よく戦前の身の回りの実態を取り上げていて、読めば私の知人の大正生まれの人々から聞いてきた話とよく符丁すること多く、いろいろな気づきをいただいている宮澤大三郎さんのブログをリブログさせていただきます。


 

今回の選挙の争点も安全保障と「北朝鮮」の問題が大きくクローズアップされています。私も宮澤さんの過去に尋ねる姿勢を見習って、歴史に学ぶ姿勢は大切にしたいと心がけています。その中で、やはり「国防」についての歴史的現実は無視できないでいます。

 

このブログにある通り、捕えた日本人を船の周りに釘付けして、日本の防人たちが矢を放てないようにするなど、元寇(文永・弘安の役)で元・高麗軍のみせた残虐さにはあきれます。先の大戦でも、あるいは現代の殺人事件でも、大陸の人々がみせる手口は、「和をもって貴しとす」の日本の伝統文化の主流に照らせば、比べようのないほど「卑劣」で「野蛮」という言葉が相応しいように思います。

 

侵略しようと意を決した者に対して、中途半端な「抵抗」も、「話し合い」も、理想主義的な「無抵抗」も、結果的には残酷な蹂躙による惨禍を招く、というさまざまな歴史的事実に目を背けることはできません。意を決した者たちは、彼らの目的を達するまでどのような手段でも使います。「思い直せ」、「話せばわかる」という言葉が通じるわけがないのです。そうした者たちに匹敵する「力」だけが残酷な蹂躙から逃れる唯一の術となります。妥協は人道や同情から生まれるのではなく、力の拮抗から生まれるのです。非暴力・無抵抗主義のマハトマ・ガンジーは、戦前、強かった日本が世界に要求した人種差別撤廃と、植民地解放の大きな世界のうねりを背景とし、日本が負けた後でも、強硬派のボースがいたからこそ輝いたという側面を見逃してはなりません。

 

 

日本国憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と書かれていますが、「平和を愛さない」諸国があるのは事実です(それは人類の「自然」でもあります)。また、ここでいう平和は、ある国とか、ある民族とか、ある権力体制という「範囲」が黙示的に想定されています。中国で、チベットやウイグル、モンゴル、香港、台湾に対して「公正と信義」が発揮されたでしょうか?アメリカとイラクの戦争は?世界に跋扈するテロリストたちに「公正と信義」は通用するのでしょうか?

 

国防は、やはりきちんと現実に即して議論すべきで、時代や状況に応じて必要な法律や装備を整えてゆくというのは、至極自然な話だと考えています。少なくとも世界には、野蛮と文明がまだら模様に存在していて、価値観も多様です。レガシー野党が言うような「平和憲法があるから平和」という理屈が通用するわけもない人々が多数派として世界に存在することについて、目をつぶることはできないでしょう。

 

そして、日本の政治家や政党には、そうした現実に向き合う努力をしている勢力と、どう見てもそうでない勢力があります。それらは互いに批判し合い、どちらが優れているかを競っています。しかし、それらの議論は(TV向けのポピュリズム・ショーなのかもしれませんが)、両者とも、いささか頓珍漢な印象を受けます。特にレガシー野党の「思い込み」よりも、安全保障が必要だという現実派において、大きな不安が残ります。

 

というのも、1999年に発表された中国軍大佐の喬良と王湘穂による戦略研究『超限戦』では、通常戦闘、外交、国家テロ、諜報・工作活動、経済・金融、ネットワーク、法律、心理、メディアなど、25種類におよぶ領域での戦闘方法について研究し、このような戦争の運用・推進に、総合方向性、共時性、制限目標、無制限手段、非対称、最小消費、多元的協調、そしてこれらのプロセスを包括的に統御する方法論について提案しています。

 

これは特に中国に限らず、グローバリゼーション時代の戦争(国益拡大闘争)において「当たり前」の話であり、もはや戦争は軍人だけのものではなくなっています(だから中共という集団が強いのです)。また、当然のようにそうした”戦争”に対する安全保障や、国家戦略についての立案・推進についても研究されています。

 

 

