼稚園の方がまだマシ)、これも時代として受け止めよというのなら、もういっぺん文明とか文化とかやり直しますか。数万年単位ですよ。

 

しかし一方で、カネを出す勘所のの悪さや「悪平等」のような状況の悪さは解決すべき課題でもあります。愛国心のような高い精神性が要求される一方で、「鉄量を破るものは、敵に優る鉄量でしかない」(堀栄三旧帝国陸軍参謀)というような「現実」に向き合う必要があります。優秀な技術者が必要で、カネで買えるならそれでもいいと。そうした側面もあります。日本が先の大戦でかくも敗れたのは、国内の指導層の戦略や戦術、そして資源配分のマズさが大きな原因のひとつであることは否めません。いや、もっと言えば、内向きの、地位に恋々として、利己的な保身に走った無能な権威主義者たちと、彼らが下に押し付けた精神主義のせいで開戦し、敗れたのかも知れない。彼らは、観念上の愛国心を下に押し付けたが、実体の頭脳胴体手足のロジスティクスや情報戦についてはとんでもない夢を見た。そこのところの反省は大いにすべきなのですが…

 

この議論では割と軽く「悪平等」が流されてしまいましたが、例えば、他人の企画や業績を褒め称えたり、渋々認めたりするのは、自分のそれを批判に晒されたり、潰されたくないがための保険だったりします。それ自体に是非はないのですが、すこし邪(よこしま)になってくると、よく考え抜かれた優れた企画が上司に潰されるのは上層部の保身のためだったり、逆に上層部のメンツのために、おかしなスローガンで下々が翻弄されるなど、面倒なことになりはじめます。かくて、当たり前と言えば当たり前すぎる壁がそこかしこにあるのが人の世というもので、忖度と保身の均衡充満状態となります。おそらくそれは、かつての帝国議会にも軍部にもあった。さらに、非戦派も開戦派もいて米国寄りもいてロシア寄りもいた。フリーメーソンに名を連ねた山本五十六には米国スパイの疑惑もある。栗田中将の謎の敵前回頭のようなこともある。まあ、人を率いるのは大変で、グローバリズムがこれだけ浸透した現代では、尚更です(だいたい金儲けは、誰かの儲けは誰かの損です。未来永劫、分断を欲するわけです)。

 

知恵と機会に対する平等は稀で、「保身の平等」が根強く蔓延っているのが、日本(だけじゃないですよ)の組織の通弊です。カリカチュアして言えば、半沢直樹のいない半沢直樹の世界、大門未知子のいない東帝大学病院と医学会。持ち前の正義感で少々暴れる人間は出て来ますが、たいていは潰されるか利用される。ごく稀に上手く利用されて、利用する側に回る人もいますが、1%の確率もない。

 

ではそれが「絶対悪」なのかと言えば、そうとも言えない。こうした側面があるからこそ、人はカタルシスを求める努力を促す部分もあるというプリミティブな陰陽道的な認識においても否定できませんし、保身そのものは悪ではなく、むしろ、残した方が良いものを守るときにも必要なことでもあります。ただ、世に出る機会に恵まれたにもかかわらず、あきらかに現実に対して怠慢で、当事者能力がなく、虚栄に満ちた者たちが保身に走るから不愉快なのです。また、そうした人間が目について蔓延る状態を、堕落といい、諦めるものが多い状態に堕ちることを、退廃というのです。

 

 

José Ortega y Gasset(1983-1955)

 

ただ、こうした堕落や退廃は、構造的に進み、手に負えなくなる可能性も高くなると考えていた方が良いかな。そう思うのは、いつも当ブログで登場するスペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガゼーは、『大衆の反逆』(1930)の中で、近代、エリートとして台頭してきた科学者や専門家たちをして「近代の原始人、近代の野蛮人」と難じていて、こんなことを書いています。(引用は、話に沿うようにすこし順番を前後させています)。

 

 今日、社会的権力を行使しているのは誰であろうか、また時代に自分の精神構造を押しつけているのは誰であろうか。それは疑いもなくブルジョアジーである。それでは、そのブルジョアジーの中で、最も優れたグループ、つまり今日の貴族とみなされているのは誰であろうか。それは疑いもなく専門家、つまり、技師、医者、財政家、教師等々である。それではこのグループの内で、最も高度にそして最も純粋に専門家であるのは誰であろうか。それは疑いもなく、科学者である。

 

19世紀は「百科全書派」的人間を文明人と呼んで、そうした人々の指導のもとにいたが、次の世代には「専門化傾向が個々の科学者から総合的文化を追い出し始めた」という。そして、「分別ある人間になるために知っておかなければならないすべてのことのうち、一つの特定科学しか知らず、しかもその科学のうちでも、自分が研究しているごく小さな部分しか知らないという人間」という、「歴史上前代未聞の科学者のタイプ」が登場したという。「彼らは自分が専門に研究している狭い領域に属さない、いっさいのことを知らないことを美徳と公言し、総合的知識に対する興味をディレッタンティズム(芸術や学問を趣味や道楽として愛好すること)と呼ぶ」ようになった。その専門化のメカニズムを、物理学を例にとって次のように話します。

 

しかし、物理学の発展は、総合統一とはまったく逆の動きを要求した。科学が発展するためには、科学者が専門化する必要があったのである。ただし、あくまでも科学者であって科学そのものではない。科学そのものは専門主義的なものではない。もしそうならば、科学は事実上真実のものではなくなってしまうであろう。実験科学を総体的にとりあげたとしても、それを数字、論理学、哲学から分離してしまえばもはや真ではありえないのである。ところが、科学に関する労働は―不可避的に―専門化せざるをえない性質のものなのである。

