駅のホームで電車を待っていたら、「バシャっ」という音がするので振り向いたら、子供の頭を新聞紙でハタく父子だった。子供が小さく口答えすると、2度、3度と。新聞で頭を結構な音がするほどに叩く。泣きそうな子供が、理不尽を我慢している風情で哀れだったので、見つめることにした。

 

すると、父親は視線が気になったのか、子供をひっぱってホームの端に移動していった。

 

何故叱られていたのかもわからないし、人のウチの教育に口を出すつもりはない。ああした暴力は遺伝的なものか、家系文化的なものもしれないなと思う。「しつけ」としての、意図的で必要な体罰だったのかも知れない。公衆の面前でそうした行為に及ぶのも含めて。おそらく子どもの心は折れると思うが。

 

 

親が子を過分に尊重しすぎて、ズブズブの「トモダチ」のような関係になるのは是とはしない。「親しき中にも礼儀あり」や「TPOに応じた礼節」が子に身に付かなければ親の負けだとは思う。まあ、大人になっても身についていない者があまりに多いので、大多数の人々はそこに価値を認めていないのかも知れないが、社会に出れば陰に陽に結構な差を生む。社畜やるんだってしつけられてないとね。おっと脱線。

 

しかしやっぱり、人の多い駅のホームでそうした行為は見苦しい。

 

その子が父親の暴力に反発して、「絶対に暴力は振るわない」と思い定めてその先の人生を徹するのか、「俺の親父もそうしていた」と、同じ暴力を使う大人になるのか。

 

ちなみにその親子は、それなりに偏差値の高い中高一貫校の学校説明会の帰りだと思う。父親もスレンダーなイケメンで、それなりに社会的地位のある「勝ち組」の風情だったな。

 

住んでいる街で、出来た当初はおしゃれで美味しいイタリアンレストランだと評判だった店がある。そこのオーナー店主は、フロアのスタッフの振る舞いが気に入らないと、デシャップの脇で睨みつけて蹴ったり小突いたりしていた。小さな店なので、角度によっては嫌でも見える。本人は見えないようにやっていたつもりだが。その光景をみて二度と行かなくなったが、案の定、コックは変わり、スタッフもどんどん変わっていった。飲食業界の厨房では暴力は当たり前だと言う者がいるが、そんなものかも知れない。オーナー店主は、それでもオシャレで、傍目にはそれなりにイケている風だった。それでもまだ営業は続いているのは慶賀だが、街の外の人しか行かない店となった。

 

駅での出来事の後、ある建物の中で、人の流れの先頭になってしまったため、閉まっていたドアを開ける必要があった。少し重いドアを開けて外に出て、後ろに続く人たちのために少しドアを抑えていた。驚いたことに30代くらいの女性たち2, 3人がそのまま、礼を言うでもなくスルリと通過していった。あまりの勢いに唖然としながら身体はその一団の女性たちを避けようとしたので、体を斜めにして指先でかろうじてドアの取っ手に引っ掛けた体勢になった。その瞬間、さらに後ろから来た若い女性が前のめりになって、ドアを反対から支えてくれ助けてくれた。さらにその女性は、「ありがとうございます」と困った笑顔を向けた。こちらも「助かりました」と困った笑顔を返した。その女性は、スルリと抜けていった一団の女性たちとは明らかに連れではなかった。

 

あの一団は、我先にと、何かに向けてまっしぐらで周囲への気遣いがない。余裕もない女性たちだった。団体でいると周囲が全く見えなくなる人々がいるが、あれだ。あるいは、タクシーに乗って、古いタイプの運転手さんと話していると、そうした気遣いも余裕もない身勝手な運転をするドライバーを見かけると、「女だっ」とドライバーの確認もせずに決めつけて蔑むことがある。信号で車が並ぶと、「ほら、やっぱり女でしょ、お客さん」と吐き捨てる。そうした「女」かも知れない。

 

だけどこちらは、「女」とは思わない。「男」だってそういう連中は山ほどいる。男の場合はさらに、単にテンパってるだけではなく、目立ちたいとか、怒っているとか、気分が悪いとか良いとか、偉く見られたいとか、シャレとか、身勝手な感情表現の結果としてそうしたことをする連中がいる。

 

駅のホームで自分の息子を新聞でハタく男がそうでないことを祈ろうか。せめて純粋にテンパっていたくらいだと。子どもや周囲への配慮があれば、駅のホームでああはしないだろうに。

 

男女関係なく、こうしたことを蔑む言葉がいるのじゃないかと思っている。仏教の六道なら餓鬼・畜生の類だろうが、それだと少しばかり気の毒というより、言う方の品位が問われるので。ちなみに私は「暴力は激昂した理性」(オルテガ)という言葉を支持する。理性なき暴力は、やはり餓鬼・畜生の所業だと思うのである。

 

こうした不快な話があるから、快適があると思うし、自らの居住まいを正す動機になる。引き寄せの法則の反対の、距離を置く法則なんてものがないかしらんと、思う次第だ。

 

そうだ、今日は「父の日」だった。

 

 

 

Steely Dan, "Daddy Don't Live In That New York City No More"(1975)

 

都市に棲むなかでの孤独、進む経済的不自由と他者との隔絶や疎外感を描いた歌なのかな。キツい小品。

 

 

Good Luckクローバー