これに対して、日本での国防と安全保障の議論をみれば、あまりに先の大戦の戦闘シーンのイメージが固着し、その範囲の議論に終始しているように思います。朝日新聞のコラムではありませんが、コトある毎に「軍靴の音が聞こえる」と煽られる「軍国主義・徴兵、自由の剥奪への恐怖」を軸に語られる「反戦」は、まったくもってズレています。今の戦争は「軍靴の音」など響かず、「人、モノ・情報の国をまたいだ移動」をつぶさに見ていないと分からないのです。反戦インテリたちが『超限戦』や、そのほかの世論操作・誘導の戦略論を知らないはずもありません。ビジネス・マーケティングだって同じ手法ですから。だから、それは戦闘の恐怖を煽る「炎上」商売であり、特定の海外の勢力の利益を代表するポジション・トーク、ないしは「工作員」ではないかという誹りを受けても無理からぬ話です。

 

そして、そうしたズレた議論にアンカー(錨)が打たれ、戦後70年、主流政治の世界において、国防についての議論はそのアンカーについた鎖の長さの範囲でしか語られていないように見えます(これをマーケティングで、「アンカリング」というそうですね)。もちろん、その鎖から逃れた素晴らしい論考もありますが、高度に専門的であるか、人間と歴史の実装に対する深い理解を必要とするため、多数の心を捉えるには至りません。結果、反戦論者も現実論者も、反戦・護憲が古臭い、カビの生えた言葉で騒げば、そのボキャブラリーの範囲で対応するしかしようがないという現実があります。すると、何十項目にもおよぶ安全保障の課題は、あの、「なんでも反対」でスキャンダルばかりを追及する議会の中で語ることはできず、現実論者も「民は由らしむべし、知らしむべからず」(論語)の穴倉に篭ってしまいます。また市井の「反戦派批判」も、反戦派の一向に改まらない感覚の引力に影響されます。戦争に対する陳腐な認識を基盤としたポピュリズムがこの国を覆っています。

 

そして、日本の政治家たちは右も左もそうしたポピュリズムに安住しているように思えてなりません。それが顕著に表れているのが、「金融・経済」戦争へのスタンスです。私には、今の日本の主流政治の政策をみると、下の4象限に整理したような傾向が見え、これは日本の「国体」(=ここでは天皇制のことだけを意味しません。後述の歴史的文化圏としての日本を意味します)にとって極めて危険な状況なのではないかと感じています。

 

 

おいおい、「伝統主義・保護貿易はオワコンか?」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、私にはどうしてもこう見えてしまう。日本の主流政治は、自由貿易とリベラリズムを尊重しすぎるあまり(そして東京五輪の成功を夢見て)、外資の流入、外国人労働者の移住、外国人の入国、海外物資の輸入がユルくなりすぎ、さらに政党によっては外国人参政権を叫ぶわけです。隣の国では「超限戦」を戦っている可能性が非常に高いのに。国防力の強化を叫びつつ、金儲けしたいからドアを広く開け、塀も取り払うという「二律背反」と言っても良いような状況になっています。

 

そして、この状況、とくに自由貿易の弊害を指摘する政党は、いま日本には存在しないわけです。世界では、Brexitを決めた英国や、ドナルド・トランプ米国大統領の選出、メルケル首相への支持が低下してAfD(ドイツのための選択肢)が勢力を伸ばし、ル・ペン氏率いる「国民戦線」が力を伸ばしているというのに、「保護主義」や「アンチ・グローバリズム」は日本には存在していないかのようです。

 

欧州は、2つの移民問題を抱えています。ひとつは「難民」です。主に中東・アフリカ大陸から、生存を求めて欧州にやってくる人々です。原因は気候変動と戦争(民族紛争・宗教紛争)です。もうひとつは「経済移民」です。人(=労働力)の移動が自由に認められるEU域内では、イギリス国内でドイツ人がイギリス人の職を奪う、あるいはその逆など、労働市場の売り手側の競争の激化に繋がり、例えば「英国民」であるということの価値が希薄化する、グローバリズムにおける象徴的な弊害をもたらしています。

 

さらに歴史を振り返れば、中東と欧州は互いに工作員を送りあって、互いに有力者を調略し、特定勢力の利益誘導に結びつけようとしていた仲でもあります。そして、欧州は昔から、そして今でも「スパイ天国」のバトルロイヤル状態で、特定勢力への利益誘導を目論むスパイや工作員、運動家がひしめき合う大陸です。むろんそうしたことは、治安維持ばかりでなく国防上の安全保障マターへとつながるのは明らかで、社会の不安になります。人種差別は生理的な嫌悪だけではなく、理性的な不安も原動力となるのです。

 

日本には、資本と人の自由な移動=<グローバリゼーション>が、「英国民であるのに英国政府からの恩恵がない」と思うような感覚、つまり、「しばしば西側の比較的裕福な国々に住む、中・低所得者層 — のあいだの心の底で痛切に感じている感覚、つまり、リベラリズム、自由貿易、グローバリゼーションの勢力は彼ら(中・低所得者の国民)にとって何の役にも立っていない、という感覚」(ダボス会議でのメイ英国首相の演説拙訳)は、存在しないのでしょうか?