 

<中略>

 

それは、偶然からでもなければ、個々の科学者の個人的欠陥からでもなく、実は科学―文明の根源―そのものが、科学者を自動的に大衆人にかえてしまうからなのである。つまり、科学者を近代の未開人、近代の野蛮人にしてしまうからなのである。

 

そして、こうも言っています。

 

今日、政治、芸術、宗教、生と世界の一般問題について、《科学者》や、またそのあとに控えた医者、技師、金融家、教師などが、いかに愚かな考え方や判断や行動をしているかを、だれでも観察することができる。私が大衆的人間の特徴として繰り返しあげた、《人のいうことを聞かない》、高い権威に従わないという性格は、まさに部分的な資質をもったこれらの専門家たちにおいて、その頂点にまで達する。かれらは、今日の大衆による支配を象徴しており、また、大衆による支配の主要な担い手である。かれらの野蛮性こそ、ヨーロッパの退廃のもっとも直接な原因である。

※ブログで交流させていただいているまるいしさんのブログにはこの辺りのテキストを深く引用されています。まるいしさん、ありがとうございます。

 

オルテガは大衆化による危機を訴えますが、その「大衆」をこう定義しています。

 

『みずからに義務を課す高貴さを欠いた人間である』

 

オルテガは、逆説的に、エリートをその出自や階級、社会的立場で規定してはいません。エリートとそうでない者を選別するのは、「みずからに義務を課す高貴さ」です。歴史的に奴隷階級のない日本には、あらゆる階層にそうした高貴な人がいたように思います。

 

そして、上の川添氏の言う、悪平等環境やギャラや予算などの「報酬系」に不満を抱いて、「だから理系の、力のある人は、国のためにいろいろ力を使えるのに、その人たちが日本を見限っていく」人々は、高貴さを捨てた(忘れた)人々だと言えるでしょう。しかもそれは本人の知覚や認識とは別に、残念ながら、オルテガの言う通り、構造的にそうなっている。

 

さらに、そんな野蛮な科学者や専門家たちには、「愛国者」であることよりも「人類への貢献」というメタな称号が待ち構えている。国家の権威などには従わない意識はこうしたことからも発現します。まだ一部の科学者たちはヒューマニズムにナイーヴさを見せるぶん可愛げがありますが、我が世の春を謳歌している一部の主流派経済学者に至っては、人間を損得の計算をする機械とみなす」(宇沢弘文)ことに血道を上げ、目も当てられない野蛮さと傲慢さを湛えています。

 

さて、長くなりましたのでそろそろ終わろうかと思います。

 

この「日本強靭化会議」と銘打った討論会に出席されている方も、その道の、今最も先端を走っている専門家ばかりのようです。彼らの愛国心を否定するわけでは全くありませんが(注視はします)、仮に彼らが十分な愛国者であるとしても、彼らを取り巻く状況は非常に厳しい。議論の方向としては、冒頭書いた通り、国はもっとカネを出せと言う話なのですが、カネが出たとしても、それを受け止める側の状況をどうするのかということも大きな課題です。また、カネを出すところを選別せよと言いますが、おそらくそれには水面下で血みどろのバトルロイヤルが繰り広げられることでしょう。

 

そして一体誰が、日本の国力を増進させ平和と安定に資する資源の配分を、「真の科学」の見地から行使できるのか?悪平等の泥の海から、「みずらに義務を課す高貴さ」をもってホンモノを見抜けるのは誰か?どうすれば、今そこにある危機に対して、日本がより良い道を選ぶことができるのか?「何かをする」というばかりでなく、「相手が衰退するのを待つ」という選択も含めて、さまざまなことをジャッジできるための必要条件は何なのか?そもそも、日本は、どういう国であるのが望ましいのか?歴史と伝統を尊重し、高度に文明が発達し、国民が「庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す」(由利公正による「五箇条の御誓文」草案 -- 私は先史時代の日本もスコープに入りますので皇国史観だけを重視しませんが、この由利公正案は良いです)という民が生き生きと暮らせる国でいられるのか?そうしたことをプラクティカルに考え、実行しようという姿勢の中にさまざまなアイディアが出てくるのではないかと思うのですが…

 

国家強靭化は大賛成です。欲を言えば、ビジョニングと現代の構造的問題の認識において、もう少し深みが欲しいと思われる討論会でした。少し軸を変えた言葉で本稿を締めます。

 

少ししか持っていない人が貧乏なのではない。たくさん欲しがる人が貧乏なのだ」

 

ホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領がよく引く、ローマの哲人ルキウス・アンナエウス・セネカの言葉。たくさん欲しがる国々に迷惑しています。


 

 

 

 

 

Michel Camilo & Tomatito, "Spain"(2000)

 

言わずと知れたChick Coreaの名曲(このクリップはアルバム全曲入り)。かつてスペインの植民地だったドミニカ共和国出身のジャズ・ピアニストMichel Camiloと、スペイン出身のフラメンコ・ギタリストTomatitoこと、ホセ・フェルナンデス・トーレス(José Fernández Torres)の共作。スペイン系デュオによる"Spain"。オルテガは左右に揺れ動き動乱の続いた故国スペインを『無脊椎のスペイン』と、大衆化した国家を批評した。今、カタルーニャで独立運動が起き、騒ぎになっている。日本の脊椎は大丈夫かな。まだ残っていると思っていますが。

 

 

 

Good Luckクローバー