 

いや、ネットメディアの有志たちは、嫌韓・嫌中コンテンツを拡散することで抵抗しているではないか?桜井誠氏の「日本第一党」だってある、と反論されるかもしれません。そうです。日本には、実は戦前からの移民が数多く存在し、彼らの一部は日本人になることを拒否し、あまつさえ日本を犯罪国家扱いしながら、日本の富の恩恵を享受しています。しかし、雇用の問題にもグローバリズムの弊害の問題とも結びついていません。現実に治安や国防上の問題になっている部分があるにもかからず、です。それにもかかわらず、少子高齢化による労働力不足という理由を振りかざしながら、日本への領土的野心を隠さない国、例えば中国などからの移民を多数受け入れている現状があります。国よりも、国民の生活や文化よりも、企業の経済活動を優先させている実態が、こうしたところにも表出しています。

 

残念ながら、嫌韓・嫌中の声は、主張の方向が歴史認識や文化習俗の優劣を揶揄する論調に偏るため、「感情論」として扱われること多くして、「慰安婦像」のようなデコイ(囮)に吸収されます。「けしからん」と怒るしかない状況で、日本を日本人に取り戻そうとする声は、余計にアンチ・レイシズムやアンチ排外主義の声にかき消されます。メインストリームの政治も、「日韓合意違反」という足がかりをやっとのことで取り付け、「もう自分の国へ帰国なさい」とやっと言えそうな状況に到達しそうだったのに、ヘイトスピーチ法を作ってしまいました。

 

ネットの心ある経済論者たちが所得配分や景気対策やグローバリズムの功罪について素晴らしい意見を表明していますが(これはネットメディアに限らず、世界ではスティグリッツやピケティ、日本では産経新聞の田村秀男氏なんかも頑張っていますね)、メインストリームの政治も、メディアも、「貧困層の不幸をどう解消すればよいか」、つまり「分配」の程度問題として捉える、それはそれで重要なのですが、根源的な問題について触れようとする論者はまだ多くはありません。それは本当に主流から阻害されるTouchyな話だからかもしれませんね。

 

脱線ですが、かつて、岩井克人氏という経済学者が、非常に苦しそうではありましたが、近代私権の共通認識を超えて会社は「従業員のもので"も"ある」(『会社は誰のものか』平凡社、2005年)と、今世紀の初めに言いました。徳川家康が「天下は天下のものである」というのに似ていましたがね。「会社は株主のものである」とすることに抵抗しました。郵政民営化を果たした小泉内閣の治世です。彼は、黙殺されました。経済学は、現行の枠内での技術論を超える議論は出て来にくいのかもしれません。

 

根源的な問題とは何か?そこに少し触れます。それは、もちろん消費税の増税ではありませんw(反対ですがね)。消費税は、今の主流の政治の根底にある問題が表出した一つの課題にすぎません。経済学について言えば、地球規模のエネルギーおよび資源制約と、歯止めが効かず先鋭化するマネーシステムの齟齬を埋める認識も、手立てもない、ということは挙げられます。また資本主義の根幹をなす、そもそもの「所有」の概念についても疑問を投げかけることもできます。「所有」は本当に人間にとって重要なのか?「生」のとある一部でしかない、という哲学的な問いになりますが。細かい話はまた別の機会に書きたいと思いますが、富者と貧者のあいだに生まれる天文学的かつ、非人間的な格差の原因の一つであると同時に現代をおおう不安の原因の一つあろうと思います。

 

そんなことを考えつつ、日本の主流政治の「自由主義・新リベラル」、つまり資本主義グローバリズムのもはや大政翼賛会的傾倒は、安全保障上の穴を開けるだけでなく、日本人と日本の伝統文化と歴史に根ざした価値観を希薄化させることに問題の核があると考えています。「日本」はこうしたグローバリズム、自由主義、リベラリズムによって、融解されるのです。彼らが語るダイバーシティや「多文化共生」の美名のもとに、日本が長い歴史を通じて培ってきた文明・文化が、他国の野蛮な水準に落ちる可能性を意味します。

 

今の日本の政治の主流はD象限に集約されます。D象限が「絶対多数派」なのです。主流を離れれば、大川隆法氏の「幸福実現党」(私は、あの降霊術インタビューは苦手すがw)と、そもそもの「日本のこころ」の結党趣旨がB象限ですかね。C象限は、米国に例えればトランプ大統領の選挙戦での政策に見られる「モンロー主義」的な方向かと。A象限は、古典主義か、国粋主義・伝統主義(尊王攘夷ですな)です。昔はここにも有為な人がいました。今の日本は、D以外は滅亡寸前のマイノリティです。

 

おいおい、日本人は、そんなに他国のことを「野蛮」と言えるのかよ?という問いはもっともなことです。日本人だって人間ですから、野蛮な部分がある。ですが、たまたまうまく抑え込むことができる文明・文化を持てた、ということは言えそうです。

 

まず、多くの天変地異、災害を、悠久の時を超えて乗り越えて独自の共生文化を育んだ日本と日本人は、独特の世界観を育くんだことは誰もが認めるところだと思います。災害が起きても、略奪は起きない。暴力団だって「炊き出し」をする。一度ことが起きれば多くの人々が結集して困難に当たる。いまはずいぶんギスギスしていますが、共生・相互扶助のDNAは色濃く残っています。

 

 

日本人は、分子生物学が明らかにしたところによると、「ハプログループD1b」と分類された父系Y染色体の特徴を持つ人種が40%近くを占めます。これは、アフリカで発生したと言うホモ・サピエンスの初代のアダムとイブ(むろん、アダムとイブが一人ずつしか存在しなかったわけではなく、今生存している人類が持つ遺伝子を辿ると、共通のオス、共通のメスが残っているという話ですが)から数えて、第4分岐の血統にあります。

 

この「ハプログループD1b」は、大和民族、琉球民族、アイヌ民族に見られ、「縄文人」のことであると言われています。いまなお日本人の40%近くを占めて、最大多数派として、この血統は続いていまます。日本という地域で初めて暮らした人類である可能性は非常に高く、3.8万年前からこの地で暮らしていると推定されています。彼らは、岩宿遺跡で見つかった磨製石器(3万年前・発見された中では世界最古)の主でしょう。そして、青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡の土器は1万6千年前で、世界の四大文明より6-7千年古いのです。皇族の一人を調べたところ、やはりハプログループD1bのY染色体を持つことが明らかになっています。天皇家は縄文の系統であることが強く推定されます。

 

 

ハプログループDは、日本以外では、アンダマン諸島の2部族、そしてチベットでしか見られず、アフリカにはDから分岐したEは数多く見られるものの、Dの系統はその民族を残すのみで絶えてしまったようです。ハプログループDは、アフリカから陸伝いに北上したD1aのチベット人、海伝いに東方を目指したアンダマン諸島の少数部族(D*)を経て、日本列島に定着したD1bとなります。ちなみに中国大陸で多数派を占めるハプログループOは、Dの発生から約7万年、後の末裔にあたります。そのため、実は原始中国文明は、日本で発生した文明が北上したものであるという説が有力視されるようになりました。また日本人はユダヤ人の子孫であるという説がありましたが、セム語系はハプログループEであり、日本人の方が先にその祖先から分岐しています(この辺りも政治的・宗教的な解釈の暗闘があって、陰謀史観めいていますが面白いのです)。

 

2400年前頃に、縄文人の国に日本海を渡って、朝鮮半島から弥生人(ハプログループO)が侵入し、縄文人は戦乱を経験します。それまで縄文人の遺跡から戦乱の跡は、今の所ほとんど出てこないのです。天皇家のハプグループがD1bであれば、おそらく縄文人は、その戦乱の結果的に優位に立ち、ある程度の弥生人を受け入れながら共生の道を歩んだのでしょう。

 

 

日本人の民族的優生思想に拠って立とういうわけでは全くありません。日本人の資質や文化は、ガラパゴス的な隔絶した世界で育まれたということが言いたいのです。そして侵入してきた弥生人も、縄文人との共生・混血により「日本人」に収斂されてゆきます。

 

おそらく、縄文人の平和・共生志向は日本の地勢と無関係ではありません。天変地異による災害が多い国土ではありますが、複雑な地形による自然の恵みは豊富で、山と海に挟まれたわずかな平坦な陸地くらす人々は、共同して災害にあたり、食料を蓄え、ごく自然と平和・共生志向になったものと思われます。だから不可触民は一部で発生しましたが、「奴隷」は「農奴」すら登場しなかった。天皇、そして八百万の

神々、後に伝来した仏の下に万民は平等でした。共生の意識は、古事記で「和合」を吉兆とし、和は聖徳太子の十七条の憲法にも引き継がれていった。信長の「天下布武」(「武」の字は「戈(ほこ)」を「止める」と書きます)。家康の「厭離穢土欣求浄土」。「生類憐れみの令」などは極端ですぐに廃れましたが、広島長崎に至るまで平和志向は続きます。そうした土壌が連綿脈々と続いている。そうした歴史的な、因果応報の中で日本人の特性が育まれていったのだと考えられます。

 

大きすぎる代償を払ったアメリカとの戦争による敗戦で、日本は米国文化と共生することを選びました。その選択は、さらに日本の世界での立場・誇りについても、人命、財産についても大きな犠牲を強いられましたが、いくつかの僥倖にも支えられて、努力の結果、日本を世界でも有数な経済大国に押し上げました。しかしその繁栄もつかの間、中国共産党の帝国主義・覇権主義的な支配を狙う勢力による「元寇」のような状況が生まれつつあります。これは、戦後70年、国防についてあまりにも長い不作為が続いた結果でもあります。

 

彼らは、元寇と同じように高麗(朝鮮半島)の民を踏み台にして、日本を彼らの経済圏・文化圏に引きずり込もうとしているように見えます。中国の「民主化なき資本主義」と「軍事覇権」による脅威は、尖閣に来襲する船舶ばかりではなく、人の移動と日本の土地や企業の買収に及んでいます。そしてそれは、中国ばかりではありません。

 

グローバリズムによる、人、モノ、カネの移動は、「所有」の移転も意味します。中共のような「帝国資本主義」にしろ、世界の強欲なグローバル資本にしろ、日本人を利益誘導によって分断し、日本人と日本の歴史を分断し、ただの「資本家」と「労働者」にし、それぞれの都合に合わせて日本を買ったり売ったりしてゆきます。原始の時代、海は、異民族の侵入を阻止してくれました。しかし、今はもうその効果はなくなりました。侵入した弥生人を同化するプロセスに必要な時間はありません。

 

今のメインストリームの政治は、国の「ドアの鍵」をかけずに、目先の北朝鮮問題だけの国防を語っています。あるいは、国防すら必要ないと言います。「日本を守る」というのは、日本の何を守るのでしょうね。守るべきものの根っこを、今回は原日本人まで戻りましたが、明治維新まで遡ることも(良し悪しありますが)、稀です。「日本を良くする」というのは、日本の何(誰)を良くするのでしょうか?歴史的なビジョンが明かされないまま、目先利益や目先の危機を排除するだけのこうした政治姿勢は、どこか不安ではないでしょうか?そして、それを問いただす人もあまりいないのです。

 

今日から選挙の本戦が始まりました。各党の党首たちが声を枯らして絶叫していますが、ひどく空々しく聞こえます。上記のような視点から見れば、どれも「同じ穴の狢」に見え、結局は、過去にも未来にも繋がらない、狭い認識の枠内での、グローバリズムの権化か、他国勢力に資することを目論む工作員同士の闘争にしか見えないのです。

 

ですので、一票を投じる政党も議員も、見えてこないというのが実情です。

 

無論、世の中は簡単に変わるものではありません。マスコミは騒ぎますけどね。選挙の一票はチリに等しい。ですが、少しずつ動いていたものが、ある日突然雪崩を打つように変わることもあります。次は、選挙での「ささやかな抵抗」の仕方を書いてみることにします。

 

しかし長くなりました。なんとなく、この話は分割してはいけないような気がして。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。

 

 

藤舎貴生、『幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)』(2011)

 

Good Luckクローバー